13話 波乱の幕開け
アーノルドが身柄を拘束されてから、三昼夜。
保釈金が支払われ、ようやく解放されたその時には、さしもの商会長も身も心もクタクタになっていた。
しかし、その疲れを他人に見せるわけにはいかない。隙を覗かせれば突かれて傷が広がる。
アーノルドは、それを経験則として知っていた。
現に、背後からまだ気配がする。見張りが付けられているだろう事は明白だった。
(蛇野郎め……ねちっこい奴だぜ、全く)
舌打ち一つ、警視庁の門を潜り外に出る。疲れ切った体に、朝日の眩さは目に毒だ。
ふらりと傾きそうになる体。叱咤するように足に力を込めたその時だ。
――身を震わすような大声が、アーノルドの耳朶を打った。
「旦那様っ!! 大丈夫ですか!?」
「うぉ……!」
妻の叫びは耳と足に来る。膝を付きそうになるのを必死に堪えるので精一杯だ。
「あぁ、こんなにふらふらなさって……! なんて酷い……!」
「お前の声がトドメになりかけたけどな! 大丈夫だから、ちょっと落ち着け!」
纏わりついて来る幼妻を引き剥がし、アーノルドは通りに目を向けた。
そこにはシックな色の愛車を背に立つ、ディックの姿がある。どうやら有能な相棒は、手筈通りに事を進めてくれたようだった。
「ご苦労だったな、ディック」
「大分ふっかけられましたがね。このままじゃ大損ですよ」
「後で取り返してやる。上乗せしてな」
ディックから差し出されたサンドイッチを頬張り、水で流し込む。
その間、頬を拭いたり水筒を用意したりと、せっせと傍でお世話をするのはマリーベルだ。前から感じてはいたが、この娘は案外と世話焼きだ。幼い頃の母を思い出し、アーノルドは妙な気分になる。
「車を出せ。事務所に顔を出してから、工場に行くぞ」
「はい。皆も安心する事でしょう」
打てば応えるような言葉が返って来る。と、その時。アーノルドの裾がクイッと引かれた。
不安そうにこちらを見上げるマリーベル。妙に幼げな仕草に、苦笑が漏れそうになった。
少女のストロベリーブロンドを安心させるように撫で、その背を押しながら車に乗り込む。
蒸気の駆動音がシート越しに背を叩き、震わせる。それにつられるようにして、気分も高揚して来た。
(……仕掛けてきたか。ここからが勝負どころだな)
アーノルドはそっと、胸の内でそう呟いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「大昔の麻薬……ですか?」
「あぁ、そうだ。二百年くらい前に流行った奴らしい。当時は相当な犠牲者が出たそうだぜ」
車のシートに寄り掛かりながら、アーノルドが妻へとそう答える。
気を抜くと眠ってしまいそうだ。コーヒーが飲みたくなる。豆を挽いた匂いがどうにも恋しくてたまらない。
泥のように粘ついた液体を喉に落とし込みたい欲求に抗いつつ、気を紛らわせるように通りを見た。
新聞を手に路上に立ち止まり、言葉を交わす人々の姿。その文面に何が書かれているか、アーノルドは既に知っている。
(……手回しが早すぎる。機会を図っていやがったな)
アーノルドは、手元に丸めたニュース・ペーパーを忌々しげに叩く。
「主な購入者は労働者階級だったらしいが、そのうちに上の方にも被害が多発したみてぇだな。常習性が極めて強く、服用を続けるうちに身も心もボロボロになっていくらしい。その様を描いた絵姿も残っているそうだ。お前も後で見てみるか?」
「え、遠慮します……!」
身を震わせるマリーベルの姿が一種の清涼剤だ。からかっていると気分が晴れてくる。
もちろん、口には出さない。アーノルドもまだ命は惜しかった。怯える妻を横目に、前を向く。
――商会へ顔を出し、不安がる皆へ激励を言い渡した後、アーノルド達三人は工場へと向かっていた。
あのベン警部から国家への反逆容疑か掛かっていると、散々に脅しつけられた問題の場所。当たり前だが、アーノルドがそんな薬を作る筈も無い。
「『匿名の』密告があったそうだ。証拠品も提出されたのだとよ。随分と念の入ったこった」
「そうして、その日の夕方にはニュースが王都中を駆け巡る。成るほど、出来過ぎた話ですね」
ディックの言葉に、だろう?と返事をし、アーノルドはニュースペーパーを再び開く。
『若き実業家、その背後に隠された恐るべき謎!』
『金の亡者は、現世に地獄を作り出すのか!?』
そんなセンセーショナルな見出しがこれでもか、とばかりに書面の上でダンスしている。
(記者共の飯のタネにはなったようで何よりだな、クソッタレめ!)
内心で毒づきつつも、面には出さない。長年の習性だが、その辺りを理解できていない妻の目には、呑気者に映ったらしい。マリーベルは、慌てた様子でわたわたと手を振りながら訴えてくる。
「何をそんなに落ち着いているんです!? 旦那様の信用が地の底ですよ!? 商売にも影響があるんじゃ!?」
「まぁ、そうかもな」
「そうかもな、じゃないですぅ! このままじゃ、お金が……私のお金が……!」
わなわなと震える若奥様。本当にぶれない娘であった。
「つうか、お前。俺が麻薬密造をやったとか疑わねえの?」
「え、やったんです?」
「いや、やってねぇよ! やってねぇけどさ……」
マリーベルは憤慨こそしているものの、夫への疑惑の視線はこれっぽっちも感じられない。
「私は、旦那様の妻になりましたから。つまり、身も心も全て、貴方に預けたんです」
上る時は一緒だし、落ちる時も同じ。そう、何でも無さそうにそう告げるマリーベルに、アーノルドは面食らった。
流石に、そろそろこの娘の考えも見れば判るようになってきた。嘘は言っていない。本気でそう思っている。
「俺が落ち目になったら、もう贅沢は出来なくなるぜ?」
「そうしたら、またお金を儲けましょう。この国が駄目なら、新王国とかでも良いですし。一度成り上がったんだから、また同じことが出来ますってぇ」
ひゅうっと。アーノルドは口笛を吹いた。
貴方の商才を信じています。そう言外に伝えられたのだ。とあれば、これで奮い立たないのは紳士じゃない。
「やれやれ、そう言われちゃ頑張んなきゃな。全く、面倒なこったぜ」
「……何だか楽しそうですね、旦那様?」
「ん、そうか?」
言われて、アーノルドは自分の頬を撫でる。成るほど、確かに。口元が緩んでいるような感覚があった。
ここのところ、妙にぬるま湯めいた生活が続いていた。ここらで張りのある『厄介事』が来てくれるのは、望むところであったのかもしれない。
「商会長の困った所が出ましたね。お気を付けを、奥様。この男は危険を危険と思わず、愉しむ所がありますから」
「失敬な。それくらい分かってるさ。危ない橋を渡るときは気を付けろ――」
そう、そして。
「――そんな物を作った奴には、百倍返しだ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王都の西部にある工業区。その一角に、ゲルンボルク商会の紡績工場はあった。
普段は工夫で賑わっていたであろう場所はしかし、入り口が縄で仕切られており、人の立ち入りが禁じられている。
代わりに、あちらこちらに立っているのは黒制服の警察官たち。ラムナック警視庁の使い走りだ。
「件の麻薬ですが。西区を中心に、工業員たちに広まりつつあるそうですね。だから中心区を管轄する王都警察ではなく――」
「――大ラムナックを全域に収めるヤード共が駆り出されたか。お上品な坊ちゃん達が携わってくれたなら楽なものを」
貴族の次男坊、三男坊や上位中流層を擁する王都警察と違い、警視庁のそれは平民や貧民上がりの警察官も多い。古くは、中心街に続く王の通り道での警護官に端を発する連中だ。質の低い者達も少なくはないが、それを手足と使う上司が有能なら、色々な意味で厄介となる。
工場内に漂う、何処となく弛緩した空気を見るに、この工場に詰めているのはあのベン警部の直属ではあるまい。
とはいえ、油断もしてはならないだろうが。
「でも、実際に作っていたわけではないんでしょ? だったら、幾ら調べても出て来ないのでは……」
「さぁて、それはどうだろうな。無から有を作り出す、錬金術めいたやり方を得手とする奴等は居る。ぼやっとしていたら、絞首台行きだ」
「お、脅かさないでくださいよぉ!」
襟元を掴み、舌を出す真似をしてみせると、奥様は大いに震えあがった。
少し癖になりそうだ。普段振り回されるばかりのアーノルドからしてみれば、新鮮な反応。
悪ガキ時代に戻ったみたいで楽しくなる。
(……まぁ、ふざけてる場合じゃねえし、ここら辺で止めとくか、何より、やり過ぎると後で怖そうだ)
再三思うが、アーノルドだって自分の身は可愛いのである。
奥様の蹴りは鋭い。鉈でぶった切るみたいに振り下ろされるそれを、あえて喰らいたいとは思わない。
ディックとマリーベルを促し、アーノルドは工場の脇にある小屋へと向かう。
入り口に立ち、こちらを睨み付けてくる警察官に笑みを浮かべ、帽子を下げて一礼する。
「やぁやぁ、お仕事ご苦労! 王都市民の安全はあんた等に掛かっているんだ。頼むぜ、旦那方!」
「アーノルド・ゲルンボルクか。容疑者がのうのうと呑気なものだな?」
まだ二十かそこいらの若い警察官が、渋い顔で行く手を塞ぐ。
しかし、それは想定済みだ。アーノルドはへらへらと笑いながら、その肩に手を置いた。
「雇用主が、従業員に会いに来ただけさ。筋は通ってるだろう?」
「口裏合わせをされては叶わん。引き取り願おうか」
「だから、あんた等も着いて立ち会えばいいさ。こんな寒空で突っ立ってるばかりじゃ腹も減るだろ? あったかいコーヒーでも飲みながら軽食でもどうだい?」
すぐ傍の通りで購入した品々を見せると、警官は唾を飲み込んだ。
「これは権利だ。当然の王都市民の権利だ。法律を知っているだろ? 何者も、雇用被雇用の関係を妨げることなかれ。熱いコーヒーや紅茶を冷ますことなかれ。反したら重罪だぜ?」
気安く肩を抱きこむと、背を押すようにして入口へと向かう。その際、懐へチップを飛びこませるのも忘れちゃいけない礼儀だ。
後方に居る二人に『成功』の合図を送り、アーノルドはマリーベル達や警官と共に小屋の中へと入る。
ガス灯に照らされた室内には、四十過ぎの中年男が一人。身を縮まらせながら椅子に腰かけていた。
「あ……商会長!! ど、どういうことなんです!? 一体、これは何が――」
「よぉ、工場長。苦労を掛けたな」
この工場の責任者である男が、血相を変えて駆け寄って来る。
「いきなりヤード連中が押しかけて来て、工場は閉鎖! 私はこんな目に遭っているんですよ!? 説明を、説明を!」
「落ち着けって。その内に解放してやっから、詳しく話せ。気休めだが、差し入れも持って来たぞ」
アーノルドがバスケットを振ってみせると、男は膝を折って両手を床に付いた。
「本当に何も知らないんです。麻薬をここで製造しているとかいう疑いがあるって、そう一方的に――」
……涙ながらに語るその声は、聞く者に哀愁を感じさせる力があった。
「よしよし、詳しく聞かせろ」
嗚咽を繰り返す工場長を宥めていたところで、ふと気付く。
マリーベルが、妙に大人しい。というか、顔が青い。血の気が失せているようにも見えた。
「お、おいどうした? 何だ、何処か悪いのか……?」
「えっと、ここの空気が澱んでるんでしょうかねぇ……? 何だか、微妙に気持ち悪くて――」
「おい、なんなら外に出てていいぞ。無理すんなよ」
いつも元気な娘が調子を崩しているのを見ると、心配になる。
アーノルドは背を屈めて妻と目線を合わせ、退出を促した。
「いえ、話が気になりますんで。邪魔しませんから、お傍に居させてくださいな」
「いや、お前――」
「大丈夫ですから」
頑として譲らないマリーベル。アーノルドの服の裾をちょんと摘まんで、離れないぞ! という意志表示をする。何をそんなに必死になっているのか分からない。困ったようにディックを見ると、彼も眉を顰めて首を傾げている。
「わーったよ。お前は言い出したら聞かねえかんな。けど、少しでも変だったらすぐに外へ出ろよ。吐きそうになったら無理にでも摘まみだすぞ」
「吐いても、ここに居ますから」
「わかった、わかったって! おいディック、コイツを見ててくれ――すまなかったな、工場長。話を聞かせてくれ」
工場長は、ポカンとした顔でこちらを見ている。ひどく驚いたような表情だ。
(幼な妻に振り回されているのが、そんなに珍しいか? いや、珍しいだろうな……)
それなりに従業員の前では威厳を保っていたのが、台無しである。
らしくない妻の様子に、アーノルドはひっそりとため息を吐くのであった。




