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96話 王太子アルファード



 窓に映り、重なる二つの影。それを見上げながら、アーノルドは軽く息を吐き出した。

 涼やかな風が吹き抜け、頬を撫でてゆく。自分がここに居る事がひどく場違いな気がして、何となく肩身が狭かった。

 

 今、自分が居るのは庭園の一角。宮殿からほど近い位置に備えられた『もてなし』の場。

 目の前に在る、飾り気の無い白いテーブル。その前に備えられた椅子に腰掛けたまま、アーノルドは顎を撫でた。

 

「やぁ、ミスター。遅れてすまないね」


 明るく、透き通った声が横合いから掛かる。

 慌てたように立ち上がり、アーノルドは紳士の礼を取った。

 

「そう畏まらなくてもよろしい。そなたは、私の恩人なのだから」

「恐縮です、王太子殿下」


 日の光に輝く銀の髪。線の細そうな顔立ちと体躯。煌めくような美貌は、同性のアーノルドをして見惚れてしまいそうなほどに端整なものだ。まさしく物語に出て来そうな王子様。それを体現したような青年である。


「この度は、本当に面倒を掛けたね。そなたと――そなたの奥方が居なければ、私もフローラもこうして無事にはいられなかったろう。心より感謝を。エルドナークの名に懸けて、恩に報いると誓おう」

「勿体なき御言葉、光栄に存じます」


 恭しく一礼をすると、アルファード王子は流れるような動作でアーノルドの向かいに腰掛けた。

 表情には出さないように気を付けてはいるが、流石に緊張を覚える。何せ、彼は本物の王族だ。それも、やがてはこのエルドナークを背負うべき、次期国王。それが、手が届くほどの目の前に居る。

 

 かつて、幼い妹がお姫様に憧れて花輪を頭に飾りたがった事を思い出す。

 あの時、アーノルドは王子様役を無理矢理押し付けられたものだが、まさかあれから二十余年が過ぎ、本物の王子様とこうして差し向かいで会話をする事になるとは。まさしく、神ならぬ自分に予期できた筈も無い。

 

(何の冗談だってんだ、全く。成り上がりを夢見ては来たが、ひとっ跳びに来すぎだぜ)


 マリーベルと出会ってから、歯車のようなものが噛みあい、動き出した気がする。

 信心深い者は、それを運命と呼ぶのだろうか。

 尋常ならざる『祝福』が飛び交う現状、それを笑い飛ばせるほどにアーノルドは達観してはいない。

 

「レーベンガルドの件は、引き続き監視を行う。何を企んでるやもしれぬ男であるし、どうも、私の『祝福』では全てを知る事が叶わなかったようだ。されど、しばらくは試せない。意外と制約が多いのだよ、私の権能は」


 何と答えて良いものか。アーノルドが軽く頷いて見せると、彼は微笑んだ。

 緊張をほどき、和ませるような雰囲気。様々な高位貴族と向かい合ってはきたが、彼はその誰とも違う。


 (なるほど、これがエルドナークの第一王子か)


 気安げに喋る王子の姿には、こちらの警戒心を巧みに緩ませる何かがあった。

 言葉を聞いているだけで、思わず引き込まれてしまいそうだ。それでいて、物腰には確かな気品と共に、凛とした風格がある。

 これが王太子。人の上にたつべしと定められ、その資質を正しく有する次期国王の姿。

 

「是非とも、そなたとこうして話してみたかった。我儘を言ってすまないね」

「いえ。光栄です。私のような者の話しでも、殿下の御慰みになれば喜ばしいと――」

「そう言って貰えると有難い。若くして大商会を築き上げた、ゲルンボルク商会の俊英だ。色々な国を旅し、商いを営んだのだろう? 私のような立場では見えぬこと、分からぬものをそなたは数多く体験してきたはずだ」


 フローラにもそれを伝えてやりたい。そう言って、王子は窓辺を見上げた。

 その瞳には、慈愛があった。溢れんばかりの優しさが込められている。

 

「デュクセン卿令嬢を、大事に想っておられるのですね」

「あぁ、そう在りたいと願う。彼女には、本当に苦労と面倒を掛けてばかりだ」


 困ったように笑いながら、王太子は首を竦めた。

 

「こんな私を愛してくれていること。それがどれ程に有難いことか。大事にしたい、大切にしたい。私は彼女に報いる術を他に持たない」

「そんな事は……」

「取り繕うとしなくても良いさ。私はエルドナークの王家にあって、少しばかり特殊な例だ。異性を愛するという感覚が、良く分からなかった。知り得なかった。何故なら――」


 と、そこで。王太子は顔を背けた。

 つられてアーノルドがそちらに視線を向けると、遠目に、数人の人影が在るのが見える。

 

(あれは……首相閣下?)


 間違いない。先日に会談した、エルドナークの首相。第一大蔵卿であるザッハドルン・グレーベル侯爵だ。

 庭園内の調査に自ら出向いたのだろうか。部下たちに指示を飛ばしながら、忙しげに歩き回っている。

 

(精力的な首相サマだぜ。頭が下がるねえ、全く)


 確か、イーラアイム家の令嬢を養女入りさせる事と、その嫁入りで慌ただしいだろうに。

 老骨に鞭を打って働く彼の姿は貴族らしくはなく、だからこそアーノルドの目には好ましく映った。

 

「……あぁ、グレーベル卿、だったか」

「殿下?」


 その口調に違和感を覚え、アーノルドは思わず声を上げた。

 何処か寂しそうな声。まるで、見知らぬ他人を目にしたかのような言葉。

 おかしい。何かが変だ。確か、首相閣下は王子たちの後見人代わりとして、彼らが幼いころから親しくしていたと、そう聞いている。

 アーノルドの視線に気が付いたのだろう。こちらに向き直り、王子がそっと頷いた。

 

「あぁ、そうなのだよ。私には今、彼との思い出が無い。記憶に残っていない」

「な……!?」

「人となりは思い出せるのだがね。肝心の、触れ合った『もの』が無いのだ。そこだけぽっかりと消えて、穴が空いてしまっている」


 何でもなさそうにそう告げ、王太子は微笑んだ。

 

「これが、私の『祝福』の代償さ。過去を巡り、知り得ぬものを知り、人の秘密を暴く代わりに、己のそれを失う」

「そ、れは……」

「あぁ、心配しなくても良い。そなたと交わした約定は、シュトラウスが立ち会ったろう? それもおぼろげに覚えている。だから彼を選び、あの場に連れて行った」


 恩に報いると言ったろう? 王太子はそう、アーノルドに告げる。

 

「もう、両親の顔も記憶も思い出せない。まぁ、私が幼かったから、というのもあるけどね。巡る度に記憶は薄れ、消えてなくなってゆく。今回は危なかったな。あやうく、弟の名前も分からなくなるところだった」


 信じられない言葉。それは、あまりにも重く苦しい『代償』だ。

 かつて、家族を亡くしたアーノルドだからこそ分かる。

 彼らの顔も名も、思い出も。全てを忘れてしまうこと。

 自分だけが生き残ったという事実を、罪悪感を。薄れさせてしまうこと。

 

 それは、それは……在ってはならないことだ。

 

「勿論、対策は持っているさ。王太子である私が、人の名や顔を忘れてしまっては一大事だからね。法則もあるし、慣れたものだよ。それに、知識は残り易い。まぁ、『あれ』を使っている最中は、『祝福』に対して無防備になってしまうのが困り所だが……」


 今回はそれを狙われてしまったと、恥ずかしそうに王子は笑う。


 そうか、かつてフローラが王太子が選定者かどうかを尋ねられ、曖昧に誤魔化したのはそういうことか。

 アーノルドは、ぼんやりとそんな事を思う。

 

「もう、フローラとの出会いも掠れて遠くに消えてしまっている。彼女が、私を想うきっかけになった事すら上手く思い出せないのだ。かつて、私も誰かを好ましく想った事があったのかもしれない。けれど、それはもう分からない」

「殿下……」

「悲しくはないよ、申し訳なくは思うが。元々、王族の――国王の愛とは、国と民に注がれるべきものだ。平等であれ、公平であれ。そう私は思い、そのように育った」


 ならば、何故。その目はそんなにも眩しげに、愛おしむように窓辺を見上げているのか。

 自身の婚約者が居るであろう、その場所を――

 

「人の心とは変わるものだね。だからこそ、それが私は少しだけ恐ろしい。この胸に仄かに宿ったものまでが、いずれ薄れて消えて、分からなくなってしまうのではないかと」

「殿下、貴方は――」


 蒼い瞳を見据えながら、アーノルドは呟いた。

 

「妃殿下を――フローラ様を愛していらっしゃるのですね」


 不躾とも思える言葉にしかし、王太子殿下は照れ臭そうに笑った。

 

「この指輪を嵌め、誓いの言葉を述べた時、あの時にフローラへ告げた言葉は真実だったよ。けれどね……」


 自分の恋心を理解してもらおうと押し付けたのではない。

 ただ、アルファードの心情に寄り添い、無償の想いを注ぎ続けた。

 あまりにも健気で、優しい令嬢。

 謳うようにそう婚約者を形容し、王太子はため息を吐く。

 

 かつて、彼は告げたのだという。

 自身の『祝福』の代償。消えゆく記憶。

 いずれ、彼女がどうして自分の隣に居るかも思い出せなくなるかもしれない、と。

 

「けれど、あの子はこう言ったんだ。微笑みながら、私の手を取って何でもないように、言ってくれた」



『――殿下が、私の事を……すべて、忘れても。私が覚えて、います……』



「消えた思い出は、また作っていけば良い。崩れた積み石は、また一から積み上げれば良い。これから先の長い人生、そうして一緒に歩いて行けば良いのだと……彼女は、言ってくれた」


 それは多分に強がりもあったはずだ。実際にそれが起こり、悲しまぬ筈がない。

 それでも、少しもそれを感じさせず、自分に酔うでもなく。彼女は、ただそれだけを言ってくれた。

 アルファードが欲しいその言葉を、ただ添えてくれた。

 

「そして、今回の『祝福』だ。過去を手繰り、時を旅して、そうして私は知った。フローラの愛の深さと、包み込むような優しさを」


 深く、深く王太子はため息を吐き、その顔を手で覆った。

 

「これが執着なのかと、私は思ったよ。弟の気持ちが良く理解出来た。これは確かに、麻薬にも似たものだ。歴代の王族たちが体験したのもこれであったのだろう。結局のところ、私もエルドナークの血筋を継ぐものだったわけだ」


 王太子の表情から、軽い後悔の念が伝わってくる気がした。

 なんとなく、アーノルドにも分かる。

 

 愛する事が出来ない、分からない。君を愛する事は恐らくない。

 そんな事を言っておきながら、実は君に惚れてしまったのだ!

 

 ――等と、どの面を下げて述べられるのか。

 

「それは、あの方に仰ったので?」

「いいや。情けない話だが、どう告げて良いものか迷ってしまってね。恐らく、向こうは私の心を察しているように思えるのだが……」


 フローラの『祝福』は心を読む。

 選定者同士では効果が発揮し辛いと聞くが、それでも漏れ出る想いを知ることが出来るのだろう。


「そんな事を考えていたら、どうにも歯止めが効かなくなりそうでね。彼女の顔を見たい、眺めたい、留めておきたい。私だけのものにしたい。誰にも見せたくはない。いっそ、閉じ込めてしまいたい――」


 待った。話が変な方向に行った。

 突然、ダダ漏れの欲望を吐き出し始めた王太子に、アーノルドは顔をひきつらせた。

 

「殿下? 数々のその、妃殿下に対する対応は、演技では……」

「そのつもりであったのだがね。人の心は変わるものだ。やはり誓いをしておいて良かったと思うよ」

「開き直らんでください」


 王族に対する不敬とか、そういうものが頭から吹き飛びそうになる。

 彼の懐からチラリと覗いたものは、足枷とか鎖とか、そういうものに見えた。見えたくはなかった。


「安心して欲しい。自制はする。流石にそこまで私も畜生にはなれない。王たる者の務めを果たす事も忘れはしない」

「ええ、そう願いますよ。心から」

「歴代の王太子が、暗愚に陥らなかった理由も分かるよ。そうなれば、何よりも愛する者を悲しませる結果になる。ならば、善政を敷き、国の為に己を費やさねばならない」


 本気だ。彼は演技で無く、恐らくは本気でそう言っている。

 流石は王族。何処か浮世離れしている。

 アーノルドはそれに呆れながらも――何処か愉快な気持ちになっている自分に気が付いた。

 

「楽しそうだね、ミスター。正直、そなたには引かれても仕方ないと思ったのだが」

「まぁ、ドン引きした事は認めますよ。けれど、王族だ『選定者』だ何だと言っても、根っこは同じ人間です」


 欲望を持って何が悪いか。それを御し、面に出さなければそれで良い。

 人の愛し方はそれぞれだ。他人が口出しすべき事ではない。

 そう、それに――

 

「――お姫様と王子様は、愛し合って結ばれるものでしょう?」


 それでめでたし、めでたしだ。ニヤリと笑ってそう言ってやる。

 その時の王子の顔は、何というか傑作であった。

 後でマリーベルにも伝えてやりたいと、アーノルドはそう思う。

 

「ハハ……ハハハハハ!!」


 ――本当に、今日はつくづくと新鮮な事ばかりだ。

 雲の上の人。アーノルドなどでは一生手が届かないかと思っていた人物が、まさか腹を抱えて笑い出すとは!

 

「いやぁ、()は面白いな! その顔でそれを言うかね?」

「顔は余計ですよ。それに、最近は妻も私のこれが良いと言ってくれるのです」

「そうか! あぁ、そうか! それは失礼した!」


 人好きのする笑顔で、王太子は顔を輝かせた。

 笑う姿さえも麗しいのだから、羨ましい話である。

 

「なぁ、ミスター。舞踏会へは出席するのだろう? きっと君を皆も気に入る筈だ。是非とも紹介させて欲しい」

「殿下、それは――」

「あぁ、そうとも。ミスター・ゲルンボルク。我が『クラブ』のメンバー達に、だ」


 王子が差し伸べた手を、アーノルドは握りしめた。

 それは、自身と妻が目指した目標がひとつ、成就されたことを示していた。

 

「さて、これからの事を話そうじゃないか。君の目的の達成へ至る道筋と、他の『選定者』――『同盟』の対策についても、相談をしたいことが山ほどある」

「ええ、私で良ければ喜んで」


 ――測っていたな、と。アーノルドは内心で舌を出した。

 おどけてみせても、流石は王太子。抜け目のない青年である。

 だが、そうでなければこちらも、張り合いが無い。

 

「そうだ、最初に聞いておきたいのだが、君は奥方へ、どのように愛情を注ぎ、形に顕わしているのかな」

「まず聞くのがそれですか?」

「大切なことだ。君とは腹を割って話したいからねぇ。それに、今後の参考にもなる」


 困った王子様だと、アーノルドは苦笑した。何処まで本気なのやら、分かりにくい。

 ひとしきり笑ったのち、アーノルドは窓辺を見上げる。そこに居るであろう妻へと想いを馳せ、そうして口を開いた。

 

「私もつくづくと思い知りましたが、言葉に出さなければ分からない事はあると存じますよ」

「ほう?」

「機会に恵まれないのと、この年の差です。おまけにこの顔ときたもんだ。中々に言い出しにくくはあるのですがね。殿下ならば大丈夫かと。フローラ様の目を見つめ、ただ一言を言って差し上げれば良いのです」

 

 この気持ちは恋では無いのかもしれない。十代の若者が抱くような燃え上がるような熱が無い。

 けれど、深く労わるような、慈しむような、この先の未来を共に歩きたいと願う想いはある。

 

 だから、それだけは。これだけは自信を持って言える。嘘偽りなく、こう言える。

 

 ――アーノルド・ゲルンボルクは、マリーベル・ゲルンボルクを愛している、と。

 

 アーノルドの言葉に、王太子は目を丸くしたのち、あぁ、と。

 呆けたようにそう呟いて、空を見上げた。

 

「言っても、良いのか。忘れてしまうかもしれぬというのに」

「忘れたなら、また何度でも言って差し上げれば良いのですよ。フローラ様は覚えていてくださると、そう言ったのでしょう?」

「あぁ、そうか。そうだな、そうか……そんな簡単なことであったか」


 思いもよらぬ答えを得たと、そういうように。王太子は何度も何度も頷いた。

 その表情に浮かんだものを、アーノルドは満足げに見る。

 

 それは、重い荷物を下ろしたような、何処か晴れ晴れとした笑顔であった――

次回の更新は5/25(木)となります!

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