133.美しい手
「あたたかな春の風が吹き始め、雪が少しずつ溶けていく。柔らかな日差しと、心地良くも時に力強く吹く春の風。
君に会えた時に感じるのは、それなんだ。」
グレイソンはアンをそう例えた。
アンにとっては、それだけではまだどういう意味の比喩なのか正確に理解することが出来なかった。
それでも、何かあたたかな気持ちになる。
「冬は嫌いだ。...昔の記憶が蘇る。」
「昔のーーーーーですか?」
「ああ。15の頃だ。とても寒く、王都中が凍てつき、白く染まった日だった。」
グレイソンはそう言うと、自身の苦悶の表情がアンに見えないようにそっと抱きしめた。
「国王の座を狙っていると噂を立てられた父が、何者かによって殺された。もちろん事実無根だ。だが、それから父の後ろ盾を失くした私はーーーーー。」
話しながらも、嫌な記憶を言葉にする度に心拍数が上がり、呼吸は浅くなった。
「私は、命を狙われる事もあった。それだけならばまだ良い。王族の血筋を狙う女性から、襲われる事が極端に増えた。
命を狙われた時には、毛布一枚で牢獄のような所に監禁された事もあった。女性に襲われた時には、強すぎる痺れ薬で、救出されてからも一週間以上目覚めなかった事もあった。」
グレイソンはこれ以上を未婚の女性、特にアンに話すのは憚られた。
だが、脳裏にはその時の事がまざまざと焼き付いている。
「ましてや、私は騎士だ。悪人も魔物も斬ってきた。こんな汚れたこの手で君に触れるのは、躊躇われる...。」
グレイソンは珍しく脈絡もなく話してしまう自分に、戸惑っていた。
アンは興味本位に何があったかなど聞かず、ただただグレイソンの背中を摩りながら頷いて話を聞いた。触れる事を躊躇うと言ったグレイソンは、思い上がりでないならば、アンに救いを求めているようにも感じられた。
グレイソンは思い出したくもない記憶に吐き気を感じた。
まだ幼い頃からも、"危ないこと"に誘い、"既成事実"を作ろうとする令嬢が後を絶たなかった、その記憶だ。ほとんどの場合は無理矢理に酒を飲まされ寝所に連れ込まれても、何とか対処できていた。
しかし、一部記憶に蓋をし続けた出来事があった。グレイソンはその煌びやかさとは対極的な過去を持っていた。
それを表に出さないからこそ、彼は魅力的だ。だが、アンは二人きりでいると、ふとどうも影が落ちる瞬間があることが気になっていた。
ーーーーーグレイソンが父を亡くし表情は取り繕っていたものの、心の内では悲しみを消化しきれていない時だった。当主を亡くした後処理による忙しさに、護衛がグレイソンから離れた瞬間があった。
あっという間に声をあげる隙すら無く、無理矢理に手足に枷を嵌められ連れ去られた。目が覚めると誰も来ない寒々しい塔の中で下卑た男女に囚われていた。
その手にはナイフを持っており、言うことを聞かなければ、殺すと言う主張だと理解した。
あまりの寒さと痛みで手足すら感覚が無く、朦朧とした中で睡眠薬を嗅がされ、またいつの間にか気を失った。
次に目が覚めても、依頼主らしき顔を隠した令嬢が、優しいフリをして無理矢理既成事実を作ろうとしていた。美しく整えられた髪を見ても、柔らかな身体を見ても、ザワリと酷い嫌悪感に襲われた。
「やめ...ろ...!私に、さ...わるな...!!!」
怒りにグレイソンは震えた。王族としての尊厳を保つために決して涙だけはしなかった。だが、蹴り飛ばしてやりたくても、痺れ薬や媚薬をたっぷりと飲まされた身体では何も出来なかった。
どれ程時間をかけてその女性に尽くされようとも、恐怖や吐き気、そして激しい憎悪しか残らなかった。
これが、グレイソンにとって一番思い出したくない記憶だった。
自分が汚らわしく思えて、そんな手で女性に触れることも躊躇われた。
だが、アンは血の通わないグレイソンの手を、そっと自分の頬に当てた。
「汚れたなど...私にとって、この手は民を守る美しい手です。幾度も私を守って下さったじゃありませんか。」
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