神はいずこに
まどろみの中にいた彼女を起こしたのは誰かの叫び声だった。
シスターであるフランは夜遅くまで神に祈りを捧げ、日の出とともに起床し農作業を手伝う齢15にして熱心な信徒であった。そのため夜明け前に起こされた彼女は必然的に睡眠不足でありまだ眠たげな様子を見せている。
有事の際には若い男性の町民たちで構成された自警団と教会の魔法が使える人々が参加する救済軍が出動する決まりがこの町では定められている。そのため彼女は今すぐに飛び起き、出動しなければいけない。
しかし冷え切った部屋は寝起きの彼女にとっては耐え難いほどの強敵で、布団の中に潜り込み二度寝したくなるほどだった。だが彼女は朧げな意識を振り絞り叫び声の主を助けるために、使い古されたベットからのっそりと起き上がった。
彼女はもやがかかったような頭を覚まそうと、寝起きでしばしばとする碧眼をこすり、伸びをする。少し眠気からさめ、こんな夜中になぜ起きたのか思い出した彼女は今までの動作とは大違いの速さで身支度を始めた。乱れてしまった絹のような金髪を乱雑に掻きあげてまとめ、寝るときには外している青色を基調としたベールで覆い隠した。
普段は身なりを丁寧に整える几帳面な彼女であったが、今はそうとはいかない。簡潔に済ませ、靴を履き、寝間着にもしている修道服を手で払い、しわをとりながら部屋を飛び出した。
無駄に広い教会を彼女は全速力で走っていた。木製の廊下にロファーの音がよく響く。寝起きの体にはずいぶんきつい運動で呼吸が荒くなっていた。息を吸うと冷たい空気が肺と気道を切り裂き口の中を血の味に変えていく。ヒイヒイといいながら彼女は先ほどの悲鳴が何か考えていた。このような有事の際に圧倒的に多いケースは暴漢だ。次点で強盗。
魔物たちを駆除する冒険者たちが呑んだくれている酒場があるこの町。冒険者は気性が荒く、暴力的なものが多い。そのためほぼ毎日のように冒険者同士で喧嘩が起きる。このような場合はもはやスキンシップのようなところがあるため当事者同士で解決したり、酒場の店主が咎めたりして解決するのだが、一般市民や聖職者に対してはそうはいかない。力の差が圧倒的なため、けがをさせてしまうことが多々あるからだ。
そのようなときこそ救世軍や自衛団の出番だ。荒くれ者を捕まえるために鍛えていたり魔法が使えたりする両者が活躍する。加害者を取り押さえたりするのはもちろん、被害者にお金を渡させるための書類を手配したり、懲役を課したりして贖罪をさせるためのサポートも役割である。
フランは模擬戦で一度もまともに勝ったことがないひ弱な少女である。そのため取り押さえたり戦ったりする見回りの任務には一度も付いたことがない。
まあ私には魔法の力があるため救世軍に入っているんですけどね。今回も傷ついた人たちを治しましょう。神よ私たちに救いを。
と彼女が考えていたその時、教会のガラスから村の光景が見えた。ただしいつもとは全く違う無残な光景が。
一面の赤。空へ登っていく灰色の煙。いつもとは真逆の黒い空。
崩れ落ちたレンガ造りの建物。燃え盛るリンゴの木。辺り一面が火に包まれた大通り。慌てふためく民衆。
「ひっ……」
小さな悲鳴が零れる。その悲鳴をこぼした張本人である彼女は思わず足を止めてしまった。
なぜこんなになるまで私は起きなかった? なぜ自衛団や救済軍は出動していない? 怪我人はいないのか?
そんな疑問と自責の念が沸々と湧いてきて呆然と立ち尽くしていた彼女の耳に悲鳴が届いた。甲高い、女性の悲鳴だ。しかも複数聞こえる。助けを乞う声を聴いた彼女の目に光がともった。
「私が助けなきゃ……」
誰に聞かせるわけでも自分に言い聞かすためのものでもない言葉がもれる。彼女の目に光がともる。自分にしか助けられないという責任感を抱いた彼女は自然と走り出していた。
彼女はシスター達が寝泊まりしている宿舎を抜け、礼拝堂にたどり着いた。結構な距離がある廊下を駆け抜けてきた彼女の息は切れており、修道服から覗く首筋には汗がうっすら滲んでいた。
もっと鍛えていたほうがよかったかなと思いながら深呼吸をする。まだ夜なはずなのに辺りはぼんやりと明るく、ステンドグラスが極彩色に輝いている。その光が町を燃やしている火の光だと思うと、胸が締め付けられるような感情を抱いた。
誰もいない礼拝堂をふらふらと歩く。息が少し整ってきたフランは木製の礼拝堂と外を繋ぐドアにたどり着いた。それを力強く押し込む。少女の腕では開閉が大変なそれはいつも以上に重く感じられた。
ドアが大きな音を立てながらゆっくりと開かれていく。
早く開けて人々を救わなければ。治療するために教会の周りに人々を集めたほうがよいのでは? ならば声を上げ、呼びかけようと期待を持ちならが彼女は叫ぼうとした。
「皆さ……」
叫ぼうとした彼女は息を飲み込んだ。
その隙間から見えた光景は、窓越しとは違く、ひどく鮮明で現実で、それでもどこか空想のような悲劇の御伽噺のような気がして仕方がないものだった。
毎日祈りに来る熱心な信徒だった少年の家が燃えている。汗水たらしながら農作業を手伝った畑には小麦の代わりに火が生い茂っている。食材を買いに行っている市場が火に飲まれている。レンガ造りの道が溶けている。
――ドロドロに溶けた焼死体がそこらじゅうに転がっている。
そこにあったのは地獄だった。窓越しで見た光景よりも更に酷くなっている。自分以外に生きている人がいない。生きている人がいなければ自分は役に立たない。誰のことも治せない。先ほどまでのどこか楽観的だった自分を殴りたくなる。もっと早く起きていれば、自分の身を顧みずに走っていればと考えてしまうフラン。自責の念に苛まれ、こぶしを強く握り歯を食いしばる。呼吸が自然と荒くなり、気を失いそうになる。
いつもの光景が、日常が、思い出が音を立てながら壊れていく。現実味を帯びた惨劇がフランの目に焼き付いていく。絶望が彼女の身を焦がす。フランは崩れ落ちるように膝をつき涙を流しながら神に祈りを捧げ始めた。修道服が汚れることなんて気にしない。
「水神よ、私たちに恵みの雨をもたらし給え。救いの涙を流し給え。地母神よ、私たちに救済をもたらし給え。命を救い給え」
正式な手順を踏んでいない懇願の雨乞いと救済を求める言葉をフランは紡いだ。紡ぎ祈り続けた。自分の魔法が役に立たないならば神に救ってもらおうという精神の元で。動揺からか彼女の声はかすれ、いつもの讃美歌を歌う時のような声の張りも声量もない。つぶやくようなすがるような言葉は町が燃える音で掻き消されてしまった。それでもかまわずに彼女は紡ぐ。民の救済のためにも、自身の心の安寧のためにも……
その間にも町は無常に燃えていく。民が死んでいく。空には黒雲が立ち込めているが降るようなそぶりを見せていない。町から出た煙は彼女の肺を犯し、蝕んでいく。それに思わずせき込んでしまったシスターは悲願すらやめ、ただただ泣いていた。