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134話 夢の末路


 ――今でも、エリスは思い出す。遠き日の情景を、嵐のように過ぎ去ったあの日々を。

 それは恋に身を焦がし、煌びやかなドレスを纏って心身を磨き、社交界を渡り歩いた、若き日の記憶。


 その頃のエリスは、社交界での評判に陰りが見え始めてきた事に、何よりも危機感を覚えていた。

 原因は、あの娘。家格も大した事の無い、ろくな財産も持たぬ田舎貴族の貧乏令嬢。

 最初は、エリスも鼻で笑っていた。また随分と()()()()()娘が上がってきたものだと。

 纏うドレスも流行から一回り外れたもので、顔立ちだって絶世の美女、と呼べる程のものも無く。

 所詮は、有象無象のひとり。自分という艶やかな薔薇を引き立てる、雑草の一つだとそう思い込んでいたのだ。

 

 しかし、その娘の『才覚』は並外れていた。

 一度話した相手の癖や好みを忘れる事は無く、貪欲に知識を取り込み、姿や服装さえも瞬く間に洗練されてゆく。

 どんなに恥を掻いても決して折れず、踏み躙られる事すら糧にして。

 気が付けば、その雑草は大輪の花と輝き、エリスを圧し遠ざけようとさえしてきた。

 

 必死に張り合うも、回を重ねるほどに彼女はエリスのセンスさえも自分のものとして、その立ち位置を奪わんと手を広げて来た。 社交界の花、麗しの薔薇。それは、自分の。自分だけの称号だったのに!

 

 あまりの憎しみに、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 落ち目の者を更に蹴落とし、笑い者にして楽しむのもまた、社交界の『遊戯』だ。

 かつて、あの娘に向けられていた嘲笑の声。それが、次第に自分へと傾いてゆく。

 父も母も、栄光の座を追われようとしていた娘に冷ややかで、エリスは心身ともに追い詰められていた。

 

 そう、そんな時だったのだ。『彼』に出会ったのは。

 

「私は、君こそが薔薇だと思う。いかなる嵐にも真っ向から立ち向かい、折れずたなびく高貴なる花だと」

 

 徐々に社交の中心から追いやられ、それでも誇りを忘れずに凛と立つエリスを、美しいと彼は言ってくれたのだ。

 

 「君の傍に居られること。それが何よりの、私の幸福だよ」


 そう言って、甘く微笑んでくれた彼。

 線が細い顔立ち、頬は蒼白くて生気が薄い。目を離せば、何処か遠くに消えてしまうのでは、と錯覚してしまう程だった。

 

 ――私が、生きる力を、少しでも分けてあげられるのなら。

 そんな彼の細腕にそっと寄り添い、体温を確かめ合うのが、エリスは何よりも好きだった。

 

 芸術に関心が深く、音楽や絵画をこよなく愛した彼。

 何処か気恥ずかしそうにピアノを弾く、あの姿を眺めるのが。エリスの、心からの楽しみであった。

 

 しかし、幸福は長くは続かないモノだ。

 

 口さがない貴族達が、彼を侮蔑し、嘲笑う声を何度も聞いた。

 名門の家に生まれながら、社交界を渡り歩く才覚にも恵まれず、家も没落しかかった軟弱者。

 それらに張り合うためか、殊の外に尊大に振る舞うようになった彼を、エリスは心配していた。

 優しかった彼の声に違うものが混じり、表情に陰を落とすようになったのは、何時からだったか。

 

 少しずつ、少しずつ。歯車が狂っていく。不安と恐れが蜜月の日々に忍び寄って来る。

 それでも彼を支え、共に生きられるなら。それだけが望みだった。それだけがエリスの夢であり、願いだった。

 

 しかし、あの日。泣き笑いのような顔で、彼――ドルーク・ハインツはこう言ったのだ。

 

「すまない、エリス。私はもう、君と一緒に居られない」


 いつもエリスを撫でてくれた、繊細な指先はもう二度とこちらに触れる事は無く。

 代わりに、彼は言葉だけでエリスに別れを告げた。

 

「君の事は、サウスに頼んである。彼は私の学友、大切な親友なんだ。彼になら任せられる。どうか、君は。君だけは幸せに、『アレ』に関わり合う事無く、幸せになってくれ……」


 それから程なくして、彼は一人の娘を妻に選んだ。

 それは、エリスが誰よりも恐れて憎んだ、あの娘。

 ――ベルネラであった。


 気が狂いそうだった。あの女は、自分から何もかもを奪い去ってゆく。

 名声も、栄光も、愛する人さえも!

 

 しかし、本当の絶望は。悪夢はその先にあったのだと、その時のエリスには知る由も無かった。

 全てを悟ったのは。あの別れの言葉の真意を理解したのは、それから二十年近く先のこと。

 その時、エリスは。あの泣き笑いの表情の真実を、知った。知って、しまった。

 

 自分達の運命は、全て。

 あの『悪魔』に弄ばれていたのだと――

 


『君と一緒に暮らせたなら、私はどんなに幸福だろう。君にはどうか、美しきものだけ見て、愛でていて欲しい』

 

 

 それは、遠い日の睦言。叶うはずの無かった夢の話。

 最愛の彼のその祈りと願いさえ裏切って。

 ただ昏き怨みに身を捧げた、これは一人の女の哀れで滑稽な復讐譚。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「エリ、ス……! きみ、は――」


 肉を貫く嫌な感触。血飛沫が手を濡らす感覚に身を浸しながら、エリスは爛々と目を輝かせた。

 この日を何度夢見た事か。この男の腕に抱かれながら、それでも怒りと憎しみに身を焦がしていられたのは、奇跡であったとそう思う。これで、やっと。やっと、あの人の仇が討てる!

 

「あの人の絶望を思い知れ! 彼は、ずっと! ずっとお前を信じていたのに! よくも、裏切ったな!」


 下賤な平民の如き口汚さと共に、エリスは怒りに任せて叫ぶ。

 

「なるほど、女の怨みというのは恐ろしいものだ。よくも、まあ。今日までその怒りを持続させられた、もの、だな……」


 ナイフの刃がサウスに掴まれた。必死にねじ込もうとするが、それ以上は動かない。

 凪いだように静かに輝く瞳が、エリスのそれを射抜く。

 あぁ、と。サウスが納得したように頷いた。


「そうか、そうなのだな。全ては、初めから承知の上、か。ベルネラ・ハインツを社交界に再び招いたのも、そうして自らの足元を危うくさせたのも――いや、それだけではない、な」

「ぐ、う……!」

「ゲルンボルク側に、各所の襲撃計画の情報を流したのも君か。そういえば、そうだな。あれらの詳細を私が話したのは、君だけだ。どうやったかは知らぬが、大したものだね、我が妻よ」


 サウスが、そっと空を見上げる。

 その表情に、何処か陰が落ちたように見えたのは、エリスの気のせいか。

 

「――残念だよ。私は本当にドルークとの約束を守るつもりだったのに」

「エリス!!」


 それは、誰の叫びだったろうか。

 瞬間、エリスの体が、何かに弾き飛ばされて宙へ舞った。

 

 何が起きたか、まるで分からない。ただ、腹から下が、熱くてたまらなかった。

 気持ちの悪い疾走感と浮遊感。それは、激しい衝撃と共に途切れた。

 

 全身を地面に激しく叩きつけられた。それを全て、エリスが理解出来たわけでは無い。

 ただ、痛くて熱くて、苦しい。空気を求めて喘いだ口から、血の塊が零れ落ちた。

 

「エリス! しっかりおし!」


 誰かが、エリスの体を抱き起こした。柔らかい感触、忌々しい声。

 

「ベル、ネラ――はなし、なさ……おまえ、など、に――」

「何を言っているの、こんな時に!」


 霞んだ視界いっぱいに映る、女の顔。

 霧と月光に照らされたそれは、憎々しい程に美しく輝いている。

 

 無意識の内に、エリスはその顔に手を伸ばしていた。

 

 最後まで、最期まで届かなかった。

 その事がたまらなく悔しく、歯がゆくて仕方が無い。

 

「ずるい、わ……」


 血反吐を吐き出しつつ、エリスは涙を流す。

 

「あなたは、いつも。いつだって、わたしがほしいもの、ぜんぶ、もって……」


 微かに、ベルネラの表情が歪む。エリスは、それを見れたことに、少し驚いた。

 完璧な令嬢。社交界の遠き夢。そして自分が最期まで執着した女。

 

 だからこそ、彼女なら。そんな彼女の娘達なら。

 きっと『夫』をこの結末に辿り着かせるだろうと、エリスは信じていた。

 

(……なんだったのかしらね、私の人生)

 

 腹を痛めて産んだ娘すら復讐の道具に仕立て上げ、嫁いだ家を守る事すら放棄し、何もかもをも捨て去った。

 その最期が、何処までも憎んだ女の腕の中で果てる事になるとは。

 神さまも皮肉が過ぎると、そう思う。

 

「――バーズモンド、祝福の鐘の、鏡の下――」


 もう、言葉が上手く出て来ない。だが、そう言えばきっと彼女になら伝わるだろう。

 そう信じて、エリスは最後の力を振り絞る。

 生と死の狭間。そこに置かれた事で、何か本能めいたものが研ぎ澄まされたのか。

 視線がベルネラを通り越して、その背後に回る。

 

 そうして、エリスは遂に見た。


 渇望した、『それ』を。『悪魔』の姿を、ようやくその目に捉える事が出来た!

 

(やはり、そう、そうだった……の、ね)


 震える手で、離さず握りしめていたそれを。

 かつてドルークから贈られた、光明神の聖句が刻まれたナイフを投げる。

 

 

『――正義はいつも君と共に在る。いつだって、正しいのは君さ』


 

 弱弱しい投擲。それの行方を確かめることさえ、もう叶わない。

 

「――――」


 意識が途切れる直前、エリスの頭に浮かんだ幾つもの人の顔。

 口から洩れた吐息とも言えぬその呟きは、果たして誰の名であったか。

 

 最愛のあの人か、利用しつくした実の娘か、それとも――

 

 エリスには、分からなかった。

 

 暗殺の機会なら、復讐の手段というなら、幾らでもあった。

 けれど、それを今日、この時まで引き延ばしたのは何故か。

 

 エリスには、分からなかった。

 

 理由は在る。確かめねばならないからだと、そう後付けすら出来る。

 けれど、本当の所は、どうだったのか。

 

 エリスにはもう、何も分からなかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「本当に、馬鹿な人……」


 やりきれなさそうな声と共に、ベルネラがエリスの瞳を閉じる。

 ただじっと、かつての宿敵であった貴婦人を見つめ、静かに首を振った。

 

「何が、全てを手に入れられたものか。私がどれだけ欲しくても、どうにもならなかったものを。あの人の最愛を、貴女はとっくに手に入れ、永遠としていたというのに」

 

 エリスの亡骸――ありとあらゆる感情が入り混じったその顔、頬にそっと手を触れ、ベルネラが呟く。

 かつて、娘時代。あこがれ続けた目標、いつかはその場所にと見上げていた、社交界の薔薇。

 それは今、物言わぬ姿となり果てて、ベルネラの目の前で儚く散った。

 

「最後に、貴女が何を見たのか。それすら教えてくれないのね」


 ベルネラが立ち上がり、そっと後ろを振り向く。

 ナイフが緩やかな角度を描いて投げられた先。それを見て、微かにため息を吐いた。

 

「大丈夫かい、リチャード」

「ええ、少し頬を切っただけです。この方に当たらなくて、本当に良かった」


 息子・リチャードが庇った背後、そこにはマリーベルの祖母・アリアンナの姿があった。

 人形に蹴り飛ばされたエリスの体は、王子が張った『空間』のその端、開いた穴のすぐ傍にまで弾き出されていたのだ。

 

 エリスが狂気の表情を持って投げたそのナイフ。それは、誰を狙ったものだったのだろう。

 ベルネラは目を凝らし、少し離れた場所――石舞台を挟んで侯爵と向かい合う、娘たちを見やる。

 

「母様、人形が――!」


 リチャードが、驚いたような声を上げる。

 あれだけ無尽蔵に湧き続けた人形達が、一体、また一体と姿を消し、その数を減らしてゆく。

 

 淑女とは思えない大暴れでそれらを蹴散らしていたマリーベルも、戸惑っているようだ。

 首を傾げながら、少女が自身の夫の傍へと着地するのが見えた。

 

「私には良くは分からないが、レーベンガルド卿が『人形』の大元だったと、そう考えるのが自然だろうね」

「何が起こったというのです。どうして、この方が。だって、レディ・レーベンガルドは、彼の……」

「さあね。男と女のこと、夫婦の間で起こったことさ。本当の所は、当事者にしか理解できないはずだ」


 まだ子供と言って差し支えの無い年齢。そんなリチャードには分かるまい。

 愛と憎しみは紙一重、コインの裏表に過ぎないということさえも。

 

「でも、これで大勢は決したのでは!? レーベンガルドも重傷を負ったでしょうし、ねえさ――姉上たちの勝利かと!」

「そうだね」


 膝を付き、荒い息を吐く侯爵。減り続ける人形。心なしか、霧も薄らいだように思えた。

 けれど、どうしてだろうか。

 嫌な予感、不安に背を押されながら、ベルネラはエリスの方を見る。

 

「そうだと、良いけれどね」


 空には未だ、白き月が満ちている。

 物言わぬ亡骸、その表情が、まだ終わっていないと泣き叫んでいるように思えて、ベルネラはゾッとした。

次回は9/8(金)に更新いたします

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