094.わずかな兆し
国王、ヘンリー、ウィルとノワールはチャプを追ってアンの眠る部屋へと向かった。
ヘンリーが先に部屋に入り、アンの顔を見ると先程までとは打って変わって、唇や肌の潤いが戻ったようだった。
顔色は悪いが、人間らしさが少しでも戻った事に小さな期待が膨らんでしまうのを掻き消した。
「チャプが既に魔法で?」
ヘンリーはチャプに尋ねる。
「あぁ、水分の調整ならば僕が何とかできるからね。あくまで体内の水分量の調整だけだけど。」
チャプは少し肩を落とした。
「心だけは魔法で何とかなるものではない。ましてや物語みたいに王子様のキスで全てが解決するなんてあり得ないからね。」
チャプは皮肉を言った。精霊でも人の心を救うことはできないという事は、これまでも嫌というほど思い知ってきた。
精霊の言葉が聞こえないウィルには、ノワールが同時通訳をしている。
国王は、自分に遠慮してアンの近くに寄らないウィルとノワールに気付き、今はアンを優先するよう促した。少しでも身近な者達が声をかけるのが1番だと思った。
2人は礼をすると、アンのベッドの横に立った。
2人はひさしぶりにアンの姿を見た。以前の明朗な雰囲気はもうそこにはなかった。そこにはただゆっくりと死に向かう、弱々しい女性が横たわっていた。
痩せ細ったアンの手首を見て、ウィルは拳を握りしめ、涙を堪えた。
「アンさん...僕、あなたのおかげでもう走る事だってできるんですよ...。」
ノワールはアンの手を握り、微笑みながらポツリと言った。
「あなたが僕の人生をこんなにも引き延ばしたんですよ。今下級層の街で食事に困る者が減ったのも、精霊様と出会えたのも全部あなたのおかげなんですから!最後まで...見届けてくれなきゃ...
ノエルはあなたの状況を知らないけれど、何年だって待ってやるって言ってます。アンさんが結婚相手決まるまでは、自分が第一候補だって言い張ってます!
どうか、戻って来てください...。」
その言葉に、国王は息を呑んだ。最近の下級層の街の変化は、この魔法使いの少年とアンが尽力した結果だったのかと。
白亜の本屋での積極的雇用や、魔道具を用いた下級層の民の生活改善は目を見張るものがあった。国王としてこれまで出来なかったものが、あっという間に成し遂げられていった事に嬉しさと悔しさが込み上げた。
今目の前にいるアンを救う事すら出来ない、国王という肩書の前に非力な己を恨んだ。やはり、この娘を死なせてはならない。
その時、ノックの音が響き衛兵が入ってきた。国王とヘンリーに耳打ちする。
驚いた国王は衛兵に許可を出し、衛兵はまた部屋から飛び出して行った。
「なぁ、アン...。クロエがすげぇ寂しがってるぞ。俺らだってそうだ。テディのオーラはますます黒くなってるし、ジョシュアは溜息ついてばっかだ。ジャスパーなんて、お前を眠らせてから毎日メソメソし始めやがった。
調子が狂うんだよ...。お前がいない白亜の本屋には、もう戻らねえんだよ。普通はな、店員の一人がいなくなったくらいなら、1週間も経てばその雰囲気が普通になるだろ?
でもな、お前は違う。俺たちにとってもう家族なんだ。お前は自分を爆弾だと言った。
でもな...お前は爆弾なんかじゃないよ。もう、俺らの大事な家族だろ...。」
ウィルもノワールと反対の手を握り、小さく「頼むよ...」と呟いた。
深く深く眠るはずのアンの手が、指先がピクッと動いた気がした。
ジャスパーがアンを眠らせた時。アンは延命の為に眠らせてあるが、外部刺激によって自ら起きたいと願った時には目が覚めるようにしてあると言っていた。
だからこそ、ここ数日色んな人が来ては次々と声をかけているのだ。
それこそが最後の希望だった。
「なぁ、アン。常連のメイジーさんだって実はお前が助けてたんだろ?あの人だって、アンが今「世界が鮮やかに見えてないのならば、自分の色彩を全て渡したっていい。大好きなオレンジだってアンに譲るわ」って言ってきたんだぜ。
詳しい事は知らないけれど、真っ白だったあの人にとって重い決意なのは、何となく分かったよ。
それに、本だって下級層への普及ももう間近だ。最初は渋ってた複写師達も、忙しくて忙しくて儲かって仕方ないって笑ってんだぞ。俺らの生活を、更に楽しくしちまったんだからな!お前もいっしょに笑ってりゃいいんだよ...。」
そしてーーーーー
目覚めないアンの目元に、涙が伝った。
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