12話 近づく結婚式ーーなのですが
「わぁ……!」
マリーベルは感激に身を震わせた。
純白の衣装に身を包んだその姿は、まさしく清楚可憐な花嫁そのもの。
嬉しくなって、ふわり、ふわりとスカートの裾を翻す。白薔薇をモチーフにしたドレスは、マリーベルの動きに沿って舞うように花開く。
「どうです旦那様! 似合ってますか? 似合ってるでしょう? 似合ってますよね?」
「圧が凄い」
アーノルドに両手でそっと押しやられ、マリーベルは足踏みする。
「いやまぁ、似合ってるかどうかと聞かれたら、そりゃ似合ってるぜ。外見だけは恐ろしく愛らしいもんな、お前」
「えへへ……ん? それ褒めてます?」
「褒めてる褒めてる、マリーベルは絶世の美少女だよ。いやほんと」
何故か後半の口調がのっぺりしている気がする。じろりと見やると、顔を逸らされた。いつものアレだ。
「もう少し丈を調整したら仕上げだな。式までまだひと月以上あるし、余裕を持って完成させられそうだな」
アーノルドが露骨に話を逸らす。腑に落ちないが、今はいい気分である。そのまま流してあげることにした。そう、マリーベルは寛大な奥様なのだ。
そのまま淑女的笑みを浮かべ、周囲を見回す。見栄えの良いドレスや紳士服があちらこちらに飾られ、マリーベルの目を愉しませてくれた。
ここは、王都にある仕立て屋だ。それも貴族の屋敷に出入りを許されるほどの高級志向のお店。
店構えからして風格が違う。お高そうな雰囲気が、いかにもマリーベルの好みだった。
今までもこの店で幾つかドレスを仕立てた事がある。いわゆる行きつけの店だった。
アーノルドは針子に二、三言の注文を付けると、マリーベルの背をぽん、と押した。着替えて来い、という奴だ。
自分好みの婚礼衣装が出来上がりつつあり、すっかり上機嫌の奥様はそれに従い、奥の更衣室へ向かう。
(何だか夢みたいだな……こんな綺麗な衣装を着て、結婚式に臨めるだなんて)
そこに愛もへったくれもないけれど、やはり嬉しいものは嬉しい。金払いの良い旦那様と巡り合えた幸運を、神に感謝したくなる。
針子に手伝ってもらい、ドレスを脱ぐ。胸が顕わになり、姿見の前に映りこんだ『それ』が目に入った。
(……胸の開いたドレスも、可愛かったな)
でも、それは望めない。白のドレスに醜い傷痕は良く映えるだろう。それでは式も披露宴も台無しだ。
(……もしも、私にこの傷が無かったら)
夜会に着て行くドレスに悩む事も無く、変な遠慮を旦那様にさせる事も無く。
素直に、妻として身を任せる事が出来ただろうか。
そうしたら、もしかしたら。恋と愛で結ばれた幸せな花嫁として、皆に祝福されたかもしれない――
(――でも、そうしたら。そもそも旦那様と結婚してなかったかもね)
首を振って妄想を振り払う。今となっては、アーノルドの妻以外の生き方なんて考えられない。
恋愛感情は無くとも、そこに情くらいは生まれている。皮肉で無く、マリーベルは現状に満足していた。
白い花嫁衣装を着て、彼の傍に寄り添うマリーベル。その姿を思い浮かべると、何だかくすぐったい気持ちになる。
晴れの日は、裾を踏んずけたりしないよう注意しようと、そう心に誓うのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お疲れ様です、お二人とも。その分だとドレスの出来は素晴らしかったようですね」
店から出ると、ディックがマリーベル達を出迎えてくれた。
いつもの自家用車に背を預け、気障ったらしい姿勢で眼鏡をクイッとあげている。
「あぁ、待たせたな。後は微調整を済ませれば終わりだ。しかし……良いもんだな」
アーノルドが嬉しそうに笑う。
「花嫁衣装が段々と出来上がっていくのを眺めるのは、なんつうか気分が上がるぜ」
「旦那様が一番注文多かったですものね。やれ刺繍の彩りが足りないだの、スカートの巻き具合が気に入らないだの」
着るのはマリーベルだというのに。一番盛り上がっていたのは旦那様であった。
「分かります。良いですよね、花嫁衣裳! レティが我が妻となった記念すべきあの日。今でも脳裏にしかと浮かびます……」
ディックがうっとりと微笑み、懐から出した写真に口付ける。いつも持ち歩いているのだろうか、あの写真。マリーベルが覚えているだけでも、この仕草をするのは両手の指に余った。
「あぁ……レティ……我が女神……我が最愛の人……! 待っていておくれ、このむさ苦しい三十路男を送り届けたら、君の所へ飛んでいくよ……」
「誰がむさ苦しい三十路男だ!」
アーノルドの怒声を気にも留めない。こうなった眼鏡は無敵である。
そんなにも愛されている彼の妻を少し羨ましくは思う。人は、こんなにも誰かを思う事が出来るのか。
マリーベルも彩色写真を見せて貰った事があるが、レティ――レティシア・マディスン夫人は、おっとりとした優しそうな女性であった。長い金の髪を後ろに纏めて上品に結い、淑女らしい笑みを浮かべていたのを思い出す。マリーベルの似非的なそれとは雲泥の差だ。
妄想の翼を果てしなく広げ始めたディックが正気に還るまでややあって、ようやく三人は蒸気自動車で出発した。
最近整備され始めた道路という奴は、車の走行に適している。砂と土を固めて作るらしいが、見事なものだ。
砂利道でないので、車輪が跳ねてデコボコしないし、何より見た目も綺麗である。
マリーベル達の他にも、何台もの車や馬車が道を行き交う様は、中々に見応えがあった。
その中には、明らかに富裕層であろう物もちらほらある。家紋が刻まれているあれは、貴族の馬車か。
フットマンを後方に乗せて走りゆくそれを眺めながら、マリーベルは呟く。
「……しかし、あれですね。そろそろ社交の時期も近付いてきましたし。使用人も選定しないと」
「あー……やっぱ、選ばなきゃダメか?」
この期に及んで抵抗する旦那様。マリーベルは呆れ顔で頷いた。何を言ってるのかこの人は。
「掃除やら何やらは私一人でも出来ますけど、社交が始まったら昼間は出ずっぱりですよ。レンジに火を入れて熱している暇はありませんし、仮に出来たとしても放置して出かけたら危ないでしょ?」
だから、今日のように夕方近くまでお出かけする日は外食である。楽で良いが、それはそれで寂しい。
お店の味と家庭の味はやはり別物なのである。マリーベルが習い覚えた料理を教え込む相手が欲しい。
「あと、ドレスだってそうですよ。上流階級の社交場に着ていくようなやつは、メイドが居なけりゃ着るのも困難です。私が今、身に付けてるようなドレスでギリギリお一人様でもなんとか? ってなもんなのですから」
「商会長は新王国での暮らしが長かったですからね。向こうは富裕層でもあまり使用人を雇いませんから」
「それはそれで大変なような……? 掃除とかどうしてるんですか?」
「通いの掃除夫を雇っているようですね。料理などは奥方が作るとか。流石貴族無き国。形の上では誰もが平等と謳うだけはありますね」
新王国。隣国・アストリアの更に隣の隣。エルドナークからやや離れた位置に建つその国の名はコルティスタ。今から百年ちょっと前に作られた新興国だ。王を戴かず、国家の元首となるべき者は選挙で決め、立法から何から全てを民が行う。貴族が関与することなく政を行う、いわゆる共和制というもので、正式には『王国』ではない。
けれど、誰が呼び始めたかその仇名はすっかり定着してしまい、平民も貴族も関係なく、話題に上らせる時は誰もが皆、その呼称を好んだ。
「向こうはドレスからして作りが違いますから。一人で着替えも出来るそうですし、コルセットも付けないようですよ」
「えぇ……? それ、座りにくくないんです? 私なんて寝る時も付けないと収まり悪くて安眠出来ないのに」
「こっちに帰って来て改めて思ったが、拷問器具じゃねえか、あれ? 良く女はあんなモンを付けてられんなぁ……」
分かっていない。旦那様は分かっちゃいない。
確かに十年ほど前には、きつく締め付け過ぎが社会問題になりかけたというが、そんなのは一部の女性の見栄に過ぎない。コルセットは適度に締めれば楽なのだ。だらんと気を抜いても背筋が伸びるし、ものぐさなマリーベルには必需品と言えた。
「お腹の筋肉? が衰えるらしいので、お歌を歌うのが推奨されてるくらいで、別に慣れればなんてことないですよ?」
「だからお前、時々大声で歌っていたのか……」
実は、折を見ては王都の婦人合唱クラブにも出入りしていたりする。
一人で歌うのも良いが、皆で歌うのも楽しいものだ。マリーベルは寂しいのが嫌いである。
「旦那様も今度一緒に歌いましょうよぅ。きっと楽しいですよぉ! ディックさんもどうです?」
「良いですねえ、ミュージック・ホールにでも繰り出しますか。その時はレティを連れていきますよ。彼女のピアノはこれまた絶品で……!」
隙を見せれば始まる奥様自慢。ペラペラと語りはじめた眼鏡を放置し、マリーベルはアーノルドに向き直った。
「話が盛大にずれましたが、使用人ですよ、し・よ・う・に・ん! 中流ではステータス、上流では居て当たり前って言ったでしょ? せめて、旦那様付きの従僕の一人でも居ないと侮られますし、最悪見限られます」
「う……っ」
そもそも、と。マリーベルはここぞとばかりに追撃する。調子に乗ったら乗り切るのが信条だ。脇の甘さは命取りなのである。
「服装も、もう少し気を遣いましょ? 中流以下相手ならそれで良かったんでしょうが、貴族や地主、本物の上流階級に取り入ろうっていうなら、身だしなみも相応にしないと!」
この国の男性は、物乞いや罪人でさえ紳士的な繕いを好む。ボロを着ていても、服の合わせは流行を揃える。
だというのに、旦那様はその辺が無頓着だ。それなりに見栄えが良いなら良いだろう、くらいであった。
心棒が通ってないのだ。それは分かる者には見透かされる。
「良いですよ、奥様。もっと言ってやってください。この男は、虚より実さえ取れば良いとかほざくので、説得が厄介だったんです」
「し、紳士ってのは見てくれじゃねぇ、生き方だ! ボロを着ても――」
「……旦那様?」
「ごめんなさい」
素直なのが彼の取り柄だ。あっさりと頭を下げるアーノルド。誇りよりも実を取るのが旦那様らしかった。
「まぁ、俺もな? 探そうとは思っていたんだよ。そも、最初はお前をホテルに置いて、そこをとりあえずの借宿としつつ使用人を選定し、快適に過ごして貰おうとは考えていた。貴族令嬢を、あんな埃まみれの場所で過ごさせるわけにはいかねぇだろ?」
「おお、確かに……! ホテルかぁ、高級なやつですよね? うぅむ、それでも良かったかも……」
だろ? とアーノルドは首を竦める。
「でも、お前が迎えに行くその前に押しかけて来て、屋敷を綺麗に掃除するとか思わねえじゃんか」
「いやまぁ、うん……はい」
「それに、どちらにせよ応募が来なかったし……」
それは聞き捨てならない、どういう事なのだ。あまり使用人を入れたくないとか言ってはいたが、それとこれとは事情が違う。使用人の数を絞るのと、そもそも成り手が居ないのでは雲泥の差だ。
失言に気付いたのだろう。夫の瞳が焦ったように宙に泳ぐ。
いつものように旦那様は誤魔化そうとしているのだろうが、もう遅い。マリーベルの無言の圧に押し負けて、アーノルドがしぶしぶ口を開く。
「屋敷のな、噂がな……? 皆呪いだなんだを怖がって、まともな使用人が寄り付かん」
「……うわぁ」
マリーベルも最初は怖がったが、もう慣れた。怪奇現象は一向に起こらないし、お化けが居ないと判ればこっちのものだ。
あの御屋敷はマイ・ハウスとしてそれはもう愛着を持ち始めていた。
「物件を探すとは言ったが、お前も気に入ってるようだし、あそこはその……実は恩師が建てた家でな。前にも言ったが防犯にも丁度良いし、出来ればそのまま暮らしてぇ」
それは初耳だ。この人にも恩師が居たのか。
何だか、新鮮な気持ちになる。
「となると、話が堂々巡りですねぇ。使用人がそもそも募集に来ないんじゃ、どうしようも――って、ん?」
ゲルンボルク商会の事務所まであと少し、といったところで。
前方の視界に、奇妙な光景が飛び込んできた。
「なんでしょう、あんな所にみんな集まって……」
マリーベルの目が、通りに密集し、ざわつく人々を捉える。
しかも、その顔ぶれには見覚えがあった。
「あれ? あそこに居るのって……旦那様の所の従業員じゃないです?」
「ん……? 何だアイツ等、サボってんのか? あんな所で何をしていやがんだ、ったく」
車を止めたが早いか、こちらに気付いたらしい従業員たちが我先にと駆け寄ってきた。
その形相は焦りと戸惑いに彩られ、目が血走っている者までいる。
――ただ事では無い。
それを感じ取ったのだろう。アーノルドの顔つきに、剣呑な物が走った。
「……何があった?」
「あ、あの! 事務所にラムナック警視庁が来ていて……! それで、あのっ!」
「しょ、商会長は、何処に居るって、その……っ!」
余程に焦っているのか、泡を吹くように紡がれるその言葉はみな、どれも要領を得ない。
「ヤードだと? 王都警察じゃぁなく、警視庁の人間が、か? ちっ、無駄飯喰らいの連中が何の用だ――」
「――ご挨拶だね、ミスター」
アーノルドの言葉を遮り、ざわつく人々を薙ぐようにして、朗々と声が響く。
「……へぇ、名物警部さんのご登場か」
アーノルドの呟きに、マリーベルが振り向くと、通りの片隅にいつの間にか男が一人立っていた。
年齢の程はアーノルドよりも、やや上か。潰れたようにぺしゃんこの鼻に、ギョロつく瞳。その顔は、つるつるの固ゆで卵の如くのっぺりしており、髭一つ生えていない。夜道で会ったら悲鳴を上げそうなその風貌。怪奇小説の怪人かと錯覚してしまいそうだ。
しかし、マリーベルの目はその顔立ちよりも先に、服装の方へ目が向く。
弾丸のように婉曲したヘルメットに、丈の短い黒のフロック・コート。その上からこれまた黒のオーバーをひっかぶっている。全身黒ずくめの特徴的なその姿。それは、王都全域を担当するラムナック警視庁の制服に違いなかった。
襟元に光る階級章を見せびらかすように首を振り、その男はニヤリと笑った。
「初めまして、ミスター・アーノルド。既に私のことをご存知の様だが、お名乗りしよう」
ゆで卵男は神経質そうに肩を揺らし、一歩。また一歩と、こちらに向かって近づいて来る。
「ベンジャミン・レスツールだ。ラムナック警視庁で警部をやらせてもらっている」
「あぁ知っているよ、悪食のベン警部。ひとたび喰らい付いたら離れない、食い意地の張った野郎だってな」
「ヒヒ……ッ、それはなにより」
何がそんなに愉快なのか。警部は口を三日月状に歪ませながら、懐に手をやる。
ハッとして身構えたマリーベルは、そこからするりと抜き出された白い紙に目を奪われた。
「これが何だか、分かるかい?」
時には強引な捜査でひんしゅくを買うラムナック警視庁。彼らが突きつける『それ』は恐怖の象徴として、広く知られていた。
マリーベルですら耳にした事がある。そう、それは――
「――逮捕状ですよ、ミスター」
「な……っ!?」
その悲鳴を上げたのはアーノルドでは無い。マリーベルだ。
ハッとして旦那様の方を振り向くと、彼は汗一つ掻かず、ただただその書状を見据えているばかり。
混乱する妻とは対照的なその姿。やけに落ち着いている態度が逆に、マリーベルの不安を煽った。
「抵抗は無意味だと知っているね? 一緒に同行願おうか。貴方には――」
そこで言葉を切り、ベン警部は笑みを深めた。
その手がゆっくりと掲げられると同時に、何処からか黒服の警察官たちが集まって来た。
息が詰まるような緊張の中、悪食と呼ばれたその警部は芝居がかった調子で声を張り上げた。
「――違法麻薬製造。その容疑が掛けられている」




