042. 焼け落ちた花
クロエは作業を終え、店を出た。既に明かりがないと歩くには暗すぎる時間帯だ。鬱々とした気持ちで、足がいつもより重く感じられた。
少し歩くと、暗く細い道に入る。いつもなら辛すぎる時間になったら遠回りする道だ。だか、今日は鬱々とした気分で回り道までする気にはなれなかった。
そのままとぼとぼと歩き、角を曲がろうとした瞬間のことだった。
わずかな砂利の音が聞こえた。
クロエは少し立ち止まって、耳を澄ませる。...人の気配がある。
「...気のせいじゃない...!」
すると、目の前の角からフードを被った人物が現れた。迷うことなく、真っ直ぐに自分の方に走ってくるのが見えた。狙いを定めた走りだ。
喉の奥がヒュッと締まる感覚がした。
以前にもこんな事はあったのだ。クロエに振られて逆恨みした男が襲いに来たのだ。それでも、クロエは白亜の本屋に入れば勝ちだ。風魔法が防犯対策にもなっている。
クロエは迷わず店に戻ることを決めた。...だが、下を向いて歩いていたクロエが気配に気が付いた時には既に近すぎた。
30mほど走ったところで後ろから腕を力任せに掴まれ、ドンッと身体がぶつかり羽交締めにされる。
あと20mも走れば大通りに出られたところを、再び暗く細い路地に引き込まれ、大通りからは見えない倉庫の中に引き込まれた。
倉庫の中は暗く、そのままクロエは引きずられ、奥にあった作業台で男に組み敷かれる形になった。
馬乗りに地面に押さえつけられた上に、口を男に強く掴まれて覆われるが、もはや恐怖に声も出ない。
この辺りは殆ど目立たない路地などないため、計画的だったのだろう。防犯用にもらっていたジャスパーの魔道具もカバンから取り出す事などできなかった。カバン自体、男に引っ張られた反動で落としてきてしまった。
男は何も言ってはこない。それがより恐怖を助長させ、上手く呼吸すらできない。自分がこれからどうなってしまうのかは想像がついた。
それから、クロエは頭が真っ白になり何も考えられなくなっていた。怖さが限界に達すると、音も遮断される上に、突然すぎて涙も出ないのだと知った。
暴れるとかえってグッと首に手をかけられた。小さな囁き声で「抵抗しなければ優しくしてあげるよ?」と囁やかれた。
男は恐怖で震えるクロエを見て、口を覆っていた手を離すと、ポケットから縄を取り出し、クロエの手を縛り上げた。慌ててクロエは振り解こうともがくが、全身に力が入らない。
クロエは男を蹴り飛ばそうと、足を振り上げようとしたが、男が持つナイフを持ったままこちらを見ている様子を見て絶望した。
男は恍惚の表情でクロエを眺めると、「やっと手に入った。クロエ、僕のものだ。」と言い、おもむろにクロエに覆い被さった。
男の子顔がクロエの胸元に落ち、男の体重を感じるが、どうにもならず必死に顔を背けた。
顔は背けられるが、いよいよ抵抗するにも体力の限界を迎え、クロエの目からは涙が溢れた。震える小さな声で、クロエは「たすけて...!」とだけ祈るように囁いた。
そのとき。
ドサッと作業台の上から、男の子身体が落ち、少し熱風を感じた気がしたが、身体にかかっていた重みは消えた。
最悪の事態を考えたが、また男の手が戻ってくる事はなく、徐々に体の硬直がほどけてきた。恐怖で聞こえなくなっていた音も戻ってくる。
震えながらも目を開けると、目の前の地面には茎が焼け落ちた花があった。
恐る恐る奥に立っている人物を見ると、そこには水色の瞳の男が立っていた。
「ぅ...あ.......あ...」
恐怖でまだ声が出ない。だが、クロエは状況を完全に把握はできていた。
「大丈夫か?」
その男が出している凄まじい殺気とは裏腹に、声は落ち着いたトーンだった。あの、すまないね。と言った時のトーンと同じである。
「あ...どうして...へ、ヘンリー...さん...!」
クロエはまだ震える手をおさえているが、ようやくホッとしてパタパタと涙が頬を伝った。
「すまない!本来ならば、出遅れる事などなかったのに...本当に申し訳ない...!!」
ヘンリーは心底悔しそうに、歯を食いしばって拳を握っている。言葉を発する度に、魔力が酷く漏れ出て小さな火魔法がポッ...と灯る。
「あ、あり、ありがとうございま、す」
恐怖が抜けきらず、言葉が詰まる。目の前にはまだ、自分を襲った男が倒れていた。ローブに焦げが目立つが、息はしている。見たことのある顔だった。
ヘンリーはクロエの手を拘束していた縄を切ると、彼女の手を自分の首にかけさせた。
「こんな事があったばかりで触られるのは嫌だろうが、ひとまず起こすために少しだけ我慢してくれ。」
ヘンリーはそういうとクロエを起こし、作業台に座らせた。ヘンリーがクロエに降りれるか聞くと、ふるふると首を横に降るので、そっとクロエを抱えて男から離れた場所にあった椅子に座らせた。
「カゲ、すまないがコイツを引き渡すために騎士を呼んできてもらえないだろうか。」
ヘンリーは、震えるクロエに近づき、肩に手を置いた。そして、クロエには見えない何かにそう話しかけた。
「つい...やり過ぎてしまった。この分だとすぐには目を覚まさないだろう、後処理は到着次第、騎士がやる。一旦店に戻ろう。」
ヘンリーは、残念そうに焼け落ちた花の茎を切り、花弁部分だけをポケットに入れると
「歩けるか?」
と手を差し出しながら聞いた。
呆然と涙を零し、頭を横に振るクロエに
「では...抱えて白亜の本屋まで戻っても良いか?」
と、触れることを躊躇うように確認をする。
何も考えられないクロエだが、安全な場所に行くべきだという本能から、一度ゆっくりと頷いた。
そして、ヘンリーは「失礼する。」とだけ断ると、再び軽々とクロエを抱き抱えて歩き出した。
...
店に着くと、ヘンリーは花屋の椅子にクロエを座らせた。その時、クロエの上着の肩部分が破けていることき気付いた。自分が着ていたローブを彼女の肩にかけ、クロエが落ち着くまで、背中を摩りながら黙って待ち続けた。
クロエは震えが止まると、ようやく話せるようになった。
「...あの、す、すみませんでした。本当にありがとうございました。」
もう大丈夫だと思って話し始めたのだが、唇は震え、またクロエの目からは大粒の涙がパタパタと零れ落ちてくる。
ヘンリーは、ただ頷き、そっとハンカチで拭った。
「無理するな。私と...騎士にも頼んで家まで送るようにしよう。もしくは、アンや他の知り合いの家の方が安心であれば、そちらに送る。外に落ちていたカバンは精霊がここにもうすぐ届けてくれる」
「すみません、送って頂く件についてはお言葉に甘えさせて下さい...。あの男は、以前からよく付き纏われていた人だったと思います...。」
「もちろんだ。そして、謝らないでくれ...。」
ヘンリーの水色の瞳が曇った。やはりあの男は彼女をはじめから狙っていたのか、と思うと口の中が苦くなった。
「...私のミスだ。ここまで貴女に怖い思いをさせる事なく、捕まえる事ができたはずだ。」
クロエは、何をこの人はミスだと言うのだろうと、初めてきちんとヘンリーの顔を見た。
そして、ヘンリーの顔をきちんと見たことで、ようやく平常心...と色んな想いが戻ってきた。
クロエはヘンリーのローブを脱ぎ、丁寧に畳んで返そうとする。
平常心が戻ってきてしまったが故に、逆に目線を上げることができず、ひとまず手元のローブに目線をやる。
「私は...あなたに助けて頂かなければ本当にどうなっていたか分かりません。偶然助けて頂けたのです。あなたは命の恩人です。」
こんな状況だと言うのに、自分の心臓の音があまりに煩い。
「偶然...か...」
ヘンリーは困ったように笑った。
「あそこにいたのは、偶然ではない。貴女にコレを渡そうと思っていたんだ。」
ヘンリーはそう言うと、ポケットから花を取り出す。プレゼント用の包装も、茎の部分も残っていないが、花弁だけは綺麗に残っていた。
今日、クロエが妥協なく選んだ花だった。
「...!」
クロエは驚き、何も言えずにいる。
すると、ヘンリーは恥ずかしそうに顔を腕で隠す。
「すまない!こんなはずじゃなかったんだ。きちんと貴女が包装してくれた美しい状態で持っていたんだ!
だが!この一件で怒りに任せて魔力を放ってしまって...。そのせいで手に持っていた茎の部分や、あなたが美しく包んでくれた包装が焦げ落ちてしまった...。
貴女が大切にしている花を、こんな状態にしてしまって、本当に申し訳なく思っている!」
ヘンリーは悔しそうな顔をしながら頭を下げる。
「あ、いや、そうじゃないです!そうじゃなくて...どうして、私にこれを?」
クロエは飛び出そうな心臓を右手で押さえながら聞いた。
「それは、貴女と話したかったからだ。」
ヘンリーは、クロエが恋をした声で、真っ直ぐに答えた。
「〜〜〜っ!!!もうダメ...!」
心臓がもう持たないと、顔を真っ赤にしたクロエは頭をテーブルの表面にガンッとぶつける。
ヘンリーは急な行動に驚き慌てた。そして、前を向いたクロエのオデコに心配そうに手を当てる。
「...は?」
クロエはヘンリーにオデコを撫でられ、ヘンリーはオデコを撫でてしまったことの恥ずかしさで顔が真っ赤だ。いい大人が、お互いに混乱してしまう。
「「...ふっ!くくくっ...!!」」
どちらともなく、お互いが奇妙な行動をしてしまったことに笑いが止まらなくなる。
「ふふふっ!私とした事が...こんな歳にもなって何をしているのかしら。」
クロエは口を覆い、お腹をおさえて笑う。違う意味で今度は涙が出てきた。
「こちらこそ、慌てて額を触ってすまない。挙動不審すぎて、笑えてくる。」
ヘンリーは、恥ずかしそうに片手で真っ赤な顔を覆う。
そして、騎士が来た時には、2人は完全に打ち解けた様子で幸せなオーラが包み込んでいた。