百合だらけの異世界に迷い込んだ俺は、壁になりたい
諸君。私は百合が好きだ。
百合、と聞いて思い浮かぶのは花の名前だろう。大抵の人がそうだ。
だが、私が言う百合は花ではない。
私が言う百合とは__女性同士の、同性愛のことだ。
男性の同性愛を薔薇と表現するように、女性の同性愛を百合と表現する。
女性同士の恋愛、もしくは友愛。親密な関係性、友情と禁断の愛の狭間で揺れる心。
女子校の先輩をお姉様と呼んで慕う後輩女子。真面目な女子と不良な女子。友達同士から恋人同士に、嫌いだと思っていた女子のことをいつの間にか好きになっていた、男装した女性を見て恋に落ちた、などなど。
関係性、シチュエーション、立場__あらゆる百合が、この世界には存在する。
あぁ、なんという甘美な世界。男の入る隙間もない、完璧な世界。
百合の間に入ろうとする男は死すべきだ。百合とは遠くで愛で、壁になってその光景を眺めているのが正しいのだ。
そして、百合を眺めてこう思うのだ__てぇてぇ、と。
てぇてぇ、つまりは尊い。萌えの感情を通り越し、崇高で近寄ってはならない神が住まう天界に対して祈りにも似た想いを抱くように憧れることこそが、正しい百合好きなのだ。
そう、近寄ってはならないのだ。
「なのにどうして俺は、こんな世界にいるんだ……ッ!」
頭を抱え、絶望しながら心情を吐露する。
俺の名前は……どうでもいい。百合の世界において、俺の名前などモブで充分だ。
そう、言葉通り__百合の世界。
頭を抱えたまま、チラッと右に目を向ける。
「ねぇねぇ、今度泊まりに行ってもいい?」
「えー、またー? 先週も泊まったじゃん」
「いいでしょー? それに、ほら……泊まった方が、嬉しいでしょ?」
「もう、バカ……」
ショートカットで元気いっぱいの女友達が耳元で囁いた言葉に、黒髪の女子が頬を赤く染めてそっぽを向く光景。
てぇてぇ。そう思いながら次は、左に目を向ける。
「ちょっとあなた! また制服を着崩してるし、化粧まで! しかもまた遅刻しましたね!?」
「うるせぇなー、委員長には関係ねぇだろ?」
「関係あります! 私はこのクラスの委員長です! あなたのような不良生徒を注意する立場です!」
「ったくよぉ……そのうるさい口、また塞いでやろうか?」
「なッ!?」
真面目そうなこのクラスの委員長が、金髪ギャルの言葉に動揺して顔を真っ赤にしていた。
また、って言ったな。つまりは、前に一度口を塞がれたことがあるってことだ。
どうやって? 言葉にする必要があるか? てぇてぇ。
「…………はぁぁぁぁ」
深い深いため息が漏れる。
右を見ても、左を見ても。前を見ても後ろを見ても、道を歩いててもテレビを観ていても。
どこを見ても、この世界には百合で溢れている。
そんな世界に、俺はいる。
「なんで、俺がこの甘美な聖域にいるんだよ……ッ!」
はっきりと言おう。この世界は、異常だ。
俺が知っている世界には、こんなに百合で溢れた素晴らしい世界じゃなかった。
普通の世界だった、普通の日常だった。百合なんて創作の中でしか見たことがなく、大抵はノーマルな恋愛しかしていなかった。
もちろん、探せば百合な関係の人もいただろう。なんなら、薔薇な関係の人も。それを否定しない。恋愛は自由だ、と言うのが俺の信条だからな。
と言っても、俺はノーマルだけど。普通に女の子が好きな、一般的な百合好き高校生男子だった。
__昨日までは。
「目が覚めれば、どこもかしこも百合だらけ。男がいるのに、眼中にない。百合に挟まる男もいなければ、百合を見て軽蔑するような男もいない。むしろ、それが普通だと思っている」
そう、俺はいわゆる異世界に迷い込んでしまった。
この世界を一言で言い表すならば__百合の世界。
当たり前のように女子は女子が好きで、男は邪魔することなく普通に暮らしている。
まさに天国。百合好きの俺が望んでいた世界。
だけどなぁ……ッ!
「あれ、どうしたのー? 頭痛いのー?」
「体調が悪いなら保健室に行ったら?」
頭を抱えた俺を心配して、クラスメイトの女子が声をかけてきた。
あぁ、なんと優しいことか。普通なら喜ぶべきところなんだけど……。
__声をかけてきたのは、さっきまで百合百合だったショートカットの女子と黒髪の女子。
てぇてぇ雰囲気を醸し出していた二人が、その雰囲気を霧散させて俺なんかに声をかけてきたのだ……ッ!
ギリッと歯を食いしばってから、どうにか笑みを浮かべて二人に目を向ける。
「あー、大丈夫。俺のことは気にしないで。頼むから」
「そう? ならいいけど。あんまり無理しない方がいいよー?」
そう言って二人は俺から離れ、また百合な会話をし始めた。
そうだ、それでいい。俺のことなんて気にするな。むしろ、俺のことを空気だと思ってくれ。
これが俺の悩み。甘美で素晴らしい百合の世界に迷い込んだ俺が、唯一絶望していること。
それは__俺に声をかけてくることだ。
「俺はッ! 壁や空気でいいんだよ……ッ! なのにどうして、俺のことを気にするッ! 俺を百合の間に挟み込もうとするなッ! 俺は、俺はぁ……ッ!」
他の男子には目もくれないのに、何故か俺にだけは話しかけてくる。
百合の間に入ろうとする男がいないのに、何故か俺を挟み込もうとしてくる。
なんということだ。俺は、百合の間に入りたくない。壁になって眺めていたいし、空気になっていたいというのに。
「百合の間に入ろうとする男は死んだ方がいい。でも、俺は死にたくない」
死んだらこの素晴らしい世界を眺めることが出来ないから。俺はずっと、てぇてぇしたい。
死ぬ訳にはいかない。でも、百合を邪魔したくない。なら、どうするか。
「決まってる__全力で、百合の邪魔をしないことだッ!」
百合の世界に迷い込んだ、百合好き男子の俺。
何故か百合の間に入らせようとする女子たちを掻い潜り、壁となって百合を眺めててぇてぇする。
俺の異世界に対する叛逆が、幕を開けるのだった。
「なぁ、お前。本当に大丈夫か?」
「大丈夫? 私が先生に行っておくから、保健室に……」
「__行ってきまぁぁぁぁぁぁぁぁぁすッ!」
とりあえず、声をかけてきた不良女子と真面目委員長女子から逃げるように、教室から飛び出した。