132話 勝利は目前――の、筈なのですが
更新予定日が、またまたズレて申し訳なく……!
趨勢は、ほぼ決した。それは、この場に居る誰もがそう悟ったに違いない。
家政婦長・ジェンマの語るサリア・メイズについての言及は、切々と人々の心に訴えかけるものがあり、運命に翻弄された女性の、在りし日の情景を克明に浮かび上がらせるものであった。
「――あの時、彼女がその身を辱められた前後の事も、私は良く覚えております。明るかった彼女の顔に影が差し、やがて子を孕んだと発覚し……」
やがて、話題はそこへと焦点を移す。男爵家の恥部。ジェンマだけでなく、マリーベルもまた視線を養母の方へと向ける。しかし彼女は明瞭な感情を浮かばせる事無く、扇で口元を隠し、微かに頷いた。
それを了解と受け取り、ジェンマは言葉を紡ぐ。僅かな金だけを手に男爵家を放逐された、その悲劇。それらに対して思う所もあったろうに、彼女は主観を述べず、淡々と事実のみを陳列してゆく。
「以上が、私の知る限りの事柄。どうかお聞き届けくださいませ、彼女は決して淫蕩な娘などではございません。面倒見も良く、年下の使用人へ心を砕く様も度々見受けられるほど、優しい女性でありました」
ジェンマが深々と一礼するのと同時、アーノルドが後を引き継ぐようにして元家政婦長――メルザを睥睨する。
「貴女は男爵家を辞職したのち、父親知らずの子を為されたようですね」
「――あ」
メルザの体が、目に見えて震え始める。その顔色は蒼白を通り越して、土気色のようにさえ思えた。
「そのご子息は、少し前に病を得られたとか。ご不幸な事です。ご親族に御子を預けて働きに出られているようですが、失礼乍ら貴女の収入では医者に見せるどころか、薬代を稼ぐのも難儀されている事でしょうね」
その話はマリーベルも初耳であった。だが、それを表情に現す事はせず、夫の傍らで静かに耳を傾けた。
何となく、話は見えて来たからだ。
「私が常から主張している通り、エルドナークの薬物事情は芳しくないと、そう言わざるを得ません。質が悪く、逆に健康を害するような薬がろくに精査もされずに販売されていたり、薬効も怪しげな『栄養剤』が万能の薬扱いされて喧伝される。蒸留室の管理にも携わっていた貴女だ。その辺りの危険性は十分に承知の事でしょう」
「あ、う……」
「ならばこそ、正しい治療には金と知識の両方が要る。それを告げ、貴女を唆した輩がいますね?」
アーノルドの視線の先。レーベンガルド派の貴族達が顔をしかめるのが見えた。
その気になれば平民の人生など容易く左右させられる、『力』を持ち合わせた者達。伝統の名の元に享楽に呆け、自分達の傲慢さを押し隠しもしない。マリーベルが一番嫌う連中だ。
「貴様、何が言いたい? もしや、我らにあらぬ疑いを向けるつもりか!」
「勘違いを為さっては困りますね。疑いを向けているのではございません」
アーノルドの瞳が、鋭い光を帯びる。
「はっきりと、確証を掴んでいるのですよ。そうでしょう――閣下?」
「――間違い、ない」
すぐ傍らから、突如として上がったその声に、『伝統派』の貴族達がぎょっとする。
「な、何を……グレイブランド卿!?」
「ち、血迷われたか!?」
ざわつく同胞たちを尻目に、男――グレイブランド子爵はゆっくりと首を振った。
「偽証をさせたのは、ディモンド子爵家の手配によるものだ。証拠もある。望むなら、すぐにでもその者達を連れてこさせよう」
「き、貴公は……! う、裏切ったのか!」
「不実を正したまでだ。この場におられぬ女王陛下も、この事を耳に為されればさぞかしお心を痛められるはず。彼の御方に忠を捧げた身として、当然の事であろう」
顔色一つ変えず、さらりとそう告げる子爵に、外の貴族達が色めき立つ。
反吐が出そうな世渡り上手だが、これはこれで必要悪。マリーベルもまた内心の憤りを隠して目を伏せた。
「――私は、アーノルド・ゲルンボルクを支持する。この大評定の場に偽りを持ちこみ、無実の娘を――それも被害者であり既に天に召された女性の名誉を貶め、辱めようなどとはもってのほか。恥ずべきと知れ」
それを合図と見て取ったか。重苦しい口調でそう告げたのは、御三家の一角・シュトラウス伯爵閣下だ。
自慢のステッキを振り回し、如何にもな態度で居並ぶ貴族を叱責する。
「私も、シュトラウス卿に同意する。こと、ここに至っては誰が正義であるか、誰の目にも明らかであろう」
客席を立ち、そう宣言したのはデュクセン侯爵。王太子妃・フローラの実父である。
八大侯爵家の一人にして、娘を王室入りさせた権力者の言葉。それはシュトラウス老の『演出』と相まって、覿面に作用した。
「私もだ! これはレーベンガルドの――いやさ、伝統派をうそぶく者達の陰謀である!」
「何ということだ! よもや、『大評定』においてこのような欺瞞を果たすとは……! エルドナーク貴族の風上にもおけん不始末だ!」
次々と立ち上がり、『表明』を告げる貴族達。
マリーベルが軽く息を吸い込んで目を細めれば、彼らの顔や衣服に刻まれた紋章から、何者であるかはっきりと判別出来た。
デュクセン侯爵の派閥の者も居れば、日和見の者、『伝統派』に近い立ち位置の者も居る。
その中には、かつてクレア・レーベンガルドに尻尾を振り、贈り物の紅玉で差別をした、イズリガル伯爵の姿もあった。
(成るほど。『耳障りな発言があるだろうが、我慢してくれ』と言ってたけど、それはこういうことか)
つまるところ、この流れは全て旦那様の手のひらの内。
レーベンガルド派の貴族を調略し、寝返らせ、機会を見計らって証言をさせる。
マリーベルの母の名誉を傷つけた人間達を、衆目に晒して逆に貶めるために。あれらは、必要な演出であったのだ。
思わず、ため息が零れそうになる。最初から全部そう言えばいいのに。確かに怒りはあったが、堪えられない物では無い。
どうせ、母親の名誉を貶めた発言をマリーベルに許容させることそのものに、気が咎めたのだろう。
相変わらず変な所で甘い人だ。
マリーベルはそう、呆れと感嘆をない交ぜにしながら――胸がちくりと痛むのを感じた。
(……旦那様に、こんな真似までさせちゃったなぁ)
謀略と調略。それは『戦争』に必要なものだ。それはマリーベルも理解できる。
けれど、この短い時間でここまでの事をやってのけたのだ。相当性急に、強引に。手を汚したに違いなかった。
今回の件は、夫の評価を高めるとともに、世間に――特に上流階級社会に要らぬ畏れを抱かせ、警戒される事に繋がりかねない。
有能も、過ぎれば毒になる。それは回り回ってアーノルドの命を縮める結果にならないとも言えないのだ。
ただでさえ、生き急ぎ過ぎる旦那様なのだ。彼の夢に繋がる戦い、その『本番』はまだこの先。今のこの時期には慎重さをこそ求められるというのに。夫は、それでも早期決着を選んだ。そして、その理由に思い至らぬほど、少女も馬鹿では無い。
それは全て――妻の。マリーベルの為なのだ。
(強く、ならなきゃ。身も心も、もっともっと――強く、逞しく!)
この人の――旦那様に相応しい妻になるために。
マリーベルがそう決意を固め、レーベンガルド侯爵を見やる。
陰謀が暴かれ、戦いの決着はもう目に見えているというのに、彼の笑みはますますと深くなっていく。
本能が、無意識の内に警鐘を発する。何故、こうも余裕を保っていられるのか。
マリーベルの内心の疑惑を察したかのように、侯爵がゆっくりと、もったいぶったように口を開く。
「――見事な物だ。こんな短い時間で、良くもここまで調べ上げたと感心するぞ」
「調べ物が得意な『探偵』には伝手がありますからね。彼が好みそうな恋物語を手土産に選ぶ方が大変でしたよ」
「あの若僧か。なるほどなるほど、相変わらずあちらこちらとフラフラと揺れ動く。全く、厄介な『駒』であるな」
楽しそうに嗤い、愉快そうにそう評ずる。
ある意味の『仲間』。『彼』から不利益を被ったと憤ってもおかしくないというのに。
レーベンガルド侯爵は、言葉とは裏腹に飄々としたものであった。
「――レーベンガルド卿。申し開きはあるか。今しがた、天秤に誓った宣誓を無にするつもりではあるまいな」
「ほう、中々に立派な姿勢をお見せであらせられますな、殿下。部屋に引きこもっていたとは思えぬ風格と威厳。いやはや、感服いたしましたぞ。しかし、これは異なことを仰るものだ」
第二王子殿下の詰問に、しかし彼は肩を竦めて答える。
「私は何も指示をしておりませぬよ。この『大評定』の場で、述べた事は全てが真実。嘘偽りは申しておりません。ゆえに『罰』が与えられておりません。明らかになった陰謀とやらに関しましては、彼らが勝手に動いたこと。何も感知してはございません」
「レ、レーベンガルド卿!? き、貴公は何を――」
見捨てたにも等しい宣言に、『伝統派』の貴族達が怒りに顔を赤く染める。
「ふむ、そのように感情を表に顕わすのはどうかと。古き伝統を尊ぶのが貴公らの主義では?」
「な、何を言っておるのだ! そも、それを真っ先に言い出し広め、我らを集わせたのは貴公ではないか!」
「そうだ! そうであるぞ! まさか、この期に及んでそのような言い訳を! ならば、こちらにも考えがあるぞ!」
口々に罵り合う『伝統派』貴族達。
その様はあまりにも醜悪で、貴族的な優美さなど欠片も見えない。
「さて、後は何だったか。そう、遺言状に関する事であったな。アレは実の所、ドルークの直筆に間違いは無いのだが――まぁ、今更にそれを言及しても仕方あるまい。真実は変わらぬからな」
「何だと……?」
軽快ささえ滲む声。重い荷を下ろしたかのようなその言葉に、アーノルドが警戒を深めたようだ。
身構える夫が口を開こうとする、それよりも早く困惑の叫びが上がる。
「あなた! それは、それはどういう――」
「どういうも何も、そういうことだ。マリーベル・ゲルンボルクは、間違いも無くハインツ男爵家の血を引いている。それが真実だ」
「なっ!?」
口をパクパクとさせ、信じられないとばかりに目を剥いたのは、エリス・レーベンガルド。
自身の妻がふらつき、よろめくその様を愉しげに見ながら、侯爵はその腰に手を伸ばした。
腕の内に彼女の身を抱き留め、サウス・レーベンガルドは微笑む。
「敗北宣言――ってわけじゃなさそうだな。何を考えてやがる?」
「あぁ、契約が済んだのだよ。『あれ』との誓いがこれで果たされたのさ。『伝統派』の主流はこれで没落、力を失った。後はいよいよ、我が望みを叶えるその時だ」
「お前、やはり。やはり、まさか――」
サウスが右手を翳す。そこに生じた気配に、幾人かがすぐさま反応した。
『いけません、ご主人様、奥様!』
それらは全て超常の力を操る者――『選定者』だ。
アーノルドの胸元で懐中時計が輝くのと同時に、マリーベルが息を吸い込み、ランドール王子が懐からハンドベルを取り出し、首相閣下が後髪に手を当てる。
「さて、諸君。すまないが、もう少しばかり――」
だが、それらよりも僅かに早く。
それが『顕現』する。
「――悪あがきを、させてもらおう」
その言葉が発せられた瞬間、霧が爆発的に広がった。
打ち寄せる波が如く、それは恐るべき速度で魔手を伸ばし――
「……っ!」
――そうは、させるものか!
マリーベルが石舞台を土台ごと引っぺがし、盾のように構えて浸食を防ぐ。
それと殆ど時を同じくして、何処からか影のような物がせり上がり、回り込んで来ようとする霧を迎撃する。
「おい、固まれ! 隔離するぞ!」
生じた間隙。それを合図と見逃さず、ランドール王子が叫ぶ。
「こちらへ!」
「急いで!」
侯爵の様子を警戒していたのだろう。既にルスバーグ公爵とアリアンナ婦人の傍に、ディックが回り込んでいる。
同じく素早く動いたティムが、家政婦長・ジェンマの手を取るのが見えた。
霧が影や石舞台を押し込み、隙間から溢れ、こちらを包み込もうとしたそのまさに、間際。
鈴の音が鳴り響き、マリーベル達の周囲が歪む。
第二王子・ランドールの『祝福』だ。
瞬く間に一行の身は別の空間へと隔たれ、誰一人欠ける事無く避難を完了する。
「くそ、デュクセン閣下たちは……間に合わなかったか!」
アーノルドが無念そうに顔を歪める。
皆が移り変わったそこは、無人の闘技場だった。
しかしその周囲に在るはずの建造物の姿は無く、何処までも石畳が連なってゆくのが見えた。
明らかに現実とは異なる世界。
既に体験済みのマリーベルや首相閣下はともかく、他の面々は不思議そうに周囲を見渡しているようだ。
「……相変わらず、お見事にて」
「貴様もな、ギリアム・ヒューレオン。『影』を操ると聞いてはいたが、その『祝福』。中々に応用が利きそうだ」
王子の元に跪き、まるで騎士の如く振る舞うのはギリアム・ヒューレオン侯爵。
王太子の腹心にして、アーノルドの『クラブ』メンバーの一人。新たに仲間となった、心強い『選定者』である。
「見越して、少し体重を増やしてはおいた。しばしは持つだろう。全く、それに関してはミュウにも随分と心配を掛けてしまったのだぞ。レーベンガルドめ、つくづくと余計な真似を――」
「殿下っ!」
愚痴めいた事を吐き出すランドールに、首相閣下が声を上げる。
その震えた指先の向こうを見て、マリーベル達も息を呑む。
何と、隔離された筈の空間が――甲高い音を立てて割れはじめたではないか!
「なんだと!? まさか、我が『祝福』が――」
「ふっ!」
鋭い声と共に影が持ち上がり、割れた空間を補強してゆく。
二つの『祝福』が拮抗し、何とか破砕を防いではいるが、目に見えて限界がある。
これはもう、時間の問題であろう。
『ご主人様! あちらを! 向こう側の景色が見えます!』
懐中時計から聞こえる声――メイドのアンが、いつになく焦ったような叫びを上げる。
警告が示唆するように、薄らいだ影の向こう、『それら』は姿を現す。
乳白色の霧の中、幾つも蠢く人影。少なく見積もっても、二十以上。
不可思議な輝きに照らされ『それら』の顔が浮かび上がる。
「ク、クレア――」
そう。それはかつて、マリーベルが王宮にて短い時間ながらも絆を結んだ女性。
切なる祈りと願いを告げ、少女の目の前で儚く散った、『友達』。
クレア・レーベンガルドに相違なかった。
「まさか、『人形』か!? くそ、何時の間に仕込みやがった!」
「何あれ数が凄くない――って、だ、旦那! 人だ、人がいっぱい倒れてる! 観客だよあれ!」
「んだとっ!?」
ティムの指摘に、アーノルドが目を剥く。
マリーベルも慌てて息を吸い込み、霧の向こうを見通そうとした、その時だった。
(な――!?)
信じられない物を目にし、思わず息を吐き出してしまいそうになる。
――嘘だ、あり得ない。こんな事はあり得ない! 信じられない!
遅れて、皆も『それ』を見てしまったのだろう。背後から、短い悲鳴のようなものが幾つも聞こえてくる。
「さて、遊戯も最終盤だ。互いの持てる限りを尽くし、戦い、そうしてその果ての光景どうかを私に見せておくれ」
「て、めえ……!」
「アーノルド・ゲルンボルク。おぉ、我が運命よ――」
愛おしげな声が、霧の中から響く。
割れ欠けた空間の先、薄れつつある影の向こうに立つ人影が見える。
「――最期の、決着を付けようではないか」
曇り、陰った空。そこに輝く『満月』を背に。
サウス・レーベンガルドが深い狂気を面差しに浮かべ、うっとりと微笑んだ。




