138話 帰りましょう、旦那様
(――ええい、このっ! このぉ!)
繰り出す拳が、蹴りが。そのことごとく全てが失速。
緩やかに遅延し、あまりにものろのろとした動きで、相手へと届かない。
余裕ぶった笑みで、仮面の貴公子はマリーベルの攻撃をかわす。
その様が憎たらしくて仕方が無い!
(こっちは、旦那様が心配で心配でしょうがないのにっ!)
アンが付いていてくれているから、そこまで無茶はしない、はず――
いや、どうだろうか。信用が無い。こと、それに関しては全く夫を信じられない。
(上の方で何か変な爆発音とかしてたし……あぁ、もう!)
ちらり、と上を向けば。割れた窓の向こうから仄かな燐光が舞い、激しい風が踊り狂う。
いったい、何が起こっているのか。
先ほど、明らかに不自然な、風を纏った『何か』がそこへ突撃していくのが見えたが、どういう事なのだ。
時折、金属同士がぶつかり合うような嫌な音が耳に届く。
その片方からは『祝福』の気配がするのだからもう、サッパリわからない。
(アンの気配は――上に、在る。頂上間近。とすれば、そこでぶつかり合ってるのは何? 仲間割れ?)
時計台の鐘が震え、音を吐き出した。緩やかなそれは、重々しく周囲に鳴り響く。
壁面を蹴って距離を取り、マリーベルは手近な足場に舞い降りる。
すると、どうだ。相手もまた、実に優雅な仕草で少し離れた場所に着地。口元に笑みさえ湛えてこちらを見据えている。
――やりづらい。こんな相手は初めてだ。
繰り出す攻撃の全てがいなされる。手応えというものがまるで無い。
これならあの、騎士人形を敵に回していた方がよほどに戦い易かった。
「――ふむ?」
と、不意に貴公子が空を見上げた。油断なくその視線を追い――マリーベルは思わず声を漏らす。
霧に霞んだ向こう、そこに在るべき月が、揺らぎながら薄らいでゆく
同時に、気付く。先ほどまで、場を支配するが如く放たれていた、威圧めいたそれ。
レーベンガルド侯爵の『祝福』の気配が、消えている。
「終わった、か。候は満足できたろうかね。彼ならば、期待に応えてくれたのではないかと思うのだが」
首を振り、何かを惜しむように。彼は、ゆるゆると息を吐き出した。
「眠りたまえ、我が愛した一族の末裔よ。私は君が嫌いでは無かったよ」
聖印を胸元で切り、仮面の男は瞑目する。
その気障ったらしい仕草が、どうにも鼻に付く。何様なのだコイツは。
「ラウル・ルスバーグ! 貴方は、いったい何なのです!? あっちにふらふら、こっちにふらふら! 敵か味方か、はっきりしてください!」
「ふふふ、ラウル? 誰だねそれは。今の僕は仮面の名探偵! 月夜に羽ばたく蠱惑の貴公子さ!」
「名探偵言ってるじゃないです!?」
というか、探偵要素は何だ。何処に在るのだ。
人を喰ったような男ではあるが、今夜の彼はいつも以上に酷い。
落ち着け、惑わされるな。マリーベルはゆっくりと頭を振った。
あの言動も、仕草も。真剣みの欠片も無い在り方の全てが、こちらの調子を外して来る。
彼の『祝福』は、速度の加減。それにまつわるものに間違いは無いだろう。
問題は触媒と発動の条件だが、何となく薄々と。マリーベルはそれに気が付き始めていた。
地を蹴り、再び宙に舞う。壁を幾つか蹴って経由し、加速。
変幻の動きを持って仮面男の死角から、拳による風圧を放つ――が。
(これも、いなされた!)
突風が探偵もどきにぶち当たったかと思った直後、それが微風へと代わり、そよぎながら吹き抜けてゆく。
だが、それも予測済み。拳を繰り出した勢いのままに空中で前転し、マリーベルは飛び蹴りを放つ!
そうして、男の手がまたもや閃き――
(見えたっ!)
強化した視力、急速に狭まる視界の中で、『それ』を遂に捉えた。
細い、細い糸。空間に溶けて消えてしまいそうな程に儚い糸が、足に触れた、その瞬間。
蹴り足がガクンと速度を落とし、体がふわりと浮いた。
物理現象を完全に超越した、その光景。
時間にしてそれは、何秒の事であったか。
再び両者は体勢と位置を入れ替え、足場へと舞い降りる。
そうして、マリーベルは息を吸い込み――時計台の壁、その一部を砕く。
「……ふむ?」
呆けたような声を気にもせず。
大きさも不揃いな瓦礫を、次から次へと投擲。
時間差も付け、変化も混じらせ、それら全てが男へと降り注ぐ。
瞬間、貴公子の姿が掻き消えた。
恐るべき速度と瞬発力。普段ならば、恐らくはマリーベルの目にすら留まらなかったに違いない。
――だが。
「ぐうっ!?」
鈍い音と共に、悲鳴が上がる。それを見て、マリーベルは会心の笑みを浮かべた。
やっと、手応えがあった。拳越しに感じるその重々しい感触に、満足する。
『祝福』を起動し、横合いに飛び退ったその瞬間。
こちらもまた地を蹴り追いつき、相手が何かをするその前に、瓦礫を投擲したのだ。
ハッとしたように口元を引き締めるが、もう遅い。
瓦礫が着弾すると同時、マリーベルは思い切りその脇腹を殴りつけたのである。
「どうやら――」
再び息を吸い、マントを掴む。
痛みに悶絶する男が、『祝福』を使うその前に、思い切り体を振り回した!
「ぬわぁぁぁぁぁ!?」
霧を吹き飛ばす勢いでぶんぶんと回す、ブン回す。
小規模な竜巻めいた勢いが付いた所で、マリーベルはその手をパッと離した。
らせん状に回転しながら、夜空へ無様に吹っ飛ぶその姿。貴公子が台無しである。
ついでにもう一撃と、そこへと狙い定めて瓦礫を投擲しようとするが、流石にそうはいかなかった。
猛烈な回転地獄から見事に離脱し、影が時計台の側面に着地する。
肩で息をし、自慢の服装もあちらこちらが破けているようだ。みっとうもなさ極まる光景である。
心の底から爽快感が込み上げて来た。ざまあみろと言ってやりたい。
「――二つの物を、同時に遅くは出来ないようですね?」
「もう見抜いたか。恐ろしいね、君は」
恐らくは、彼の体に触れた物の速度を操る事が出来るのだろう。
更に、その間に媒介を噛ませれば、触れたも同然とみなして加減を操作できる。
強力と言えばそうだが、タネさえ割れれば対処法は幾つも思い浮かぶ。
けれど、マリーベルはそこで動きを止めた。
『祝福』を見破られたにも関わらず、彼は余裕を崩さない。
油断はならない。相手はラウル・ルスバーグ。その前世は恐らく、かつての英雄王!
現代とは比較にならない『祝福』の使い手たち。それらが猛威を振るっていた時代の、歴戦の勇士なのだ。
どんな奥の手を持っているか、知れたものではなかった。
「もう少し君と踊っていたいものだが、そろそろ時間だ。月の魔法が解けるその前に、退散させてもらうよ」
「灰だらけ姫を気取るつもりですか、男の癖に」
「あぁ、そうとも。僕はガラスの靴を履かせる、その相手を求めているのさ」
だが、と。彼は微かに首を振る。
「夢は夢だ。身を着飾り、王宮にて二晩を続けて踊ったあと、家に帰った彼女は何を思ったろうね」
「何って……」
「もう一度、戻りたいと。王子と添い遂げたいと、心からそう望んだのだろうか」
また言葉遊びか。マリーベルはげんなりとする。
侯爵もそうだが、どいつもこいつも思わせぶりな事を言い過ぎだ。詩人気取りか。
だが、ふと。奇妙な違和感を覚える。
どうしてか、仮面の男が。何かを迷い、躊躇っているように思えたのだ。
「貴方は――」
口が、勝手に動き出した。まさに、そう顕わす以外に無かった。
「愛する人に、思い出して欲しくはないのですか?」
「……っ!」
そこで、初めて。仮面の男――ラウル・ルスバーグが動揺した。
「怖いな、君は。いや、君たち夫妻は、か。話しているだけで、心が丸裸にされてゆくようだ」
そう言って、ラウルは天を仰いだ。月の消えた夜空。それを見て彼は、何を思っているのか。
「真実の愛、素晴らしくも儚い言葉だ。それを誰が定められる、確かめられる? だから、私は――」
その言葉はしかし、轟音と共にかき消された。
時計台の中腹から飛び出した、銀色の影。
鉄の塊めいた『それ』から放たれる灼熱の燐光が、マリーベルの視界を塞ぐ。
「騎士人形!?」
「誰も彼もが、愛に喘ぐ。渇望する。僕ら『同盟』は皆、そうなのさ。叶うとも分からない幻想を追い続けている」
渦巻く風と光の中、ラウルの姿が霞んで消えてゆく。
「今宵の遊戯は、彼の勝ちだ。迎えに行ってやるといい」
「待っ――」
「羨ましいよ、君たちが」
その言葉を最後に、気配が完全に霧散する。
飛び退ってゆく影を追おうか一瞬迷うが――マリーべルはすぐに決断を下す。
今、優先すべきなのは彼。自分の、最愛の夫だ。
疲労感が重くのしかかるが、それを無視して壁を蹴り上がる。
数百段の距離を瞬く間に踏破し、そうしてマリーベルは『それ』を見た。
時計台の最上部。柵に囲まれたその中央で立ち尽くす人影。
「旦那様っ!!」
もうたまらず、マリーベルは夫に飛び付くようにして、駆け寄った。
視界が滲む。何故か、涙が目から零れそうになる。
漂う濃密な血の匂い。それが、嫌な予感を加速させて止まない。
「そう喚かなくても平気だ。お前こそ、大丈夫だったか?」
苦笑しながら、夫がこちらを振り返る。
衣服のあちらこちらが破け、薄汚れているようだが、目に見えて大きな傷は無い。
『私も保証しますよ。ご主人様はご無事でいらっしゃいます』
アンの声に、ようやくホッと胸をなでおろす。
「レーベンガルドは――」
アーノルドが、無言で顎をしゃくる。
柵にもたれかかるようにして、一人の男が倒れていた。
口を微かに開いてはいるが、そこから呼吸の音は聞こえてこない。明らかに絶命している。
しかし、どうした事か。その顔は、何故かひどく穏やかなものだった。
頬は緩み、目は閉じられ、微笑んでいるようにさえ思える。
母の胸に抱かれた幼子のように、安らぎに満ちた、その表情。。
本当にこの男があの、マリーベル達を散々に苦しめ悩ませた、レーベンガルド侯爵なのだろうか。
(あ……?)
侯爵のその手には、銃が握られていた。
火薬の匂いがそこから漂っているのを気付き、マリーベルはギョッとして周囲を見回す。
「当たってねえよ。こいつの弾丸も――そうして、俺のも、な」
「え?」
そっと近づき、侯爵の遺体を改める。
専門家では無いマリーベルには判断が付かないが、死因は恐らく失血死。
原因は恐らく、わき腹から流れ出たその傷痕だ。
「決闘をな、してみたんだが」
「ええ!?」
「俺はあいつを撃ち抜くつもりだったし、そのつもりで引き金を引いた――んだが」
自嘲気味に、アーノルドは肩を竦めた。
「寸前でな、何でかお前の顔が浮かんだ」
「旦那様……」
「つまるところの、自己満足ってやつだ。まぁ、笑ってくれや。俺の手はもう、十分に薄汚れてるってのによ」
どうしてかな、と。
アーノルドがマリーベルの頬に手を触れた。
「血に染まった手で、お前を汚したくなかった」
その一言が、駄目だった。
マリーベルはボロボロと涙を流しながら、アーノルドの腰に抱き付いた。
「本当にな、可笑しいよな。全く、良い年して情けねえやな」
後頭部に乗せられた手の平、そこからじんわりとした暖かさが伝わって来る。
後から後から溢れる涙、それを拭おうともせず、マリーベルはただ一心に夫を抱きしめ続けた。
「帰りましょう、旦那様」
嗚咽を繰り返しながら、ようやくそれだけを呟く。
後始末は多い。やるべき事も考えなければならない事も、山ほどにある。
だが、今は。今だけは。
「あぁ……」
星明かりが照らす中、互いの温もりを確かめ合うようにして。
二つの影が、重なった。
次回は9/21(木)に更新いたします




