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幕間・5


「どういう事なのですか、あなた? 何故、ハインツの娘がああも、のうのうと……」


 寝室に響く、詰るような女の声。

 よくもこう、恨み言が次から次へと口に出るものだ。妻が発する憤慨を聞き流しつつ、サウス・レーベンガルドはワインを煽った。

 

 その事がまた、癇に障ったのだろう。

 妻――エリス・レーベンガルドは、切れ長の瞳を更に吊り上がらせた。

 表情にはうんざりとしたものを作りつつ、サウスは内心で微笑んだ。

 美しい顔が憎しみに歪む様は、いつ見ても良い物だ。退廃の美とでも言おうか。

 いつもはお高くとまり、さも自分が誇りに満ちた貴族の鑑、名門侯爵家の夫人である、とふんぞり返っている女だ。

 それが一皮むけば、この通り。実に素晴らしく、愛らしい。ワインが進むというものだ。

 

 何処から何処まで表情を作り、妻の言葉をかわすか、がこの遊戯の肝要な所である。

 それが行き過ぎてしまえば、いけない。エリスは顔を真っ赤にして部屋から出て行ってしまうし、宥めが上手くいって、この顔が元に戻ってもつまらない。

 要はスリルだ。どれだけ長く憤懣を引き出し、留め、この表情を保たせるか。

 

 今のサウスにとっては、これが唯一と言っても良い慰めだ。

 余興のひとつとして楽しむには十分である。


「聞いていらっしゃるのですか、あなた!」

「あぁ、ああ。聞いている。こちらも予想外であったのだ。まさか、舞踏会を待たずして、クレアが『ああ』なってしまうとはな」


 わざとらしく鼻を鳴らし、ワイングラスを乱暴にテーブルへと叩きつける。

 びくり、と。エリスの顔が歪む。しかし、その表情に怯えの色は無い。

 元はそれなりに名の通った伯爵家の娘だ。若い頃は、社交界で大いに浮名を流したとも聞く。

 凝り固まった自尊心と、強烈な上昇志向。どれもが、サウスの好むものだ。

 だからこそ、妻にと選んだ。そして己の審美眼は正しかったと、今でもそう思っている。

 

「引き戻せないのですか? せめて、こちらの手元に……」

「無理だな。陛下直々のお達しだ。むろん抵抗はするが、上手くはいかぬ」

「なんと情けないことを!」


 エリスの怒りは、娘に対する慈悲や愛情が元になっているのではない。

 己の野望、それを果たす駒が無くなった事に対する憤り。

 とはいえ、彼女が特別に悪辣というわけでも、親の情が薄いわけでもない。

 大なり小なり、伝統派と呼ばれる貴族はこんなものだ。

 

 貴族の令息・令嬢が子育てを己の手から離す理由のひとつはそこにあると、サウスは思っている。

 家の存続と継承、そして縁故を広げるのが第一。子供など、その為の人柱でしかないのだ。

 愛情を込め、手ずから養育していたのでは、いざという時の判断を損なう。

 

(まぁ、我が侯爵家はその辺りが特殊ではあるが)


 愚かな娘、何も知らぬ夢見る姫君。

 そう育てるよう、ナニー達を選んで厳命し、長じてからも外の世界にも触れさせない。

 家庭教師ガヴァネスも侯爵家に代々仕えた者から選出したのだ。

 たまに、両親が甘い顔と声でおだてあげてやれば、それで有頂天になるような『愛らしい』娘に育った。


(ふむ? 少しは感慨というものが私にもあったのか)


 胸を掠めるように、一抹の寂しさが過ぎる。

 『目的』を果たした以上、娘はもう何の利用価値も無い。

 せいぜい、王家の目をそこに集め、警戒してくれれば十分だ。

 

 だというのに、あの顔が、声が。

 もう二度と自分に向けられないというのは、惜しいと思う。

 

 これは発見だ。大発見だ。『祝福』で視たものには、己の感情など映らない。

 胸の内に生じたそれすら愉しみに変え、サウスは再びワインを煽る。

 

 その感情が顔に出ていたのだろう。妻がますますと不満げな様子を募らせてゆく。

 

「何がおかしいのです! フローラ・デュクセンにまんまと王太子妃の座を掠め盗られ、ベルネラの娘の名が高まった! これを放置なさるというのですか!」


 そうら本音が出た。サウスは心中で嘲笑う。

 フローラがどうのこうのよりも、妻が一大事としているのは、ハインツ夫人の娘が成り上がること。

 それに伴い、ベルネラ・ハインツの名が賞賛されることこそが許せない。

 まさに蛇のような妄執。あまりの怒りに、エリスの息が荒くなる。憤懣は頂点に達しようとしていた。

 

 感情が爆発する、その間際。果実が腐り落ちる、その刹那。

 

 ――頃合いか。

 

 サウスは無言で立ち上がり、妻に歩み寄るとその肩を強引に抱いた。

 

「あ……っ!?」


 微かに、怯えを含んだ視線がサウスを射抜く。震え、掠れた声が耳に心地良い。

 怒りと困惑が入り混じった顔。こちらを睨み付ける、キッとした眼差し。

 大いに奮い立つ。欲望が溢れだして止まらない。

 

「お戯れを! お離しくださいませ!」

「その喧しい口を閉じたらな」


 途端に発せられる、貴族夫人らしい、やたらと修飾された罵詈雑言。

 胸を疼かせる罵倒を、ある程度に受け止めたのち、サウスは妻の唇を己のそれで塞ぐ。

 

 震えと共に力が抜けてゆく。恥辱に潤んだ瞳に、何かを期待するような色が宿った。

 それでも、形だけの抵抗を示す妻を愛おしく想いながら、サウスはその豊満な胸元に手を掛けた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……お待たせしてしまったかな?」

「いいや、ちっとも。待つことには慣れているからね」


 サウスが書斎へと足を踏み入れると、既に先客がそこに座していた。

 薄暗がりの中、楽しそうにカードを手に持ち広げ、『彼』は一枚一枚をテーブルの上へと放る。

 

「うん? 随分とお楽しみだったようだね。香水の匂いがこちらにまで漂ってくるよ」

「夫婦の語らいだとも。定期的にしておかねば、あれも私も昂ぶりが収まらん」

「そうかい、そうかい。仲が良いのは何よりだ」


 さして興味もなさげにカードを伏せてゆく『彼』。

 それを横目に、サウスもまた小さなテーブルの前に座し、指を伸ばした。

 戦技をモチーフにした遊戯盤。並べられているのは、幾分か盤面が進んだ駒たちだ。

 

 その一つを持ち上げ、空いたマスへと置く。

 

「しかし、意外な事だね。君が最初に視た未来図よりも、展開が早い、早すぎる」

「喜ばしい事では無いのかね。あなたにとっては、その方が都合が良いだろうに」

「程度の問題だよ。本来、彼等とは舞踏会で相まみえる予定だったのだろう?」


 それは、その通りだ。

 だからこそ、枠を拾い上げてまでゲルンボルク夫妻を招待までした。

 だが、それも無駄にはなるまいとサウスは踏んでいる。

 『彼』の問いにはしかし答えず、ゆるゆると盤面を駒で塞いでゆく。

 

 

「……レモーネの具合は?」

「芳しくはないね。使えるのは、あと一度か二度。限界は近いよ。気力だけでもってるねぇ」

「ふむ……」


 とすれば、少しの間、停滞を余儀なくされるだろう。

 『名探偵』を自称する若僧、ラウル・ルスバーグは協力的に見えて、肝心な所で邪魔をしてくる。

 愛だ何だと、聞き触りの良い言葉をペラペラと並べ立てる、軽薄な男。

 だが、たまに見せる酷薄な顔と手腕は、とても二十代の青年とは思えない老獪さがあった。

 

 誰も彼もが癖が強く、心を許せる者など一人も居ない。

 それが『同盟』だ。利害の一致のみで結ばれた同士たち。

 

「君は、あれだ。人によって見せる顔がコロコロと変わるなあ。仮面でも被っているようだよ」

「そんなものは、誰しも同じだろう。妻に見せる顔と、友人と語らうもの、そして敵と相対する表情。どれもが共通する筈もあるまい」


 正論を言ってやると、『彼』は楽しげに首を竦めた。

 

「早く早く、世の中を回したいものだ。技術を伸ばし、革命を起こし、辿り着く道を短縮したい。物事ってのは手っ取り早くなくちゃね」

「怠惰なことだ。いや、逆に勤勉であるのか」

「伝統派貴族の、君が言うかなぁ。いや、むしろ君だから、か」


 謎めいた喋り方。本心を欠片も見せないこの男が、どうにもサウスは苦手であった。

 だが、だからと言って決して嫌いというわけではない。

 『彼』は、素晴らしい世界を自分に見せてくれる。その為なら、手を汚す事など厭いもしない。

 

「あなたは自由で良い事だな。しばらくはロクに動けん。じれったい物だ」

「今回は見事にしてやられたからねえ。僕としては収穫が大きかったけど。まさか――彼女が『始まり』に達するとはね!」


 目を輝かせ、『彼』ははしゃぐように手を叩いた。


「古の『祝福』! かつての、エルドナークの始祖たる者のみが持ち得た力だ。先祖返りというものかな。弱体化が進んだ昨今の『選定者』達の中で、今のこの時代で! まさかの結果さ!」

 

 余程に意外な結果であったのか。

 『彼』の声は嬉しげに弾み、喜びを隠しきれていない。


「あの子が生まれた時は、苗代わりに使おうと思っていたのだけれど、これなら別の使い道があるね。少し予定を変更しようか。君にも視てもらいたい未来がある。いやはや全く、これが嬉しい悲鳴というやつかな」

「そのために、レモーネは随分と代価を払ったようだが?」

「見返りはするさ。約束だもの。見捨てもしないよ、最後まで。それが僕の在り方だ」


 うすら寒い笑み。背筋がゾクゾクと冷えゆくそれを、サウスは歓喜と共に受け入れた。

 

「いやぁ、本当にアレだよね。君は変わっているよサウス・レーベンガルド。僕もそれなりに多くの人間を見て来たけれど、君のように破綻と破滅を楽しむような男は珍しい」


 それも、他人だけでなく、己の末路までも含めて。

 そう呟く『彼』の表情は昏く、その声音に秘められたものがまるで見いだせない。

 

「さて、そろそろ行くよ。出来れば、もう少し話し相手になってあげたい所だけど、僕にも準備というものがある。それに、そろそろ帰らないと門限がねえ」

「忙しい事だ」

「そも、これは君に頼まれた事じゃないか。他人事みたいに言わないでおくれよ」


 そう言いながらも、彼の顔は楽しげで、気分を害した様子は無い。


(……マリーベル・ゲルンボルクも哀れなものだ。これに目を付けられるとはな)


 声には出さず、駒を淡々と動かす。

 それが別れの言葉と悟ったか、『彼』は大仰そうに礼の仕草を取った。

 

「では、しばしの別れと次なる再会を願って――」

「……あなたの望みは変わらないのか?」


 姿を消そうとした、まさにその間隙を狙って声を掛ける。

 意外な言葉であったのか。『彼』はしばし、きょとんとした顔をした後――ニッコリと微笑んだ。

 

「あぁ、変わらないよ。それが『彼女』の願いだったからね。僕の望みは未来永劫に変わらない」


 影が、その背から伸びる。

 見る間に、壁面いっぱいを覆ったそれ。揺らめく炎のような黒い紋様を眺めながら、サウスは微かに首を巡らせる。

 いつの間にか、テーブルの上に並べられたカード、その一枚がめくれ上がっていた。

 そこに描かれた図柄、黒い翼に尻尾を生やした異形に目を留め、あぁ――と、サウスは頷く。

 そうだ。人は古き昔より、畏怖と嫌悪を込めてこれを『そう』呼ぶのだった。


 

「人の幸福の追求。永遠の理想郷。すなわち()()()()さ」

 

 

 神の敵対者。人を誘惑せし邪なる蛇。

 

 ――悪魔、と。


 やがてサウスの前で影は薄れてぼやけ、その主と共に姿を消す。

 ランプの輝きに照らされた室内、そこはしんとした静寂を取り戻していた。

 

 さしたる感慨もなく、サウスは再び駒を手に取る。

 

「まぁ、なんであろうと構わんさ。私が恐れるものを追い払ってくれるのなら、何でもよい」


 盤面の向かい、そこに浮かび上がる幻を意識する。

 そう、今のサウスが相対するのは他でも無い。遊戯の対戦相手はあの男なのだ。

 

 成り上がりの商売人。厳つい顔の裏に、計算高さと青臭い理想を同居させた、その男。

 今のサウスの興味の全ては、彼との遊戯にあった。

 さて、彼は己が抱えた切札を、その駒を守り切れるだろうか?

 

「あぁ、早く盤面を進めたいものだ。しまったな、もう少し別の未来図を選ぶべきであったか」


 苛々と、指先が震える。これが嫌だ、これだけをサウスは疎む。

 待つことも楽しみと『彼』は述べたが、どうにも慣れない、耐えがたい。

 

「これだから、退屈は嫌いなのだ……」


 振り上げた歩兵の駒を、思い切りマスへと叩きつける。

 揺れて崩れ、盤面から滑り落ちる『女王』を見ながら、サウスはもう一度だけ鼻を鳴らした。



という所で、第三章は完結となります!

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます!

これから第四章の書き溜めに入るため、少しお休みをいただきますね。

次回は三週間後、6/19(土)から更新再開いたしますので、少々お待ちくださいませ!

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