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けあらしの朝 35  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 その晩、博之と富美恵は一旦は床についたものの初めて味わう緊張感からか目が冴えて落ち着かず、咳払いをしながら寝返りを繰り返していた。博之はたまらずにちょっと裏庭に出ると言うと上着を羽織った。

 「待ってそれなら私も付き合うわ」

 「やっぱりお前も寝付けないのか、よし一緒に行こう」

 二人はなるべく足音を立てないように裏口から外へ出た。博之達が住んでいる母屋と民宿は渡り廊下で繋がっているのだが夜は仕切り戸を降ろすので緊急事態でも起こらない限り人が往き来することはない。だから二人とも泊まり客に気づかれることなく裏庭に廻れた。さすがに空気は冷たくて手に息を吹きかけながら客間の様子を窺うとほとんどの部屋の灯りはまだ点いている。おそらく釣り船を予約した客だろう。博之は気持ちが高ぶりそれにかまけて酒が進んでいるに違いあるまいと勝手な想像をした。そして腕組みをしながら星空を見上げたがその表情は昔を懐かしむように緩みきっていた。

 「俺もかつては泊まり込みで釣行した時には早く寝ようぜと言っておきながら結局は朝方近くまで酒を酌み交わし目を擦りながら船に乗ったものだったよ。そして船上で二日酔いと船酔いのダブルパンチで釣りにならず半分はダウンして1日を過ごす有り様だった。後悔したところで後の祭りさ、まあ同じ過ちを犯すお客さんもいるかもな」

 「その過ちって言い方なんか笑える。でも釣りはそれでも大丈夫なんだ。私はダイビングの前日には深酒や夜更かしは避けていた。二日酔いや寝不足は命取りになるからね。お酒を飲むのは上がった後のお楽しみだった。それにしてもなんて綺麗な星空。明日は間違いなく晴れるね」

 「そうだな、しかしこんな夜空を見てるとどうしても震災当日の夜を思い出さずにはいられない。あの晩は海が紅蓮の炎に包まれて赤い色が空の半分ほどを覆っていたが今日は純粋に星だけが瞬いている。これはけあらしの出現が期待出来るぞ」

 「けあらしかあ、思い出すわ。けせもい市の神社で貴方に初めて会った日のこと。若かったとはいえ、貴方はずいぶんと格好つけて何だかドラマの台詞を思わせるような話し方してたよね」

 「俺が格好つけてドラマみたいな話し方をしてただと?忘れたよ。本当か」

 博之はうすらとぼけてかわそうとしたが富美恵は構わずに畳み掛けた。

 「私はしっかりと覚えてます。貴方は作業着みたいなジャンパーを羽織っていた。そんな服装でけあらしについて熱弁を振るったんだよ。私は真面目に聞いてたけど今思うと笑えるね。そして汽車時間を気にして駅に行くからと言った時に見せた寂しげな表情がいまだに忘れられない。だからあなたは・・・・・」

 「ああ、そこから先は言わなくていい」

 博之は照れ隠しに頭を掻きながら言った。確かに初めて会った富美恵にときめいたことは否定出来ないし表情から見抜かれたかもとは薄々感じていた。しかしそれをあっけらかんと言われるのも癪にさわったが話を止めて部屋に戻るタイミングのきっかけだなと思った時に辺りの静寂さを打ち破るようにバタンと何かが倒れる物音が鳴り響いた。

 「そこに誰かいるのかっ」

 博之は反射的に言うと同時にこれはまずいと自分の額をピシャリと叩いた。どう考えても物が倒れた音よりも自分が発した声の方が宿泊客に不審に思われただろう。窓を開けて顔を出す者は居ないかとしばし注視したがそのような気配はない。寒い時期で窓を閉め切りカーテンも引かれていたのが幸いしたようだ。そうなると倒れた物を特定しなければならない。風も吹いているわけでもないのにどうしたというのだ。博之は恐る恐る音がした方へ向かったが物置の軒下にバツの悪そうな顔をして立っている息子の真一を確認すると今までどうしようもないくらいに苛まれていた緊張感から一気に解放されたようにまくし立てた。

 「なんだ真一だったのか。脅かすなよ。いつからここにいたんだ。もしかして俺と母さんの話を立ち聞きしていたのか。全く趣味の悪いヤツだ。ハハアこの板切れにうっかり手を掛けたのだな、それで倒れたってわけか。幸いお客さんが気づかなかったからいいが気をつけろ」

 軒下には博之が物置に棚を作るつもりで用意しておいた板が20枚ばかり立て掛けてあったのだがそのうちの数枚が地面に互い違いに重なりあっていた。真一はそれを横目で見ながら舌をペロリと出した。

 「ごめん、迂闊だった。まさかこんなところに板があるとは思ってなかったんだ。それと俺が外に出たのは親父達が来る20分くらい前だ。部屋でずっとパソコン使ってたもんだから肩が凝るし目もショボついてきたから気分転換てわけさ。そこに二人が来たからそっと入れ違いに部屋へ戻ろうとしたんだがなんかしんみりとした話を始めたもんだからつい立ち止まってしまった。それで結果的に立ち聞きみたくなってオマケとして板を倒した。ああ、オマケと言えば立ち聞きも今日で二度目になる。白状しておくよ」

 「なんだそりゃ、どういうことだ。説明しろ」

 「シッ、親父、声がでかい。驚いたのは分かるがもう少し静かに話さないとお客さんに気づかれる。とにかく立ち聞きの件はお袋を交えて話すから」

 富美恵は博之は板が倒れた音に気づいて出てきた客の誰かと話しているものとばかり思っていたので一人で星空を眺めていたが、二人がいきなり手招きをしたので、何なの?と首をかしげた。しかし博之と話している相手が真一と分かるや小走りに駆け寄った。

 「なんだい真一、あんたも眠れないのかい」

 「いやそうじゃない、親父にも言ったがパソコン作業の疲れを癒しに出てきただけだ」

 「そしてこれ幸いと立ち聞きに及んだ」

 「だからそれは大きな誤解だって、俺は二人の話に入れなかったんだよ。前回もそうだった」

 富美恵は真一がパソコン作業の疲れを癒しに出て来たことは分かったものので立ち聞きという言葉の意味など当然理解できるはずもなくポカンと立ち尽くしていたがそれを見た真一が物置の戸を静かに開けた。

 「中に入ろう。身体が冷えて来た。立ち聞きのことはいつかは話さなければと思っていたんだが釣り船の初出航前夜である今夜こそその時かも知れない」

 博之と富美恵は顔を見合わせた。真一が今、言ったことにはうなずけるが一回目の立ち聞きについては全く心当たりがない。真一はそんな両親の当惑をよそに自分が楽しむかのように話し出した。

 「親父達が知りたがっている一回目の立ち聞きは驚くなかれあの震災当日のことさ。二人とも暗くなってから体育館の外へ出て今日みたく夜空を眺めながら話をしていただろう。ただし話の中身は今夜と違いかなり込み入ったものだったから当然、声をかけるなんてことは出来なかった。しかしなんとなく当時の二人はギクシャクしていたことには薄々感づいてた。だが離婚まで考えていたのにはさすがに驚いたよ。それから二人で暗い中を歩いて何処かへ行っただろう。俺は急いで隆徳を呼んでどうしたものかと一緒に考えた。そしてもし離婚となったらどちらにもつかずに隆徳が高校卒業までは爺ちゃんのところに身を寄せて暮らそうってことにしようととりあえずはそんな話が出たんだ。まあ結論はすぐに出なかったけどあと一ヶ月遅かったら俺は爺ちゃんと婆ちゃんに洗いざらい話してしまったかも知れない。そうしてたらたぶん今夜こんな会話してなかっただろうな。ある意味ゾッとするよ」

 「なんてこった。お前らそんな事を画策していたのか、確かに爺さん婆さんに知られんで助かった。確定したらもちろん話すしかなかないのだがそれまでは隠し通さないと何しろ爺さんは早合点の権化みたいなもんだからゾッとするのは俺も一緒だ」

 まさかこんな日に震災当日を振り返り自分達の離婚話まで出て来るのも予想外であったが同時に博之は今までずっと自分の身の振り方をどうするかということばかり優先して他者への配慮が欠けていたことを恥じ入る思いだった。

 「さてそろそろ引き揚げようか。しかし最後に一つだけ真一に質問がある。俺は頼んだ覚えはまるっきりないのだが、なぜこの民宿を手伝う気になったのか。他に安定した仕事もあるだろうし何もこんな田舎に留まる必要はないんだぞ」

 「その答はやはり震災の年に遡る。親父達がここを引き受けた時の夏休み、俺は高校3年で漠然と将来はスポーツに関する仕事をしたいと考えていた。当然プレーヤーは無理だからトレーナー、ライターとかの職種が頭に浮かんだ。しかし自分がそれを行うというイメージが湧かないまま誰に相談するわけでもなくて結局考えることもなくなった。本気で取り組んでやるって気持ちが弱かったんだ。部活も引退してブラブラしてるのも嫌だから俺にも何か手伝わせてくれって親父に言って雑用をやってるうちに民宿ってなんか面白いなと感じた。しかしせっかく親父達が晋作さんから引き継いでも後釜が居ないと再び人手に渡ってしまうかあるいは廃業じゃ無意味だろう」

 博之は真一の言い分に大きく頷いた。確かに高校3年の夏休みに自発的に手伝うとは言ったが遠回しに手を貸してくれとサインを送った覚えがある。それは瓦礫が積み重なる中を歩いて行った自宅跡で再会した緒方が含みを込めたように言った俺達は震災から立ち直る頃には一線を退く時期に差し掛かるから若者に橋渡しする役目を負っている世代なんだということを真一に無意識に投げかけていた。当の本人はそんなことなど知るよしもないだろうが、そのお陰で今があるのだ。真一は高校卒業後に仙台のビジネス系の専門学校に通い地元に戻り今度は手伝いではなく博之の右腕として民宿運営に取り組んだ。ホームページ作製、旅行会社への売り込み等の積極的な営業活動が功を奏して客足は伸びた。博之が釣り船を開始すると決断した時も素早く動いた。真一がPRに奔走くれなかったら果たして明日の出航に乗船定員いっぱいの客を集めることが出来ただろうか。博之は真一の企画力や営業力にあらためて感心した。

 「俺も若い頃には営業職に就いていたこともあったが何年やってもコツが掴めなかった、と言うより逃げたんだがな。その点、真一はさすがだ。言い訳めいてしまうが民宿を正式に継いでまだ3年、そこへ持ってきて釣り船という試みに挑戦だ。操船技術向上やポイント探しに手一杯で渉外的なことは何一つやれずじまいだった。真一が俺の代わりにこなしてくれたおかげでこぎ着けた。本当に感謝の言葉が出て来ない」

 そこへ富美恵がまた驚きを増幅させることを言い出した。

 「真一、褒められついでだからあの事も母さん、話しちゃうからね」

 真一はそれはいい、いい、と手を横に降ったが富美恵は構わず続けた。

 「真一がこの街から出て行かないもう一つの理由、それは彼女の存在なんだよね。あのねお父さん、あなたは忙しくて知らなかったのも無理ないけど真一が潜水士の資格を取るために久慈市に行ってた時のことなんだけどそこで知り合った娘さんがいるのよ。大船渡の人で私は3回ばかり会ったけどいい娘さんだよね。彼女も東北を離れる気はないと言ってたから、真一は次のステップ考えてるんでしょう」

 真一は富美恵が暴露するのも同然に話してしまったことで鼻を曲げたがその表情にまんざらでもないものを感じた博之はやんわりと立ち聞きされた事への反撃に転じた。

 「なんだ真一にそんな人が居たのか。しかも俺に隠れてこっそり付き合ってたとはな。まあそいつはいい、ところで富美恵が言う次のステップとはもちろん結婚のことだろう。だがなお前がそのつもりでも向こうはどう考えているかだ。いいかプロポーズまでは性急な行動や言動は避けろ。引かば押せ、押さば引けってヤツだ。実践者である俺が言うのだから間違いではない」

 博之は富美恵をチラリと見ながら勝ち誇ったように言ったが富美恵はスッと視線を逸らして笑いをこらえていた。真一はそんな両親の態度に茶化されたように思ったが怒るわけでもなくむしろ逆手に取ったような答を返した。

 「親父それは心配無用だ。悪いと思ったが立ち聞きで仕入れた二人のなれ初めを多少脚色して引用させてもらった。最後の決め台詞はそんな素敵なカップルの息子である信用してついてきてくれと言った」

 「なんだそりゃ。どこの世界にそんなプロポーズの仕方がある」

 「いや茶番はそこまでだよ。あとはもちろん真面目に話をしたさ。俺の両親がどんな思いで民宿を引き継いだのか。数年前までは震災を風化させちゃいけないとの掛け声はまだ聞けたが最近ではそれも口にしなくなったし皮肉なことに復興が進むのと並行して人はここから出て行く、観光客も爆発的に増えてるわけではない。先行きは不透明なんだよ。そんな状況でもこの街で一緒に暮らしていってくれるかいと何度も念を押した」

 「それで答は?」

 「もちろん首を縦に振ってくれたよ。でなきゃお袋もこんなタイミングで話さないだろう。だが結婚はまだ先にしようと思う。さっき言ったように見通しは全然分からない。もちろん経営安定のために尽力はするが親父は釣り船の船頭としてお客さんを満足させることに全力投球を頼む。自然相手ゆえ不可抗力もあるけど良い船頭が居るというだけで集客は増える。プレッシャーをかけるつもりはないが俺の結婚は親父次第と言っても過言じゃない」

 「そいつは任せな。あえて大風呂敷を広げよう、もう船に乗ることは出来ないが晋作さんという頼もしいブレーンもいる。それと佐久間さんだ。俺が慣れるまでの間、出航する時には折り合いがつけば一緒に海に出ると申し出があった。さっそく明日から来てくれる。おっとっと話がことのほか長引いたな今度こそ解散しよう。初日から寝坊なんぞやらかしたらシャレにもならん」

 「そうね、これ以上身体が冷えると寝付けなくなるわ」

 富美恵の一言で3人はようやく部屋に戻ろうと物置を後にした。漆黒の空には相変わらず星が瞬き空気も冷たさを増して来たようだ。翌朝は間違いなく晴れるだろう。博之はドアを閉めかけてもう一度空を見上げた。

 (願わくば目覚めて外に出た時にはけあらしが立ち込めていて欲しい)

 祈るように呟くと鍵をしっかり掛けた。





 ここは一体どこなのだろうか。俺は確かに船で港から沖に向かっているはずだ。それなのに辺りは真っ白で何も見えないことに加えてまるで宙に浮かんでいるかのようだ。真っ白なのは霧が濃いためだろうか?いや違う。霧にしてはまとわりつくような湿り気が感じられない。空気そのものが白い塗料で着色されたようでもあるが息苦しさもないのは何故なのか不思議な現象であるが妙に心地よさを感じるので流れに委ねてしまおう。そして時間の感覚までも失ったから誰も足を踏み入れたことのない世界に迷い込んだのだ。もう余計な詮索は止めよう。経験したことのない暖かさに全身が包まれた瞬間に霧のような白い靄が薄れてきた。100メートルほど先に輪廓はぼやけているが黒っぽい陸地が確認出来た。船はそれに向かって吸い込まれるように近づいて行く。黒っぽい陸地はまるで強力な磁石であるかのような力で瞬く間に船を引き寄せた。眼前に陸地が迫るとそれは巨大な岩だった。しかし水際も波立つこともなく曇りガラスの板を敷き詰めたように鈍い輝きを放っている。風も波もない海、楽園なのかそれとも狂気に満ちた世界なのかすら判別できない。どこかに人の気配はないだろうかと視線を向けた先にある岩の上部に一組の男女が立っていた。二人が同時に両手で円を描く仕草をすると船を自動車が停止するように岩の前でピタリと止まった。船が止まるまでの過程としてはあり得ないことだ。やはりここは異次元世界といった類いの場所なのだろうとしか思えないのだが不思議と冷静でいられた。岩の上に立っている男女に声を掛けようとしたが船はどうしたことか遠ざかり始めた。慌ててエンジンを全開にして舵を切ったが全てが利かない。仕方なく双眼鏡を取り出して二人の男女に照準を合わせると何かを話しているのだろう、口元が動いているのが分かった。そして目を凝らすと女の方には見覚えがあるし男も古い知り合いのような気がする。双眼鏡越しに女と視線が合ったので思わず叫んだ。

 「由里子、そこに居るのは由里子なんだろう。俺だ、博之だ。分かるか、お前そんなところで何をしている。隣の人は恭一さんなのか」

 声を限りに叫んだが双眼鏡でようやく視認出来る距離では聞こえるはずもない。船はますます岩から遠ざかりやがて二人の姿も見えなくなり廻りは再び真っ白な世界に包まれた。博之は溜め息をついて操舵室から出ようとしたその時に棚から何かが落ちて頭に激しくぶつかった。

 「い、痛え。あ、あれなんだどうしたんだ。上から物が落ちて来たはずなのにどうしてタンスに頭ぶつけてんだあ。ああそうか物が落ちたのは夢の中だった。しかし不思議な夢を見たもんだ」

 博之のつんざくような声と蹴飛ばすように跳ね上げた布団の音で傍らで寝ていた富美恵は混乱と共に目覚めた。

 「ち、ちょっとあなた、どうしたの急に大声出しながら飛び起きて。心臓に悪すぎる。うなされていたの?今何時なのよ。あらあと30分は寝れたのに、まあいいか目覚まし時計のタイマーは切りましょう」

 「済まん、なんだか訳の分からない夢を見ていた。上から物が落ちて来たんだがそいつが頭に当たる瞬間に無意識に立ち上がりタンスに頭ぶつけるのがほぼ同時だったんだな。夢の中と現実で痛い思いするとはな、やれやれだよ」

 「ずいぶんとダイナミックな夢を見たようね。立ち上がってタンスに頭ぶつけるくらいだから相当な内容だったんでしょう」

 「船で沖に出たんだがあまりにも現実的じゃない光景が現れたんだ。でも事故とかの場面はなかったから心配するな、むしろ吉兆をもたらす夢だったと思う」

 博之は富美恵に夢の詳しい内容を敢えて言わなかった。出航前ということもあるが、これから現実の世界でお客さんを乗せ海に出なければならないのだ。感傷的な話は戻ってからゆっくり話せばいい。

 (間違いなく由里子と恭一さんからのエールなんだよ。物が落ちて来たのは少しでも早く動けって合図だったのさ)

 着替えを済ませると富美恵が用意してくれた握り飯を頬張りお茶をすすった。それから外の様子を窺おうとしたが、けあらしへの過剰な期待感から一旦手が止まった。深呼吸しながら少しずつ窓を開けると昨日までとは比べ物にならないほどの冷気を感じた。瞬間的にけあらしを確信して思いきり窓を開け放つと一気に冷気が入り込んで来る。夕べ見た満天の星空は願いを叶えてくれた。震災の翌朝も寒さを伴った快晴だったがあの日とは違い今日は俯くことなく空を見ることが出来る。博之は富美恵と一緒に急いで外に出ると海が見える場所まで小走りに駆けた。

 「これは凄い。見事なけあらしが海面を覆っているじゃないか。最高の船出の朝を迎えられた。富美恵、俺達がけせもい市の神社で初めて会った時と同じ、いやあの時を上回る素晴らしいけあらしだ」

 博之が顔を紅潮させて早口に言うと富美恵もうなずきながら同調した。

 「私もそう思う。さあ海に手を合わせましょう」

 二人並んで海に向かって頭を垂れた時ふいにシャッター音が鳴った。驚いて振り向くと真一がデジカメを手に微笑んでいる。

 「神社で一緒に撮った写真はないんだろ。もっとも言葉を交わしただけだから無くて当たり前か。だから今回はちゃんと記念写真撮ろうよ。今撮ったのはアングルも悪いし向きもバラバラで表情もなんか変だ。やはり意識的にポーズ作った方が格好がつく、撮り直ししよう。時間はまだ大丈夫だよ。震災で無くした物がたくさんあるのだからせめてこれから先の事をどんどん記録して行こう。出航の様子も撮るつもりだがいいだろう」

 博之も富美恵も断る理由などあるはずもなく無言で真一の目を見つめたが息子の心遣いに胸に熱いものが込み上げて来て涙がこぼれ落ちそうになった。けあらしは太陽が姿を現すとより幻想的な雰囲気を醸し出してきた。その中に博之と富美恵はぎこちない微笑を浮かべてファインダーに修まった。

 「それじゃあ俺は先に行ってるぞ。富美恵と真一はお客さんの案内を頼む。打ち合わせた通りにやれば問題ないはずだ。ただこれだけは徹底してくれ。お客さんが自分の車で岸壁まで降りることが絶対あってはならない」

 博之は釣り船を始めるにあたり、お客さんが乗って来た車は高台にある民宿の駐車スペースに置いてもらうというルールを設けた。震災の前にはお客さんそれぞれが岸壁の邪魔にならない場所に車を停めていたのだが、万が一津波の襲来ともなれば車を一瞬にして失うことになる。博之自身、自宅もろとも車まで流されてしまった経験から二度と繰り返したくなかった。そしてお客さんを船に乗せている時に津波注意報以上のものが発令されたら15分程度で港まで戻れる海域に居たなら迷わずに戻る。引き潮が強かったり沖に居た時はケースバイケースで戻らずに更に沖に逃れる手段の選択も視野に入れている。そのシミュレーションを何回か行い、洋上で3日は持つ水と食糧の備蓄もしてある。お客さんに釣りという非日常を安心して楽しんでもらうために考えられる範囲での準備はしたつもりだが決して万全と胸を張って言えるものではないことは分かっている。何度か海に出ているうちに改善すべき点も自ずと出て来るだろう。博之はヨシっと自分自身を奮い立たせるように拳を握り締め港へと駆け降りた。すると既に佐久間が佐久間が腕組みをして船にもたれ掛かるようにしているではないか。博之はオーナーである自分が後回ってしまったと目を逸らした。佐久間の方はそんな事には全く頓着する様子もなくむしろ博之よりも出航の喜びが全身からあふれ出ているようでさえある。

 「おはよう、最高の初日を迎えたじゃないか。今時分にしちゃかなり冷え込んだがお陰で見事なけあらしが出ている。お前の願いが天に通じたんだろう。俺は今まで別に気を留めるなんてことはなかったがお前からけあらしにまつわる話を聞いてから感慨を覚えるようになったんだよ」

 博之は佐久間の口からそんな言葉が出るとは思ってもいなかった上にあまりの似合わなさに吹き出しそうになったが緊張感をほぐすには格好の言葉だったかも知れない。二人は手際よく出航の準備に取り掛かった。そこへマイクロバスとワンボックスカーが一台ずつゆっくりと近づいて来た。富美恵と真一が乗船名簿の記入手続きを済ませた釣り客を乗せて岸壁まで送迎して来たのだ。バスから降りた客は次々とコンパクトにまとめた釣り道具一式をワンボックスカーから降ろして船の横に整然と並んだ。一人で来た者、数人のグループ、若いカップルの姿もある。誰もがこれからの釣行に胸を躍らせている様子が見て取れた。

 (昔、俺が客として釣り船に乗った時もあんな感じだったんだろうな)

 博之は若き日の時分を重ね合わせながら操舵室へ入り神棚に手を合わせて今日の航海が無事に終わることを祈願しているところに佐久間が姿を見せた。博之はけあらしに見とれて挨拶をしていなかった事を思い出し佐久間の方に向き直った。

 「先ほどはけあらしに心を奪われていて挨拶するのを忘れてました。佐久間さん、寒い中こんな早朝から申し訳ありません。面倒かけますが今日一日宜しくお願い致します」

 「なあに気にすることはない。へへっ本音言うと俺がやりたいくらいなんだからさ。お前がダメだとか嫌だとか言っても都合さえつけば押し掛ける。もちろん客としてもだがその時は友人なり昔の仲間に声を掛けて商売にも貢献するぜ」

 元々は佐久間の叔父である晋作が営んでいた民宿と釣り船だ。博之にも異存はない、まして釣り船に関しては駆け出しの素人同然な状況である。佐久間の助けは出来れば当分の間は毎回欲しいくらいである。佐久間はそんな博之の気持ちを察したように動き始めた。船にお客さんは乗り終えたようだがそのままハイ出航という訳にはいかないのである。

 「それじゃあ俺はお客さんがフローティングベストを着用したかどうか確認してくる。OKのサインを出したら船を出してくれ」

 フローティングベストは救命胴衣の事であるが博之が船釣りを始めた頃は乗船人員分だけ船に積んであれば着用するかどうかは自由裁量だったが現在ではそうはいかない。中には面倒だとか動きに制約が出るとか言って着用を避ける者もいる。それを黙認することは出来ない。海上保安庁からお叱りを受けるとかの問題ではなく安全のためにだ。佐久間がチェックしたところ全員が着用しており舳先から両手で○印を作って博之に出航OKの合図を送った。いよいよ出航だ。博之は武者震いした。それが落ち着いたところで一つ咳払いして拡声器越しにお客さんに向かって挨拶の言葉を述べた。声がうわずった感はあるが初めてにしては上出来ということにしようと自己採点した。あとは操船に集中するだけだ。船は重低音のエンジン音を響かせてゆっくりと岸壁から離れた。

 太陽はけあらしの中に見え隠れしながら高い位置に昇った。船上の客から次々と驚嘆の声が上がる。初めて見る者が大半かも知れない。佐久間が事細かにしかも得意げに説明をしている姿がやけに滑稽に思えたと同時に寒さという大きなネックを背負いながらの初出航に対して抱いていた危機感がいっぺんに吹き飛んだ気がした。港を出て約10分、博之は佐久間の実家の養殖施設に船を寄せた。そこは2日前から養殖物を海中から引き揚げた時に出る余計な付着物を撒き餌代わりに沈めてポイント作りを施してある。晋作から教わったのであるが効果が出ていれば魚が集まっているはずだ。しかしそれでも確実に魚が釣り人の仕掛けに食い付いて来るとは限らないのが釣りだ。良い結果が出るか否かは神のみぞ知ることである。博之は祈るような気持ちで艫のロープを養殖施設に結んだ。同時に佐久間も舳先を結びつけて船は係留完了である。博之は再び拡声器を手にして客に仕掛け投入OKの合図を出した。出航と同時に準備していた客は待ってましたとばかりに仕掛けを降ろしたが左舷側の中央付近に座っている女性客がもたついていたようであるが同伴の男性の手助けで全員無事に投入を終えた。博之はそれを確認すると船のエンジンを止めた。重低音が消えると静寂に包まれるが入れ替わるようにロープが軋む音や船を叩く水音がシンクロして心地よい雰囲気を醸し出す。そんなBGMと共にアタリを待つのだがグループで乗船した者同士は缶ビールで気勢を上げている。何もかもが懐かしい光景だなと笑みを浮かべながら眺めていると右舷後方から歓声が沸き起こった。どうやら何か魚がヒットしたようだ。博之は操舵室から顔を出すとタモは必要かと声を掛けたが客はリールを巻く手を止めて首を横に振った。水深約20メートルの海底から姿を見せたのはマコガレイだ。目測で25センチほどだろうか。まずまずのサイズだ。

 (初ヒットがマコガレイで良かった。いきなりギンポとかの外道では出鼻をくじかれた気分になっただろう)

 博之が安堵しながら視線を前方に移すと太陽はかなり高い位置にまで昇っていた。けあらしも徐々に収まりつつあるが幻想的な景色はまだいくぶん残っている。今度は左舷中央で慌ただしい動きが起こった。仕掛けを降ろすのにもたついていた女性客にヒットしたようだ。

 (彼女はおそらくビギナーだろう。何が掛かったか分からないが、さあ同行の彼氏サン、しっかりサポートするんだぜ)

 博之は遥か昔の事を断片的に思い出しながら呟いていると佐久間が上気した顔で操舵室に飛び込んで来た。

 「おい、あの女性客が掛けたヤツ、かなりの大物だ。引き具合からするとアイナメだと思うがとにかくタモだ。タモを持って行くぞ」

 博之が凝視するとまるで根掛かりでもしたように竿がしなっていたがガクンとした引き込みは佐久間が言った通り九分九厘アイナメに違いない。タモは3本用意してあるが迷わずに緒方から贈られた物を佐久間に手渡した。

 「魚が見えたら同伴者の男性にタモ掛けさせてください」

 「分かった。まずは魚がバレないことを祈ろう」

 佐久間はタモを受け取ると急いで悪戦苦闘している女性客のもとへ向かった。傍らで見守る男性は的確な指示を出したようで魚は無事に水面に姿を現した。

 「こいつめ初めての船釣りでいきなりそれかよ。俺が最初船で釣ったのはカレイだがすんげえ小ぶりなヤツだった」

 男性は悔しそうに言ったもののその顔には笑いがあった。博之の脳裏にはっきり昔の記憶が蘇った。陸上と船の違いはあるが、あの時もビギナーの由里子が大きなアイナメを掛けて緒方の差し出したタモで取り込んだ。まさか40年近い時を経て今また若いカップルによって再現されるとは・・・・・博之は神棚の側に置いた釣竿とリール、そしてレギュレータとウェットスーツに一礼して手を合わせた。

 「いいシーンが見られそうだよ」

 バシャバシャと水面が波立つ、太陽光が乱反射して見づらいが紛れもない大物のアイナメだ。佐久間は女性客にもっと船縁に寄せろと腕を回しながら叫んだ。同伴者の男性はそれを横目に落ち着いてタモに魚を収めた。アイナメは最高の力を振り絞り跳ねたが船上に無事取り込まれた。女性客は放心してへたりこんだが乗り合わせた客全員が祝福の言葉を投げ掛ける。けあらしは既に跡形もなく消え去り晩秋の太陽だけが海を照らしている。今日一日の小春日和を約束するような陽光であった。


  -けあらしの朝 完-




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