112話 いざ、正餐会へ!
――正餐会。それは、単に他家へ招かれ、食事を共にする事を意味するのではない。
相手の家格にも依りはするが、それに招かれる事は、エルドナーク社交界における大変な名誉。この上ない賛辞とも評される。
それなりに門戸が開かれ、不特定の人間が出入りする他の催しとは、まさしく格が違う。
この招待状が送られるということは、認められたという証。尊敬すべき人、友誼を結ぶに値する者、自分と同じ階級に居ると示したパートナー。それに値すると、宣言されたに等しい。
舞踏会が社交の顔、煌びやかで華やかな平民が夢見る『社交界』そのものだとするならば、正餐会は想像にさえ上らない、限られた人間だけが享受できるもの。
中でも、最高峰の貴族である公爵家。それも御三家として名高いルスバーグ公爵家が催す正餐会とくれば、それは事実上――社交界の頂点と言って差し支えは無い。招かれるのはそれこそ王家の貴人か、最上位の上澄み層たち。そのどちらかでしかあり得ない、とさえ噂されるもの。
そこに、妻が元貴族令嬢とはいえ、成り上がりの平民が。それも保守派の貴族からは敬遠されかねない、金儲けが得意な商売人が招かれる。それも、社交期がスタートしてから、ほんの僅かな間に。新参者の商人夫婦が、最大級の栄誉を授かった。
先の王宮出仕の件に続く異例の処遇。
それは王都社交界に、激震とも呼べる衝撃をもたらしたのだった――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「流石は公爵家主催の正餐会。専用のクローク・ルームさえ用意してるとは豪気なもんだ」
感嘆の声をあげる夫の呟きに、マリーベルはうっすらと微笑んだ。
今、夫妻が居るのはルスバーグ公爵邸の待合室。主催者の待つ応接間へ案内されるまで、ひと時の休息に使う部屋である。
帽子や手袋などの手回り品を預け、身支度を整えたマリーベル達は、先ほど自分達が通された部屋の在りようについてため息を漏らしてしまう。
如何に貴族とは言え、王都にあるようなタウン・ハウスでは招待客専用のクローク・ルームを常時開放などしていられない。たいていの場合、書庫や予備の客間などを開き、身づくろいの場所として提供するのが常であった。
「クローク・ルームから、更に待合室までスムーズに移動できましたしね。この間の王室主催の大舞踏会とかならともかく、個人の邸宅でこんな用意をしてあるとは。流石は御三家・ルスバーグ公爵家。財力も桁違いですね」
周囲をちらり、と見回しながらマリーベルもまた眼福だとばかりに目を細めた。
室内の様式も調度品も決して派手ではなく、上品に整っており、見る者を心安らがせるに十分だ。これだけで、この屋敷の主の人柄と気遣いが察せられるというものである。
「目標にしてはいたが、実際訪れてみると感慨深いぜ。労働者階級の小汚いガキだった俺が、正餐会に――それも公爵家主催のものに招待されるとはなぁ」
「あら。感慨深いのは別の理由があるのでは?」
「からかうなよ。流石の俺も、こんな所で悪癖を出すもんか」
口を尖らせる夫に、どうだか、と。マリーベルは笑って見せる。
――良かった、いつもの旦那様だ。
緊張はしているのだろう。それは確かだ。
けれど、その軽口といい、纏う雰囲気が柔らかなものに戻っていることに、ホッとする。
ハインツ男爵邸での一件以来。夫が時々、妙に焦燥に駆られるような様子を見せていた事に、マリーベルは不安を抱いていたのだ。 表面上は普通。こちらを気遣うような言葉も同じ。けれど、少女は彼をずっとずっと見て来たのだ。分からない筈がない。
(あの後、お養母様と二人で、何かを話していたようだけれど……)
戻って来た夫の瞳が、その眼差しが。マリーベルに向けられる視線が、いつになく優しく、切なげなものだった。
話してくれればいいと、そう思う。たとえ何か、理由があるにせよ。そんな様子のアーノルドを見るのは、とてもつらかった。
普段は人に甘えがちだというのに、肝心な所で抱え込もうとするのが、この人の悪い癖だ。
(突っ込みたいのは山々だけれど、まぁ勘弁してあげようか)
彼の負担になりたくない。煩わしいと思われたくない。
本当に自分は弱くなったものだと、苦笑しそうになる。
「ミスター・ゲルンボルク。お待たせいたしました」
執事の声掛けに、アーノルドが応じて立ち上がる。それを横目に、マリーベルは誓いを新たに刻み込む。
――今は、何よりも。彼を支えて自分の為すべき事を果たす。
それが第一だと心に念じ、夫から差し伸べられた、その手を取った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ゲルンボルク夫妻にございます」
通りの良い声が響き、マリーベル達の到着を告げる。
開いた扉の中に、まずは妻であるマリーベルが足を踏み入れた。通例通りに夫と腕は組まない。正餐会におけるマナーもまた、常の社交とは異なる。気を抜くわけにはいかない。
通された部屋は、白塗りの小奇麗な場所であった。先の控室よりも、更に小物は単純であり、余計な美術品などは一切見えない。小分けにされたテーブルのあちらこちらに、先客であろう人々が寄り合い、思い思いに会話へ花を咲かせているのが見えた。しかし、何よりも。マリーベルとアーノルドの目を引いたのは、奥の壁にある絵画だ。古めかしい枠に飾られた、大きな絵。そこに描かれているのは、一組の男女のように見える。
吸い寄せられるようにマリーベル達は応接室の中を進み、そうして絵の真下に立つ人物へ向かって礼を取る。
「ご無沙汰しております、公爵閣下。本日はお招きいただきまして、光栄に存じますわ」
「これはこれは、少し見ないうちに、また一段と美しさを増されたようだね。目が眩んでしまいそうだ」
「まぁ、お上手ですこと」
美辞麗句をそつなく流し、ルスバーグ公爵と握手を交わすと、マリーベルはそっと夫へ道を空けた。
「やぁ、ミスター。元気そうで何よりだ。君たちの活躍は聞いているとも。私からも礼を言わせて欲しい」
「光栄です、公爵閣下」
誰から、とも。何を、ともルスバーグ公は告げもしない。無論、こちらもそれについて問い質すような真似をするはずもなく。
表面上は和やかに、到着の挨拶は済まされた。
「弟が、相変わらず迷惑を掛けているようで、すまなく思っている。この間の舞踏会でも、何やら絡んでいたらしいではないか。全くあいつは、何時まで経っても落ち着かん」
憤懣やるかたない、と言うように。ルスバーグ公は大きなため息を吐く。相変わらずの苦労人ぶりだ。マリーベルも同情してしまいそうになった。気の毒な公爵様である。
「すまない、ここの所どうも悩みが尽きなくてね。しかし、夫人の髪飾り。それを付けてこの屋敷に来てくれるとは、中々に面白い趣向だ。無論、知っていての事だろうね」
ルスバーグ公が穏やかな笑みを取戻し、視線をマリーベルの頭部へ、ストロベリーブロンドの髪へと向けた。
そこに輝いているのは、あの蝶型の髪飾り。それをマリーベルが身に付けるという事の意味を、彼は良く理解しているのだ。
何故なら――
「……今宵は素晴らしき日となりそうだ。二百年の時を経て、『彼女』が再来したかのように錯覚してしまうね」
ルスバーグ公が自身の背後、そこに飾られた絵画を見上げた。
仲睦まじい恋人、あるいは夫婦であろうか。仲睦まじげに寄り添い合う男女、それを描いた肖像画を目にして、マリーベルは息を呑んだ。
金髪碧眼の美青年と、ストロベリーブロンドの髪の美女。
女性の髪に輝く、見覚えのある蝶型の装飾品。メレナリス男爵家で見た姿絵よりも、少し年を経ているだろうか。幸せそうに微笑む女性の顔立ちは、恐ろしい程にそっくりであった。
――今のマリーベルと、何もかもが。
「この絵は、我が家に伝わるものでね。新婚当時の『彼ら』の姿を描いたものとされている」
きぃん、と。耳鳴りがした。遠い何処からか、囁くような声が聞こえる。
嬉しげな青年の笑い声、照れたように応える少女の吐息。
はしゃぐような二人の声が、宙を舞うように過ぎてゆく。
胸を掻き毟りたくなるような息苦しさ。どうして、こんなにも泣きたくなるほどに懐かしく感じるのだろう。
「ルスバーグ家の祖たる、偉大なりし初代当主夫妻――」
公爵の声が、ひどく優しげに聞こえる。
招くように掲げられたその手が、絵画へと向けられた。
「――ラグナ・ルスバーグ公と、その最愛の妻。レジーナ公爵夫人さ」
次回の更新は明後日、7/13(木)となります




