1日目
真っ赤な空の下、私は見知らぬ丘の上に立っていた。
「夢、だよね?」
自分の腕をつねってみる。痛い。つねった場所は赤く跡が付いている。
「あー、あー」
声を出せばちゃんと聞こえる。夢の中はこんなにリアルじゃない。すると背後から“ブブブブッ”と何かが振動する音が聞こえる。振り返ると、ピンク色の三角錐に白い羽根が付いたものがこちらに向かって飛んでくる。三角錐の下にオレンジ色の足と思われるものが2本ついていて、その先端はどうみても人間の手だった。あれはヤバい。本能的に嫌悪を感じる。丘の上には障害物がなく、こちらは丸見えだ。とにかく逃げないと。
私は森(?)と思われる朱色っぽい何かが茂っている方へと丘を走って下った。木だと思ったものは確かに幹のようなものはあるが、形はぐにゃぐにゃと曲がっているものもあれば、鋭く真っ直ぐな物もあり、色も赤色に近い色が多いがバラバラだ。入ったら危険だとも思うが、飛んでる鳥もどきに襲われるよりはいい。とにかく木々の間を進むと、空が見えなくなり、全体的に世界が赤黒く、人間の内臓の中に入ったような感覚に襲われる。
木は枝と思われる物が下の方に大量に生えてるものもあれば、上の方に少しだけ付いてるものもあり、規則性が無い。葉も菌類みたいにぐにゃぐにゃしてるものも鉱石みたいに幾何学的なものもあり、枝に付いてる実も汁が滴って腐ってるみたいなものから、くるくると枝の上を生き物みたいに回転してるものもある。それぞれが不可思議な音を出し、匂いも様々だ。甘くいい匂いがしたと思えば、吐き気がするような悪臭も混ざってくる。この場に留まっているだけで気が狂いそうだ。
(でも、ここに隠れてないとさっきの鳥もどきが……)
そう思って立ち止まると、背後の下の方からガサゴソと音がする。急いで振り返ると、ぐにゃぐにゃしたオレンジ色の草の間から何かが出てきた。
(ウサギ?)
最初に連想したのは紫色のウサギだったが、よく見ると、耳は爬虫類の肌のようにつるつるしていて、後ろ脚は木肌のようにひび割れている。そして体毛も一本一本が鰻のようにうねっていて、先端から歯が見える。全体的に紫色で、目は赤く光り、こちらを凝視していた。よく見ると鼻だけが人間と同じ形をしている。
気持ち悪い。だが、逃げたら後ろから噛みつかれないだろうか。野生の動物なら威嚇すれば逃げてくれるかもしれない。そうだ、と思い、肩にかけていたラケットの入った袋に手を伸ばす。
(お願いだから動かないで)
鼓動が速くなる。ウサギもどきの目を見つつ、ラケットの袋のチャックを開け、ゆっくりラケットを取り出した。まだウサギもどきは動かない。右手にラケットを持ち、構える。
「しっしっ」
私はラケットを振ってウサギもどきを追い払おうとした。
「きゃあっ!」
しかしウサギもどきは反応してラケットに思いっきり体当たりをする。その反動が予想以上に強く、私は引っ張られてそのまま尻もちをついた。
「え!?」
そしてラケットのガット(真ん中に貼ってある糸)がボロボロに切れているのを見て驚く。ウサギもどきの歯か爪かは分からないが、それなりに強度があるガットを簡単に切られてしまったのだ。もし自分の素肌に受けたら、ただでは済まない。ウサギもどきは再び距離を取り、倒れているこちらを見ている。
(どうしよう……)
ウサギもどきがいつ再び襲って来るか分からない。さっきの力加減から、こちらがラケットで殴っても相手は怯まないだろう。何か武器になる物は他には……。周りに落ちている物は変な色や形のもので正直触りたくない。そうして胸にスマホがあるのを思い出した。
(そうだ!)
右手のラケットでウサギもどきを威嚇しつつ、ゆっくり左手でスマホを取り出す。ウサギもどきの方からも目を離さず、何とかスマホを起動して、
(効いて!!)
スマホに付いているライトを最大の明るさで照らした。それを目にしたウサギもどきは“キィーッ”と鳴き、草むらの中へ飛び込む。今のうちだ。急いで起き上がり、ウサギもどきと逆の方向へと進む。手や制服のスカートには尻もちをついた時に付いたぬるぬるした泥のようなものがへばり付いていて気持ち悪い。泥を払い落とすが手にも服にも変な色が付いてしまう。周りに道みたいなものは無く、辛うじて獣道みたいな草や木が少ない部分を何とか進む。たまにぬかるんだ地面に足を取られそうになる。素肌の腕や足には周囲の草や木の枝が当たり、所々に擦り傷切り傷が出来てしまった。
スマホの事を思い出し、誰でもいいから連絡したいと思い、立ち止まる。スマホの画面を見るが、圏外の表示。そしてバッテリーも残り20%になっていた。予備のバッテリーを今日は持ってきてない。周囲はじめじめとして不気味な世界だ。どうすればいいか分からなくなり、その場にしゃがみ込んでしまう。
(最悪の日だ……)
夢見ていたのは先輩からOKを貰い、浮かれて家に帰る自分。先輩の連絡先も聞いて、通話アプリで他愛ない事を送り合う。今までのつまらなかった日常がバラ色に変わる。そんな妄想をしていた。でも、現実は違う。先輩にフラれ、光るものを追って行ったら変な場所に来て、変な生き物に襲われる。
そうだ、あの光るものはどこに行ったんだろう。あれを見つけて追って行けば、元に戻れるんじゃないだろうか。少しの希望を胸に再び立ち上がる。やっぱり丘の方に戻った方がいいのかな。そう思って周りを見たが、そもそも方向すら分からない。スマホの方位磁石も方向が定まらずグルグル動いていた。
足跡を辿ればと思い付き、何とか見分けがつく自分の足跡を辿ってみる。さっきのウサギもどきにまた会うかもしれない。でも、このまま奥に進むのも嫌だ。とりあえずラケットは袋にしまい、いつでも取り出せるようにしておいて進む。が、足跡も途中で消えてしまった。地面がぐにゃぐにゃと動いている場所があり、試しに踏んでみたら、数秒後には足跡が消えてしまうのだ。
(こういう時どうすればいいんだろう……)
弟の読んでいる小説で異世界に行く話が流行ってるのは知っている。試しに少し読んでみたけど、私には合わなかった。昔TVゲームでRPGをやった事もあるけど、あれは最初から武器が貰えるし、お店で買えたり、敵が落としたり、宝箱から出てきたりする。周りを見てもそんなものはどこにもない。ああいう小説をもっと読んでれば何とか出来たのかなあ。そんな事を考えていた時、少し先に光が見えた。あの光だろうか。ここを抜け出す手がかりが無い以上、確かめてみるしかない。
「痛っ!」
見失わない為に無理矢理植物(?)を掻き分け追いかけたが、鋭利なトゲのついた草に手や足どころか制服の一部も切られてしまう。私は痛いのを我慢して、とにかく光を追いかける。光が移動を止め、私も赤茶色の草むらを抜けた。
「あっ」
しまったと思っても、もう遅かった。私はチョウチンアンコウの光に釣られる魚と同じだったんだ。近くで見ると光は生物の身体の一部で、上から糸のようなものに釣り下がっていて、その先に本体があった。大きさや雰囲気はゴリラだ。でも、目は一つで赤く光り、口はワニのように長く、鋭い歯が覗いて見える。腕も足もゾウのように固い皮膚に覆われ、全身に毛は無く、全体的に赤茶色をしていた。胸だけは人間の女性の乳房が大量についていて、妙に生々しく、気持ち悪い。噛まれれば重傷、殴られても蹴られてもただでは済みそうにない。前のウサギもどきみたいにラケットで防げる気もしない。
そうだ、前のウサギもどきと同じように光に弱いかもしれない。頭から釣るさっている光る玉の明るさもスマホのライトの明りに比べれば暗い。ゴリラもどきがこちらに寄ってくるのを後ずさりながら、視線は反らさず、スマホを取り出す。バッテリー的にライトを使えるのもこれで最後かもしれない。でも、今使わないと殺されてしまう。
(お願い!)
心の中で叫びながらスマホのライトを最大にしてゴリラもどきに向ける。ゴリラもどきは一瞬止まった。が、再び動き出す。今度は走ってこちらに向かってきた!私も急いで方向転換して走ろうとした。が、足元にある何かに躓き、盛大に頭から転ぶ。スマホが手から抜け落ちて転がっていく。振り向くとゴリラもどきが落ちたスマホを思いっきり踏みつけ、バキッと音がした。何かを踏んだのに気付いて、ゴリラもどきは再び止まった。目の前に立ち、こちらを上から見下ろす。
知能があって友好的、って事は無いか。でも、童謡の森のくまさんみたいに実は助けてくれるって事もあるかもしれない。ゴリラは知的で穏やかな動物だって聞いた事もある。
「あ、あの、私の言ってる事分かります?」
勇気を出して語り掛けてみた。が、“ヴォオオッ!”という叫びをあげ、両手を振り上げた。もう終わりだと思った。恐怖で身体が動かない。下着が温かいもので濡れるのを感じる。なんて人生なんだ、と思った時だった。
「へ?」
目の前のゴリラもどきが吹き飛んだ。左側から何かに殴られたようにも思える。私は左の方を見る。すると、そこには一人の人が立っていた。助かった……。その人はこちらに寄ってくる。木々の間から漏れる光でようやくその姿がはっきりした。
(女の人?え、人間じゃない?)
見た目は人間の女性だった。私より身長はずっと高く、とても綺麗な顔つきから20代に見える。ただ全身が水着のように露出度の高い、艶のある赤い皮で出来たような服を着ていて、アニメやゲームのコスプレみたいに見えた。肌は褐色で、髪も赤毛で、目も赤く、日本人では無いと思う。でもそこまではまだよかった。問題は頭とお尻だった。頭には羊の角のようにくるりと巻いてある角が左右に付いている。お尻からは細長くて黒い尻尾が生え、その先端はハート型に膨らんでいる。悪魔のコスプレ、というのなら納得がいく。
「あ、あの。助けてくれたんですよね?」
人間なら言葉は通じる筈。日本人じゃないとしても英語かそれ以外の言葉で答えてくれるだろう。女性は何も言わずこちらに寄ってくる。逃げようにも腰を抜かしたような状態で動けない。お尻はスカートも含め漏らしたもので冷たくなっている。
もしかして殺される?ゴリラもどきほどでは無くても何をされるか分からないので恐ろしい。女性はこちらを見て笑みを浮かべ、屈みこみ、私の手を掴んだ。下手に反抗したら何をされるか分からない。とにかく様子を見るしかない。
「え?」
何を思ったのか、女性は私の手をぺろぺろと舐め始めた。犬や猫に舐められてるみたいでくすぐったい。もしかしたら彼女の部族(?)の親愛の証とかかもしれない。私はとりあえず女性のやりたいように身を任せる。彼女の舌は指先から手を登っていき、腕や半そでの制服をめくって肩の方まで続く。ようやく右手が終わったと思ったら今度はそのまま左手に移っていく。思ったほど嫌悪感は無いが、今まで草や土に触れていたので汚いとは思った。
なんなんだろう?両腕が女性の唾液に濡れていく。他人を舐めるという行為がなぜ行われているか分からない。ただ、身体が少し火照ってきてしまう。
(少し気持ちいいかも。って、そっちは……)
何を考えているのか、両腕を舐め終わった彼女は後ろに下がって、今度は私の右足に手を伸ばす。そして靴下をずり下げ、脛の辺りから再び舐め始めた。
「あ、いやっ」
身体が強張る。私の言葉に女性は少しだけ動きを止めたが、すぐに舐めるのを再開する。足を舐められ、今まで感じた事の無い快感が走る。拒否する事は出来るけど、このまま快楽に身を任せたいとも思ってしまう。生命的な危険より未知の快感が心を占める。舌は膝の周りを登り、太ももに移る。
(ううっ)
私は声が出ないように歯を食い縛る。そして漏らした事でその匂いがするだろう事を思い出し、一気に恥ずかしくなる。私の顔は真っ赤になるが、女性の行為は続いていく。右足の太ももから左足の太ももに移り、やがて舌は膝から脛へと下りて行く。左足も終わり、解放され、私はホッとしたような、少し寂しいような複雑な思いに駆られた。
「あ、あの」
とにかくもう一度語り掛けようとしてみる。女性は私の顔をじっと見つめる。その顔は徐々に近付いてくる。
(え、もしかして……)
逃げたくても逃げられない。目を反らす事も出来ない。女性の赤い瞳が近付いて来て、口から真っ赤な舌が覗く。顔が真正面から接触する直前、彼女は少し横にずれて、私の頬を舌で舐めた。想像と違った事が嬉しい筈なのに残念がっている自分がいる。ただ、私の身体は動くようになっていた。
「な、何するんですか」
両手で精一杯女性を押しのけ、私は何とか立ち上がる。
「何って、傷を治してやったんじゃないか。怒られる筋合いはないのでは?」
女性の声は思っていたより高く、可愛らしかった。傷?そう言われて腕や足を見てみると、さっきまでの擦り傷、切り傷が消えていた。痛みも無い。頬もどこかで切っていたのだろう。
「あ、そうか。ありがとうございます」
言ってから、舐めて治るって何だろうと疑問が沸いてくる。血を止める意味で傷口を舐める事はあっても、それで傷口が塞がる事は無い。やっぱり彼女は人間ではないのでは?と思って、ようやく言葉が通じている事に気付いた。
「あっ!言葉。あなたも日本人?もしくは日本に来ている観光客とか?」
「ニホンジン?ニホン?少なくともあたしは観光客では無いよ。ここに住んでるんだし。ニホンジンというのは種族の名称か。あたしと君とは種族は違う」
女性の答えで彼女はここの現地人で、日本人では無いと言う。でも日本語は通じている。ドッキリとかかも。この辺は全部セットで、彼女は悪魔という設定で私を騙しているとか。傷は、そもそも血糊とかで、それを舐めとったとか。でも、制服は破れているし痛みもあった。とにかくもう少し聞いてみよう。
「じゃあ、なんで日本語を喋ってるんですか?ここは日本なんですよね?」
「ニホンゴ、言語の事か。言葉は君がここに来た時点で君の脳が弄られ、あたしの言葉が君の知っている言語に変換されるようになってるんだよ。ニホンというのは地名かな。ここはニホンじゃなくて、場所としてはニューツ。そもそも君の知っている世界とこの世界は全く別の場所にある」
ニューツ?そんな地名は聞いた事が無い。女性の説明だと、ここはいわゆる異世界という事になる。別の星や地球の秘境ではないと。でも、そんな事信じられる訳が無い。彼女が嘘を言っているという方がまだ理解出来る。
「その、ここが私が居た世界と違うって証明出来るんですか?」
「うーん、あたしは君が居た世界を知らないからな。例えば空とか星とか、生き物とか、君の居た世界と違うところがあるんじゃないか?」
「空は確かにこんな色じゃないし、星もこんなに近くに見えない。生き物も植物も見た事無いようなのしかいない。で、でも、作り物とかならあるんじゃないんですか。例えば映像で映し出すとか、全部機械で出来てるとか」
自分でも言っていてそんな事は無いだろうと思ってしまう。見て触れてきたものは全部リアルで、目で、肌で、匂いで感じている。どれだけ精巧な作り物でもまだそこまでリアルに表現出来る物は出て来ていない。
「別に信じなくてもいいけど、ここで生きていくには信じるしかないよ。君の種族はこんな事は多分出来ないだろう?」
そう言うと彼女は右肘を後ろに引いた。そしてパンチをするように右手を伸ばす。すると彼女の腕はゴムのように伸びていき、先ほどゴリラもどきが飛んでいった方へと向かう。再び戻ってきた右手はそのゴリラもどきを掴んでいた。彼女は自分の2倍ほどの大きさのゴリラもどきを軽々と片手で持ち上げている。ゴリラもどきは気を失っているようで、身動きせず、彼女はそれを地面にドスンッと落とす。
「はぁっ!」
彼女が両手を前に突き出すとゴリラもどきは真っ赤に燃え上がった。手から火を出したのだろうか。私は熱さを感じて数歩下がってその様子を見つめる。ゴリラもどきは数秒後には火が消え、消し炭になっていた。
「どう?」
「ば、化け物……」
手が伸び、火を出せる角と尻尾の生えた女性。その異様さを改めて実感し、私はそう口走っていた。そしてしまった、と思った。彼女が人間で無いなら、怒らせれば自分の身が危ない。そもそも助けて貰って、傷も治して貰っている。謝らないと。
「ご、ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」
「いいよ、別に。自分と異なる存在を簡単に受け入れられる訳は無いからね。でも、この世界で生きるにはこれ位出来ないとどうにもならない。まずはそれを知ってもらわないと」
女性は笑みを浮かべた。ただ、その表情が少しだけ寂しそうに感じる。しかし、どう見ても見た目は人間にしか見えない。角だって尻尾だってこの位なら作り物で出来る筈だ。手や火だって特殊メイクとか何か仕込んでるだけかもしれない。世界がおかしいとしても彼女自体は人間であって欲しかった。
「本当にあなたは人間じゃないんですか?そうじゃないとしたら、あなたはなんなんですか?」
「人間という定義だとあたしも人型だから人間だけど、君が言ってるのはそういう意味じゃないよね。あたしは解放を司る紅い星に仕える種族、デオ族のレレリ・トラトだ。でもデオ族と言っても分からないよな。“悪魔”と言えばその概念が分かり易いか。あたし達の種族は本能のままに自由に生きる事を美徳としている」
「悪魔……」
私の家は無宗教で、私自身も宗教に関する知識はあまりない。悪魔に対するイメージは狡猾で、人を騙し、堕落させる、人間ではない存在だった。でも、日本では漫画やアニメで見るくらいで、あまり馴染みのある存在ではない。ますます彼女の言っている事が分からなくなった。
「一応言っておくと、君の言語の悪魔の定義と同一ではないから。力任せに襲ったり、嘘を付いて騙したりするつもりも無いからそこは安心してくれ。他人に対して悪意を持った種族では無いから」
「じゃ、じゃあ、私を元の場所に案内して下さい。どこから来たのか分からなくなって」
悪い人では無いのかもしれない。そう思って、藁をも掴むつもりで聞いてみる。
「君がこの世界に現れた場所へ連れて行くのは可能だよ。でも、そこから元居たニホン?に帰す事は出来ないな」
「どうしてですか?ここに来れたなら帰る事も出来るんじゃないんですか?」
「あたしには帰す事は出来ない、というのが正しいね。君をこの世界に連れて来たのはこの世界にいる賢者の誰かだ。帰す事はその賢者でないと出来ないと思う」
女性から告げられた事は本当なのだろうか。騙して帰さないつもりなだけじゃないだろうか。ただ、どうしてもわざわざ嘘を付いているようにも見えなかった。
「そもそも、どうして私はこの世界に連れて来られたんですか?」
「それは、君が望んだからだ。向こうの世界に居た時、君はこんな世界に居たくない、消えてしまいたい、とか考えなかったか?」
そう言われてドキリとした。確かに先輩にフラれた直後、私はそんな事を思ったかもしれない。でも、こんな変な世界に来るのはもっと嫌だ。
「それは……。確かに少しはそんな事を考えたかもしれません。でも、だからといってこんな訳の分からない場所に来たかった訳じゃない」
「君にとってはそうかもしれない。でも、あたし達にとっては自分の住む世界だ。あたしはこの世界が好きだと思っている。それに、君は意味もなくここに連れて来られた訳じゃ無い。君はこの世界の役に立つ存在と認められたから、ここへ来たんだ」
自分が役に立つ?本当の事だろうか。まだ15歳の私に出来る事なんてあるのだろうか。彼女の言っている事が正しいのか分からない。そもそも彼女は何で私を助けたのだろう。
「一つだけ聞かせて下さい。初対面の私に対してどうしてそこまでしてくれるんですか。あなたに悪意が無いのは何となく分かりましたが、わざわざ私に近付いて来た事には何か理由があるんですよね?」
「この世界は崩壊を始めている。このままだとあたし達の種族はやがて絶滅するだろう。君はそれを止める事が出来る救世主だ。だから、デオ族の王であるあたしが君を保護しに来たんだ」
「え?救世主?」
この人は何を言っているんだろう。ゲームや漫画でこういう始まりがあるのは知っている。でも、自分にそんな要素は見当たらない。
「まあ、今のは冗談だ。いや、救世主っていうのは冗談じゃないが。あたしが君を助け、親切にしているのはあたしが君を気に入ったからだ。王と言ってもあたしは魔王と恐れられるほど我儘でね。救世主が来ると聞いた時は適当に殺して、死んでた事にするつもりだったよ。面倒なのは嫌いだし。でも、君を見て、観察して、心奪われた。こんな気持ちは初めてだ。
あたしは君の事が好きだ」
彼女がその言葉を口にした時、木の上に実っていた真っ赤な実が弾けた。弾けた実は綺麗な赤い粒子になって私達に降り注ぐ。真っ直ぐ私を見る彼女の顔はとても美しかった。恐ろしいのに、美しい。
私が先輩から聞きたかった言葉。それをこの女性は出会ってすぐに口にしてしまった。どうしてだろう。胸が苦しくなる。
「な、なに言ってるの……」
私は何も言えなくなり、ただただ動揺する。彼女の言葉には殺すという物騒なものも含まれていた。恐怖が無い訳でもない。でも、彼女のやや釣り目で大きな瞳が私を見つめている。からかっているようには見えない。
「だ、だって私は女だよ。この世界では同性を好きになるのが普通なの?」
「普通では無いな。いなくも無いが、大体は異性を恋人に選ぶ。でも、それがどうした?好きになったら男とか女とか関係無いんじゃないか?」
彼女の言葉が私の心を溶かしていく。同性だから好きになるのはおかしい。私の胸に刺さっていた棘。それを彼女はあっさりと引き抜いてくれた。
「そう、なんだ……」
「あたしの恋人になってくれるか?」
「え?」
感情が追い付かない。ここは異世界で、彼女は悪魔みたいなもので、一目惚れ(?)で私を助けてくれた。でも、いきなり恋人になってと言われても。それこそ、たぶらかす為にでたらめを言っているような気がしてしまう。
「ちょっと待って下さい。やっぱり私を騙してるんじゃないんですか?そんな会ってすぐに好きになるなんておかしい。そもそも私の事を気に入ったって、どこがですか?」
「茶色いショートヘアが似合ってるし、少し太い眉も、少し垂れた茶色の瞳も、小さい口も、少しふくよかな丸い顔もみんな可愛くてあたしの好みだよ。胸はそこまで大きくないけど、大きなお尻も、柔らかい太ももも、どれも魅力的に見える」
褒めているのだろうけど、所々貶されているようにも思えてしまう。それは彼女の方が見た目が完璧だからだろう。でも、彼女が私の事をきちんと見てくれているのは本当だ。先輩はきっとここまで私をじっくり見てくれていなかった。容姿だけでも見て貰える事は少なからず嬉しい。
「分かりました。でも、だからといって私があなたの事を好きになる理由は無いと思います」
「なんでだ?あたしは強いし、背も高いし、顔もプロポーションも完璧だろう?そっちの世界と美的感覚が違うのか?」
彼女は首を傾げる。身長は私より一回り大きく、胸も零れ落ちそうなほど大きい。長い赤毛はウェーブがかかり、美しく輝いている。顔はモデルと言っていい程に美人で、こちらの世界の服を着ていたらみんな振り返って見るだろう。先輩とは違った大人の女性で、嫌いになる要素などどこにも無かった。
「そうじゃないです。十分美人だと感じてはいます。でも、好きになるってそういう事じゃ無いんじゃないですか?その人の性格や好みを知って、しばらくしてから好きになるんじゃ」
「じゃあ、そうしよう。あたしとしばらく一緒に居れば、君もきっとあたしの事を好きになる。まずは名前を教えてくれ」
「名前……。木崎 希蘭です。苗字が木崎で、名前が希蘭」
「キランね。いい名前だ。あたしはさっきも名乗ったけど、名前の方がレレリだから。レレリって呼んでくれ、キラン」
勢いで名乗ってしまったが、それでいいんだろうか。それに、しばらく一緒にってどういう事だろう。
「名乗りはしましたが、まだ一緒にいるって答えた訳じゃ無いです。それに一緒にいても好きにならないと思います」
先輩を好きな気持ちはまだある。失恋したからってすぐ別の人を好きになるなんて、それこそ誰でもいいみたいじゃないか。
「でも、キランは多分この世界で一人じゃ生きていけないよ?どっちにしろ、あと十日で死んでしまうんだ。だったらあたしと一緒に行くしか無いんじゃないのか」
「確かに一人では……って十日で死ぬ?どういう事ですか!?」
「そっか、この世界の住人じゃ無ければ知らないか。この世界には君みたいによその世界から流れつく動物や道具がある。でも、この世界に着いて十日目にはそれは崩れていき、消え去る事になっているんだ」
どうしてそんな大事な事を最初に言ってくれないのだろう。ここに来てからまだ数時間しか経って無い筈。でも、十日以内に帰り方が分からなければそれで終わりなんだ。
「それは本当なんですか?私を連れて行く為の嘘だったりしませんか?」
「本当だよ。確かに人間がこの世界に来た事はあたしが生まれてからは一度も無い筈だ。でも、流れ着いた小動物を飼ってみて、実際に十日目に死んでしまったのをあたしはこの目で見ている。それは道具でも動物でも同じだし、人間だけ特別、という話は聞いた事が無い」
「分かりました、一緒に行きますからその連れて来たという賢者の所へ案内して下さい」
十日間を知らない世界で一人で調べるのは不可能だ。よく分からない植物だらけだし、化け物もいる所を一人で生きていける自信はない。だったら今のところ好意を抱いてくれているレレリを頼るほか無い。
「いや、それは出来ないね。あたしの仕事はキランをエグマまで連れ帰る事だし。第一、賢者がどこに居るか知らないし、どの賢者がキランを連れて来た賢者かも分からないしね」
「私を連れて行ったって、飼ってた動物みたいに十日で死んじゃうんでしょ。十日間弄ぶ為だけに連れて帰る意味はあるんですか?」
「それは違う。十日間で死なない方法があるから、キランは生き残る事が出来る。それに言っただろう、君は救世主だって。キランには生き残って貰って、デオ族の為に働いて貰いたいんだ」
「それこそあなたの都合じゃないですか。でも、死なない方法があるなら教えて下さい。まずはそれを聞いてから今後の事は考えます」
悪いが生死に関わる問題だ、騙してでもまずは十日以上生き延びるようにして、それから帰り方を探したっていい。
「セックスだよ。あたしとキランで結ばれればいい。そうすれば十日以上生き延びられる。あたしはお勧めしないけど、ここでやるかい?」
「え?セックスって性行為の事ですよね。女性同士で?また騙してるんじゃないんですか?やっぱり悪魔だから私をどうしても手に入れようって」
「あたしはキランに一度も嘘を言ってないよ。別に無理強いしてる訳じゃない。でも、キランが死にたくないって言うから教えたんだ。
性行為が必要なのは、この世界の住人として受け入れ、受け入れられたって証だから。別に女性同士でも問題無い。だから、キランが嫌がるのを無理にしたって死ななくなる訳じゃ無いよ。まあ性行為以外にも正式に結婚するんでもいいんだけど、あたしは一応魔王だし、そうするには色々と時間がかかるから、さ」
本当なのだろうか。色々とレレリに都合よく話を作ってるんじゃないのだろうか。それを確かめるにはレレリ以外の人間の話を聞くしかない。
「デオ族以外にもこの世界には人型の種族がいるんですよね?その人達の話を聞いてみたいです」
「アギ族か?ダメダメ、あいつらは頭が固いし、キランを見つけたら機械で持ち帰ろうとするぞ。それにアギ族はデオ族と敵対してて、どちらかの種族かしか生き残れない。絶対にキランと会わせる訳にはいかない」
レレリは自分の種族を救う為に私が必要だと言っていた。でも、そこにそのもう一つの種族のアギ族は含まれていないみたいだ。だったら猶更もう一つの種族の話を聞かなければ何が真実かは分からない。
「アギ族、デオ族以外はいなんですか?それこそ、その二つの種族と敵対していない種族は」
「賢者はどちらでも無いけど、そもそも奴らがどんな存在か、どこにいるかが分からない。あとは、なりそこないがいるけど、奴らはまともに話も出来ないぞ」
どうすればいいんだろう。レレリが居なければ生きていける自信はない。が、彼女の目的は彼女の国に私を連れ帰る事。他に情報が無い限りレレリを信じる事は出来ない。
「そのなりそこないが住んでいる所は知ってるんですね。そこへの道を教えて下さい」
「あいつらはキランの役に立たないよ。確かにこの近くになりそこないの村はあるけど。だったら、あたしの国に来た方が早いし、他の意思疎通出来る人間に会えると思うぞ」
「でも、それはあなたと同じ悪魔みたいな種族でしょ?それなら私はそのなりそこないの村に行きます。どっちにあるんですか?」
村と呼ばれるものならきっと何かある筈だ。元の世界に帰る手がかりもあるかもしれない。
「えー、意味ないぞ、行っても。どうしても行きたいなら案内してあげてもいいけど」
「いいです、方向だけ教えてくれれば」
「方向はこっちだけど、そもそも森を迷わずその方向へ進める?」
レレリが指差したのはゴリラもどきを一旦吹き飛ばした方向だった。森は生い茂り、赤い星の光も所々しか届かない。スマホは無くなったし、方位磁石も無い。その方向へ真っ直ぐ進むのは難しいとは自分でも思う。でも、ここで頼ったら騙され続けるかもしれない。
「分かりました。ありがとうございました。あとは一人でやります」
私はラケットを取り出し、それでぐにゃぐにゃした橙色の草をかき分けながら指差された方向へ進み始める。しばらくはこちらの様子を眺めていたレレリだが、やがて私の後を付いてくる。
「付いてこないで下さい。
って、あっ!」
レレリに文句を言いつつ橙色の草を抜けると少し開けた場所に前に見たウサギもどきが立っていた。ラケットを構え慎重に横を通り過ぎようとする。
「やっぱりダメそうじゃないか。しかし、美味そうなミッツだな」
レレリはウサギもどきの前に立ったかと思うと指を“パチッ”と鳴らす。するとウサギもどきは“ドサッ”と倒れた。
「何をしたんですか?」
「軽く衝撃波を当てただけだよ。ミッツなんて子供でも狩りをして捕まえられるのに、それも出来ないんじゃこの先危ないぞ」
ミッツというのがこのウサギもどきの名称なんだろう。美味そうと言っていたから食べるのだろうか。しかし、さっきからレレリの言う通りになっていてどうも面白くない。
「私だってこのラケットで倒そうと思えば倒せました」
「それ網が破れてるけど、そういう形の物じゃないよね。確かにうまく当てればミッツぐらいは倒せるけど、さっきのドドロが出てきたらそれじゃ無理だと思うよ」
ドドロというのがゴリラもどきの事だろうか。確かにその通りなので私は言い返せない。
「その時はその時です。ほっといて下さい」
とにかく進むしかないと私は再び歩き出した。
それからもレレリは黙って付いて来て、変な虫や凶暴な動物に襲われる度にそれを排除してくれた。最初はお礼を言っていたが、その度にベタベタとくっついてきたので、やがてお礼は言わずに半ば無視するようになった。
いつの間にか空の色が変わっていた。赤い星が沈んでいき、青い星が浮かんできて、混ざって世界が紫色になってきたのだ。
「キラン、一つだけ聞かせて欲しい」
レレリが立ち止まり、声をかけてきた。
「何?」
「本当にあたしの助けは要らないのか?あたしは邪魔か?」
レレリの表情は少し寂しげに見える。そんな表情をされたら心が揺らいでしまう。でも、彼女に依存してしまったらダメな気がしていた。
「……うん。私はあなたの助けは要らない」
「分かった。この先に川がある。川を下流へ辿っていけば、なりそこないの村に辿り着く。さすがに迷わないだろう。あと、これをあげる」
レレリは手を差し出し、その手の平の上には綺麗な赤色の天然石みたいなものが乗っていた。
「それは?」
「魔物避けのお守り。身に付けてればよほど凶暴な魔物以外は寄ってこない。勿論例外はいるけど、この辺りなら安全に進める筈だ」
「もらっていいの?」
「ああ、あたしはキランの事が好きだから。その気持ちだと思ってくれればいい」
私が手を伸ばすとその上にお守りを置いてくれた。本当か嘘かは分からない。でも、何となくレレリの言っている事は本当だと思えた。そして、今までの発言を少しだけ後悔した。
「ありがとう。
今までも助けてくれてありがとう。ここまでの縁かもしれないけど、レレリさんの事は忘れません」
「名前を呼んでくれて嬉しい。本当に困った事があったら助けに行く。キランが望むのなら。
じゃあね」
レレリは後ろを向いて去っていく。本当に森の奥に消えてしまった。何も言葉はかけられなかった。
しばらく進むと本当に川があった。水の色は薄い赤色で飲めるか怪しい。ラケットで触れてみても特に変化はなく、恐る恐る手で触ってみたが、感触は普通の水だった。
1人になったのでようやく身体を拭ける。ハンドタオルを水で濡らし、まずは漏らしてしまった足や股間を下着を脱いで拭く。替えの下着は無いので、水で洗ってきつく絞って履く。何も付けないより多少冷たくても履いていたいからだ。制服は脱いで、スポーツバッグに入っているジャージに着替える。腕や足の擦り傷を考えればもっと早く着替えていればよかった。そして傷を舐めて治してくれたレレリの事を考えてしまう。
彼女の行動は一貫して私を助けてくれていた。下心があったとしても、その好意は本物だったと思う。それを拒絶した事は本当に正しかったのだろうか。でも悩んでいてもしょうがない。
着替えた事で少し落ち着いたので、川辺の石に座って、今までの事を整理してみる。
・光るものを追って神社の階段を登ったら知らない場所に来ていた
これは自分の記憶だし、今も夢の中では無いので事実だ。
・ここは異世界で、日本では無いらしい
これはレレリが言っていた事なので真偽不明だ。スマホが圏外だったのは事実で、周りが異常な世界なのも事実だけど。
・自分をこの世界に連れて来たのは賢者と呼ばれる人(?)で、その人でないと元の世界に戻せない
これも真偽不明。が、これを信じないと戻る事への手がかりが皆無になってしまう。
・自分は十日で死に、それを止めるには性行為か結婚が必要
これはレレリが騙す為についた嘘であって欲しい。本当だとしても死とこの世界の誰かとの性行為の二択だけは避けたいところだ。
・この世界は崩壊を始めていて、自分はこの世界を救う救世主である
これが一番怪しい。漫画やゲームで主人公が最初に言われそうなセリフな気がする。そういえば昔見た魔法少女アニメで主人公が魔法のアイテムを妖精に貰って、それで変身したりしたっけ。変身は置いといて、私にも世界を救うような凄い力があるのだろうか。レレリと一緒に行動していた時を考えても、運動能力がこの世界の住人より優れてる、という事は無いだろう。レレリがやったみたいに炎を出したり、衝撃波を出したりが出来るのだろうか。
「むううううん、はっ!!」
力を込めて、気を放つ、みたいな事をやってみる。が、勿論何も出なかった。漫画みたいに、危機に陥らないと発揮出来ないとか?だったら最初にドドロというゴリラもどきに襲われた時に発揮していた筈。
やっぱり、救世主っていうのはレレリのでまかせなんじゃ。そんな事を考えていたらお腹が空いてきた。バッグの中を漁っても、携帯食のビスケットが一つとチョコレートが一箱しか入ってなかった。飲み物も飲みかけのスポーツドリンクのペットボトルが一つだけ。ビスケットを半分食べ、スポーツドリンクを少しだけ飲む。川の水を飲むのはどうしようもなくなってからだ。
他に何か役に立つものは無いか見てみたが、化粧ポーチと制汗スプレーとタオルぐらいしか入ってない。スマホは無くなったし、お金は役に立たないだろう。
“ガサッ”という音にビックリして、川の横の茂みを見ると、ミッツと呼んでいたウサギもどきが出てきた。どうしようかと思ったが、レレリに貰ったお守りの事を思い出し、それを取り出してみる。すると、ミッツは一目散に茂みの中へと戻っていった。
「レレリの言った事は本当なんだ」
お守りがあれば少なくとも今まで会った化け物に襲われずに済む。その点は本当に感謝しかない。
この世界に来てどれ位経ったのだろう。時計はしていないし、スマホを無くしたので、正確な時間が分からない。少なくとも3時間は経っている気がする。部活の後で疲れていた足は更に疲労が溜まってだるい。たまに休憩を取ってはいるが、ペットボトルも減ってきて、チョコレートも無くなってしまった。身体は睡眠を欲しているのが分かる。とにかく屋根のある場所で温かい布団で眠りたかった。
空の色は紫色から完全に青緑色に変わっていた。空には大きな青い星がいくつか輝き、その中の一つが最も大きく、青く強い光を放っている。よく見ると周りの景色もそれに合わせて変わっていた。川の色も濃い青緑色になり、周囲の森も青や緑の寒色になっている。たまたま歩いてきて景色の色が変わったのではなく、空の星に合わせて色が変わったように思えた。そんな中自分の黒いジャージの色は変わらず、自分の肌も照らされる光には影響されるが、木や水みたいに大きく色が変わっている訳ではない。レレリからもらった赤色の石は色を変えず、青い世界の中でより一層赤く見えるのだった。
そして気のせいかもしれないが、何か周りの空気が穏やかになった気がする。これまで寄って来ていた化け物もその姿すら私に晒さなくなった。もしかしたら青い星は太陽みたいなもので、化け物は青い星の下には出てこないのかも。そんな考えが私を油断させていたのだろう。
“ヒュンッ”と風を切るような音が耳元に聞こえた。次に感じたのは右腕の痛みだった。右腕を見ると、ジャージが裂け、そこから鋭く抉られた傷口が見えた。血が流れ落ちてくる。痛い。痛い。
そしてまた“ヒュンッ”と音がする。今度は左足の太ももだった。痛みをこらえて何かが飛んできただろう背後を見る。15メートルぐらい離れた川沿いにそれはいた。最初に見た印象は体長30センチぐらいのカワウソ。ただ、色は群青色で、目は三つあって正三角形に並び、口は見当たらない。耳は動物の耳ではなく、人間の耳が付いていて、そこだけリアルで気持ち悪い。身体は亀の甲羅みたいに堅そうで胴体に毛は生えてなく、後ろ足は短い。前足はタコの足みたいな触手がにょろにょろと動き、その先端が鋭くとがり、筒状になっている。きっとそこから何かをこちらに飛ばしているのだ。
私は急いで赤い石をカワウソもどきに向けて差し出す。カワウソもどきが一瞬びくりと動くのが見える。が、距離があるからか、逃げ出しはせず、その触手の先端をこちらに向ける。逃げないと。私はカワウソもどきと逆の方を向いて走り出す。が、また“ヒュンッ”と音がして、今度は脇腹の服が裂ける。痛い。全身が痛い。痛さによろけて躓き、私は川に滑り落ちる。深さは無いので流されたりはしないが、傷口が川に浸かり、赤い血が青い川に流れていく。これはマズイ。このままじゃ死んでしまう。
「嘘……」
私を追っているカワウソもどきは一匹では無かった。追っていたのとは別に対岸にも一匹、そして進んで行く方向に一匹、計三匹が私を取り囲むように立っている。追い込まれたのか、たまたまか。でも、もうどの方向にも逃げられない。川の水は私の体温を奪い、血を奪っていく。追ってきたカワウソもどきはゆっくりと私に迫り、その触手を再びこちらへ構えた。もう終わりだ。レレリと離れたのが間違いだったのだ。
私が全てを諦めかけた時だった。“バシュッ”っと音がして、追ってきていたカワウソもどきが爆発した。木っ端みじんだ。続いて“バシュッバシュッ”っと音が続き、対岸のカワウソもどきも前にいたカワウソもどきも砕け散った。何が起こったのだろう。
「もう大丈夫ですよ」
声は上からした。見上げると、空に何かが浮いており、そこに綺麗な女性が乗っていた。
「先輩?」
私の口からはそんな言葉が漏れていた。
「よかった、間に合って。すぐに降りますので待っていて下さいね」
空に浮いていたのは大きめの水上オートバイみたいな形をした乗り物で、白くて金属というよりは石のような質感だった。どうやって浮いているのかは分からないが、小さな動物の羽のようなものも左右に付いている。そして乗っている人物は同世代か、少し年上の少女に見えた。髪は紺色で長く、サラサラしている。目も青く、鼻も高く、ぱっと見で西洋人のように見える。でも、全体の輪郭というか、目元や口元が先輩に似ていて、凛々しく、美しかった。声は先輩より低いが、少し似ていると感じてしまう。肌は透き通るように白いが、レレリと違って露出度がとても低い服を着ていて、全身を包む白いローブのような服の上に青い立派な装飾の鎧のようなものを付けていた。頭にも羽飾りが付いたティアラのようなものを付けている。翼や輪っかは無くても、天使のような印象だった。
「あの、助けて頂いてありがとうございます」
立ち上がって乗り物から降りてくる女性に私は頭を下げる。この世界に来て、ようやくまともな人間と出会えたのでは、と期待してしまう。女性は私の手を引き、川から岸へと引き上げてくれた。
「いえ、貴方に何かありましたらわたくしの責任になってしまいます。無事発見出来て本当に嬉しいです。ああ、怪我をなさっていますね。急いで手当いたします」
「え、あっ」
またレレリみたいに傷口を舐められるかと思って身体が固まる。しかし、女性は私の身体には触れず、何か三角錐の青いガラスの容器ような物を乗り物から取り出し、それを私の方へ掲げた。するとそこから白い液体が煙のように吹き出し、私の全身を覆う。生暖かい感覚が全身を包み、赤ん坊のような優しい匂いが漂った。気が付くと私の傷口は塞がり、痛みも消えていた。
「これで大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます」
レレリのような原始的(?)な治療方法で無かったので、私はホッとした。そして、もしかしたら彼女はレレリと異なり、私に友好的で、元の世界に帰してくれるのではないかと期待してしまう。顔が先輩に似ているのも私を安心させてくれる。
「あの、私は日本から来たのですが、知らない場所に来てしまって。元の日本に帰してもらえますか?」
「はい、存じております。しかし、わたくしの役目は貴方を、救世主様を安全にブレウまで連れ帰る事です。何も心配する事はございません、わたくしに付いて来て下さい」
ここでまた救世主という呼び方をされ、私は一気に失望した。この人もレレリと同じなのだ。でも、私に救世主の要素がどこにあるのだろう。
「私の事を救世主って呼んでますが、なんでですか?」
「貴方はこの世界を救う為に降臨した、救世主様です。わたくしは貴方に仕える為に生きてきたのです」
「じゃあ、あなたもレレリと同じ、デオ族とかいう種族の人なんですか?」
「とんでもありません。あんな野蛮な種族とわたくし達アギ族は異なります。今のお話から推測すると、デオ族の魔王レレリと接触したのですね。デオ族の言っている事は嘘ばかりです。信じてはいけません」
女性は今までの笑顔から一転してかなりきつめの表情で言い切った。レレリが言っていた事が全部嘘という事なのだろうか。私の中で期待と不安がない交ぜになる。
「だったら、私は元の世界に簡単に戻れるんですか?お願いです、元の世界に戻して下さい」
「それはわたくしには不可能です。そもそも戻る必要などございません。救世主様はこの世界で何不自由なく暮らして頂ければいいのですから」
「レレリは言っていました。私をこの世界に呼んだ賢者なら元の世界に戻せると。その賢者の元へ連れて行ってもらう事は出来ませんか?」
女性が望むのがレレリと同じく救世主としての私だと分かっても、どうにかして戻れないかを懇願する。
「その点についてはデオ族の者の言葉は正しいです。ですが、賢者は複数存在し、みな姿を隠し暮らしている為、連れていく事は困難です。救世主様は望んでこの世界にいらしたのですよね?どうしてすぐに戻ろうとされているのですか?」
「望んでなんて……。確かに嫌な事があって、向こうの世界に居たくないと思いました。でも、こんな変な世界に来たいなんて思った事は有りません」
「救世主様はきっと勘違いなさっているのです。確かにこの辺りは変化が激しく、嫌悪感を催すかもしれません。ですが、我々の都ブレウはもっと穏やかで、美しく、お気に召すと思います。我々アギ族も救世主様を歓迎し、最高のおもてなしをする準備が出来ております」
女性はにっこりと微笑む。その笑顔はやっぱり先輩の笑顔に似ていて、私は見惚れてしまう。彼女の言っている事が本当なら、付いていってもいいのでは。そう感じてしまう。でも、甘い言葉には裏があるのではと身構える自分がいる。
「レレリは言っていました。私は十日で死ぬと。そしてそれを解くには、その……、誰かと性交する必要があると。それは本当なんですか?」
「そうですね、その情報についても正しいです。この世界に順応出来ない者は十日で消滅致します。ですので、救世主様には早く都に来て頂き、この世界に慣れて頂く必要があるのです」
またしても期待は打ち砕かれる。十日で死ぬのは本当なのだ。
「救世主って事は私が世界を救うんですよね。でも、私には凄い力も、この世界を救うような知識も無いと思います。本当に私が救世主なんですか?」
「はい、それは間違いございません。確かに救世主様に先程の獣と戦う力もこの世界を変革するような知識は無いかもしれません。我々もそれを望んでいる訳ではありません。救世主様にはブレウに来ていただき、普通に生活して頂き、お子様を生んで頂ければそれで十分でございます」
「子供を産む?」
女性からの言葉で気になったのは最後の子供を産むという部分だった。全く知らない世界で子供を産む事が救世主の役割なのだろうか。そうなると元の世界には一生戻れないという事か。
「はい。元気なお子様をお産みになる事が救世主様の重要なお役目になります。その為にわたくしはここへ参ったのです。わたくしは秩序を司る蒼い星に仕える種族、アギ族の聖女、シシル・ムオムと申します。救世主様、わたくしと子作りをして下さい」
「……え?だって、あなた女の子ですよね?」
シシルと名乗った少女の胸は鎧の上から見ても立派に膨らんでいる。私より大きいかもしれない。それに顔も声もどこから見ても女性だ。レレリと同じく、女性が好きなだけなのとも違う気がする。
「はい。聖女は全員女性です。安心して下さい。やって来る救世主様が男性でも女性でも問題無いように修行を行っております。救世主様が望むように、私が産む事も、救世主様が産む事もどちらも出来る準備がございます」
シシルが言う内容な強烈過ぎて理解出来ない。いや、頭が理解を拒んでいるんだろう。が、シシルの表情はとてもふざけているようにも見えない。
「そもそも、なんで子供を作る事が世界を救う事になるんですか?私を騙していませんか?」
「そんな、救世主様を騙すなんてとんでもございません。デオ族の者からこの世界についての話は聞いたのですよね。ただ、偽りの情報を植え付けられた可能性もございますし、最初からきちんと説明いたしましょう。この世界では大きな恒星が2種類あるのはご覧になりましたか?今出ているのは我々アギ族が崇める蒼い星です」
シシルが指差したのは空に浮かぶ星の中で一番大きく、それ自体が青く輝いているものだった。
「確かにあの星と似たような赤い星が沈んで、代わりに今の青い星が出てきたのは見ました」
「でしたら話はしやすいですね。この世界は紅い星と蒼い星が交互に昇り、1周する事で一日が経過いたします。蒼い星が出ている間は我々アギ族が活動しやすく、逆に紅い星が出ている間は敵対するデオ族が活動しやすくなります。そしてここ数年それぞれの星の力が増し、我々アギ族はこれ以上紅い星の力が増すと世界が崩壊し、滅ぶ、という結論に至りました。ですので、それを食い止める事が種の滅亡から逃れる唯一の手段なのです」
シシルの話は私には理解しがたい話に聞こえた。
「紅い星の力を抑えるにはデオ族の都、エグマにある紅い塔を破壊する必要があります。しかし、我々アギ族は赤の力の強いエグマに立ち入る事は出来ません。入れば運動能力が低下し、息をするのも絶え絶えになってしまうからです。そこで、我々は異なる世界からやって来る救世主様を待っておりました。救世主様はどちらの星の力にも影響されない為、エグマに入る事が出来るからです」
「でも、それだと子供を産む事は関係ないですよね。私が塔を破壊しに行かないといけないんじゃないんですか?」
「いいえ、そのような危険な役目を救世主様にお願いする訳には参りません。その役目は救世主様のお子様が行うのです。我々と救世主様の間に産まれたお子様も救世主様と同じく星の影響を受けなくなるからです。一人では勿論出来ませんので、複数人、出来れば10人ほど産んで頂ければ、と考えております」
シシルの話は衝撃的だった。私もまだ子供のつもりだが、自分が産んだ子供を危険な目に合わせるのはどうかと思った。そんな、道具を作るみたいに言われて、納得出来る訳が無い。
「そんなのおかしい。アギ族は自分の子供を大事にしない種族なの?」
「いいえ、そんなことはございません。アギ族全体で子供は国の宝として大事に守り、育てられます。ただし、今回はそういった話では無いのです。このままではいずれ世界が滅んでしまいます。それを食い止める為にはそれをなす者が必要なのです」
シシルは真剣に訴える。でも、私には世界が滅ぶとか、そういうのはよく分からなかった。その役目を負うのが自分である必然性が感じられないのもある。
「子供を産むだけなら別に私じゃなくてもいいんでしょ?だったら別の人を連れてきて、私は元の世界に帰して欲しい」
「救世主様はまだ勘違いをなさっていますね。救世主様の世界からこの世界に来られる者は限られているのです。本人の意思、世界を受け容れられる感受性、健康な身体、健全な精神。救世主様はそれら全てが適合したとても貴重な存在なのです。もし、救世主様が戻ってしまわれたら、数十年、いや、数百年別の救世主様が現れるまで待たなければならないと考えらえております。その時には我々の種族は滅んでいるでしょう」
シシルの言う事は本当なのだろうか。そんな、自分が貴重な存在だなんてとても思えない。
「あなたが言っている事は本当なの?私を騙す為に言ってるんじゃない?そもそも、私がそんな特別な人間だなんて思えない。きっと私の代わりにここに来られる人はいる筈。地球には何十億人も人間が住んでるんだから。それに、私はそんな危険な役目の為に子供を産むなんて嫌です。そもそも私はまだ15歳よ」
「まず、救世主様が特別な人間である事はこの世界に現れた事で証明されております。次に救世主様の世界の人間も我々と身体の構造はほぼ同じで、15歳という年齢でも十分お子様をお産みになる事は出来ると思います。わたくしも17歳になったばかりですが、子供を産む準備は十分です。もちろん救世主様のご希望でしたら数年ほどなら待つ事も可能です。それに産むのはわたくしでも問題無いと先ほど伝えた通りで、妊娠や出産が苦痛でしたらわたくしが産みます。これなら問題ないのではございませんか?」
感性が違うのだろうか。どうしてもシシルが言っている事が異常だと感じてしまう。
「そんなのおかしいよ、やっぱり。あなたはこんな、今日会ったばかりの好きでもない人の子供を産む事に拒否反応は無いの?しかもその子供は危険な目にあうのが決まってるんだよ?」
「全ては蒼い星の指し示すままにです。家族に向ける好意は有りますが、結婚も出産も好き嫌いで決めるものではありません。全て世の中がうまく行く事を考え、より良い組み合わせが選ばれるのです。そして我々聖女は特に優れた人間が選ばれ、救世主様のお子様を産む事を願って訓練をして参りました。そして今回顕現した救世主様に最も相応しいと選ばれたのがわたくしなのです。こんなに幸せな事はございません」
「ちょっと待って、結婚は誰かが決めて、その相手とするの?そしてあなたが私の相手に選ばれたって?それは誰が決めてるの?」
レレリは私を見てから気に入ったと言ってくれた。でもシシルは違う。アギ族にはそういうのを決める神様のような人でもいるのだろうか。
「機械、という表現が救世主様にも分かり易いでしょうか。アギ族が長い年月をかけて作り上げた、魔法と機械技術の結晶であるフフという装置が決めている事です。勿論結果に誤りが無いかの精査は人の手でも行います。しかし今までフフが誤った回答をした事はありません」
フフというのはこちらでいうコンピューターみたいな物だろうか。そうだとして、コンピューターに結婚相手を決められるのは嫌だと思う。
「じゃあ、あなたはもし好きな人が出来たとしても、その人とは恋も出来ないし、結婚もしないって事?」
「気が合う人が出来た時は友人として付き合えれば満足です。結婚したからといって別の人と会う事は禁じられたりしません。子供は国の宝として全国民で育てますし、親子も束縛し合うものではありません」
私はシシルの言葉を聞いて、そんな宗教が日本にもあった事を思い出した。すべては神様、というか教祖の決めた通りに管理されるという。私にはどうしてもそんな生活が幸せだとは思えない。
「でも、レレリは私の事を好きだって言った。アギ族と違ってデオ族は決められた相手意外と恋愛するの?」
「デオ族は野蛮で、欲望に忠実なだけです。力ある者が上に立ち、力の無い者には発言権すら与えられない、混沌とした世界に彼らは住んでいます。だからデオ族は進歩せず、未だに略奪だけの生活をしているのです」
「二つの種族が相容れない異なる種族だっていうのは分かった。でも、だからといって、争う理由にはならないんじゃない?お互い干渉しなければこの星で共存出来るんじゃないの?」
私は自分でも嘘くさいような言葉を述べた。自分の世界ではもっと些細な違いで争いや戦争が起こっていた事を知っているからだ。それでも、無益な争いを許容したくなかった。
「先ほどお話しした通り、この世界は崩壊が始まっています。星の力が増した以上、この星で生き残る為には紅い塔を破壊する以外ありません。我々は両種族が滅びるより邪悪なデオ族を滅ぼしてでも生き延びる選択をします。そもそも両種族の歴史は延々と続く争いの歴史なのです」
「本当に他の方法は無いの?両種族が協力すれば崩壊を止められるとか」
「ありません。我々アギ族は元々争いを好みません。今までもデオ族などの攻撃を防ぐ目的でのみ戦う道具を作ってきました。ですので世界の崩壊を止める方法の研究ももちろん行ってきました。しかし、先ほどお話しした、救世主様のお力を借りる方法以外に生き延びる方法は見つかりませんでした」
シシルの言っている事の真偽は私には分からない。でも、シシルがその内容を盲目的に信じている事だけは私にも分かった。正直先輩に似た少女と幸せに暮らせるなら、付いていくというのは悪くないとも思っていた。が、話を色々聞いた私にその選択肢は無かった。そもそも彼女と先輩は別人なのだ。
「色々質問に答えて下さりありがとうございます。あと、助けて頂いた事も。でも、私はシシルさんに付いていく事は出来ません。やっぱり救世主の事もデオ族との争いの事も私には納得出来ない。私を元居た世界に帰して下さい。私よりもっと救世主に相応しい人がまた来ると信じて」
「そうですか……。わたくしはあなた様なら救世主様に相応しい人物だと喜んでいたのですが、そのご意思は変えられないようですね。
分かりました、あなた様を元の世界に帰すお手伝いを致しましょう。その前に、お名前を聞いても宜しいですか?」
「はい。私の名前は希蘭です。苗字は木崎」
「キラン様。素晴らしいお名前です。わたくしの事はシシルとお呼び下さい」
シシルはウットリとした表情を浮かべる。レレリもそうだったが、やっぱり所々普通の人間っぽい反応をする。世界の崩壊とか救世主とか無ければレレリともシシルとももっと別の関係が作れたのではと思ってしまう。
「シシルさんは賢者の居場所を知っているのですか?」
「わたくしは詳しい場所までは存じておりません。国に帰れればその情報を集める事が出来ると思います。一緒に国まで付いて来てくれますか?」
シシルが騙しているとは思わないが、国に行ったらいけない気がした。
「それはちょっと。この川の下流になりそこないとかいう種族の村があるって聞いたので、そこまで案内して貰ってもいいですか?」
「なりそこない……セダの民の事ですね。確かにこの川を下っていけばセダの村がありますが、そこで賢者に関する情報は得られないと思います。セダの民は禁忌を犯した者達で、正直ご覧になるのは宜しくないと思いますが」
「でも、その人達も人間で、村を作ってるんでしょ。もしかしたら何か知ってるかもしれない」
本当は屋根のある家があればそこで一旦休みたかったのもあるが、それはシシルには言わない。食べ物も売ってれば欲しいが、そういえばこの世界のお金も持っていない。でも、シシルなら貸してくれるかもしれない。とにかくレレリともシシルとも異なる人の話が聞きたかった。
「分かりました、救世主様が望むのであればお付き合い致します。このホワスに乗って下さい」
シシルが指差すのは白い水上オートバイみたいな乗り物だ。正直もう歩きたくは無いのだが、乗ったら最後、連れ去られる可能性がある。レレリからもそんな忠告をされていた。
「大丈夫です、歩いて行きます。すみませんが案内をお願いします」
「分かりました。それと、先ほどライリの群れに襲われていましたね。ライリは蒼の星の間は本来そこまで凶暴になりません。デオ族の者から何か受け取っていませんか?」
ライリとはカワウソもどきの事だろう。シシルに言われて、赤いお守りを貰った事を思い出す。
「これを魔物避けだって言われて。でも、これのおかげで魔物は今まで寄ってきませんでした」
「これは……。汚らわしいモノです。蒼の星はこれを嫌います。そんなモノを持っていたらまた危険な目に合うでしょう。捨てて下さい」
「そうなんですか?でも……分かりました、捨ててきます」
そう言って少しだけ森の方へ入る。本当に捨ててしまっていいのだろうか。レレリよりはシシルが言っている事が正しい気もする。でも、レレリが言っていた事も合っていた。やっぱり捨てるのは忍びなくなり、私は鞄の奥の方にお守りをしまってからシシルの元へ戻った。
「では行きましょう。もう変獣が襲って来る事も無いでしょう」
変獣というのが魔物の総称なのだろう。シシルを騙しているのは少し心苦しいが、かといって完全に信用する訳にもいかない。
数分程歩いて、ようやく村らしいものが見えてきた。
「あれがなりそこないの村?」
「そうです。村といっても集まって暮らしているだけですが」
確かに村といっても小さな小屋のようなものが数軒並んでるだけだ。あとは川沿いに開けた平地があり、その周りは他と同じく変な木の林が囲んでいた。大分近付いたが外に人影は見当たらない。
「周囲に危険な生物はいませんし、セダの民は自ら攻撃を仕掛けてくる事はありません。安心して村に入って大丈夫ですよ」
「分かった、ありがとう」
シシルに言われて村に近付く。どこからが村なのかも分からないけど、近付くと臭いがきつい事に気付く。どうも木で作った小屋の前に吊るした紫色の果物みたいなモノが臭っているようだ。食用なのか、動物避けなのか。私は手で鼻を覆いつつ小屋の間を進む。周りには本当に人影はなく、小屋に人がいるのかも分からない。と、少し先の畑のような場所に一人の人物がいるのに気付いた。見た感じは全身汚れた白い毛で覆われた猿みたいだが、動物の毛皮を着ていて、鍬のような道具を持っている事で、他の野生動物と違うのが分かる。
「すみません、話を聞きたいんですが」
私は小走りで近付き、話しかける。
「ヒイィ」
なりそこないの男(?)は気付くと鍬を放りだして奥の小屋へと駆けていった。
「言ったでしょう、彼らは会話をしようとはしません。自分達以外の生物を恐れているのです。腕力もキラン様よりずっと劣るでしょう。辛うじて変獣避けの実を吊るし、変獣が少ないこの地で隠れ暮らしているのです」
「でも、道具も使ってるし、畑も作ってる。知能はあるんでしょう?」
「生きていく程度には、です。セダの民は蒼い星にも紅い星にも弱く、最初に滅びゆくでしょう。何より崩壊が早まっていて、その数は急速に減っています」
「崩壊って……」
私がそれについて聞こうと思ったら、背後の方から誰かが近付いて来るのに気付く。見ると、1人の少女(ボサボサの白い毛に覆われているが、少し覗く顔が女の子だった)がこちらへと近付いて来る。身長から察するに10歳ぐらいだろうか。その向こうには小屋から顔を出し、心配そうにその子を見つめる母親と思われる人が居た。
「スクいヌシサマ」
「なあに?」
少女が何か言おうとしたので、私は屈んでそれに反応する。
「スクいヌシサマ、ワタシタチのムラをスクってホしいです。あそこにノゾむコタえがアります……」
少女が指差したのは少し先に見える山の中腹だった。そこは植物が生えていない山で、指差した辺りには黄色い岩が光って見える。
「あの山?あそこへ行けばいいの?」
私の質問に少女は答えず、踵を返して小屋へと戻っていく。母親は少女が近付くと急いで抱き寄せ、小屋の扉を閉めた。
「今のは?何か言ってたけど」
「セダの民の言う事です、真面目に考えない方がよいかと。しかし、わたくしも油断していました。虚無の時にこの村に来るべきでは無かったです」
「虚無の時?」
「はい、間もなく蒼い星が沈みます。そして紅い星が昇るまでにほんの一瞬、間があるのです。それが虚無の時で、その時間が最近増えているのです」
シシルは何を言っているのだろうと空を見ると、確かに青い星は地平線に沈みかけていた。そして反対側からは赤い星がまだ昇ってこない。
「今ホワスを呼びました。危険ですので、これに掴まっていて下さい」
シシルがホワスを呼ぶと、ホワスは地面にがっしりと複数の棒を刺して固定される。そしてホワスの横から出てきた紐で私を縛り、地面に刺さった棒を掴ませる。
「何?どういう事?」
「虚無は全てを吸い込みます。紐で縛りましたが、切れる可能性もあるので、絶対に手を放さないで下さい」
シシルの回答はよく分からない。が、周囲が夜のように暗くなり、何となく不穏な空気が流れる。青かった世界は色の無い暗い夜へと変わっていた。すると“ゴオォォォ!”という地鳴りのような音がしてくる。そして突風が吹いた。風は村の川沿いの方へ向かって吹いている。
「キラン様、しっかりと掴まって下さい。1分ほど我慢すれば終わります」
私は何か言おうとしたが、風が強くなって声が出せない。やがて周りの物が吹き飛ばされていくのが見える。前方に有った男が入っていった小屋も徐々に破壊され、吹き飛んでいく。私の身体も引っ張られるが、何とかホワスの棒に掴まり、紐で繋がれる事で飛ばされずに済む。
体感時間は長かったが、実際にはシシルの言った通り1分位だったのだろう。
「酷い……」
周りは荒れ地になっていた。近くにあったなりそこないの小屋は殆どが破壊され、まるっきり吹き飛んでいる小屋も多かった。先ほどの男の小屋も、少女と母親の入った小屋も無くなっていた。
「まさかこんな近くで虚無が発生するとは。でも、キラン様が無事で良かったです」
「ねえ、さっきの人達は?吹き飛ばされた小屋はどうなったの?」
「虚無に吸い込まれた物は消えて無くなるそうです。先程のセダの民も虚無に飲まれたのでしょう」
「そんな……」
目の前で人が消えた事はショックだった。自分もシシルが居なければ同じだったのだろう。
「これがこの世界の崩壊の一部です。虚無の時が長くなればアギ族にも影響が出ます。ですから、救世主様の助けが必要だと申したのです」
「シシルさんはこの村の人が危ない事を知ってたんだよね?教えて、助ける事も出来たんじゃないの?」
「セダの民は弱く、他の土地では生きられません。それに虚無の発生位置は今のところランダムで、我々でも予知出来ません。結論から申せば、我々はアギ族以外を助ける余裕はありません」
シシルの言葉は冷たく感じられた。少女の言葉は片言だったが、村を救って欲しいと言っていたと思う。私には村を救うどころか、その少女一人すら助けられなかった。全身が重くなり、私は座り込む。どうしてこんな世界に来てしまったのだろう、という疑問を抱いて、私の意識は薄れていった……。