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102話 夢のようなひとときです


 煌めくシャンデリア、歴史を感じさせる、数々の豪奢な装飾品。

 見目も麗しい淑女に、落ち着いた物腰の紳士達。

 それらのどれもが霞むほどに、舞踏会中の視線は、一点に集中していた。

 

 舞うように踊るのは、一組の男女。

 ハッとする程に美しく可憐な少女と、相反するかのように厳つい顔立ちの大男。

 美女と野獣という言葉がしっくりと来るほどに、一見して何もかもが似つかわしくない二人。

 けれど、彼らが踊り出したその瞬間に、それが誤りであると、誰もが気付く。

 

「おぉ……」


 それは、だれが零した溜息か。

 茫然としたように、人々は『彼ら』に見入る。

 

 情熱的で、艶やかなターン。仕草動作の一つ一つに、これ以上ない程の想いが込められていた。

 何よりも、衆目を惹きつけて離さないのは、女性側の表情。

 

 至福、恍惚、慕情、あらゆる正の感情が織り交ぜられた微笑みは、この世のものとは思えない程に美しかった。

 誰もが分かる。少女がどれ程の愛情を、目の前のパートナーに抱いているのかを。

 手を取り、くるりと回転し、頬と頬が寄せ合うたびに、零れ落ちる切なげな吐息。

 男の方もまた、そんな妻が愛しくて愛しくて仕方が無いというように、手つきも何もかもが情熱に溢れていた。

 

 まるで、離れ離れになった恋人同士が、時を超えて再会したかのような、その光景。

 居並ぶ紳士・淑女の誰もが、時を忘れたように踊る手足を止めている。まるで、歌劇場オペラの観客になったかのようだ。この場に集う者達は、誰もが百戦錬磨の上層上流階級層ハイ・アッパー。恋に溺れ、愛に身を委ねた者達を、山ほどに見慣れたろうに、この始末。


 そんな視線をものともせず。自然と、二人の姿はダンスホールの中央部へと躍り出た。

 周囲から人々の姿が、まるで波を引くように失せ、空白の地帯が生まれる。

 ステップを踏むたびにストロベリーブロンドの髪がサラサラと揺れてなびき、光に照らされて神々しく輝いた。そうしてそれを一房手に取り、男がそっと口付ける。途端、少女の顔が蕩けるような愉悦にほころぶ。

 まさしくそれは、二人だけの世界。神話の中から抜け出たかのような姿に、誰もが時を忘れたかのように見惚れていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 マリーベルは今、幸福の絶頂に居た。

 心から愛しいと思える人が目の前にいてふれ合えて、しかもその人は自分の夫なのである。

 

 いかつい顔も、何もかもが愛おしくて素敵で素晴らしい。

 まるで、魔法に掛けられたようだった。

 ただひたすらに、うっとりとした眼差しで、マリーベルは己の伴侶に見入る。

 

 ――私を見て、私だけを見て。離さないで、ずっと傍に居て。

 

 声には出さず、吐く息と添えた指先、熱を孕んだ視線で示唆する。

 

 本当は、もう。ずっと前から気付いていたのかもしれない。

 けれど、入れ込み過ぎて自分を失ってしまいそうな事が怖くて、見ないふりをしていた。

 目を、背けていた。

 

(でも、それも――もうおしまい。覚悟してくださいね、旦那様)


 自分は欲が深い。こと、愛情に関しては底なしだ。

 求めて求めて、求めすぎてしまうかもしれない。

 それが恐ろしくて、堪えていたのだが、解放してしまったのはアーノルドだ。

 責任は取ってもらわなければ困る。

 

 彼が自分をどう思っているかは分からない。

 けれど、節々から感じる言葉と行動の裏には、確かな情があるのは事実。

 

 それは年下の、妹に与えるそれなのかもしれない。

 なら、それでもいい。振り向かせてみせるし、夢中にさせてみせる。

 

 彼の何もかもが欲しい。欲しくて欲しくて、たまらない!

 

 夢に浮かされたように、マリーベルは踊り狂う。

 ここが人前で無ければ、そのまま抱き付いてしまったかもしれない。

 

 これが恋か、これが愛か。

 甘い、甘い酩酊感。足元がふわふわとして、落ち着かない。

 

 体も心も全てが溶けて、彼と入り混じってしまいそうな錯覚を覚える。


「旦那様……」


 夫にだけ聞こえるようにそっと呟くと、アーノルドは応えるように腰に手を添えて顔を引き寄せた。

 

 涙が出て来そうだった。傷も何もかもが気にならない。

 こんなにも幸福で良いのだろうか。

 

 胸を突きあげる衝動を必死で堪えながら、マリーベルは夫と二人、夢見るままに踊り続けたのだった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ひとしきり踊り終え、マリーベル達は喫茶室へと向かう。

 王太子殿下との歓談は、もうしばし後の予定だ。頃合いを見るまで、時間を調整する必要があった。

 握手と共に声を掛けてくる人々へ応対しつつ、二人は部屋へと足を踏み入れた。

  

「――やぁ、ミスター。随分と情熱的なダンスだったね。こちらまで当てられてしまいそうだったよ」


 ゲルンボルク夫妻を出迎えたのは、まるで、親しい友人に語り掛けるような声。

 琥珀色の液体が入ったグラスを手に、ラウル・ルスバーグが愉快そうに笑っていた。

 

「ラウル・ルスバーグ閣下。お目に叶ったようで光栄ですね」

「堅苦しいな、君は! 先ほどまで、愛情たっぷりの眼差しを送っていた君は何処にいったのやら」

「貴方に送る必要はないでしょうに」


 虚空にぶつかり合う視線と視線。

 仲が良いのか悪いのか。皮肉気な笑みを含んだまま、二人の男は互いに向き直る。

 

「しかし、見事なものだ。王宮での活躍は聞いているよ。人形遣いに一泡吹かせたそうじゃないか」

「全ては妻の手柄です。私は何もしてやしませんよ」

「謙虚なものだ。しかし、奥方はそうは思っていないのだろう?」


 そこで水を向けられ、マリーベルはゆっくりと淑女の礼を取った。

 

「ええ。仰る通りですわ。夫あっての私ですもの。私を身も心も満たしてくださる、掛け替えのない人ですわ」


 再び夫の腕を取り、マリーベルは甘えるように頬を寄せる。見上げた眼に映るのは、困惑気味な愛想笑いのお顔。あぁ、もう可愛らしくてたまらない。旦那様は本当に素敵だ。マリーベルがうっとりと体を擦り付けると、愉快そうな笑い声が響き渡った。

 

「君たちが羨ましいよ! 僕は、この場に瑠璃を連れてこれないのだから、不満が溜まっているというのに!」


 瑠璃。ラウルに仕えるメイドで、探偵事務所で秘書のような役割を担っている少女の名だ。

 マリーベルは未だに面識はないのだが、夫から聞いた話から察するに、中々の女傑であるらしい。

 

「そういう貴方も、随分と色んなご令嬢と踊っていたではありませんか」

「あれは礼儀というものだよ。ご婦人レディ方の心を慰めるのもまた、僕の務めというものさ」


 揶揄するようなマリーベルの言葉に対し、気取った風に手を広げる、自称名探偵。

 相変わらず、何を考えているのか掴みにくい男である。

 

「さて、ところでどうだね、ミスター? 君は霊廟に行ったのだろう?」


 突拍子もなく飛び出した言葉に、マリーベルは目を瞬かせた。

 霊廟。それは、彼の古城の地下通路の奥にあるという、古の墓標。選ばれた者のみが入所を許可されると、そう聞いている。


 シュトラウス伯爵の案内で、アーノルドはそこに足を踏み入れたらしいが――

 

「どう、とは?」

「何かを感じなかったかということさ。記憶に混濁は無かったかい? 懐かしき光景が脳裏をよぎるような事は?」


 矢継ぎ早の質問に、流石のアーノルドも訝しげな表情を見せた。しかし、それを気にもせず、ラウルは事もなげに言い放つ。


「――前世を、思い出しはしなかったかと、そういうことさ」


 不意に、マリーベルの胸が奇妙に疼いた。

 前世、過去の自分。転生者。

 

 

『あなた達も、そうなのかしら? 知ってるわよ、あの坊やが執心の理由。それが真実、本当ならば――』



 レモーネ・ウィンダリアの発した言葉が蘇る。

 そうだ、彼女の言っていた『あの坊や』とは、まさか。

 

「貴方は……何を知っているのです?」

「君たちが覚えていない、何かを、さ。マリーベル・ゲルンボルク嬢」

「私はアーノルドの妻です。その呼び方はお止し下さいませ」


 抗議を込めて睨み付けてやるが、ラウルは肩を竦めて笑うのみ。

 マリーベルがますます不信を募らせていると、彼は何かを堪えるような表情で、ゆっくりと天を見上げた。

 

「――奇跡が、自分にだけ与えられたものなのか、そうでないのか。その答えを、『俺』はずっと探しているのだ」


 口調が、変わる。

 シャンデリアの輝きに照らされたラウル・ルスバーグの顔が、まるで別人のように見えた。

 

「……王太子殿下は」


 訝しむマリーベルを庇うように前へと立ち、アーノルドが口を開いた。

 

「俺の過去世が、王家に縁のあるものだと言った」

「ほう?」

「時々、聞こえる奇妙な声。覚えのない景色に、懐かしい人々の顔。それが何だか、アンタは知っているのか」


 声を潜め、アーノルドは言い放つ。

 周囲に人の影は無い。みな、遠巻きにこちらを見ているだけだ。ゆえに、だろうか。マリーベルもまた、夫の口調を咎めようという気が沸いてこない。

 そればかりか、彼の発した疑問は、自身にも思い当たるものがあったのだ。

 

 アーノルドと出会ってから、節々で感じる情景。

 メレナリス男爵家に行った時など、それが顕著であった。温厚そのものの男爵夫妻を見た時、マリーベルが幻視したもの。


 あれは、『祝福』の残り香めいたものが共鳴したかと、そう思ったのだが――

 

()()()()()か」

「なに?」

「いや、非常に有難い。興味深い。やはり、そなた達こそが俺の待ち望んでいた症例だ」


 何処か狂気を孕んだ瞳で、ラウルはうっとりと呟く。

 

「前世を持つ者は、俺の知る限り三通りに別れるようだ。初めから記憶を持つ者、中途で思い出す者、そして――」


 ラウルが、視線をこちらへ投げかける。

 

「――仄かに、魂の奥に紛れ込む者。過去と現世を切り離して認識する者」

「それが、俺だとでも言うつもりか」

「そうであれ、と願っているのさ、ゲルンボルク夫妻」


 愉快そうにグラスを傾け、ラウルは嗤う。

 

「『悪魔』に気を付けたまえ。悪意とは案外、君たちの身近に潜んでいるものだ」

「何だと? 言葉遊びも大概にしやがれ」

「探偵が謎掛けをするのはルール違反かな。だが仕方ない。これ以上は言えないからね」


 けれど、と。ラウルは気障に指を振らして見せた。

 

「間もなく、全ての謎に答えが用意されるだろう。僕が望んでやまないものも、また。その時を、楽しみにしているよ」


 いつの間にか、口調を普段通りのそれに戻し、侯爵家次男は優雅な仕草で踵を返した。

 

「そろそろ戻らないかね? 君たちとダンスを共にしたいという紳士・淑女の皆々様がお待ちかねだよ。光輝く舞台の中で、ゲルンボルク夫妻が祝福の声を賜るその光景を、とくと見物させてもらおうかな」


 知らず、ごくりとマリーベルが唾を呑み込む。

 浮かれた想いが、何処かに消えていってしまいそうだ。

 全くこの男は、会うたびにロクな事をしない。

 

 前世だか何だか知らないが、この想いを否定させてたまるものか。真実の愛か、運命の恋か。そんなものがあるかどうかさえ、どうでも良い。


(そう、そうだ。今の私は、ただーー)


 胸に宿った慕情を逃さぬよう、マリーベルは夫の腕をしっかりと抱きしめるのだった。

 

 

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