139話 安心してね、おかあさん
六の月も末に差し掛かるとはいえ、未だに肌寒さが残る。
眩い日差しに目を細めながら、マリーベルは胸元で聖印を切り、祈りを込めて手を組み合わせた。
「お母さん、遅くなってごめんね。色々、本当に色々あったから」
目の前にあるのは、簡素な装飾が施された墓石。その上部に刻まれているのは、一対の羽に包まれた赤子のような彫り物。十一従属神・死と安寧を司る安息神の紋章だ。
ひとしきりの挨拶と祈りを込めた後、マリーベルは後ろに退く。
代わりに進み出たのは、一人の老婦人。マリーベルの祖母・アリアンナである。
彼女は感極まったように身を震わせると、墓石の前に跪き、嗚咽と共に聖句を唱え始める。
お腹を痛めて産んだ我が子と、たった二年で別れ、その死に目にすら会えなかった。
今、祖母は何を想い、何を感じているのだろうか。
無言でその姿を見つめていると、肩に手が置かれた。
それが誰のものか、確認するまでも無い。
指先から感じる温もりに身を委ね、マリーベルは夫の体に寄り添った。
――混迷を極めた『大評定』の終結。
その後始末がまた、大変なものであった。
『霧』により昏倒し、伏した貴族やその関係者たち。
彼らの命には別状がなく、簡単な治療や安息を経て、ほぼ全ての人間が後遺症も無く復帰できたのは幸いと言えた。
とはいえ、ここまでの大ごとだ。流石に無かった事には出来ない。
最終的に一連の事態は、レーベンガルド侯爵の暴走ということで収まりが付けられた。
『大評定』での自身の不利を悟った侯爵が、霧に隠れてガスを散布し、そこに幻惑効果のある薬草を混入させた、というのである。 大分に無茶のある論理だとマリーベルも思ったが、意外とすんなりと通ったから驚いた。
誰もが、落としどころを求めた結果だったのだろう。
侯爵家には直系の後継者が居なかったこともあり、領地は王家の直轄として召上げとなり。
その親族たちも、侯爵と関係が深かった者はみな、一定の処罰を受ける事となった。
古き時代から長らく続き、御三家とまで湛えられたレーベンガルド侯爵家。
その名は汚泥に塗れ、栄光は地に堕ちた。既に社交の場では、侮蔑と嘲笑の対象となっているほどだ。
これは勿論、『レーベンガルド派』と呼ばれる貴族達にも適用された。
何せ事は、単なる一商人との争いに留まらない。
国家の交通網を意図的に妨げ、トンネルを崩落させようとした容疑まで掛かっている。
派閥の中にはそれらを指示し、関わり合いがあった者も少なくない。
彼らは爵位を失い没落――とまではいかなかったが、その罪の多寡と家格に応じ、女王陛下の名で直々の処断が下された。
伝統派と呼ばれた者達は、軒並みが失墜。社交界でもその地位を追われ、発言権は無きに等しいと言えた。
上流階級社会を激震させたこの事件は、更に更に様々な所へと波及してゆく。
アーノルドに関係のあるところで言えば、伝統を奉じる者達の横やりで停滞していた事業や、革新的な技術計画が推進される運びとなったらしい。勿論、鼻の良い旦那様のこと。この辺りの事態の推移を予想していたらしく、ゲルンボルク商会は更なる飛躍を遂げそうだというのだから、喜ばしい。お金が増えるのはとてもとても良いことであった。
とはいえ、ただ口を開けているだけでお金が流れ込んでくるわけでは無く。マリーベル達は非常に忙しい日々を送っていた。
なにせ、ある意味ではこの事態の中心人物であった、ゲルンボルク夫妻である。
世間からの注目は否が応でも急上昇。連日のように雑多な対応に追われに追われ、あちらこちらに顔を出す。墓参りに赴く、ただその時間を捻出するにも一苦労であった。
「ありがとう、マリーベル。貴女のお蔭で、こうしてサリアに逢う事が叶いました」
「もう、よろしいのですか?」
「ええ、もう思い残すことはありません。そも、私はあの子に何もしてあげられなかった。これ以上、何を望む事もありません」
穏やかな表情。しかし、祖母の言葉には微かな哀切が滲み出ていた。
マリーベルはその手をそっと取り、労わるように撫ですさった。
皺が深く刻まれた指先。それは、彼女が歩んで来たこれまでの人生を顕わしているかのようだ。
苦労もあったろう、悩みもあったろう。幼い我が子を失い、どれ程に涙を流したのだろうか。
「いいえ、お祖母様。貴女は母の名誉を守り、私を助けてくださいました。それがどれ程に有難く、喜ばしいものであったか。母も、そう思っているに違いありません」
「そう、かしら。もしも、そうであってくれる、なら――」
「もしもも、何も」
マリーベルは首を振る。
「母なら――お母さんなら、にっこりと笑って、言ってくれます。こうして手を握り、悦びを全身に現して」
震え始めた指先。それを包み込むようにして、マリーベルは両手を握りしめた。
「ありがとうって、言います。お母さんなら、貴女の娘なら。絶対にそう言います」
ぽたり、と。握った手の上へ、水滴が落ちる。ひとつ、ふたつ。それは、見る間に数を増してゆく
やがて、アリアンナは孫の肩に顔を埋め、嗚咽の声を漏らし始めた。
暖かいと、マリーベルはそう思った。
祖母の重みも、流れる涙の滴も。その全てが、心に染み込んでゆくかのようだ。
(……私ね。今、とっても幸せだよ、お母さん)
目の前には、物言わぬ母の墓石。それでも、伝わっていると信じたい。
彼女は、最後の最期まで。ただ、娘の幸せだけを願い、心配していたのだから。
そうして、その場に居た誰もが無言のまま、ただ緩やかに、静かに。
涼やかな風に抱かれながら、優しい時間が過ぎていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
母への挨拶を終え、マリーベル達が墓地の出口に差し掛かると、慌てたように立ち上がる人影があった。
簡素な衣服を纏った女性だ。草刈か何かの作業をしていたのか、足元には木で編まれた籠が転がっている。
「こ、この度は――」
震えて頭を下げる彼女の、そのスカートを小さな手が引っ張った。
まだ六つか、七つか。目のパッチリとした可愛らしい男の子。
恐らく、母親の手伝いをしていたのだろう。
続きをしないの? とせがむようにクイクイと裾を引いている。
「お子さん、元気になられたようで、良かったですね」
「あ……」
「この墓地を、母をよろしくお願いします」
マリーベルはそれだけを告げ、微笑みを湛えたままに彼女の傍を通り過ぎる。
後ろの方で、何かが聞こえる。涙が入り混じった、声にならない言葉。
それらを背に受けたまま、マリーベルはしずしずと歩いてゆく。
「お前はあれで、良かったのか?」
「まぁ、そりゃ腹が立ちはしましたけれど、根にはもっていませんよ。お祖母様には申し訳なくは思いますが」
「いいえ、貴女の下した赦しを、私は尊重いたします。善行を積んだと胸をお張りなさい」
アリアンナの優しい言葉に、しかしマリーベルは胸を張るでなく、逆にチクリと痛ませた。
そっと後ろを振り向くと、女性――ハインツ男爵家の元家政婦・メルザが跪く姿が見える。
神にでも祈りを捧げるようなその仕草。目には涙が浮かんでいる所まで、くっきりと分かった。
そう、母に罪を被せた彼女を、敢えてマリーベルは許して恩赦を与えたのであった。
病に苦しむ幼子を抱えた女性、その境遇に同情して憐れんだから――では、勿論無い。
事情が何であれ、お母さんの名誉を傷つけ、淫売呼ばわりした女だ。怒りも怒り、檄怒もの。マリーベルパンチをその顔に叩きこんでやりたいとすら思った。というか、今でもちょっぴり根に持っている。さきほどの寛大な奥様台詞は、いわゆるひとつの建前というやつだ。
なのにどうしてと聞かれれば、それはひとえに夫の評判を上げるため、に尽きる。
今回の件でアーノルドは色々と強引な手段を使い、方々から怖れと顰蹙を買った筈だ。
それはよろしくない。今後、彼が自身の望みを叶えるうえで、足を引っ張る枷になりかねない。
メルザの件にしても、そう。
罰を与えるのは簡単だ。気分も晴れるし、爽やかな心持ちになる。
しかし、一時の感情に流されて、恨みを受けるのを是としてはならない。
綻びというのは、今回の事でも分かるように、一瞬だ。どんな些細なものからヒビが入るか、知れたものではない。
そう。マリーベルの評判は地の底から一転、悲劇の公女の子孫として、上方へとぶち抜かれた。
かつて、夫が逮捕された騒動の時よりも、更にもの凄い手の平返し。更に歴史ある『大評定』を滅茶苦茶にした侯爵の、その暴走を止めたという話も、ある女性記者を通して巷に流れ――
今のマリーベルはかつて以上に羨望と憧憬の眼差しで見られる、社交界の花と返り咲いたのであった。
そんな状況でかつ、自分達を陥れた女性を許したとあれば、夫の風評も大分上向きになる。
自身のちっぽけな恨みつらみなど、捨て去って構わない。
大切なのは、旦那様の夢を叶える事だ。そして、自分達が幸せになる事だ。
母の名誉を利用したようで、少し心苦しくもあるが、なりふり構ってもいられない。
(旦那様は、ただでさえ昔から変な噂を流されっぱなしなんですから)
夫はそれを利用していた節もあるようだが、上流階級社会に足を踏み入れた以上、今まで通りでは立ち行かない。
悲嘆にくれた妻を救うために、必死になってくれたアーノルド。
彼の覚悟と想いに、報いたい。
だから、マリーベルは。自分に出来ることで、旦那様を守るのだ。
「わりぃな」
ぽん、と。頭に手の平が載せられた。
見上げれば、何とも言えない表情で笑うアーノルドと目が合った。
きっと、マリーベルの決意も何もかも、この夫には隠し通せていないのだろう。
「そう思うなら、後で美味しい物をご馳走してください! 子供の頃は高くて食べれなかった料理の数々、今日ここで平らげてみせます!」
だから、マリーベルは何でもなさそうに笑うのだ。
いつも通り、普段のまま。欲望の赴くままに夫にお金をたかる。
それでいいのだ、それがいいのだ。
「そうかそうか、それは夢を叶えねえとな」
「あれ、何だか気が進まなさそうですね?」
「いや、なんつうかな。またお前の知り合いに睨まれて、詰め寄られそうでな」
少し前の光景を思い出したか。夫がげんなりとした顔で、ため息を吐く。
「いやぁ、十年以上が経っていても、みんな私の事を覚えているもんですねえ、びっくりです」
「向こうも度肝を抜かれたろうぜ。貴族に貰われていった女の子が、俺みたいな旦那を連れて戻ってきたらな」
そう言いながら、アーノルドは肩を落とす。
「いや、分かる。分かるぞ。相手は成り上がりの商人、それもこんな厳めしいツラの、年の離れた大男だ。それに引き換え、見た目だけは清楚で可憐で麗しい美少女が花嫁だ。そりゃ、家格目当てで強引に娶ったとか、そう思う。俺だって思う。義憤に駆られるし、獣を見る目になる」
段々と、旦那様の目が据わってきた。相当に根に持っていらっしゃる。
貴族や裕福な中流階級層なら、特に珍しくも無い年の差だが、労働階級層ではそうもいかないのだろう。
(こんなに素敵な旦那様なのに。みんな、見る目が無いのね)
当初、散々に容姿を批評した自分を時の彼方に捨て去り、マリーベルはやれやれと首を振る。
最近は恋する乙女補正のお蔭か、旦那様のお顔が数十倍増しで凛々しく見えるのだ。
もう、うっとりと眺めていられる。それを味付けにご飯だって食べられる。もしゃもしゃいける。
でも、何故か他の人には、そうは思えないらしい。
まぁ、それはそれで、敵が少なくて助かりはするのだが。
「どうせ、俺はおっさんだよ。山賊的な悪人顔だよ。美少女を娶るというより、かどわかしたとかそう言う方がお似合いだよ」
旦那様がむくれ始めてしまった。
こうなると彼は面倒くさいのだが、それもまたマリーベルは大好物である。
なんて可愛らしい人だろう。
恐らく妻に調子を合わせる為の演技も入っているのだろうが、半分は本気だと見抜いていた。
「そんな旦那様が、私は大好きです」
腕を絡ませ、微笑んであげれば、彼もまた苦笑交じりに返してくれる。
仲が良いのね、という祖母の声に、今度こそ誇らしげに胸を張り。
お日さまに照らされたその道を、マリーベルは夫と共に歩き出した。




