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100話 決戦前夜に想いを馳せて……


「いやぁ、夫人の焼くビスケットは美味だねえ。何枚でも食べれるよ」

「少しは遠慮しろ」


 ダイニングルームに響く喝采の声。

 言葉の通り、次から次へと口に焼き菓子を放り込む少年に、アーノルドが白い目を向けた。


「ったく、朝から晩まで手伝いもせず、ただひたすらメシを喰い散らしやがって。とんだグウタラぷりだな、ええ?」

「貴族というのはそういうものだよ。ここは煩い家庭教師も居ないし、まさに天国だねぇ、ミスター」


 無駄に優雅な仕草でカップを口に運び、紅茶の味と香りを楽しむその姿に、さしもの大商人も脱力するばかり。

 人を喰ったようなその態度。けれどまぁ、健啖なのは良いことである。

 マリーベルはとりあえず菓子を、ほいさほいさと追加する。

 

「おっと、今度は何だい? これはチーズの輪通し(セプルテン)じゃないか。アストリアの料理だよね、これ。『アストリアの料理人』に記載されたレシピだ!」


 少年――フェイル・セルデバーグが喝采を挙げた。流石は美食伯の子孫。目聡いものである。

 皿の上に並んでいるのは、輪っかに括られ纏められた、棒状の焼き菓子。

 チーズ・ペーストで作ったリングの中に、同じ生地で作ったスティックを数本、差し込んだものだ。マリーベルの新作料理である。


「アストリアで名を馳せた美食伯爵の名前から取られたんだったよね! いやぁ、美味い! カリッとサクッとした食感! 芳ばしいチーズの味と香りがたまらないね!」


 ひょいぱく、ひょいぱく。気持ち良いくらいの食べっぷり。これにはマリーベルも呆れを通り越して感心してしまう。

 

「本当に美味しそうに食べますねえ。作る甲斐もあるというものです」

「実家の食事も、あれはあれで良い物だけどさ。やっぱり、多種多様! 色んなもので舌を潤したいというものさ」


 フェイルの生家、セルデバーグ男爵家はシュトラウス伯爵家の縁に当たる家門だ。どちらかといえば新興の部類に入るらしく、貴族として取り立てて際立った所があるわけでは無い。けれども御三家の庇護下にあるだけあって、社交の場ではそれなりに注目をされている。

 そして、その理由の一端が、目の前に居る少年に在るのもまた事実。

 

「家の名前を高めるのに協力してるんだからさあ、もうちょっと優遇してくれても良いと思うんだ」


 女王陛下のお気に入りである少年は、そう言って首を竦めた。

 だが、その言葉には嘲るようなものも、侮蔑の色も無い。

 不思議な子だと、マリーベルはそう思う。

 

「まぁ、でも。僕だって何もしていない、ってことは無いさ。ちゃんと貢献しているよ?」


 チーズに続き、イモのプディングを実に美味そうに平らげた後、フェイルはそう言って片目を瞑った。

 

「分かるだろう、ミスター。僕がここに居るその意味を、さ」

「……まぁ、な」


 如何にも、という具合にアーノルドがため息を吐く。

 夫の態度をしかし、マリーベルは戸惑うでも無く聞き流す。

 

 『選定者』の『祝福』を覆すには、同じく『選定者』を持ってせねば抗えない。

 王室から物理的に距離を取っている今、一人でも多くの祝福持ちが必要なのだ。

 それは、他ならぬフェイル自身にとっても同じこと。

 彼が屋敷に滞在するという事は、互いの自衛と、利益にも通ずるのである。

 

 そして、大事な事はもう一つ。

 

(女王陛下のお気に入りである彼が、次期王太子妃の傍仕えとなった私の手元に居る。それは――社交の場に於いて、大きな意味合いを持つ)


 シュトラウス卿なりの、援護射撃という奴だろうか。

 明日の夜会には、フェイルも参加をする事となっている。

 年齢から考えれば、異例とも言えるそれは、彼が社交界――引いては王室の関係者たちにとって、どれだけ重んじられているかを如実に指していた。

 

 それが分かっているからこそ、夫も無下には扱えないのだ。

 とはいえ、朝から晩まで暇さえあれば何かしらを口にし続ける少年に、小言の一つでも述べたくはなるらしい。

 兄妹を持つ、長男らしい考え。彼が貴族の子息だろうと、公の場以外では言葉を改める事すら放棄している。

 旦那様らしいと、マリーベルはそう思う。

 

「明日は勝負だよ、ミスター。王都の有力貴族の耳目が、お二人に集中する。目立ちすぎているからね、分かるだろう? 少しのきずも見逃しはしないだろうね。上手くこなせば一角の地位を築き、失敗すれば真っ逆さまだよ?」

「今更脅かさんでも分かってる。それくらいは承知の上だ」

「なら、いいや。お手並み拝見、お手並み拝見」


 そう言って、フェイルはパウンド・ケーキにフォークを向けた。

 まだ食べるのかと、いかにもな視線を向けるアーノルドに気付いたか、彼は照れ臭そうに笑って言った。

 

「――ところで、正餐ディナーのメニューは何かな?」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「なんなんだアイツ。変わり者にも程があるだろう」


 寝室に戻るなり、アーノルドは疲れたような口ぶりで、息を吐き出した。

 かったるそうに脱ぎ去った、そのジャケットを受け取りながら、マリーベルはクスクスと笑う。

 

「私も良く食べる方ですが、あの子も中々のものですね」


 正餐の後、軽食サバーまで食い尽くした少年貴族の姿を思い返し、マリーベルは笑いが止まらない。


「催促に困り果てて、あれを差し出したんじゃあるまいな、ったく」


 そう言いながらも、夫の顔色は昏くない。

 何だかんだで、フェイルを可愛がっているのは目に見えて分かる。

 自分の子供が生まれたら大変だ、と。マリーベルはそう思う。

 女の子でも生まれたら、でろでろに甘やかしてしまうのではないか。

 

 一定以上の階級層では、子育て(ナース)メイドを雇うのが常だ。

 両親と子供の距離は近くなく、物理的にも明確に仕切られているのが当たり前。

 けれど、アーノルドはその方法を好まないのでは、と何となく思ってしまう。

 昨今は、家族の在り方そのものに疑問と改革の声が挙がり始めているらしい。

 

(子供好きっぽいものね。山賊顔を崩して、赤子をあやす旦那様のお顔が目に見るよう)


 そして、その傍らには、きっと。

 優しい笑みで家族を見つめる、自分マリーベルが居て――

 

「どうした? 顔が赤いぞ」

「ひゃっ!?」


 突然、目の前に夫の顔が広がり、思わずのけぞってしまう。

 「そんなに驚かなくても良いだろうに……」とかなんとか、ブツブツ言いながら、少し傷付いた表情をされる旦那様。

 顔に似合わず、これで意外と繊細な所があるのだ。面倒くさい人とも言う。

 

「体調には気を付けろよ。明日は明け方まで拘束されるだろうしな。体力も精神力も使う。英気を養って行こうぜ」


 ぶっきらぼうな口調とは真逆に、その手付きはあまりにも優しい。

 夫の手で、マリーベルは壊れ物でも扱うみたいに椅子へと腰掛けさせられる。

 

 とくん、とくん、と。心臓が跳ねて踊った。

 何だろう。前にも増して、旦那様と二人きりで居るのが落ち着かない。

 体が無意識の内に揺れてしまう。

 

 ふと見上げた目線が、アーノルドのそれとかち合ってしまい、慌てて俯く。


「あー、その……なんだ」


 面映ゆそうな声が、頭上から振って来る。

 迷うような素振りと共に、幾ばくか言葉に詰まるような間が開く。

 ややあって、固い手の平がマリーベルの頭にそっと載せられた。

 

「明日は大事な本番だが――俺は楽しみだぜ」

「え?」

「自慢の嫁さんを、皆に見せられるからな」


 思わず持ち上がったおとがいへ、不意に指が添えられた。


「あ……んっ」


 唇に、柔らかな感触が広がる。いつもより長く、情熱を含んだ口付け。

 つつっと、唾液の痕が宙に糸を引く。それが何だかたまらなく恥ずかしくて、マリーベルはそっと目を伏せてしまった。


「何も恥じる事はねぇよ。お前は綺麗だ。この世の誰よりもな」

「だんな、さま……」


 頬に吸い付くような音と共に、降る、柔らかな感触。食べられてしまいそうだ、と。熱を帯びた頭で思う。

 熱い、体が火照る。胸の内から広がりうねる炎に焼かれ、肌がじりじりと炙られているみたいだ。


 頬に添えられた手が、指先が。マリーベルの輪郭をなぞる度に、ゾクゾクとした感覚が背筋を震わせてゆく。


「貴族連中に見せ付けてやろうぜ。お前がどんだけ頑張ってきたかを、な」


 うっとりと目を細めていると、不意にぽん、ぽんと。頭を優しくたたかれた。それすらも心地良くて、切なくて。

 マリーベルはもう、どうして良いか分からず、夫の胸にもたれかかるようにして顔を伏せてしまう。

 恥ずかしくて、嬉しくて、体がポカポカしてたまらない。

 

 胸の奥に疼く、燻るような熱。

 もう少し、もう少しでそれに手が届きそうな気がする。

 身を焦がす炎の正体に、撥ねる鼓動の大元に。

 

 ――この想いの源から、もう目を背ける事は出来ないのかもしれない。

 

 背を撫でられる夫の指先の温もりに、どうしようもない狂おしさを感じながら。

 マリーベルは、眦から悦びの涙を零した。

 



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