124話 あなたの妻で居たいのです
「まぁ、マリー! また汚してきたの?」
母が腰に手を当てて、泥んこになったマリーベルを睨み付ける。
けれど、それが怖いとは思わなかった。
だって、どんなに怒られても、叱られても。最後の、最後には。
「しょうがないわねえ、マリー」
そう言って、母は自分を抱き上げてくれたのだから。
大好きな、大好きなお母さん。
母が居てくれただけで、マリーベルは幸せだった。
――でも、自分はそうでも、おかあさんはどうなんだろう?
『可哀想にねえ』
たまーに会う大人は、そう言って気の毒そうな目で自分達を見る。
「わたしは、かわいそうなの? おかあさんは、かわいそうなの?」
いつだか、そう言って色街の姐さん達を困らせた事があった。
彼女達は誰もが、何とも言えない顔をして、マリーベルの頭をただ撫でるだけ。
だから、聞けなかった。どうしても父親に関する話題を、マリーベルの方から口に出すことは出来なかった。
汗水垂らし、生活の全てをマリーベルの為に尽くしてくれた、優しい母。
――ねえおかあさん、おかあさん。
だから、マリーベルはずっとそれを聞けないままだった。
――あのね、おかあさんは、わたしを――
母が調和神の御許に旅立つ間際になっても、ずっと。ずっと――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「わぁ……!」
部屋に通されるなり、マリーベルは目を瞬かせた。
お高そうなベッド、お高そうな調度品、お高そうな広い間取り!
視界に映るのは、何もかもが高級一辺倒なものばかり。
平時のマリーベルならば、舌なめずりをしてしまいそうな光景だった。
「一応、この辺じゃ一番高いホテルだ。テディの奴が気を利かせてくれたみたいだな」
「そ、そうなんですか」
値段だけでなく、物理的にもお高そうである。
窓にへばりつき、マリーベルは眼下に目を移す。
目も眩むとは、この事か。まるで吸い込まれそうである。先ほどまで自分達が歩いていたその場所が、まるで豆粒のように小さく見える。最上階に位置するこのスイートルーム。そこから見下ろす景色は、マリーベルが体験した事の無いものだった。
「王宮からだって、こんな風には見えませんでした……」
「エルドナークの建築物、それも一定階級以上のやつは、どうしても横に伸びやすいからな。縦方向に積むのは、人口密集区くらいだ。それだって、ここまでのものじゃねえしな」
マリーベルの隣に立ち、アーノルドがその肩を抱く。
びくり、と。体が震えるのが分かる。その手付きが、指先が。あまりにも優しくて、切なくなる。
まるで壊れ物を扱うような仕草に、マリーベルは泣きそうになってしまう。
あの養母の励ましが無ければ、崩れ落ちていたかもしれない。
恨み言ひとつ吐かず、自分を奮い立たせてくれた育て親に対し、マリーベルは心から感謝をしていた。
「先ほど、電報が届いた。義母殿は、大活躍をなさっているようだぜ」
「え」
マリーベルの心を見透かしたかのように、アーノルドが笑う。
「レーベンガルドの取り巻き共をへこませたとか、八大侯爵家夫人の腰を抜かせたとか。いやぁ、痛快痛快! 俺もその光景を見て見たかったぜ」
「うわぁ……」
日頃、マリーベルと喧々囂々とやり合っている養母だが、その立ち振る舞いと語彙の幅広さはとてつもない。
それは、養女であるマリーベル自身がようく知っていた。
下手に隙を見せれば、嵐のように皮肉と罵倒が飛び、反論する間もなくやり込められる。
社交場で妙齢のご婦人方と接する機会があったが、全盛期の養母を知る者はみな、憧れと畏怖をもってその名を語ったものだ。
「――愛されているな、お前は」
養母の武勇伝を思い返していると、不意に夫がそんな事を言い切った。
愛されている? 自分が? マリーベルはその意図が分からず、困惑する他は無い。
「お前はどうして、自分自身への評価には無頓着なのやら。手のひらを返して来た恩知らずの事があるからか? んなの忘れちまえ。そんなのはお互い様だ。所詮は仕事上での付き合いだからな」
「で、でも……」
「自分にとって、本当に大切な人間を見極めろ。お前を心から大事に想ってくれている連中を、忘れるな」
肩に載せられた指先に、力が籠る。
同時に、マリーベルの脳裏に幾つもの顔が浮かび上がった。
養母に異母弟、アンにティム。それにニーナやレティシア、フローラにミュウ達。
そればかりではない、第二王子殿下や、好々爺の首相閣下。子供時代に世話になった、下町の人々。男爵家の同僚たち。
暖かな思い出と共に、彼等の笑顔がマリーベルの中で息づき、脈打ち始める。
マリーベルはいつしか、目を閉じていた。
そうして、心の一番深い所に、二つの顔が浮かび上がる。
『マリーベル、しあわせにね、あなたはどうか、しあわせ、に……』
それは大好きだった、母の姿。幼いマリーベルにとって、彼女こそが世界の中心であった。
死の床に着きながらも、彼女は最後の最期まで、娘の行く末を案じていた。
「思い出してみろよ。記憶の中で、お前の母親はいつも、どんな顔をしていた?」
悪戯をしたら叱られて、幽霊が怖くて眠れなくなった時は、優しく慰められて。
心無い言葉に傷つき、迫害されそうになった時も、娘を気味悪がりもせず、守ってくれた。
あぁ、そうだ。そうだった。自分は確かに、愛されていたのだ。ずっと、母の愛に守られて生きて来たのだ。
どうして、信じられなかったのだろう。どうして、忘れてしまっていたのだろう。
「――お前のせいじゃない」
「あ……」
耳元で囁かれる、その声。
単なる慰めの言葉では無い。確信を持って言い切る、力強さがあった。
「確かに、子を育てる苦労ってのは並大抵じゃないだろうさ。それも境遇が境遇だ。軽々と他人の俺が口に出せるものじゃねえ。でも、それでも――」
アーノルドはマリーベルを振り向かせると、その頬にそっと手を当てた。
「――思い出が優しくて温かいなら、それはお前達親子が幸せだった、何よりの証拠だろう? それは何処の誰にも、例えお前自身にも否定させやしねえ」
「あ、あぁ……」
「お前の母さんは、幸せだったさ。それだけは絶対に、間違いが無い」
その声に、胸の重みが僅かに軽くなる。
それはずっと、ずっと負い目に感じていたこと。生前の母に最期まで聞けなかった言葉。
――おかあさんは、わたしをうんで、しあわせでしたか?
その答えは、間際の母の、笑顔にあったのだ。
「旦那、様……」
「俺は、お前以外の女を娶るつもりはねえぞ」
心の奥底の底、そこに抱き留められた、最後の顔。
それは、今。マリーベルの隣に立つ、最愛の夫の姿であった。
「こんなもん、窮地とも言えねえさ。昔はもっと絶体絶命の危機に落とされた事もある。それも一度や二度じゃねえ」
アーノルドは妻を力づけるように、手の内の重みを、自身の胸へと掻き抱いた。
「なあに、もしもしくじったら、一から出直せばいい。人生は長い、またチャンスは巡って来るさ」
「旦那様ぁ……」
「俺と、お前なら。何度だってやり直せる。そうだろ?」
腕から伝わる、あまりにも暖かくて、優しい温もり。
マリーベルの目から、ぼたぼたと、ぼたぼたと。後から後から涙が溢れて止まらない。
「わ、たし……いい、んですか?」
「あぁ」
「あなたの、妻でいて、いいん、ですか……?」
「馬鹿だな、お前は」
体が僅かに離れたかと思うと、そっと顎先が持ち上げられた。
海のように蒼い、夫の瞳が間近に輝く。
「そんなの、当たり前だろ。今さら聞くんじゃねえよ」
重ねられた唇は熱く、蕩けそうに甘く切なくて。
マリーベルは零れ出す涙を拭いもせず、ただただ夫の体に縋り続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――昨日はお楽しみだったようで」
「あぁ?」
ふてくされたような声に、アーノルドがため息を吐く。
「いい加減、機嫌を直せ。これが終わったら、色々と喰わせてやるから」
「本当だね!? 嘘は吐かないだろうね!」
食いつきが凄い。フェイルは陶酔しきった顔で、うっとりと呟く。
「ここの食事、大分に大味そうだけど、その分食いでがありそうだよねえ。あぁ、楽しみだなあ。ミスターの厄介になって本当に良かったよ。まさか、こんなに早くこの国へ来ることが出来るなんて」
夢見るようなその瞳。とても十代前半の子供がして良い表情では無い。というかちょっと怖い。
マリーベルも食い意地が張っている方だが、流石にこれには及ばないだろう。
「セルデバーグ様は、庶民的なお食事をお好みのようですな。では、色々とご用意いたしましょう。どうぞ、お楽しみに」
「ありがとう、ミスター・マディスン!」
上機嫌も上機嫌。フェイルは下品に、口笛まで吹いている。ティムの影響だろうか。
家に戻った時に、何か文句を言われないといいが、と。マリーベルはちょっぴり心配になる。
「その辺は、お前に任せるよ。どうも美食だなんだってのは、性に合わねえからなあ」
「そうですかな。昔はそれこそ、叔父とビスケット一枚を巡って争っていましたのに」
「ガキの頃だろ! それには触れるな」
ほっほっほ、と。好々爺そのもので笑い、テディはハンドルを傾ける。
緩やかなカーブを曲がり、車は広い道を駆けてゆく。
そう、今。マリーベル達はいわゆる車上の人となり、テディ・マディスンの運転のもと、とある場所へと向かっていた。
「ミスター・マディスンは、夫とは古くからの馴染みでいらっしゃいますの?」
「テディで構いませんよ、奥様。ええ、私の父が彼らとは親しくしておりまして」
あの眼鏡秘書ディックとテディは叔父・甥の関係なのだというから驚きだ。
それも、どう見ても年上である、テディの方が甥だそうで。
「テディの親父は、あのジジイの長男でな。まだ十代の頃に作った子供らしいんで、末息子のディックとは、年も離れてるのさ」
先日、マディスン老の遺言状を公開し、全面協力の姿勢を見せた後継者。
彼の次男にあたるのが、テディなのだという。一体、マディスン老という人物は、何歳まで生きたのだろう。
下手をしたらディックが生まれた時、彼は七十とかそこいらではないか。
そこからアーノルドを弟子に取り、一人前に育て上げたというのだから、恐れ入る。
色んな意味で、もの凄いお爺様であった。
「実家の商会を手伝え、という話もあったのですがね。私には、こちらの水が性に合いまして」
それで、叔父であるディックともども、アーノルドの傘下に収まったのだとか。
相変わらず、マリーベルの旦那様は、妙に人を惹きつける所がある。
そんな風にして会話に花を咲かせていると、次第に車の速度が緩やかになった。
どうやら、目的地が近いらしい。
程なくして、車が路上に停まる。テディが促すと、アーノルドが『それ』を見上げた。
「成るほど、ここか」
それは、こじんまりとはしているが、中々に立派な造りの屋敷であった。
建築様式も、古典回帰式のそれに通ずるものが見える。エルドナークの技師を招いたか、参考にしたのだろうか。
「旦那様? ここは、一体……」
「まあ、行きゃあ分かるさ」
アーノルドは振り向き、テディの方を一瞥する。
ややあって、彼がゆっくりと頷いた。
それを合図としたかのように、アーノルドは車から飛び降りた。
少し遅れてマリーベルが、そしてフェイルが後に続く。
「……ん? これは」
フェイルが微かに顔を歪め、不思議そうに首を傾げたかと思うと、何故かマリーベルの方を見る。
「あぁ、当たりか。流石坊ちゃん、便利なもんだ」
「そういうことなのかい? いや、しかし……」
二人だけで、何やら妙な会話を飛びかわせる。
マリーベルが少し不満げに夫の袖を引くと、彼は悪戯坊主そのままの顔でニヤッと笑った。
あぁ、もう! ふうっとため息が出る。こういう時の夫は、何を言っても無駄だとマリーベルも学習していた。
玄関のベルを鳴らし、待つことしばし。
扉の向こうから、声が聞こえて来た」
「――どちらさまでしょうか」
えっ、と。マリーベルが驚く。
分厚い扉の向こうから届いたとは思えない程、その声は明瞭であったからだ。
アーノルドが、指を指すと、扉には管のような物が付いており、中から繋がっているようだった。
どうやらこれを使って、訪問客を誰何するらしい。
「先日、お手紙をお送りいたしました。アーノルド・ゲルンボルクです」
「まぁ! すぐにお開けしますわ!」
夫の名乗りに対し、返ってきたのは弾んだような声。
どうやら、悪感情は持たれていないようだが、誰なのだろうか。聞き取れた言葉から察するに、新王国でも広く使われている、エルドナーク拠りの共通語に近い。イントネーションなども、なじみ深いもののように思える。
新王国は、使用人を使う文化が薄いと聞く。
ならば、この扉の向こうにいるのは、メイドや従僕では無いのだろうか。
マリーベルの推理小説脳が回転をし始める。
すると、ややあって、錠が外される音と共に、扉が開いた。
「――え?」
思わず、声が出てしまった。あまりにも信じられない光景に、マリーベルの体が震え出す。
何故ならば、扉の向こうから現れた、その女性は。その顔立ちに浮かぶ面影と、風になびくストロベリーブロンドの髪は。
「おかあ、さん……?」
マリーベルの呆然とした声に、女性はどこか感慨深そうに目を細めた。
次回は明後日、8/7(月)に更新いたします。




