095.王子様のキス
アンの目元に涙が伝ったーーーーー
それは、ひさしぶりの変化だった。
ハッとして国王もヘンリーもアンに近付く。皆で、生きろと何度も何度も声をかける。
この奇跡に今縋るしかない。アンを想う者を集めろと国王は泣きじゃくる精霊達に指示した。
ポカンとしたフウ達は急いで幾つもの下位精霊を集め、思いつく限りアンを大切に想う人たちに飛ばした。
真っ先にやって来たのは、グレイソンだった。
演習場からこの離れはかなりの距離がある。最速で駆け抜けて来たのだろう。息を切らし、汗が手の甲まで伝っていた。
グレイソンがアンを想う気持ちは、彼の身近な者ならば皆知っていた。むしろ、知り合いでなくとも知っている者は多かった。
グレイソンは、毎日欠かさず一輪の花を持ってアンの元を訪れていた。団長であるグレイソンはアンの護衛に就くことも無いのに、だ。
アンがまだ王宮内を散策するくらいの元気があった頃から、毎日毎日健気にアンの元に通っていた。
だが、決して愛を囁く事も抱き締める事も、手を握る事さえもしなかった。
グレイソンはアンが王宮に自ら来たところから、危うい状態だと察していたのだ。アンが憔悴していることに最初に気が付いたのも、グレイソンだった。
ただただ友として、アンの毎日に何か一つでも感動を齎そうと通った。遠征で自分が来られないならば、部下や侍女に頼んでまで花を贈った。
それこそ初めのうちは、アンも手料理や紅茶を振る舞い、以前と同じように夕食を共にしてくれる幸せな日々もあった。
だが、みるみるうちに笑顔は減り、理由をつけては人と会うことを避けるようになっていった。
毎日あの日の記憶を反芻しては、誰か一人でも殺してしまっていたらと...己への恐怖に心が擦り切れていったのだ。
火事で焼け出された赤子の声が、燃える家を見ながら抱き合う老夫婦の姿が、脳裏から離れてくれることはなかった。アン自身が忘れる事を許さなかった。
「アン...。」
グレイソンはアンの側に跪いた。
「どうか生きたいと願ってくれ。皆、君がいない世界を望まない。心優しき魔法使い、私の、愛しき君に生きて欲しい...。」
グレイソンはアンが王宮に移動してからはじめて彼女の手に触れ、その甲にそっと口付けし、パタパタと涙を落とした。
「...やはり王子様のキスで全てが解決するなんて無いんだな。」
グレイソンのその物語の王子様のような美しい所作に、心のどこかでほんの僅かに期待をしてしまったチャプが肩を落として皮肉を呟いた。
セト、マーク、ケイン、そしてアンの紅茶によって助かった騎士達も次々と訪れた。
直接アンと関わりのない騎士は、これまでお礼を伝える機会も無かった。セト達に下位精霊達が訪れた際に、自分達も連れて行ってくれと懇願したのだ。
その後、街からはクロエ達店員、メイジー、ノエルとノラとその両親すら王宮に立ち入る事が許された。
それでも、アンの目には涙が伝うばかりで、
一向に目覚める意思を見せることはなかった。
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