046.誘惑
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遠征後、グレイソンはアンに一度しか会っていなかった。1週間ひたすら書類に埋もれていたのだ。
事務仕事が溜まっていたこともあるが、遠征中の傷が治らず、医務官から当面訓練や遠征を禁止すると言い渡されていたのだ。
グレイソンはそもそも性に合わない事務仕事に辟易していた。その上、毎日おそくまで仕事をこなし、白亜の本屋に行けないため苛立ちは募っていった。
イライラをぶつけるように、リズム良く書類に判を押していると、コンコンっと扉から音がした。それとほぼ同時に副団長のアルフィが入ってくる。
「よう、グレイソン!怪我の具合は?」
「ああ、おかげでかなり良くなった。もう訓練に戻ってもいいだろう。そして紅茶を買いに行かせてくれてもいいぞ。」
「それは、医者が決めるんだよ!もうしばらくはその書類の山に向き合っててくれ。そして紅茶ならわざわざ外出しなくても、メイドがいれてくれるだろ。」
「まったく副団長様は容赦ないな...。」
2人は軽口を叩きつつも、グレイソンの机の横にある鎧を見つめた。腕の部分には大きな穴が空いている。遠征中に魔物の前歯で噛み切られた穴だ。
「やっぱり奇跡だよなあ...。あの状況で、俺にまだ腕がついてるなんて。」
グレイソンは目を細めて言う。
「本当にそうだ。お前が助けたあの女の子が生きていることも奇跡だよ。お前には女神でもついてたのかね。」
アルフィは冗談半分に返す。
グレイソンは肯定も否定もしなかった。本当に女神が味方についていたも同然だと考えていた。
...
グレイソンはようやく机上に山となっていた書類を片付け、帰路についた。すっかり辺りは暗くなっていた。
「はあ...。また白亜の本屋が開いている時間には間に合わなかったか...。」
グレイソンはため息をつきながら歩いていた。それでも、まだ白亜の本屋にアンがいることを願って足はそちらに向いていた。
グレイソンは白亜の本屋まですぐの路地まで来ていた。すると、聞いたことのある、「ぶにゃん」という泣き声が聞こえた。
俯いていたグレイソンの視界に、真っ白な毛玉が現れる。忘れる事もない、触り心地の良い上質なもふもふの白い毛玉だ。
「白タヌ...!?あ、いや白虎だったな...。もふもふさせてほし...いや、白虎だもんな...。」
グレイソンはもふもふへの誘惑と、自分を守ってくれた白虎への崇拝的思考とが混ざって一瞬混乱していた。
そんなグレイソンに、お前誰だっけ?と言いたげな白タヌキの返事が返ってきた。
「ぶにゃあ〜ん?」
そして、グレイソンはとあることに気が付き、白タヌキの脇を両手で抱えて持ち上げる。
「待て待て待て。この間までそんなに丸くなかっただろう!?」
白タヌキはギクリとしたような表情をしたが、知らぬ存ぜぬを演じている。だが、誰が見ても明らかに白タヌキは丸みを帯びていた。
それもそのはず、看板タヌキとして白亜の本屋で可愛がられるうちに餌をもらいすぎていたのだ。軽く1kgは増えている。アゴもタプタプだ。
「そもそも何故こんなところにいるのだ。アンの家は方向が違うだろう。お前...迷子か?」
失礼な、と言いたげに白タヌキはムスッとしてグレイソンの手を払い除け、飛び降りた。
そして、白亜の本屋の方向へと歩いて行った。
すると、既に暗くなった白亜の本屋の中から女の声がした。
「あれ?先に帰ったかと思ったけど...白タヌちゃんったら。ふふっ!今日は抱っこで帰るの?」
そこには仕事終わりのアンがいた。白タヌキがアンの腕の中に飛び込む。白タヌキを抱えると、アンは人影に気付いた。
「「...!」」
2人の声にならない驚きと動揺が、静かにその場に広がる。アンはこれまで一所懸命に仕事に没頭することで、グレイソンのことを忘れかけていた。むしろ、考えることを放棄していた。
だが、グレイソンに会って、一瞬にしてあの日の出来事を思い出してしまった。
グレイソンの一方的な謝礼と手の甲への口付け。そして、あの時の陽の光に透けて輝くグレイソンの髪と輪郭と、目線...
「ぎにゃあーーーっ!?」
アンは思わず、腕の中の白タヌキをキツめに抱きしめていた。白タヌキが思わず叫び声を上げて、アンの腕から飛び出す。
「はわわわわ!?ごめんね、白タヌちゃん!大丈夫!?」
アンはぶすっとした白タヌキに必死に謝る。
「...ぶはっ!」
その光景に、グレイソンが吹き出す。
「くくっ...!君は見ていて本当に飽きない。」
「団長さん...!笑わないでください!」
アンは恥ずかしそうに、また白タヌキを両手で抱きしめる。白タヌキが一瞬また潰されるのではと身構えた。
「...ところで、団長さんはお仕事帰りですか?」
ちょっと口を尖らせながら、アンは聞く。目線は決してグレイソンには合わせられない。
「ああ、今日は久しぶりに早く上がれたからな。アンも今終わったところなのか?」
「はい、今日は沢山お客様に来て頂いて、仕込んでいたものがなくなってしまったので。少しおそくなってしまいました。」
「うーむ...やはり、君の紅茶は人気なのだな。というか、こんな時間だ。家まで送るよ。」
あたりは暗くなっており、人気も減ってきている。グレイソンは純粋な心配から提案をした。
「いやいやいや!そんな申し訳ないです!お疲れでしょうし、夕飯もまだですよね?それに白タヌちゃんがいますから!」
グレイソンはアンの必死の遠慮に、少し心にグサッと刺さるものがあった。前回勝手に手の甲に口付けをしたせいで、警戒されてしまっただろうか。
それに...あれほど高難易度の攻撃防御魔法付与ができる白タヌキがいれば、グレイソンなど必要はないかもしれない。
だが、先日花屋の女性を襲った男の件も、ヘンリーから耳にしていた。ここで大人しく引き下がる気にはなれず、思案する。
「いや、だが、こんな暗い時間に......そうだ!騎士としてだ!これは一般市民を守る職務である!家まで送ろう。」
言いながら、職権乱用も良いところ。バカバカしい言い訳だとは思った。自分でも苦々しい笑顔になってしまっていることが分かる。
だがアンは、うーん、と考え込んでいた。
「そうですね...お仕事ということならば、素直にお願いしたいです。実は、この間職場の女性が夜道で襲われて...それから少し怖かったので。すみませんが、今日はお願いします。」
グレイソンは、もう少し遠慮されると思っていたので、それはそれで素直すぎると思った。逆に誰にでもホイホイついて行かないか、心配になる。
「あ!ではお礼にまた夕ご飯を作らせてください!」
「ぶにゃっ!!」
白タヌキがそれ好物!!と言わんばかりに興奮し始める。
「むっ...いや、しかし、急な上にこちらからのお礼もできていない...それなのに...うーむ。」
グレイソンは少し考え込む。さすがに、女性の一人暮らしの家にまた上がるのは...という考え事は口にはしなかった。
必死に夕ご飯の誘惑に抵抗するグレイソンだが、思い浮かぶのは以前アンが出してくれたオムライスだ。あのフワフワの黄色と赤のコントラスト、そしてバターの香りは騎士として身につけた防御力は一切通用しなかった。バターと卵の濃厚な香りが思い出される。
「紅茶も付けます。」
「くっ...喜んで...。」
アンのサービスにグレイソンは、いともたやすく折れた。