038.おかえりなさい
馬車が白亜の本屋の前で止まり、アンは恭しく降ろされた。
「アン!大丈夫だったか!?」
すぐにジョシュアがパン屋の窓から顔を出して声をかけてくれた。ジョシュアは後ろにまだいたヘンリーと目が合い、ヒッと小さく怯えていた。
「えぇ、何とかなりました。」
アンは空元気で答える。
「おかえり、アン。お疲れだね。」
アンはテディの声にとても安心した。
「おかえりなさい!大変だったわね。」
アンはとても疲れていたが、クロエが馬車の方をチラチラと見ていたのを見逃さなかった。
(これは...本格的にヘンリーおじさんに一目惚れしちゃいましたね?)
と、アンはニヤニヤを堪える。
「今日は疲れたろ?それにその格好では着替える必要もあるし、店もさほど忙しくはない。そのまま帰って大丈夫だ。」
アンは、ウィルの気遣いに、ホワイト企業万歳!などと考えていた。前世ではそんな気遣いをされた事はなかった。
アンは責任感は強いが、今日は仕事にならない程にクタクタだという自覚もあった。そのため、そのまま帰らせてもらう事にした。
そんな事なら、いっそ馬車で家まで送ってもらえばよかったとも思った。だが、家が王族関係者に把握されて押しかけられるよりはマシだとも思い直し、頭をブンブンと横に振った。
アンは疲れた足を引きずって、店から出た。疲労回復の紅茶は、肉体的な疲労は回復できても、精神的なものは回復できない。今日はとにかく謁見のことも忘れて休むしかない。
謁見用の重い厳かなドレスと慣れない靴も相まって、とにかく疲れ果てており、俯いたままにトロトロと歩みを進めた。
ようやくアパートの前に着いた時、アンは見慣れた人影にハッとした。
遠征から無事に帰ったのであろうグレイソンがアパートの下にいたのだ。
「団長さん...!おかえりなさい!」
グレイソンはアンのおかえりなさいの一言にフッと笑った。
「無事戻りました。それから、おかえり。」
お互いにフッと笑みが溢れた。
「ご無事で良かったです。」
アンは何故今ここにグレイソンがいるのか?ということにも頭が回っていなかったが、それだけはパッと言葉が出て来た。
グレイソンがアンにゆっくりと近づいて来る。
「すまない、ちょうど王宮からの帰りでとても疲れているだろうとは思ったのだが...。帰ってきて一番に、直接お礼だけ言いたかった。」
そしてアンは次の一言にハッとする。
「またも、私の命を救ってくれてありがとう。」
グレイソンは、胸元に右手を当て、深くお辞儀をした。心からの敬意と感謝を表していることは見て取れた。
だが、遠征の状況など知らないアンは、何のことかよく分からずに戸惑ってしまう。
そんなアンには構わず、グレイソンは
「それから......」
と、言いながらアンの手を取り少し屈んだ。
そして、
「君は、やはり美しいな。」
グレイソンはそう言って、アンの手の甲にそっと口付けをすると、何事も無かったかのように去って行った。
金色に光る夕日と、深い青に染まる空が混じる美しい時間帯のことだった。
この光景を通り過がりの人々が見ていた。後にこの美しい刹那は、王都中で話題となったのは言うまでもない。アンは顔を真っ赤に染め、その場にへたり込んだ。