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寂寞

大学生たちの青春群像は悲しみを纏い、第2章へ突入する

五本目の缶チューハイを開け、ぐいっと流し込んだ。口内でしゅわっと炭酸が弾け、レモンの風味が香る。それを喉に押し込み、ごくり、と胃へ送る。飲み慣れた味だった。なかなか酒が飲めなかった私に、飲みやすいからと志村が勧めてくれたレモン味の缶チューハイは、今や宅飲みの定番となっている。私はもう一口、缶チューハイを流し込む。すると先ほど同様、炭酸が弾け、レモン風味が香った。

丸テーブルに缶を置く。そこで小さくコツン、と小気味の良い音がしたが、それ以外に特段の音はなかった。私と伊地知、山田のいる部屋は、動力源を失ったかのように、しんと静まり返っている。

今日は、山田と伊地知を私の家に招いて宅飲みをしていた。事故以降は各々バタバタして、あまり集まれていなかったから、三人の都合がついた今日、集まって飲むことにしていたのだ。飲んで、お互い色々忘れたり思い出したりしよう、というそういう魂胆だった。

卓上の料理は、まだ少し残っていた。冷凍の唐揚げと、私が適当に作ったインゲンと卵の中華炒め。作ってしばらく経って冷えてしまい、満腹も手伝ってあまり手を伸ばす気にはならなかったが、志村がいれば、真っ先になくなるおつまみだった。「これがうまいんだ!」と声を上げ、ビールで流し込んでは、「ぷはあ!」と気持ち良さそうに息を漏らすのだった。

「山田の奴、もう寝たんだな」

私の隣に座る伊地知が、小さくそうこぼした。その言葉を受け、先ほどまで正面に座っていた山田の方を見る。見れば彼は、床に横たわって、小さく寝息を立てていた。その目元には黄色い目やにが溜まっており、また、目から頬にかけて、乾いた涙が浮かんでもいた。

「山ちゃんは相変わらずだね。夜が深まると、すぐ寝ちゃう」

「そうだな。介抱しなきゃならない奴がいなくなったから、眠らなくなるとも思ったのだがな」

伊地知は、吐息交じりにそう言った。いつもは自信に満ち溢れている彼の表情が、今はやけに弱々しく見える。卓上の料理に興味を示さず、食い意地を張っていないのも、彼が弱っている証拠なのかもしれない。

そんな伊地知の表情に私も少し感傷的になっていると、彼は私の方を見て、太い眉を下げた。彼の丸っこい顔は、いつになく悲しげだ。

「なあ、苑子。お前は、大丈夫なのか?」

「大丈夫って、何が?」

「葬式から一週間が経ったわけだが、お前は、気持ちを切り替えられたのか?」

伊地知は私にそう尋ねた後、すぐに視線を逸らした。その顔を目で追うと、彼が小さく息を漏らしているのがわかった。

「そんなわけないじゃん。勝手に死にやがってって、未だに腹が立ってるよ。人をその気にさせておいて、他人を巻き込んで、それを全部放ぽって自分だけ死ぬなんて、本当最悪だよ」

「苑子は、怒ってるのか?」

「うん、まあね。これからって時にぽっくり逝きやがったから。ありゃ詐欺だよ、詐欺」

無意識に口を滑ったそんな言葉に、伊地知はきょとんとした。それから、視線を床に落とす。私はそんな彼を見て、言うべきでないことを言ってしまったかな、と申し訳なくなった。

「苑子、お前は強い」

「強い? 私が?」

「お前は、志村との別れを面と向かって受け止めてる。志村に対する怒りは、多分、悲しみを超えないと湧いてこない感情だ」

伊地知は言葉を床に落とすように、しっとりとそう話す。一言一言選びながら丁寧に発せられたその声は、小さくか弱い。いつもはふてぶてしく話す彼も、志村の死はさすがに応えているようだった。

「そんなことないって」

私は、自分でも驚くほどに志村の死が応えていなかった。未だに、彼がいなくなったという実感が湧いていないのだと思う。

私と別れたあの日、志村は、交差点を曲がりきれずに歩道へ突っ込んだ車に轢かれて亡くなった。その遺体は損傷が激しかったらしく、葬儀の場に彼の遺体はなかった。

人は、その遺体をもって人の死を認識するという。でも、私は志村の遺体を見ることができなかったから、葬儀を経ても、未だ彼の死を明確に実感できていないのだろう。私はそう考えていた。

「タカシが思ってるより強くはないよ、私」

「どういう意味だ?」

「私、まだあれから、一度も泣いてないんだ。志村に対して怒りを持ってるのも、まだ実感できてないからだと思う」

私は自分でそう言ってから、胸に何かがつっかえるような感覚を味わった。志村の死を事実として認識しているのに、感覚的にはそれを実感できていない。私の内にあるそんな自己矛盾が、違和感として胸につっかえているのかもしれない。

「羨ましいな。俺は、奴が死んでから、泣かなかった日は一度もないんだ」

伊地知は言ってから、口を結び、太い眉をぎゅっと寄せた。それからゆっくりと視線を落とし、小さく息を漏らした。私がそんな彼の姿を、まじまじと見つめる。彼は、小さく肩を震わせていた。

「タカシ……?」

肩の揺れが、先ほどよりも大きくなった。それで心配になり、私が背中に手を当てると、彼はなお俯いたまま、雫を一滴、床に落とした。私はそれに驚く。伊地知の涙など見たことはなかったし、見ることもないと思っていたのだ。

「タカシ、大丈夫?」

「大丈夫じゃねえって……なんで、なんであいつなんだよ……それも、これからって時に。あいつが、何をしたってんだよ……」

伊地知は肩を震わせ、涙声でそう絞り出した。視線は以前、床に向けられている。彼の目から滴る雫は止まる気配もなく、ぽたぽたと、床に落ちていった。ピンク色のカーペットが濡れる。さながら伊地知の座っている場所に、局所的な雨が降っているようだった。

私は伊地知が泣いている姿に戸惑う共に、胸の内をぐっと掴まれるような感覚に陥っていた。

私は伊地知が泣いたところを見たことがなかったし、今後見ることもないだろうと思っていた。私の中ではそれくらい、強く気を持っている人物だと思っていた。そんな彼が今、人目も憚らずぽろぽろと涙をこぼしている。それが意味するところは、一体何か。私はそれを理解し、胸の内をぐいっと掴まれたような感覚に陥ったのだ。

伊地知はなお、泣いている。

志村は、もういないのだ。

「タカシ、私もタカシの気持ちがわかった気がする」

私はそう言った時、鼻の奥がつんと痛むのを感じた。その痛みに無意識に反応し、鼻をつまむと、粘り気のないさらっとした鼻水が、じわりと溢れた。胸につっかえていたものが、溢れ出す。

「そうらしいな。苑子の泣き顔なんて、初めて見た」

「そうだね、初めて見せたと思う。だって、志村にはもう二度と会えないんだって思ったら、無理だった」

自分でそう言ってから、私はその言葉の意味をはっきりと理解してしまった。

志村は、いない。

目頭が熱くなる。

視界がぼやける。

言いようもなく、悲しい。

「本当、なんで志村なんだろうね」

「そんなんわかんねえって。それがわかったら、こんなに泣かねえって」

おそらくお互いの目には涙がとめどなく滲んでいて、おそらくお互いの脳裏には、志村の無邪気な笑顔が浮かんでいるのだと思う。

脳裏には嫌というほど焼き付いているのに、現実には志村はいない。あの無邪気な笑顔も、特有の軽口も、もうこの世にはないのだ。

私たちは無念と寂寞を分け合うように、お互いの肩に手を置いた。そうでもしなければ、このやり場のない気持ちを、消化できそうもないように思えたのだ。

私は嗚咽をする。伊地知も嗚咽をする。胸が苦しい。

圧迫感を覚えた。胸が押しつぶされそうなほどに痛い。

今まで実感できなかった志村への思いが、一斉に溢れ出ているような感じがした。

「二人とも、どうしたの」

山田の素っ頓狂な声がした。そこで私たちはようやく我に帰り、おもむろに赤い目を拭う。

「山ちゃん、おはよう......」

そうとだけ言うと、すっと涙が引いていった。


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