コミック本とビニール傘
一限を終え、葵たちと別れた苑子は、空きコマの時間を潰すため、部室へ向かった。
一限を終え、私は何気なく部室へ向かった。二限が空きコマなのだ。だから次の授業が行われる時間まで、時間を潰そうと思ったのだ。生協で適当に菓子パンを買ってから、部室へ向かう。
部室に着き、ドアを開け、中に入ると、部室の真ん中のソファで寝転がっている志村がいた。柄にもなく漫画を読んでいた彼は、私の入室に驚いたのか、ドアが開くなりびくりと体を起こし、私の方を見た。普段の彼ならあまり見せないような動作だ。
「なんだよ、苑子か」
「何驚いてんの?」
「いや、こんな時間に人来るんだなと思って」
「私、たまにこの時間もいるよ。二限空きコマだし」
「そうか。あんまりこの時間来ないから、知らなかったわ」
志村はそんな気の無い返事をしてから、視線を手元の漫画に戻した。今は話したくないのだろうか。それを察し、私はビニール袋からパン取り出しては、外装を開ける。そうしてクリームパンを食べながら、昨日あれだけ上機嫌だった志村の妙な大人しさに、違和感を抱いていた。
「その漫画、面白い?」
やはり少し心配になり、私は志村にそう尋ねてみる。
「別に普通」
「なんの漫画?」
「バンド漫画。さっき、一巻の最後に主人公の彼氏が死んだ」
「ああ、それ、多分私も読んだことあるわ」
表紙に心あたりがあった。おそらく、半年前くらいに志村が部室に置いて行った漫画だろう。古本屋で適当に買ったものの、読まなかったので、処分がてら持ってきたのだという。
「すげえあっけなく死んじゃったからさ、この男。びっくりしたよ」
「そう? それなりに死にそうな雰囲気出してなかった?」
「死にそうな雰囲気だなんて、物騒なこと言うなよ。人が、そう簡単に死んでたまるかってんだよ」
志村は、言葉を投げるようにそう言って、漫画本を閉じ、ソファの上に置いた。そうして起き上がり、ドア付近の椅子に座っていた私のもとにやってくる。
「苑子、そういや昨日はありがとうな」
そう言った志村の表情が、いつも通りの剽軽なものに戻った。ように見えた。
「ありがとうって、何が?」
「いや、「No photos」に入ってくれて、ありがとうって」
「別に志村がお礼言うことじゃないよ。私だって、志村たちと音楽やりたいと思ってたんだし」
私がそう言うと、志村は無邪気に笑った。
「そう思ってくれてんなら良かったよ。これからもよろしくな」
そう言った志村の口調が、妙に改まっていた。表情はいつも通りの剽軽なものに見えるが、その口調はいつになく堅苦しい。
「まあ、よくわかんないけど、よろしく」
「ああ、よろしく頼むな」
その言葉と共に、志村は私の頭に手を置き、優しく撫でた。志村の細い指が、するりと髪を滑っていく。胸がとくんと一つ、弾む。
「次の日曜って、空いてるか?」
「日曜? 午前中なら、多分空けられる」
「じゃあ、音合わせしようぜ。早く、苑子のギターが聴きてえよ」
志村は言ってから、またソファに戻った。
「また後で連絡してよ。音合わせする前に、ニュアンスとか確認したいから」
私がそう言うと、志村は振り向いてまた笑顔をつくり、それからまた、ソファに寝転がった。そうして自分で持ってきた漫画の二巻に、目を通す。私はそれを目で追ってから、私も手元のクリームパンをはむっとかじった。カスタードクリームが、むにっと口に流れ込む。
そこで私は、志村が読んでいる漫画の内容をふと思い出した。細かな内容まで覚えていなかったが、大まかなあらすじは覚えている。
「彼氏の組んでいたバンドのギタボを、死後主人公が引き継ぐ」という内容だったはずだ。
◯
三限の授業を終え、外に出ると、少し強めの雨が落ちていた。空は重く垂れ込んだ曇天で、朝見てきた曖昧な天気予報を信じて傘を持っていかないというバクチを打ったが、見事に外れた。私は、雨に怯えて帰路を行くという修羅を経験したくはなかったので、傘を買いに生協へ向かった。数百円の出費はばかにならないとは思ったが、濡れた髪や服を乾かすドライヤーの電気代もまた、ばかにはならないのだ。濡れたうえに電気代を余計に払うくらいなら、傘を買った方が多分賢いだろう。私はそう判断した。
生協には、ぽつぽつと人の姿が見受けられた。私のように傘を買い求めに来ている人もいるのかもしれない。私も含めた大学生には、思いのほか折りたたみ傘を持ち歩く習慣のない人が案外多いものだ。
私は店内を回ってビニール傘を手に取り、レジで会計を済ませる。レジを担当する不愛想な店員が、「ありがとうございます」と気のない声を出す。三九八円。思ったよりも高くついたが、やむを得ない。私は生協の外に出て、濡れて真っ黒くなった路面を見ながら、そう思った。
傘をばすん、と開き、さあ帰ろうと思ったところで、私は昼間にちょうど見たような顔を発見した。少しつった大きな目と長いまつ毛。志村だ。彼は、しばらくの間降りしきる雨を眺め、大きなため息をついてから、生協に入ろうとしていた。私はそんな彼に近づいて、その肩を叩く。
「よお、また会ったね」
「ああ、また会ったな」
「傘買うの?」
「そのつもりだった。この雨で傘無しはさすがにきついなと思って」
生協の自動ドアの前で、志村は大きなため息をついた。しかしそれから、私が持っているビニール傘に気がつくと、志村はじっと見つめた。
「苑子お前、良い傘持ってるな」
「そうだね。四百円もしたから、たぶん良い傘だと思うよ」
私がそう言うと、志村はもう一度ビニール傘に視線をやった。
「入る? いいよ、別に」
「悪いな。この恩は後で返すわ」
「別にそんなのいらないよ。一昨日、志村をスーパーで十二分待たせたし」
私が言うと、志村は首を傾げた。
「なんのことだよ」
「まあ、覚えてないなら良いや。行くなら早く帰ろうよ。雨宿りしてても、今日は止まないだろうし。そんな気がする」
私は言って、傘を掲げる。「ほら、入りなよ」
そうして私たちは、ビニール傘一つ、踵四つで、濡れた路面を歩いた。その端には、すでに水たまりが出来始めている。天気予報では降っても小雨程度だと言っていたが、今降っている雨を小雨とは言えないだろう。雨粒はそれなりに大きいし、勢いもあった。
雨粒が勢いよく傘を弾き、ばちばちと音を鳴らす。私の左隣を歩く志村はその音が気になるのか、雨粒の滴る傘を見つめていた。
「そういや俺ら、相合傘してるのな」
志村はこぼすようにそう言った。それから私を見て、小さく笑う。
「なんか、恋人みたいじゃん」
◯
大学からアパートまでのあの数分間を、あと何度思い出すことになるのだろうか。
◯
雨の帰路に、人の姿は見られなかった。雨宿りでもしているのかもしれない。大学近くの急な坂道を下るのは、相合傘で二人仲良く歩く、私と志村だけだった。
「元気ないじゃん?」
そう尋ねてみた。志村に、いつもほどの元気が感じられなかった。今だけではない。昼だってそうだ。今日の志村は、明らかに様子がおかしかった。
「なんか、今日は胸騒ぎがするんだよ。不安な感じがして、なんか落ち着かない」
「何それ。あんたってそういうキャラだったっけ?」
「今までこんなことなかったんだけどな。虫の知らせってやつか?」
志村は自分で言っていておかしくなったのか、ふっと小さく笑い声を上げた。
「虫の知らせね。でもまあ、あんたみたいなのは、死んでもひょっこり柩から出て来たりしそうだし、大丈夫でしょ。取り越し苦労だって」
「なんだよ、それ。俺だって、死ぬときは死ぬよ。神や仏じゃあるまいし」
志村は自分でそう言ってから、その言葉の意味を再度認識し直したのか、表情を暗転させ、視線を落としてしまった。私はそれを見て反省する。死に関する話題は、虫の知らせでナイーブになっている人にすべきではなかった。私は話題を探す。
雨粒は依然、ビニール傘に容赦なく降り注いでいた。
「そういえばさ、全然話変わるけど、志村ってそもそもなんで音楽始めたんだっけ?」
気の利いた話題が思いつかなかった私は、前にも一度聞いた話題をあえて選んだ。一度した話題ならば、志村もかえって答えやすいだろうと考えたのだ。
「それ、前に言わなかったっけ?」
「そうだった? ごめん、覚えてないや」
「覚えてないのかよ。まあ、もう一回話してやっても良いけどさ」
志村は少し面倒くさそうに頭を掻き、私の方を見る。その表情は訝しげであり、私は自らの安い嘘が勘付かれたことを悟った。
「俺が中二の時に兄貴にギターやってみって言われて、それがきっかけ。そんで、中三の夏に親から借金して、今も使ってるテレキャスを買った。そっからは、もうギターにどハマりして、暇さえあれば弾きまくってたよ」
志村は自分の過去を振り返りながら、少しずつ笑顔になっていった。ギターを始めた頃の胸の高鳴りを思い出したのかもしれない。
「どうしてテレキャスにしたんだっけ?」
「兄貴が使ってたからな。あん時の俺、ブラコンだったからな」
志村は、先ほどよりも軽い口調で、冗談めかしにそう語ってくれた。音楽の話になると、彼は自然に口調が弾んでいく。
「じゃあ、始めたきっかけにしても、選んだギターにしても、お兄さんの影響が大きいんだ?」
「そうだな。兄貴には感謝してるし、かなり影響を受けたよ。ギターを始めたのも、テレキャスを選んだのも、ついでに言えばプロを諦めようと明確に思ったのも、全部兄貴の影響だからな」
志村の言葉の中に、一つ引っかかるものがあった。「プロを諦めようと明確に思った」彼はそう言ったのだ。
「志村、プロを目指してるんじゃなかったの?」
「目指してねえよ。大学入る前に、そんな夢とっくに捨ててるよ。兄貴でも無理だったんだ。俺には無理だよ」
「とっくにって、あんなに真剣に音楽やってるのに?」
志村の音楽への真剣な姿勢は、大学で音楽に区切りをつける人のそれには到底見えなかった。
「プロを目指してないから、真剣にやるんだよ」
「どういうこと?」
「就職したら、忙しくて今ほど満足に音楽ができなくなるだろ? だから、思いっきり音楽ができる今くらい、真剣にやらせてくれって、そう思ってんだよ。俺の才能って平凡だからさ、凡人は凡人なりに足掻かせてくれって」
志村は私の目をしっかり見ながら、強い口調でそう語る。私はその言葉を聞きながら、彼が作詞した、とあるフレーズを思い出していた。
今日には今日の光があるから
写真には写らない光があるから
Shut up 過去の自分
今を生き抜く覚悟はできてるぜ
志村が私に聴かせてくれた、『No photos』のラスサビの歌詞だ。初めてこの部分を聴いた時、私はそこに込めた思いをはっきりと読み取ることができなかった。しかし今、彼の思いが、はっきりとわかったような気がする。志村は過去でも未来でもない、「今」を見ているのだ。
「なるほどね」
思わず、そう漏らしてしまう。
「何納得してんだよ。恥ずかしいって」
志村が私から視線を逸らす。
「いや、さ。志村が歌で私に何を言いたかったのか、何となくわかったから」
「凡人の歌を真面目に考察すんなって」
志村は私から視線を逸らしたまま、少しだけ口調を強くした。
「志村は自分の才能が平凡だって言うけど、少なくとも私は、志村の音楽に感銘を受けた一人だよ。その事実に、才能があるかないかは関係ないって」
私がそう言うと、志村は私に視線を戻す。その時、彼の少しつった大きな目が、悲しげに細まっていた。
「才能がある人が偉いわけじゃないって、私は思うよ」
気を使うでもなく、私が率直に感じたことを言うと、志村は俯き加減になり、しばらくアスファルトを見つめていた。そうしてしばらくの後、私に視線を戻し、「ありがとうな」と言葉を出す。雨は、未だ強く降り続いていた。
「じゃあ、私はここで」
私と志村は、足を止めた。大学から駅へ向かう途中にある、私の自宅アパートに着いたのだ。築三三年、白いのアパートが、私たちをのっぺりと見下ろしている。木造住宅の無彩色に囲まれたアパートは、住宅地の外観にすっかりと馴染んでいた。
「傘、もしあれだったら貸しても良いよ?」
「マジ? でも、申し訳ないな」
「いいよ、別に。所詮四〇〇円だし」
私と志村はそんな会話の後、アパートの一階にある駐輪場へ移動した。雨にもかかわらず自転車やスクーターが出払っているその駐輪場で、雨宿りをしながら、私は志村にビニール傘を渡す。
傘の柄が、私から志村の手に、移る。
「ありがとな。明日返すよ」
「ちゃんと返してね」
「おう、今日は色々ありがとうな」
志村は一度立ち止まり、じっと私の顔を見た。
「それでは、また明日」
志村はそう言い残し、手を振って駐輪場を出て行った。私はそれに手を振り返す。そうして手を振っているうちに、志村の後ろ姿がじわじわと遠ざかっていった。
志村の姿が見えなくなると、私は部屋に戻った。鍵を指して回し、ドアノブに手をかける。
部屋に入ってかばんを置き、少し暗い部屋を見渡す。その窓際のレスポール・ジュニアが、その黄色いボディを煌めかせていた。私の買ったTVイエローというカラーは、白黒テレビでもよく映えるという理由で名付けられたものらしい。だから、薄暗い部屋でもよく目立つ。忘れようと思っても、部屋の壁際にて、その存在感を存分にアピールしてくるのだ。
窓際まで歩き、レスポール・ジュニアを肩にかけてみる。そこで私は、次の音合わせにはこのレスポール・ジュニアを持って行くのだということを、再認識した。今までは「USG」の音に配慮をしていたが、「No photos」ならその配慮はいらない。思いっきり、レスポール・ジュニアを掻き鳴らせる。私は部屋の片隅で、そんなことを思った。
レスポール・ジュニアの確かな重みが、肩に伝わってくる。
これまでの日々が、ゆっくりと変わっていくような感じがした。