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122話 『母』の想い


 ――ベルネラ・ハインツ。

 一昔前の世代を知る者ならば、その名を憧憬と共に思い出すだろう。

 

 社交界の花、麗しの貴婦人。彼女を称える仇名は少なくは無い。

 嫉妬に駆られたか、それとも願望か。口さがない者達は、数々の貴公子達と関係し、方々を渡り歩いたろうと噂した。

 

 決して容姿が他を圧する程に優れていた、というわけではない。実家の爵位も高いとは言えず、歴史的な名家であったわけでもなかった。ただ、彼女には『華』があったのだ。

 

 話術に仕草、流行の最先端を常に捉え、己の魅力を最大限に発揮する術を心得ていた。

 ガス灯に群がる蛾の如く、人々は彼女に引き寄せられ、その輝きの元に集いたがった。

 

 往時の姿を覚えている者は、そんなベルネラを懐かしげに『女王のようであった』と評する。

 凋落した男爵家に嫁ぎ、第一線を退いた。かつての社交界の主。

 

 そんな彼女が娘の結婚を機に、再び社交の場に姿を現し始めた時。最初は誰も、気にも留めなかった。

 社交界とは、常に流動する生き物だ。過去の栄光など、年寄りたちの昔話でしかない。

 ベルネラもまた、娘や息子を立てるべく、淑やかに控えめに振る舞っていたから、尚更だ。

 

 ともすれば、そのまま年老いて花も萎れ、姿を消す未来もあったのかもしれない。

 

「……だが、そうはならなかった、か」


 ラウル・ルスバーグはグラスを片手に、その光景を見やる。

 さる伯爵家が主催する、演奏会。室内に流れる美しき旋律は、今をときめく高名な演奏家が奏でる、妙なるピアノの調べ。常ならば皆、それに耳を傾けながら談笑をするのが、最近の習わしだ。

 

 だが、室内は異様な緊張感に満ちていた。痛い程の静寂が、その空間を支配している。

 招待客たちの視線は、演奏家にでは無く、その最前面に立つ貴婦人へと注がれていた。

 

(これは噂以上だな。何とも胸のすくような光景ではあるが)


 ラウルは、彼女の全盛期を知らない。

 妙齢のご婦人方から噂程度には聞いていたが、そういった伝聞は尾ひれがつくのが常だ。

 

(そういえば、忘れていたね。夫人は、あのマリーベル・ゲルンボルク嬢に社交の薫陶を授けた『師匠』であったか)


 短期間で社交界の頂点へと駆け上がっていった少女。本人の才覚もあるだろうが、その知識と振る舞いはとても新米の女主人とは思えないものであった。

 

 その理由の一端は、あのベルネラ・ハインツ夫人を見れば良く分かる。

 夜会に相応しい、短めの裾のイブニングドレス。鮮やかな真紅の装いに身を包んだ男爵夫人は、その場に立っているだけで恐ろしい程の存在感を放っていた。表情一つ、扇の動き一つ。全てを計算しているのだ。他人から、自分がどう見られているか。

 そこには、まだ年若く経験に乏しいゲルンボルクの若奥様では無しえない、老獪さがあった。

 積み重ねた年月の確かさだけが為せる、絶対的な熟練の業。

 現在から過去に至るまで、数多くの女傑を知るラウルをして、それは惚れ惚れするような姿であった。

 

(あの結婚式場でお会いした時は、そこまでとは思わなかったねえ。成るほど、マリーベル嬢の養母というだけはある。彼女もまた、猫を被っていたのだな。それも、並大抵のものではない)


 東の国の言葉で、虎の尾を踏む、という言葉が在った事を思い出す。

 

 夜会が始まって以降、からかい気味に声を掛けたり、揶揄するような言動を持った者達は、軒並み顔をひきつらせている。

 ありとあらゆる言葉で反論され、語彙の限りで皮肉を返され、しまいには己の浅薄さを思い知らされたのだ。

 

 公開処刑とは、この事である。

 

(レーベンガルドの御大も、どういうつもりかな。この結果を見えていなかったとは思えないけれど)


 何にせよ、これはとても面白いことになってきた。

 張り詰めた空気が漂う中、ラウルは実に美味そうにグラスを傾けるのだった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


「――先日はどうも、私の友人がお世話になったようで」


 紅の敷物が道を為す、長階段の上。赤みがかった髪の夫人が、皮肉気に唇を歪めながら握手を求めてくる。

 

「さて、どれのことでしょうか。覚えてはおりませんね、ディンガード(レディ・ミリシア・)卿夫人(ディンガード)

 

 その言葉に、ディンガード夫人は目を吊り上がらせた。

 八大侯爵家・ディンガード侯爵家の家庭招待会。格式高いその場に呼んでやったのだ、態度で示せと、言外にそう語っているのが良く分かる。

 

(……若いね。この程度で怒りを面に出すか。まだまだ青臭い娘だこと)


 先代が急逝したため、跡を継いだのはまだ三十半ばの嫡子だ。その妻である夫人は、二十七かそこいらだと聞く。

 ベルネラの一つ下の世代。当然、彼女を噂でしか知らないだろう。

 

 貴族としては最下級の爵位であると、そうベルネラを見下しているのが、如実に過ぎる。

 実家は同じく八大侯爵家の娘だったか。それも、レーベンガルドに組する派閥の有力者。

 

(あの女とも親しい仲だと聞くが、はてさてどうして。この程度の輩を重用するとは、らしくもない)

 

 蛇のようにねちっこい目付きを思い出し、ベルネラは内心で苦笑する。

 さて、どんな目論見を持っているのか。喰らい付いたら離れない、執念深い『彼女』のことだ。

 今回も、面白い趣向を凝らして来るだろう。

 ベルネラは、胸に燻る炎を抑え付け、艶然と微笑んだ。

 

 

「まぁ、見て下さいませ。『魔女』に騙された哀れな男爵夫人様ですわよ」

「元、でございましょう? 寡婦とおなりになったのですから」

「最も古き家系、でしたっけ。古いのは名前とお屋敷ばかり。没落寸前の下級貴族に嫁いだのが不幸でしたわねえ」


 庭園に響く、ありとあらゆる嘲笑の響き。それをベルネラは聞き流し、涼しい顔で凛と立つ。


 今も昔も、夫人・令嬢たちの囀る言葉は変わらない。

 貴族だなんだといっても、他人を嘲る気持ちは、醜聞ゴシップを追いかける場末の平民と変わらないのだ。

 いや、場合によってはそれよりもなおひどい。

 些細な失敗をあげつらい、虚仮にして楽しむ。古から変わらない、貴族伝統のお遊びだ。

 

 ベルネラは口を閉じ、ただただ笑うのみ。

 その様子を見て、往時の彼女を知る、何人かの婦人達が眉を顰める。

 先日の伯爵家での夜会のこともある。沈黙を守るベルネラが不気味で仕方ないのだろう。

 

(あの男も、同じように侮蔑の声を喰らったろうねえ。だというのに、随分とご活躍をしているじゃないか)


 ――成り上がりの商売人風情が生意気な。そっちがその気ならば、こちらも遠慮はしていられない。年季の違いというものを、見せてやる。

 娘婿に対する静かな対抗心。ハインツ家の女主人が、それを楽しげに弄んでいると――

 

(……来たね)


 ベルネラの立ち振る舞いを遠巻きに見ていた夫人達。その中から、一人の女性が歩み寄って来た。

 この屋敷の女主人。ミリシア・ディンガード侯爵夫人である。

 

「レディ・ハインツ。楽しんでいらっしゃいますか?」

「ええ、とても。ひどく懐かしい空気を味わわせて頂いておりますわ。小鳥たちのさざめきが、耳に心地良くて」


 扇で口元を隠し、くすりと笑ってみせると、ミリシアは凄絶な笑みを顔に浮かべた。


「……それは何より。さて、今日は少しばかり体を動かしてみようかと思いまして」

「へえ?」

「アーチェリーですわ。貴族夫人の嗜みのひとつ。聞く所によりますと、ハインツ卿夫人はその名手であらせられるとか」


 是非とも腕前を見たいと、ミリシアは勧めてくる。

 

「道具も、こちらで用意してますのよ。禊を行う意味も込めて、如何でしょうか?」

「……禊?」

「ええ、我が国では古来より、光明神ジャニュに祈りと願いを込め、邪を払う矢を射る儀式がございますよね?」


 その裏に秘められた悪意を悟り、ベルネラは微かに眉を動かした。

 十一従属神・光と正義を司る神。それに伺いを立て、矢を射る動作は、エルドナーク建国の頃より――罪人の許しを請う為に、行われるものであった。

 

「貴女はいわば、被害者でありますものね。お可哀想に、言われなき誹謗中傷も受けられたとか。下賤な血の娘が犯した罪、社交界を好き勝手に荒らしたその報いを、どうぞお晴らしになられてはいかがでしょう?」


 それがいい、素晴らしい提案だと、方々で声が上がる。

 ここに居るのは、ディンガード侯爵家にごく親しい間柄の夫人たちのみ。

 味方は居ない、敵しかありえない。

 

「『魔女』を滅ぼす気概を、お見せくださいませ。そうすれば、皆も安心なさることでしょう。ご子息の未来も安泰かと存じますわ」


 勝ち誇ったかのような笑み。まさしくそれは傲慢そのものな、貴族夫人の権化。

 その姿を前に、ベルネラは、くつくつと肩を震わせた。


 つまりは頭を垂れ、服従せよと言っているのだ。

 誰に? この、ベルネラ・ハインツに?

 

「かしこまりましたわ、夫人。道具をこちらに」


 あまりにも素直な態度が、意外であったのだろうか。 

 ミリシアは微かに目を丸くしたのち、従僕を呼んで支度を申し付けた。

 

「それで、的は?」

「あちらですわ」


 侯爵夫人が指示した場所。目を凝らして見れば、そこには立札のようなものに、藁で出来た的が括りつけられているのが分かる。

 大分に遠い。これは、弓に長けた男性であっても難易度が高かろう。

 

「……光明神への聖句と共に、さぁお放ちなさいませ。音に聞こえたその腕前、私どもにご披露頂けますか?」


 弓篭手や弦弾きと共に、女性用の小ぶりな弓が運ばれてくる。

 しかし、それらを一瞥し、ベルネラは首を振った。

 

「広間に、立派な弓が飾られていらっしゃいましたよね? あちらを所望いたします」

「な……!?」


 ざわり、と。群衆から息を呑むような声が響く。

 飾り物を寄越せというような、厚顔さに驚いたのではなかろう。

 その証拠に、彼女らの顔は信じられない、とばかりに蒼白くなっていた。

 

「あ、あれは男性用のものですわ! しかも、相当に強弓の――」

「用意を」


 ぱちん、と。扇を閉じ。ベルネラは表情を消した。


「二度とは、申しません」 

 

 有無を言わせぬ口調に押し切られるようにして、ミリシアは慌てて指示を出す。

 

 運ばれてくるその前に、ベルネラは矢筒等を身に付けてゆく。胴衣ボディスは無いが、致し方ない。

 

「も、持って参りました」


 従僕が恐る恐ると差し出した弓を受け取り、弦を確かめる。

 見た通り、手入れは良くされていた。これならば、問題あるまい。

 

 全ての用意を整えると、ベルネラは弓に矢をつがえた。

 弦を引くだけで重く、痛みが肩へと伸し掛かる。

 

 全身の筋肉が引き攣り、悲鳴を上げる。

 フィンガー・タブで保護されているとはいえ、指先から血が滲み、握りしめた爪が割れそうに痛む。

 だが、そんなものは何でもない。こんな苦痛など、どうという事も無い。

 

 ベルネラの脳裏を掠めるのは、一人の少女の顔。

 火傷を負い、貴族令嬢として致命傷を受けた時さえ、あんな表情はしていなかったはず。

 

(思えば昔から、あの娘は我慢を重ねる子だったねえ)

 

 ベルネラには、義理の娘程の才覚は無い。そう、自覚している。

 それは、娘時代からとうに思い知っていた。

 自分には特別な美しさも、神から得た恩恵も無い。

 

 だから、努力を重ねた。だから、経験を積んだ。

 

 ベルネラ・ハインツにあるものは、たったそれだけ。それだけの事である。

 

 息を吐く。思考の全てを外に押しやる。

 極限の集中力を持って、ただ目標のみを念じ矢を絞る。

 

 何処かで、かちゃん、と。何かが砕ける音が聞こえた。

 だが、それすらも。今のベルネラの意志を阻害する事は叶わない。

 

「――光明神よ、偉大なる正義の神よ。我が一矢、とくとご覧あれ」


 空を裂き、矢が放たれる。

 

「なっ!?」


 風を巻いて唸るそれは、狙い誤らず藁を射抜いた。

 

「こ、こんな馬鹿な……!」

「ま、的の中心では? まさか、うそ……」

「か、カップを落としたのに。あんなに大きな音を立てたのに! なのに、どうして……」


 ざわめく招待客たち。彼女達はみな、信じられないとばかりに声を上げ、顔を見合わせているようだ。

 

「そ、そんな! こんな事が……!」


 慌てたように、ミリシアが的に駆け寄ろうとする。矢が射抜いたかどうか、確認しようというのだろう。

 だが、彼女が小走りに足を進めた直後。その頬の真横を、二射目が通り過ぎた。

 

「ひ、ひいっ!?」


 数瞬遅れ、侯爵夫人が尻もちをつく。

 恐怖と驚愕に彩られたその顔は、とても貴婦人のものとは思えない。

 

「な、なんてことを! これは殺人未遂ですわ! しかるべき法の場に――」

「――これは異なことを。矢をつがえた者の、その射線上に身を躍らせる。それがどれ程に愚かな事か、ご存知でしょうに」


 抗議の声を、しかしベルネラは切って捨てる。

 

「しかも、光明神に捧げる矢。神聖な儀式を邪魔しようなどと、貴族夫人のなさることではありません」

「そ、それは……」


 尚も言い募ろうとした夫人達に、ベルネラが視線を向ける。

 するとたちまちその声はしぼみ、遂には消えてなくなってしまう。

 

「――ディンガード卿夫人?」

「ひっ!?」


 未だに動けずにいる侯爵夫人の元に、ゆっくりと歩み寄る。

 ガチガチと歯を鳴らす夫人の頬を優しく撫で、ベルネラは微笑んだ。

 

「ご覧の通り、矢は放たれました。罪の禊をされるのは、どちらでしょうねえ?」

「そ、それは、それ、は……!」

「さぁ、もう一度。先ほどの言葉を仰ってくださいな。『魔女』、でしたかしら? それとも穢れた罪人?」


 恐怖に慄く侯爵夫人の瞳。

 それを見下ろすようにして、ベルネラは口を開いた。

 

「――どうしたい? ほら、私の娘をそう呼んでみな」


 全身を震わせ、ミリシアは涙を零し始めた。

 言葉を発する余裕も無いのか、彼女はただただ首を横に振り続けるのみだ。

 

 女主人の格とは、決して爵位の高低にあらず。

 振る舞い、作法、教養に話術。そして気位。

 その複合的要素によって決まるのだ。

 

 侯爵夫人と男爵夫人。

 天と地もある階級差はしかし、今この場に置いては何の意味も持たなかった。

 

 大勢は、ここに決してしまったのである。


「そちらこそ、身の振り方を、ようく考えておくことですね」 


 その言葉を最後に。最早、興味を失ったとばかりに背を向け、ベルネラは歩み出す。

 ヒステリックな悲鳴があがり、夫人達が慌てて逃げ出し始める。

 最早、彼女に逆らう声も、その気概を持つ者は誰も居ない。

 

 ――ただ、一人を除いては。


 混乱の極みにある夫人達の中、ベルネラを見据える冷徹な視線があった。

 ベルネラは足を止め、しばし『彼女』と睨み合う。

 

 先に目を逸らしたのは、向こうの方であった。

 ゆっくりとベルネラに背を向け、優雅な足取りで歩き出す。


「……思惑が外れたか、それとも――」


 彼女――エリス・レーベンガルド侯爵夫人の姿を見送り、ベルネラは呟いた。

 

「十数年ぶりの邂逅、只では済みそうにもないねえ」


 勿論、こちらもそれで済ませるつもりもない。長きに渡る諍いに、決着を付ける時が来たのやもしれない。

 見上げた空には雲一つなく、蒼い風景が広がっている。


(手助けをするのは、今回が最後だ。結婚祝いというやつだね。不出来な娘の、尻拭いはしてやるさ) 

 

 今頃、義理の息子たるあの男は、『それ』を娘に告げ、()()()()()()()だろうか。

 

 これは賭けだ。破滅をするか、栄光を掴むか。

 

 ハインツ男爵家は、もう運命のコインを乗せてしまった。後戻りは出来ない。


「精々、上手くやる事だね。こっちに損はさせないでおくれよ」


 ベルネラは軽く息を吐くと、眩しげな日差しに目を細めた。


次回は8/4(金)に更新いたします!

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