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118話 さようなら、旦那様


 ――それは、一通の匿名文書から始まった。

 

『マリーベル・ゲルンボルクは前ハインツ男爵の実子では無い』


 新聞社に投げ込まれた文。何の根拠も無い誹謗中傷の類かと、初めは誰にも相手にされなかった。

 そも、現在のアーノルド・ゲルンボルクは飛ぶ鳥を落とす勢いで頭角を現した、正しく時代の寵児。

 先のガヅラリー社での一件からも分かる通り、彼は裏工作にも十分に通じている。下手な騒ぎを起こせば、破滅するのはどちらか。そんな物は火を見るよりも明らかであった。

 

 が、火種は静かに燻りはじめる。程なくして公開されたその文書が、事態に拍車を掛けた。

 

 事故死したと思われた、ドルーク・ハインツ前男爵の遺言状公開。

 

 そこには自身が所有する美術品などの処分方法や、隠された財産まで事細やかに記されていた。

 そうして、その最後。書き殴るかのように表された一文が、物議を醸しだしたのだ。

 

 

『マリーベル・ハインツを名乗る、その娘は――我が子に非ず』



 元々、エルドナーク貴族は長子相続制だ。土地や爵位など、財産の全ては嫡男が受け継ぐ。

 とはいえ、嫁入りの持参金や家の繋がりなど、それ以外の子等にも一定の物が残されるのが常だ。

 

 しかし、それはあくまで当主が自らの子と認めた者に限られる。実子であれ、他家から迎えた養子であれ。それがこの国の貴族の原則である。

 

 ならば、その当主自身が『子では無い』と明言したならばどうなるか。

 勘当をした、追放した、等の比喩の話では無く、実際に血が繋がっていないと後から判明したのなら。

 

 エルドナーク王国は、貴族階級の立ち位置が特殊である。それは、尊ばれるべき蒼き血脈。

 アーノルド・ゲルンボルクが社交界で成り上がり、一定の地位を築き上げた背景には、妻の存在が大きい。

 そしてそれを成し遂げた根拠、要因はハインツ男爵家の血に在る。彼女が貴族の子女であるからこそ、今の成功に繋がっているのだ。

 

 もしも。その血が、マリーベルに流れていないとするなら――


 それは、エルドナーク貴族社会に対する、大きな裏切り行為に他ならなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……残念ながら、主は不在でございます」


 にべもない言葉。明らかな拒絶に撥ねつけられ、マリーベルは拳を握りしめた。

 応対に出た使用人は、明らかに顔を強張らせていた。それが何を意味するか、分からぬわけも無く。

 

 どうぞ皆様によろしく伝えて欲しいと、端を折ったマリーベル自身のカードを渡し、踵を返す。

 かつて、初めての社交を行った思い出深い屋敷。真っ先に新米奥様を迎え入れてくれたラクンダ夫人の邸宅を、振り返りもせずに後にする。


 大丈夫、大丈夫だ。これくらい、何てことは無い。

 嫌な音を立て始める心臓をそっと抑え、マリーベルは呼吸を整えた。


「奥様……」


 ティムの心配げな声に、笑顔を返し、その頭をそっと撫でる。

 

「大丈夫ですよ。次、次に行きましょう。今まで築き上げた実績だってあるんです。そう、このくらいの事で……」


 それは、自分に言い聞かせるような言葉。

 マリーベルはティムを伴い、通りを抜けると馬車へと飛び乗った。

 

 説明を、しなくてはならない。巷に流されている噂は、意実無根であると。

 マリーベルが苦心して作り上げた派閥の皆に、それを話し、軽挙な行動はしないように言い含めておかねば。

 

 ほんの数か月の付き合い。利益が根底にあるとはいえ、互いに信頼関係だってあったはず。

 儚く細い糸を手繰り寄せるように、マリーベルはスカートを握りしめる。

 


『――短期間で駆け上がったのなら、落ちてゆくときもね、あっという間じゃない?』



 内から聞こえて来た、粘り付くようなその声から、必死に目を背けて。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 半ば隠居状態、社交界では死んだも同然であった、レーベンガルド侯爵。

 アーノルド達も決して油断したわけではなかった。

 王太子の命により、彼の身が遠い異郷の地に去った後も、配下による監視の目は合った。

 

 なのに、結果はこれだ。

 

『証拠もある。マリーベル・ゲルンボルクの母親は、先代当主に一服を盛り、寝所を共にしたとして見せかけた、稀代の悪女である!その父親は未だ定かではないが、当時庭師として働いていた男であるのが有力だ』


 かつて、ウィンダリア子爵家の『悪』を暴いた侯爵家。

 その正義の刃が、今再び閃いた。ニュース・ペーパーに記されたその一文に、世間は熱狂した。 

 

 まるで、予め準備が進んでいたかのように、『そういえば』『このような物が』と各新聞社は一斉にその事を書きたてたのだ。

 反論する声も、懐疑を伴う抗議の訴えも、その波に押し切られて消えてゆく。

 

 明らかな異常事態。侯爵の『祝福』を知るアーノルド等は、自分達の身に何が起ころうとしているか、何を仕掛けられたのかを悟るが、あまりにも予想外の事態に、後手に回らざるを得ない。

 

 

『これは定められたことなのだよ、ミスター。やがて決定的な破滅が彼女を襲う。だからこそ、火傷を負う前に切り捨てる事を推奨するよ』


 

 かつて、狂乱の宴の席で、アーノルドに語ったその言葉。それは今まさに真実の刃と化した。

 マリーベルを破滅に導く、その一手が遂に指し込まれたのであった――

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「そう、ですか……他の皆様は、殆どが……」

「うん、駄目だった」


 マリーベルは力無く笑った。

 アンの気遣わしげな視線が、胸に痛い。

 

 お屋敷アンソニーの寝室。そこに、アーノルドの姿は無かった。

 マリーベル自身が、同席を拒んだのだ。アンと二人きりにして欲しいと、そう頼んで。

 

(やられたなぁ……まさか、こんな逆転の一手があったなんて思わなかった)

 

 彼の醜聞は、瞬く間に王都を駆け巡った。

 穢れた女の娘、恥さらし。名指しで裏切者扱いする者まで居た。

 

 当然、真っ先に被害をこうむったのはマリーベルが苦心して築き上げた派閥である。

 伝授した作法もエチケットも、全ては少女が貴族の血を引いているから。正真正銘の男爵令嬢であるから、根拠があった。

 

 けれど、それに疑わしさが混じるなら。

 マリーベルが十年以上を男爵家で過ごした『実績』があるから、なんて関係がなかった。

 他の集団から攻撃され嘲笑われ、一人、また一人と夫人や令嬢たちはマリーベルの元を去って行った。

 提訴を考えている、と。仄かににおわす者まで現れる始末だ。

 

「ニーナは、それでも会って励ましてくれたけどね」


 マリーベルの最初の教え子である少女。彼女だけは噂が広まると同時にゲルンボルク邸を訪れ、そんな物は信じないし、例えそれが真実だとしても態度を変えるものかと憤ってくれた。

 

「それに、イセリナ様たちも。馬鹿な噂は払しょくしてみせると、そう言ってはくださったわ」


 嘲笑と侮蔑が渦巻く中、真っ先にそれを否定し、憤慨してくれたのはメレナリス男爵夫妻だった。

 馬鹿なことを抜かすなと、これまでマリーベルが築き上げたものは紛れも無く彼女自身の才覚によるものだと、そう言って様々な場所で、必死に抗議の声を上げた。

 

 だが、彼らは貴族としては末席に近い。夫人であるイセリナも、上流階級出身とはいえ貴族の家門に生まれたわけではないのだ。

 マリーベルを庇えば庇うほど、彼らは次第に立場を失い、爪弾きにされてゆく。

 それは、掛け替えのない友人であるニーナとて同じだった。

 

 貴族社会とは、社交界とは他者の足の引っ張り合いだ。

 他人の疵を舌なめずりしながら舐めつくし、殊更に騒ぎ立てる。

 

 そして、そんな彼らの苦境を見て、平気で居られるほどにマリーベルの心は強くは無かった。

 

「……終わりって、こんなに早いんだ。びっくりだね」

「奥様、何を仰います! まだ何も終わってはいませんわ! きっと、ご主人様が――」


 アンの訴えに、しかしマリーベルは首を振った。

 

「このままじゃ、お養母様やリチャードの未来にも傷が付く。そして、何よりも……旦那様の夢が崩れてしまうわ」


 アーノルドも必死になって方々を駆けずりまわり、調査や噂の否定に勤しんではいる。

 けれど、と。マリーベルは直感した。これは恐らく、どうにもならないモノの類だ。

 夫の能力も知見も信頼している。だが、拘れば破滅するのは他ならぬアーノルドだ。

 マリーベルが誰よりも恋い慕う、大切な男性なのだ。

 

 母を淫売だなんだと馬鹿にされる事に対する、憤りは激しい。

 何度も拳を振るって暴れ回りたい衝動に駆られた。

 あの優しくて誇り高い母が、そんな事をするものかと。

 

 けれど、状況が悪い、悪すぎる。マリーベルの理性的な部分が警鐘を打ち鳴らしていた。

 どんなに超常的な身体能力をもってしても、抗えない事がある。

 

 銃弾すら跳ね返す肉体も、伝説の騎士さえも打ち倒した剛力も、目に見えぬ『それ』には無力だった。

 

 

 思い出せば、母は常に父に対して言葉を濁していた。

 貴族の醜聞に響くものかと思って納得はしていたが、もしや……

 

(何を考えているのよ。馬鹿ね、本当に馬鹿……っ)

 

 最愛の母に対し、疑いを持つ自分自身がたまらなく醜く思えた。吐き気がする。

 

「だから、方法はひとつ。旦那様は反対するかもだけど、早く手を打たなければいけない。切り捨てなくては、いけない」

「お、奥様……?」

「ミュウさんからは、『早まるな』ってお手紙を頂いたのだけれど、そうも言ってられないよ」


 対応を後回しにすればするほど、時が流れるほどにこちらの――アーノルドの立場は悪くなる。

 取り返しがつかなくなるその前に、何とかしなくては。

 

「旦那様は凄い人だもの。きっと、すぐに良い人が見付かると、おもう、の……」


 声が震える。それを宣言するのに、多大な勇気を要した。

 

「経済的に困窮している貴族の令嬢は少なくないわ。旦那様の評判自体は悪くないし、中層階級層からの支持も厚い。元から好意的に見られていたはずだもの、それを同情的なものに変えてしまえばいいのよ。簡単だわ、醜聞を私一人に集中させればいいんだもん」


 つまりは悪女・マリーベルの爆誕である。

 見ていろレーベンガルド。思惑通りにはさせてたまるものか!

 

 表立って妻で居られなくとも、あの人の役に立つ方法は幾らでもある。

 それと引き換えに、弟たちへの援助だってお願いしなくては。

 全くやる事が多くて大変だ。

 

「教会から最上位の祝福を得た上で式を挙げたし、現行の法律では離縁は難しいわ。だから、私は死んだふりをして表舞台から消える」

「奥様」

「もしかしたら、旦那様が見たっていう絵は、それを顕わしていたのかもね! まぁ、死ぬつもりはさらさらないし! 一世一代の大芝居をしてやるわ!」

「奥様」

「血糊とか、そういうのを買おうかな。誰もが見ている場所でこう、グサッと死ぬとか。ねえ、アン。いい方法とか他にある――」

「奥様っ!」


 ひんやりとした感覚が、両頬に伝わる。

 アンの手のひらが、マリーベルの頬に当てられ、労わるようにそっと撫でてゆく。

 

「それ以上は、おやめください。ご自分を傷つけるのは、どうか、どうか……!」

「え?」


 アンの手のひらが、濡れている。どうしたのだろう、紅茶でも零してしまったのだろうか。

 

「あ、れ……?」


 違う。アンの指先を濡らす水滴は、その上から流れ出している。

 そう。マリーベルの、両の瞳から――

 

「あれ、あれ? なんで、あれ?」

 


『利害の関係一致。それを違えねえ限り、俺はお前の金づるになってやるさ』



 そう、だって旦那様は始まりのあの時に、そう言って契約を交わしたのだ。

 その前提が崩れた以上、全てはご破算。それは当然のことなのに。

 

 

『ついて来い、マリーベル! 社交界に殴り込みだ。それにはお前の知恵と知識、そして能力が必要だ』


 奇怪な力を持つ娘を何でも無い顔で受け入れ、そう言って笑ってくれたあの人。

 


『――お前は綺麗だよ、マリーベル』


 これ以上の幸せがあるのかと思った結婚式の日。そう言って褒めてくれたあの人。

 

 

『愛して、いる。誰よりも大切だ。それだけは、間違いねえ』


 様子がおかしくなった妻を、それでも遠ざけず。優しく想いを汲み取ってくれたあの人。


(……あぁ、そっか)


 マリーベルは、悟った。悟って、しまった。

 ぽっかりと空いた胸の穴。そこから全身を凍てつかせるように吹き付ける痛み。

 


「――私、もう。旦那様の奥様で、いられ、ないん、だ……」



 決定的な一言。

 それを吐き出すと同時に、感情の全てが決壊した。

 

「う、うぅぅぅ……ふぐぅぅぅぅぅ……っ!」


 顔を覆い、嗚咽しながらへたり込む。

 頭がガンガンと痛む。手足も胸も、何もかも全てがねじ切られるかのように苦しい、痛い!

 

「奥様、奥様……っ!」

「おね、が……だん、さま、みせ、ない、で……」


 やっとの事でそれだけを絞り出す。

 見せたくない、見られたくない。

 あの人だけには、こんな姿を――

 

「う、うぇぇぇ……う、うあぁぁぁぁ……!」


 大声を出すのを防ぐように、必死で手で口元を覆う。

 背中を撫でるアンの温もりに縋り付くように、マリーベルはただただ嗚咽を零し続ける。

 想いが弾け、グルグルと行き場の無い感情が全身を巡って苛んでゆく。


(いやだぁ、いやだぁ……こんなの、いやだぁ……!)


 けれど、どうしようもない。受け入れなくてはならないのだ。

 自分に束の間とはいえ、幸福をくれたあの人。夢を見せてくれた大好きな旦那様の為に。


「うぅぅぅ、ふぐ、うぅぅぅぅ……っ!」

 


 だから、マリーベルは気が付かなかった。

 後ろの扉が僅かに開いていた事を。躊躇うように遠ざかる、その足音を――

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


「くそっ! くそっ! 勝手な事ばかりを言いやがって!」


 ゲルンボルク邸の廊下に、激昂の声が響き渡る。

 

「とはいえ、これは挽回が難しいよ。何せ紋章院が認めたものだ。筆跡だって間違いない。あちらには、秘伝の道具があるからね。そこから導き出された真実には、王家ですら口を挟みにくい」

「何が真実だ! くそったれめ!」


 冷静さを保つフェイルが、憎らしくて仕方がない。

 ティムは貴族令息に対する礼儀などかなぐり捨てて、壁を蹴り飛ばした。

 罵倒、嘲笑の声。あんなにも頑張ってきた少女に対する世間の対応に、怒りが沸いて止まらない。

 

「落ち着きなって。僕も今、ミスターに落ちぶられては困るからね。爺様にも相談しているし、打てる限りの手は打つさ」

「駄目だ駄目だ! そんなの遅い! マリーの性格からして、早まる可能性は十分にある! あぁくそ、何でこんなことに!」


 あのクズ男爵め、死んでからも迷惑をかけやがって。ティムは未だ顔も知らない男に対する呪詛の言葉を吐く。

 自身の父親もそうだが、親としての務めもろくに果たしもしないくせに、子供の未来まで奪おうとは許せない。

 

(旦那だ、旦那に相談しよう。事によっては、オイラも――)


 確か、もう帰ってきているはずだ。

 主を見付けようと、小走りに足を踏み出した、その時。

 角の向こうから、見慣れた姿が現れる。

 

「おや、ミスター? どうだったね、奥方の様子、は……」


 その言葉は、途中で途切れた。

 あのフェイルが声を失い、慄くように壁に貼り付く。

 それは、ティムも同然だった。自然と足がよろけ、道を開くように体をどけてしまう。

 

「――マリーベルを、頼む」


 一言、たった一言だけ。

 両側の少年たちの間を通り抜ける際に呟かれたその言葉が、何よりも鋭い刃となって耳に突き刺さる。

 

「な、なんだい、あ、れ……」

「それは、オイラが聞きたい、よ……」


 震えるようなフェイルの声。

 ティムもまた、今しがたの光景が目に焼き付いて離れない。

 吊り上がり、血走った瞳。眉間に刻まれた皺。地獄の悪魔でさえ裸足で逃げ出すような、禍々しい凶相。

 

「けど、一つだけ分かったことは、ある。仕組んだのがレーベンガルドだか誰か知らないけど、そいつは馬鹿な事をしたもんだ」


 ティムは心の底から己の言葉に同意する。今、少年は見てしまったのだ。肌で実感してしまったのだ。

 

 アーノルド・ゲルンボルクの全身から漂う殺気。

 憤怒や悲痛、あらゆる負の怨念が混ぜられた、それ。

 

 

 ――この世の物とは思えぬ、憎悪を。

次回は少し間を開けまして、来週7/29(土)に更新します!

少々お待ちいただけたら幸いです!

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