幕間・6
「本当に良いの? こんな素敵な帽子を買ってもらっちゃって!」
「あぁ、もちろん。お姉さんの貴重な休日を使って、わざわざ付き合ってもらっちゃった、ほんのお礼だよ」
頬を上気させる少女に向かい、良く似合ってるよ、と評価を添えてあげるのを忘れない。女の子を良い気分にさせる方法は、大体似通っている。褒めて、褒めて、褒め倒すのだ。ただ、言葉選びは慎重にする必要はあった。わざとらしくしてもいけない。表面上は取り繕った笑顔を浮かべていても、陰で同僚たちと、どんな愚痴を叩いているか分からないからだ。
特に、彼女達のような使用人の職に就いている者達は、横の広がり・繋がりが長くて深い。下手に悪評が出回るのは避けておきたかった。これでなかなか気を遣うものだと、少年――ティムは内心でこっそりと嘆息する。
最近はやり出した羽根つき帽子を胸に抱き、少女がうっとりと微笑んだ。腹で何を考えているかは知れないが、纏った雰囲気から察するに、悪い物では無かろうとティムは判断する。そして、自分の『仕事』はそれで十分であった。
喜びはしゃぐ彼女をエスコートし、近頃若い女性に人気のティー・ルームへと案内する。
店内は明るく清潔で、客層も華やかな装いのご婦人方が多く見られる。男性同伴でなくとも、食事を気軽に取れ、茶を楽しむ事が出来るこの様式。この店の出資者は誰であろう、ゲルンボルク商会――すなわち、ティムの主である山賊顔の大商人である。
窓側の席に彼女を案内したのち、背後に気配を感じてそちらをちらり、と伺う。見慣れた顔の少年がウキウキとした様子で店内へ入ってきたのを確認し、ティムは紅茶と軽食を注文した。
「へぇ、そうなんだ。そういうものなんだ? 大変なんだねえ」
「そうなのよ。奥様ったら、最近はますますご機嫌を悪くなされて……もう、たまんないわ」
つん、と。お澄まし顔で苦労を語る少女に、ティムは苦笑を堪えて真摯に接した。
聞き役になるのは大事である。さりげなく大変だね、辛いね、と頷きを返してやれば、彼女の口は歌劇場の女優もさながらに高々と不満の声を奏で始める。
ひとしきり話を聞き、宥めておだて、少女を別れた時にはもう、日が傾き始めていた。
『デートのお相手』を乗合馬車に乗せて送り出したのち、ティムは疲れたように大きくため息を吐き出した。
「いやぁ、大したものだね! 君の将来はあれかな、女泣かせの魔性の美青年とか!」
「止して下さいよ、坊ちゃま」
後ろから聞こえた、甲高い声に辟易しながら振り返る。
人好きのする笑顔で、ニコニコと串焼きを食む少年――フェイル・セルデバーグがそこに居た。
というか、また何かを喰ってるのか。さっきも散々に店でたらふく腹を満たしたろうに。
「肉は別腹さ」
「太りますよ」
とはいうものの、彼の体格は決して肥えてはいない。節制を旨とし、お堅い服を着こなしてみせるのがエルドナークの作法であるが、彼もまた何か特別な鍛錬でも積んでいるのだろうか。いつもいつも、暇さえあれば何かを口にしている彼を思うに、とてもそうは見えない。
「ティムも食べる? この串焼き、中々に美味だ。唐辛子のぴりりとした辛さが癖になるよ。もう一本食べようかな。それとも別のにしようかな。どう思う?」
「どうもこうも」
このお貴族様と来たら、大変に庶民的でいらっしゃる。ティムと同年代か僅かに下に見えるが、気さくで偉ぶらずどんな場所の、どんな人種とも食を通じて仲良くなってしまうのだ。この間など、少し目を離したら貧民の少年たちに混ざってカエルの丸焼きを食していたから驚きである。意外に可食部位が少ない等と、文句を言っていたのは記憶に新しい。
「あぁ、羨ましいな。ゲルンボルク夫妻が羨ましい。今晩は、どんな美食を楽しむのだろう。ルスバーグ公爵家の正餐会は、僕もまだ参加した事が無いのに」
「旦那たちは気が気じゃないと思いますけどね」
妙に心をせかせた様子の雇い主を思い出し、ティムは少し心配になる。
ウィンダリア子爵家のカントリー、そしてハインツ男爵家のタウンハウスへ行ってからというもの、少し彼の様子がおかしいのだ。 妻を見る眼差しに、切々としたものが混じっている。常ならぬ様子を他人に悟らせるなど、全く持ってアーノルドらしくも無い。
「そういう君は主人想いの良い使用人だよ。うちのにも見習わせたいね。折角の休日を使ってまで、ああやって情報収集に勤しむわけとは」
「別途、給金は貰ってますし。これも仕事のひとつですよ」
そう言って、ティムは馬車が残した轍の痕を、じっと見つめる。
「しかし、見事な手練手管だ。あの娘も帽子を買うだけで、あんなにも喜ぶものかね」
「彼女達にしてみれば、自身を可愛らしく着飾るのは、何よりの楽しみらしいですから」
フェイルがそう言うなら、彼女が満足してくれたのは間違いないだろう。ホッと胸をなでおろす。
メイドの給金の使い道については、マリーベルから良く聞いている。大貴族の屋敷で働くゆえに、比較的懐が温かくなるとはいえ、贅沢は出来ない。身の回りの物品を買い揃えたり、失職した時に備えて貯蓄したり、何よりも家族に仕送りをしたり……
ただでさえ男性使用人よりも一段給金が下の身である。手が届きそうで届かない。欲しいけれど、買えば懐が寒々しくなる。そういった迷いを晴らし、口を軽くさせる方法は心得ていた。
「けれど、なんだねえ。あんなんでいいのかな。レーベンガルド侯爵家が雇うメイドも質が悪い。君の手法が鮮やかなのを差っ引いても粗末なものだ」
「相当に不満が溜まってるみたいですね。あちらの雰囲気は大分悪い。特に夫人の激昂具合は日に日に勢いを増しているとか。社交にもろくに出られず、屋敷に押し込められているとなれば、そうもなるのかもしれませんけど」
普通、ある一定以上の家格の貴族は、それなりに年のいった熟練の使用人を雇うものだ。中流階級層と違い、華やかで愛らしい女性をはべらかしたり、人に見せびらかしたりする必要はない。だというのに、レーベンガルド侯爵家の女性使用人は年若い者達が多いらしい。無論、体力面からいえばそれも間違った選択ではないのだが。それにしても口が軽すぎるとは思う。
「まぁ、あまりのめり込ませすぎないように注意しなよ。グサリ、と刺されてからでは遅いからね。さしもの僕も、友人の惨殺死体を見るのは食欲が落ちる」
「失せる、とは言わないんだ……」
「そりゃ無理だ。天地が逆さにひっくりかえってもあり得ない。僕から食の興味が喪われる時は、この世が終わる時だね」
「へえへえ、そうでございますか」
付き合っていられないと、ティムは首を振って歩き出す。
「おっと、待ちたまえよ。全く、主人に似てつれない男だ」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
「お、嬉しいのか。嬉しいんだね。そういう味がするよ。そんなところが、ミスター・ゲルンボルクとそっくりだ」
心を探られるようで愉快な気持ちではないが、アーノルドと似ていると言われるのは、素直に嬉しかった。
ぶっきらぼうで強面、いつも妻に振り回されているような男であるが、その手腕と才覚は素晴らしい。
『――紳士が担保とすべきは誇りと信念、それだけさ』
初めて会った時の、あの言葉。それは今でもティムの中で支柱となり、道しるべとなっていた。
彼は約束を守った。男の誓いを果たした。救貧院の仲間達も病から回復し、生活が向上。たまに様子を見に行くが、彼らもまた現状に感謝している事は明らかだ。それも全て、アーノルドのお蔭である。
(口には出さないけどね。あの人、案外と照れ屋だし。いい年して、そんなだからマリーやアンにからかわれるっていうのにさ)
けれど、そんなアーノルドだからこそ。仕える甲斐があるというものだ。
誰にも言わない。あの女主人にだって、幽霊メイドにだって言えやしない。彼に密かな憧れを抱いていることなど。
いつか自分は、あんな風な男になりたい、と。そう夢見ていることなど――
「幸せ者だねえ、ゲルンボルク夫妻は。君のような忠実で誠実な男を雇えるとは」
「気持ち悪い褒め方をしないでくださいよ。変な物でも食べました?」
「そりゃいつものことだ、何を今さら言うか」
「無敵の返しをせんでください!」
軽口を叩き合いながら、通りを練り歩く。途中、協同組合のストアが目に留まり、ティムはそこを覗き込んだ。
まだ少し、時間はある。流石のマリーベルも、今日ばかりは緊張をしているはずだ。何か彼女の好物を買っていこうか。
元が労働者階級出身らしく、貴族の女性らしくない少女。いつも明るく朗らかで努力家で、奇矯さを差っ引いても健気と評して差し支えない彼女。
そんな少女夫人がここの所、より一層に輝き、美しく可憐になったように思うのは、恐らく気のせいではあるまい。
(マリー、嬉しそうだったもんな。幸せそうだもんな)
内に秘めた恋心が叶い、相手にはそれを受け止めるだけの度量がある。
それは多分、アンが言うように素晴らしいこと、なんだろう。
姉のように思う彼女が、幸福になってくれるのは嬉しい。あの人に不幸は似合わない。
いつだって、あのお日さまみたいに笑って欲しいと、そう願っている。
「……羨ましいね」
「え?」
ふと、フェイルが眩しそうな物を見る目で、こちらを眺めているのに気付く。
常と違う、妙に素直な眼差しに、ティムの方が戸惑ってしまった。
「あれだ、あの屋敷は。君にとっては帰るべき場所なのだろうね。あの夫妻とメイドは、君にとって掛け替えのない大事な存在なのだろうね」
その言葉は、恐ろしくスッキリとした心持ちと共に、胸の奥へ、すとんと落ちた。
いつかのあの日、皆で並んで歩いた川辺を思い出す。夕焼けの朱い光に導かれるように、四人で笑い合って進んだあの道、あの情景。今でも、幸せな記憶と共に思い出せる。
そう。自分にとって、彼らは家族だ。
既に一度失い、手から零れ落ちた絆と想い。
救貧院の仲間との繋がりとも、また違う関係。
充実した日々。胸の奥を暖めながらも、、時々ティムは、どうしようもない切なさを覚える時があった。
いつか、また。終わりが来るのではないか。母が死に、父が自分を捨てた、かつての記憶。
それは今なお消えぬ傷痕となって、胸の中に燻っている。
だから、ティムは思うのだ。この日々を、彼らの幸せを守る為ならば、自分はどんな事だってするだろう。
盲信では無い。これは決意だ。幼くとも、自分は男なのだから。紳士を目指すと、誓ったのだから。
「――ん?」
「どうしたんだい?」
「いや、あそこに、今……」
いや、気のせいか。そんな筈は無い。
心臓が一瞬、嫌な音を立てて軋んで跳ねた。
「ティム?」
「あぁ、いえ。大丈夫、見間違えですよ。何でもない」
「見間違え? 君が? そんな筈はないだろう。だって、君は――」
「いいから、行きましょうよ。早く帰ってアンにパイを焼いてもらいましょう」
店先で蜂蜜の瓶を購入し、それを受け取るなりティムは歩き出す。
「パイか! いいね、いいね! 彼女の料理は本当に絶品だからなあ。僕の口に良く合うんだよ。あの味付けは真似できないと、前から思っていて……」
まるで昔馴染みであるかのように、そんな事を囀る彼を横目に、ティムは歩き出す。
先ほど見た『姿』が、頭から離れない。
そんな筈は無い、あり得ない。何かの間違いだ。
あんなギャンブル狂いの生活破綻者、とっくに野たれ死んでいるはずだ!
(そうだ、見間違えだ。そうに決まってる。オイラの目の錯覚だ。そうだ、それ以外無いじゃないか)
――こんな所に、あの男が……父が、居る筈は無い。
ひりつき始めた喉を潤すように唾を飲み込み、ティムは『我が家』へ向かって足を速めた。




