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105話  奥様の異変


 舞踏会にて目指すべき成果と成功を収め、ゲルンボルク夫妻が必要としたのは、ひとまずの休息であった。

 通常のそれと同様に、午前四時頃まで続けられた夜会。口も手も足も使いに使い、くたくたにくたびれた。最低限の処理を終えた二人は、まさしく泥のように眠り込んだ――のだったが。

 

「お、おはようございます、旦那様」


 アーノルドが食堂に顔を出すと、妻はいつも通り、既に食事の支度を終えていた。


 が、その表情も仕草も、どうにも常とは異なる。何処かソワソワとして、落ち着かない様子を見せていた。

 顔が僅かに紅い。瞳も潤んでいるように思える。熱でも出たかと心配したが、どうもそうではないようだ。

 

 舞踏会では終始艶めかしい笑みを浮かべ、蠱惑的な振る舞いを見せていたマリーベル。

 だが今の妻は、まるで魔法が解けたかのように、妙に幼く可愛らしく思えた。

 

「お、おう」


 だからか、アーノルドもまたそう返す他は無い。

 何ともいえない間が空く。アーノルドが頬を掻くと、マリーベルは俯き、両の指先を絡めて震わせる。

 時々、チラチラとこちらを見上げるその視線が、どうにも面映ゆい。というか、照れ臭くて仕方がない。

 その原因がまるで分からず、アーノルドはわざとらしく、咳払いをしてしまう。

 

「お、お食事……食べ、ますか?」

「あ、あぁ……」


 いつもなら、我先にと料理を皿に盛り付けるというのに、マリーベルは動く様子を見せない。

 それどころか、恥じらうように食器に目を落とし、ほう、と息を吐く始末だ。


 ――妻がおかしい。おかし過ぎる。 


 いつもの食事の、半分以下の量。それも恐ろしく慎ましやかな作法マナーで食した時には、医者を呼ぼうか迷ったほどである。

 何かが変だ。尋常ならざる事態が起こっている。

 アーノルドの疑問と混乱は、徐々にせり上がり、前代未聞の領域に達しようとしていた。

 

「じゃあ、行って来る。夕食までには戻れると思う」


 後ろ髪引かれる思いはするものの、商会へ顔を出さないわけにはいかない。

 しかも今日は、役員を集めての会議が在るのだ。

 様子のおかしい妻を頼むと、ティムやアンへよくよく言い含め、アーノルドはフェイルを伴い、玄関口に立つ。


「旦那様……」


 見送りに現れたマリーベル。その眼差しに寂しさと切なさが入り混じっているように思えるのは、気のせいだろうか。

 

(何だってんだ、全く。俺もどうかしてるぜ。コイツの一挙手一投足に慄き震えて、情けねえったらありゃしねえ)

 

 迷いを振り切るようにして、アーノルドが妻に背を向けようとした、その時だった。

 

「な……!?」


 とん、と。床を蹴る音と共に、唇に、柔らかな感触が走る。

 不意を打ったように目の前で揺れるストロベリーブロンドの輝きに、アーノルドは目を奪われた。

 

「お帰りを、お待ちしております――あなた」


 掠れたような声。それだけを言うのが精いっぱいだったのか。

 マリーベルは顔を手で覆い、パタパタと音を立てて走り去ってしまった。

 

 その顔が、耳まで赤くなっていたのを、アーノルドは確かに見た。見てしまった。

 今しがた起こった事が、信じられない。夢かうつつか、幻か。へたりこまずに済んだのは、僥倖であったろう。

 自身の唇へそっと指先を触れさせながら、アーノルドは魂が抜けたかのように、遠ざかる妻の背を見つめ続けた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「やっちゃったー!! あぁもう、やらかした!」


 自室に戻った奥様は、ベッドに顔を埋め、 バタバタと足を動かした。

 淑女の欠片も見当たらない、はしたない動作。しかし、そんな事を気に掛ける余裕など、今のマリーベルには存在しえない。

 

「あらあら、まぁまぁ。とても素晴らしきものを見せて頂きましたわ。これが眼福、というものでしょうか。とても尊く、胸が熱くなる光景でしたわ」

「消して! 記憶から除けて! 言わないで!」


 うっとりとしたアンの声が、耳に染み込んでゆく。恥ずかしい、恥ずかし過ぎる!


 大体、見送りなんていつもの事だというのに、今日はどうした事だろう。

 旦那様が出かけてしまうのが、どうにも切なくて寂しくて。

 気が付いたら、唇を押し付けていた。

 

(しかも、何!? あなた……ってなに!? 二人きりの時に、そんな呼び方しなかたのにぃ!)


 舞踏会の時は、ある種の魔力に当てられたか。もっと素直に、もっと純粋に好意を打ち明け、話が出来たのに。

 一晩を過ぎたらこうである。情けなさ過ぎて、どうにかなってしまいそうだった。

 

「変な顔してた! 絶対におかしいと思われた! あぁもう、私の馬鹿! どうしてあんな事を!」

「きっと、お喜びになっていらっしゃいますよ」

「そんな事、ある!? もっと淑女らしく、こう! じっくりと淑やかに距離を詰めて、旦那様の愛情を向けさせようと思ったのに!」


 性急は事を仕損じる。まして、真っ向からの恋愛感情とか、恐らくは旦那様の苦手分野の筈。

 だから、彼が好むような乙女的な甘ったるい演出をジワジワと重ね、徐々に気持ちを積んで行こうと思ったのに。

 恥ずかしさが極まって顔を覆って逃げ出すとか、どうなのだ。

 淑女失格どころか、出禁ものである。恥の極み!

 

「それは概ね、成功なさっているかと。ご主人様の好みを、真正面から撃ち抜いたかと思われます。それに今朝のお食事の際も、ほら。相当に我慢なさったのでしょう?」

「うん、それはそうだけど……」


 そう、そうなのだ。今朝はいつもよりずっと少ない量しか食べられなかった。

 淑女的な行為がどうこう、というだけではない。急に、あらゆる全てが気になり始めたのだ。

 食器の使い方、食し方、何もかもが、どう見られているか。

 

 つまるところ、あの大食いをアーノルドにどう思われるかが、気になって気になって仕方が無くなってしまった。

 

「あ、呆れられたら、変に思われたら、どうしようって、そう、思っちゃって……」

「まぁ」


 顔が熱い。胸がどきどきとする。

 何だこれ、何なのだこれ。

 こんな感情が恋なのか。こんなにも切なく苦しいものが、愛なのか。

 

(恋愛小説に出てくるご令嬢方は、もっと煌めくような恋心に想いを馳せて、夢見るようにうっとりとしていたのに……)


 なのに、現実はこうだ。それとも、マリーベルが特別変なのだろうか。

 男爵家に居た頃、メイド仲間が恋の話題にきゃあきゃあと悲鳴を上げていたのを思い出す。

 皆、楽しそうに逢い引きの相談とか、恋文の出し方で騒いでいた。

 

 少なくとも、今のマリーベルの様にはなっていなかったように思うのだ。

 

(後から後から、余計な事ばかりを考えちゃう。他にも、もっとしなけりゃいけないこと、たくさんあるのに!) 

 

 ――舞踏会を終え、屋敷に帰ったその日の事を思い出す。あの時、マリーベルの頭は色々な意味で混乱状態にあった。

 初めて自覚した恋心、有力貴族とのダンスで得た縁。次の社交に向けての準備。

 更に、あのラウル・ルスバーグからもたらされた、謎めいた忠告。

 夫と共に、得た情報を色々と整理しながら、ふらふらの体でベッドに横たわり、うとうととしかけた、その時だった。

 泡末のごとく、ふと、脳裏に疑問が思い浮かんだ。

 


「――旦那様、私の事をどう思っているんだろう……?」



 愛情はある。それは間違いないだろう。好意だって十分に存在している。それくらいは分かる。

 しかしそれは、夫婦間にあるべき形のものなのだろうか。

 父親が娘に、とか。兄が妹に、等の家族間の親愛の情のようにも思える。

 

 

(あれ? 思い返せば、私。あの人に恋してもらうような事、していないんじゃ……?)


 初対面の時から、印象は最悪の分類に入るのではないか。記憶を手繰る度に、冷や汗が零れ落ちてゆく。

 詐欺だなんだと騒ぎ立て、初夜で押し倒し、服を剥ぎ、食事をバクバクバクと思い切り平らげて。


「うわ、うわ、うわぁぁ、あ……!」


 マリーベルはその時、己の為した所業に恐怖し、ベッドの中でもだえ苦しんだ。

 もう、何処かへ消えてしまいたい。

 こんな女に恋愛感情を抱けとか、無理な話ではなかろうか。そんなの嫌だ、どうしよう!

 今となっては、あの人以外を愛する事など、不可能だ。彼がいい、アーノルドがいい。旦那様以上の男性なんて、あり得ない!

 

 そう思ったら、もう気が気では無かった。

 愛されるために愛したわけではない、とフローラから耳にした事があるが、マリーベルは未だその境地には至っていない。

 愛されたい、好まれたい。頭からてっぺんまで、全部の全部をマリーベルのものにしたい。独占したい!




 ――と、まあ、そんな風に。欲望と理性の間で、奥様は揺れに揺れ動いていたわけなのである。

 

「まぁまぁ、奥様は欲張りさんですねえ」

「だって、好きになるなんて思わないじゃない! ()()私が、男の人をだよ!? こんなにも大好きになるなんて、普通に考えてあり得ないもの!」


 そう否定はするものの、後から後から思い浮かんでくるのは、愛しい夫の姿ばかり。


 低く響くような声が好き。

 強面ではあるものの、歩んで来た人生が刻まれた、凛々しいお顔が好き。

 皮肉気でありながら、その実、誰よりも情の深い優しさが好き。

 どんな時でも頼れる心強さと商才、悪知恵さえ回る頭の良さが好き。

 

 好き、好き、大好き! もう想いが溢れて零れて、止まらない!

 

 傍に居たい、ふれ合いたい。大好きって伝えて、睦み合いたい。

 なのに、アーノルドの気持ちを知るのが怖い。想いを伝えて、どう思われるのか、考えただけでゾッとする。

 

 ――こんなにも、自分は弱くて、情けない女であったろうか。

 

「……そろそろ準備を――って、まだ駄目?」

「今まで押さえつけて来た分が、あふれ出してしまわれたようで。もう少しお待ちを」

「難儀だねえ。ようやくここまで来たのかって時に」

「ふふ。ティムさんも、恋をすればお分かりになりますわ!」

「そういうものかねえ。でもさ、何だか面倒くさくない? 後腐れない関係の方がオイラは好きだなあ」


 扉の向こうから声が響く。部屋に閉じこもったマリーベルを心配し、ティムが声を掛けにやってきたらしい。

 それを耳にして、マリーベルの体がなお、一層のこと熱くなった。

 

「アン、アン?」

「なんでしょうか、奥様?」

「あの、ひょっとして……だけど」


 それを認めるのが、何だか怖い。恐ろしい。

 

「皆、私が旦那様の事を、す、好きだったって……知っていたの?」


 恐る恐ると呟いた、その言葉に対し、幽霊メイドから向けられたのは、生暖かささえ感じる、優しい視線。

 千の言葉より、如実に物語るその眼差しに、マリーベルは涙混じりの悲鳴を上げる。

 掘って掘って、掘り切って、特大の穴の中に入ってしまいたい。かつてない恥辱が、少女の脳天を揺るがした。

 

「奥様、お気を確かに。まだ挽回は出来ますわ。女主人としてのお仕事を全うし、ご主人様のお気持ちをもっと、もっと確かなものに固めてしまいましょう。この機を逃してはなりません」

「そ、そうねっ! やるべき事もいっぱいあるし!」


 そうだ、へこたれてはいられない。社交のお仕事、立ち向かうべき相手への準備。

 すべきことは、幾らでもある。そう思うと、ふつふつと闘志が沸きあがって来るから不思議である。

 恥ずかしさも何もかも、ポイッと捨てて消し去った。マリーベルは楽観思考ポジティブな奥様なのである。

 

 陰謀悪徳、何でも来い! 

 片っ端から打ち砕いて、富も名誉も愛も、全て自分のものにしてやるのだ!

 

 拳を突き上げ、決意表明。欲深令嬢の執念を舐めるな。決して妥協などしてやらない。

 燃え上がる熱意に身を焦がす少女の姿を、幽霊メイドは微笑ましそうに見守るのだった。


次回は明後日、6/29(木)に更新いたします!

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