140話 芸術家様をご招待です!
「ミスター・ゲルンボルク! お招きいただき、感謝いたしますよ」
でっぷりとしたお腹を揺らし、壮年の男性がにこやかに握手を求めてくる。
年の頃は、アーノルドよりも随分と上。五十かそこらだろうか。
下あごに見事な髭を蓄え、口元には人の良さそうな笑みを浮かべている。
「いえ、こちらこそ。お忙しい中、ご無理を言って申し訳ない。朝も早くから、良くぞお出で下さいました――ミスター・ローディアム」
グローア・ローディアム。
古典派の重鎮と呼ばれる芸術家であり、貴族にもパトロンが多いという、いわばその道の大家だ。
差し出された手をしっかりと握りしめ、アーノルドもまた微笑む。
「バーズモンドの庭園は、一度足を踏み入れてみたいと、そう思っておったのですよ」
少年のように瞳を煌めかせ、グローアが鼻息を荒くする。
芸術家という人種に馴染みが無いマリーベルとしては、ちょっと勢いに押されてしまいそうだった。
「門外不出と言われた、祝福の鐘! どのような音色を響かせるのか、あぁ……楽しみだぁ……」
うっとり、というよりは蕩けたような表情で、お髭のおじ様はだらしない笑みを浮かべた。
流石のマリーベルも内心、動揺を隠せない。
音楽家に絵画作者、世に成功者と称えられる芸術家の中には、奇矯な振る舞いをする者も少なくないと、そう聞いてはいるが。
実際に目にすると、後ずさりしそうなモノがある。
「どうぞ、心ゆくまでご覧ください。その優れた知見をご教授願えたら、私どもも助かりますので」
「何という太っ腹な! 流石の傑物でいらっしゃる」
豊かなお腹をプルプル震わせ、グローアがバンバンとアーノルドの肩を叩いた。
体重をずっしりと伸し掛からせるような一撃、二撃。実に重たそうな連撃である。
表情を全く変えない旦那様は流石だと、マリーベルは夫への愛を改めて深めるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
母への『挨拶』が終わり、諸々の騒動に何とか一区切りをつけ。
マリーベル達は、エリス・レーベンガルドが言い残したという『バーズモンドの鐘』について、その目を向けた。
ハインツ男爵領の片隅にあるそれは、二百年ほど前に造られたテラス式の庭園だ。
その時代のエルドナークは、豪華絢爛こそが美と称えられていた頃。貴族の意識が最も格調高かったとされるそれが、館やその周辺の建築様式にありありと影響を現していた。
それまでは直営の農場とも地繋ぎで、小作人とも垣根の無いような付き合いをしていたものが、大きく様変わり。
階級の断絶を示すように仕切りを作り、樹木や段差で農園を覆い隠し、物理的にも遮蔽を行った、らしい。
当時はこの場所にも荘園屋敷が存在したようだが、時代の変化と、男爵家の没落に合わせて打ち壊してしまったと、マリーベルは養母から教わった。
代わりに残されたのは、古き時代を示す庭園のみ。
豪華すぎる建築は、逆に恥ずべきものとされる風潮からか、ここ百年ほどは他家の出入りを禁じているそうだ。
それでも手入れは怠らなかったらしく、バーズモンド庭園は往時を感じさせるような、歴史ある佇まいが今も残されていた。
「おぉ、これは素晴らしい! 風景式庭園に取って代わられる前の、旧式の庭づくりがありありと残されておる!」
ローディアム氏の興奮は凄まじく、少し歩いては狂喜の声を上げ、また少し歩いては飛び上がって踊り出す。
昨今の庭園とはまるで違う風体の代物だ。庭づくりに情熱を燃やすマリーベルとしても、興味深くはある。
ただ、人は得てして自分よりもはしゃぐ者を見れば、冷静になってしまうものだ。
ひゃっほう! 等という声を叫んでステップを踏む芸術家の姿に、マリーベルは何とも言えない顔になる。
ゲルンボルク夫人としては、お客様の接待をすべきところなのだが、余計な口を挟めない。挟みようがない。
それとなく傍観するしか、する事が無いのであった。
「……まぁ、お歓び頂けているようで良かったねえ」
そうした思いを抱えていたのは、どうやらマリーベルだけでは無かったようで。
高名な芸術家の様相を見ていた養母からも、苦笑の声が上がる。
そそそ、と。そちらに近付き、マリーベルは囁いた。
「芸術家って、みんな『ああ』なんです?」
「どこか人とは変わった感性のある者が多いだろうよ。良くも悪くも、ね」
「というか、姉上も似たようなものでは?」
母娘の会話に、横合いから余計な言葉が飛んできた。
そちらを睨み付けてやると、声の主――弟のリチャードが首を竦めるのが見えた。
前から小生意気な弟だったが、家督を継いだからかどうなのか、ここの所はやたらと手強くなっている。
最近では一人前に、古くからの家令と領地について良く話し合い、成長を遂げているようだから尚更だ。
この辺りで姉として、威厳を見せねばなるまい。
夫やグローアから見えぬよう、拳をポキリポキリと鳴らす。手首の捻りがポイントだ。
「姉様、淑女! 淑女らしく振る舞ってください!」
「これも弟への愛の折檻。いわゆる一つの、嫡男教育というものよ」
女が手を男性に挙げるのは、はしたないこと。恥ずべきこと。
しかし、愛する弟の為ならば、お姉ちゃんは涙を呑んで悪魔と化すのである。
「楽しそうに舌なめずりしないでよ!? さては最近溜まった憤懣を、僕で解消しようとしてるね!?」
「そこらでおやめ。一応はお客様の前だよ。成長しない姉弟だね」
ぴしゃりと扇ではたかれ、二人揃って頭を抑える。
「アンタは人妻、お前は男爵。少しは礼節と慎みを深めなさい。全く、外では猫を被るくせに、身内の前ではどうしてこうなるのか」
「それはもう、お養母様の教育の賜物かと」
「お黙り」
また、頭をはたかれる。今度は甲高い、とても良い音がした。
暴力はいけない、よろしくない。貴族夫人としてそれはどうかしら、お養母様。
そう言って口を尖らせると、三撃目が飛来しかけたため、慌てて旦那様の元へと避難する。
「お前はほんと、身内にはとことん甘えるし、甘えさせるよな」
苦笑する旦那様に向け、マリーベルは片目を瞑った。
「何だかんだで、長年を共に過ごした家族ですから」
だから、分かるのだ。
最近の養母は、どうにも顔色が優れない。顔を合わせる度に、ため息を吐くことが多くなった。
先の一件で、マリーベルは彼女に対し、借りがある。世話になった自覚がある。
とはいえ、娘から『悩みがあるか?』と問われても、素直に言わないのが、あのお養母様だ。
そこで、彼女の気分転換も兼ねて、こうしてそれこれとなく、発散させているのである。
「お祖母様も、養母にはとても感謝していらっしゃいましたし。今晩のお屋敷での食事会を、楽しみにお待ちになっているようですから」
あの『大評定』のあと、どこか申し訳なさそうな表情の養母に対し、祖母は孫の恩人とばかりに接してくれた。
柔和に微笑むアリアンナに、かつての使用人の面影を見出したのか。
あの養母が、何処か懐かしそうに頬を緩めるのを見た時は、マリーベルも驚いた。
「まぁ、身内同士の仲が深まるのは良いこった。世の中には、血の繋がりがあっても争う連中が少なくないからな」
「恵まれているとは思いますよ。公爵閣下も、私達を親類として扱うと、そう言って下さいましたし」
公爵家の後ろ盾が出来たとなれば、東方格言眼鏡曰くの鬼に金棒。
その弟の動向は気になるし、全てに信が置けるわけではないが、ひとまずは安泰と言えた。
正式に公爵家の一員として迎え入れられる話もあったのだが、それはマリーベルの方から辞退した。
自分はマリーベル・ゲルンボルク。そして実家はハインツ男爵家。
家族は夫と、あそこに居る養母と弟。それでいいし、それが良い。
勿論、血筋は大いに利用させてもらうし、喧伝もするつもりだが。
利用できるものは何でも使わせてもらうのが、マリーベル流である。
「とはいえ、気は抜けねえ。大きな勝負に力を注いだ直後を狙うっつうのは定番だからな」
勝って兜の緒を締めよ、だったか。東の国の格言だ。
夫の言う通り、全てが丸く収まったように見えた時こそ、留意せねば。
「レモーネ・ウィンダリアの操る『騎士人形』も取り逃がしたようだしな。同盟もその数を減らしたとはいえ、まだ全貌は見えねえ」
「というか、セシリアさんの正体の方に私はびっくりしてますが」
旦那様の事だ。少しは見当を付けていたに違いない。
確かに色々と妖しい所のある女性記者であったが、まさかアストリアの国家警察、その筋の人間だったとは。
どおりであの逢い引きの際、公園で悪食警部と親しげに話していたわけである。
「本名はセリーヌさん、でしたっけ。『人形遣い』が味方なら、確かに心強くはありますが――大丈夫なんです?」
「あの女は昔から、約束とか契約を重要視する。守っている内は、違えねえよ。そういう奴だ」
「ふぅん」
何だか、心と心で分かり合ってるようではないか。
羨ましい、妬ましい。ちょっと奥様はご機嫌斜めである。
「……なんつうか、感慨深いもんだな」
「なにがです?」
「いや俺がまさか、妻に嫉妬されるような身になるとか。お前に会った当初からすれば、信じられねえ偉業だぞ、これ」
頬を優しく撫でられ、それだけでマリーベルは腰が砕けそうになってしまった。
身内やお客様の前で無ければ、夫にすがりついていたかもしれない。
そのくらいの分別はある。マリーベルは成長する奥様なのだ。
「いや、そんな風に顔を蕩けさせてたら、あんまり意味ないと思う」
横から再びのお邪魔言葉が入る。
そちらを見れば、見慣れたお顔の少年が、やれやれと首を振っていた。
言わずと知れた、従僕のティムである。
「あの芸術家さん、ついに四つん這いで土とか掘り始めたんだけど、良いのあれ?」
少年が傾けた視線の向こう、大きな木の下で、グローア・ローディアム氏が目を爛々と輝かせていた。
ハッハッハ、と。目を爛々に輝かせ、舌を出し。楽しそうに両手足を使って土を掘っている様は、紳士というよりお犬様のようであった。
「……どうします?」
「ああなった時の対処法は、彼のアトリエで教わった。問題ない、良くある光景だそうだ」
「えぇ……?」
やっぱり芸術家という人種は分からない。
マリーベルの、理解の及ばぬ人々であった。
「声を掛けるぞ、両側からだ。いいか? 下手に近付けば噛みつかれる。ゆっくりと、宥めるように。背中を少し撫でるのがポイントだ」
「やっぱりお犬様なんです?」
身を屈め、夫と共にそろりそろりと近付き始める。
何とも緊張感に欠ける光景だ。これも平和ということか。
マリーベルは苦笑しそうになり――そこで、おやっと首を傾げた。
少し離れた場所で主人夫婦の動向を見守っていたティムが、眉をひそめている。
その顔はあらぬ方向を見ているようだが、どうしたのだろうか。
「ティム君?」
「あ、っと――」
目を瞬かせて、ティムが首を振る。
何か、不可解な物を見た。そんな風に思える仕草。
「どうかしましたか?」
「ううん、気のせいだと思う。そうさ、あり得る筈がないって」
聡い少年にしては珍しい、曖昧な口調。
そこに微かな違和感を覚えるが、それ以上を問い詰めても、良く分からなさそうだ。
何か、妙な事の前触れでなければ良いけれど。
背筋を走った、微かな悪寒に顔をしかめつつ、マリーベルは天を仰いだ。
まだ朝焼けが色濃く残る、晴れ間の眩い日差し。
一雨、振るのだろうか。漂う雲が微かに黒く、濁っているように思えた。
次回は9/25(月)に更新します




