躍動
授業後山田と別れた苑子は、少し図書館で勉強をした後、帰路に着いていた。
授業を終え、少し勉強をしてから、私は帰り道を歩いていた。
大学近くの急な坂道には、授業を終えた学生が大勢歩いている。その格好は三者三様で、ライダーシャツにサングラスという派手な格好の学生もいれば、Tシャツにジーンズという比較的地味な格好の学生もいる。大学生ともなれば、服装にもそれぞれ個性が出始める。ファッションを自由に楽しめるのも大学のうちだけだ、という心理が働くのかもしれない。没個性ごめんだ、と思っているのかもしれない。私はファッションで個性を主張しようとは思っていないが、そういう感覚はわからないでもなかった。
かく言う私はというと、いつも通り全身黒コーデを決め込んでいた。長めの黒いパーカーと黒いTシャツに、黒いショートパンツ。いつも通りだ。私は現在、というか毎日、蜂に襲われる危険と隣り合わせで道を歩いているのだ。
洋服屋に行って自分の気に入った服を選んでいくと、いつも買い物カゴが真っ黒になっている。これではいけないと思い、先日、お洒落な麗と一緒に買い物に出かけてみたが、彼女の勧めるお洒落と思しき服をあまり気に入らず、せっかく付き合ってくれた彼女を不機嫌にさせてしまった。
「もう、一生喪服で生きていけばいいんじゃない!」とは麗の言葉だ。私は彼女のその言葉を聞き、謝ることしかできなかった。自分の意見がことごとく真っ黒にされれば、怒るのも致し方ない。私はそんな麗の言葉を真摯に受け止め、一生真っ黒な女として生きていくことを決めた。
そんなことを思い出しながら大学近くの坂を下っていると、パーカーのポッケに入れていた携帯が振動しているのに気がついた。電話だ。私は携帯を取り出し、画面をスライドさせて応答する。
「おう、苑子。これから時間あるか?」
志村の快活な声がした。奥でかすかにハイハットの音が聞こえる。スタジオにいるのかもしれない。
「ないでもないよ。夜からバイトだけど」
「そうか。じゃあ、今からいつものスタジオ来てくれ。新曲が形になってきたから、苑子に聴いて欲しいんだ」
私は山田の話を思い出す。彼は「近いうちに志村から連絡がある」と言った。私はそれで、向こう数日のうちに連絡があるのだろうと考えていたが、まさか数時間後に連絡があるとは思わなかった。山田よ、これはいくらなんでも「近いうち」すぎるではないか。
「今回はいつもに増して随分急だね」
「そうか? いつもこんなもんだろ。そう言いながら、苑子はいつも来てくれるもんな。じゃあ、待ってるから」
それだけ言い残し、志村は電話を切った。私は彼の身勝手さと無鉄砲さにため息をつき、携帯をポッケにしまう。志村が私に新曲を披露する時は、いつもこうだ。自分のタイミングで連絡を寄越し、私を慌てふためかせる。良い曲の時も難しい曲のときも、それだけは変わらなかった。
私は、大学からスタジオまでの時間を概算する。大学からスタジオまで一五分弱、大学から家まで五分。明らかに手間だ。私はまた、大きくため息をつく。
「まあ行くけどさ」と心の中で呟いた。
◯
「よお、よく来たな」
スタジオの中からその外にいる私を見て、肩からギターを下げる志村は、そう言って手を挙げた。その後ろ、ドラムを前に座る伊地知はぶっきらぼうにスティックを振り、ベースを肩から下げた山田は、申し訳なさげに小さく頭を下げていた。
「よお、じゃないよ。誘うの急すぎるし」
「まあ、そうカリカリすんなよ。いつものことだろ?」
「それが問題なんだっつーの」
「でも、何だかんだ言いながら、いつも来てくれるじゃん?」
志村の言葉を受け、私が不満に思っていると、志村は何のコードかわからなかったが、弦を抑え、思いっきりストロークをかました。
彼の愛用する赤と白のフェンダー・テレキャスターが大きく唸りをあげて、鋭く吠える。
「まあ、せっかく来たんだから聴いてけよ。絶対満足させてやるから。もし文句があるなら、曲が終わってからいくらでも聴いてやるよ」
志村のストロークで、私は彼らの音楽を聴く気になっていた。
彼の掻き鳴らした刺激的なギターサウンドが、私の根底にある音楽への衝動を思い起こさせたのだ。
初めて行ったライブで掛け声を上げて拳を突き上げた時の興奮や、初めてまともに曲が弾けた時に指に残った弦の心地よい感覚が、志村によるたった一発のストロークで、蘇った。
「わかった。大人しく聴くよ。曲名は?」
「『No photos』だ。今回はバンド名を持ってきてやったよ」
それだけ言い、志村は歯を見せてにっこり無邪気に笑った。さながら子供のようなそんな表情を見て、私はため息をつくと共に、つられて笑顔になってしまう。まったくこの男は、本当に楽しんで音楽をしている。
「じゃあ、いくぜ!」
志村のその一言の後、曲が始まった。
「ワントゥースリーフォー!」
イントロは志村のパワーコードで始まり、後から、伊地知のベーシックな八分と、山田のダウンピッキングによる勢いのあるビートが展開された。テンポは早いが、聴き心地は良い。志村の鳴らすフェンダー・テレキャスター特有のチャキチャキとした音を、堅実なリズム隊が支えている。山田のダウンピッキングは一糸乱れず安定し、エイトビートを着実に刻む伊地知の腕は、鞭のようにしなっている。
彼らの演奏に半ば見とれていると、志村がスタンドマイクに口を近づけた。イントロが終わり、Aメロに入る。
今日は明日昨日になって
明日は明後日昨日になる
時計の針はカチコチめまぐるしく回り
賽は振られ続ける
志村の声は、太くよく通る声だ。その音域はさほど広くなく、中高音域は喉を締めたような少し掠れた叫ぶ歌い方になるが、それが疾走感のあるオルタナティブ・ロックのサウンドにマッチし、「No photos」特有の「爽やかながら男臭い」雰囲気を演出してもいた。
今日は明日にはなくなって
明日は明後日にはなくなる
時計の針はコチカチ戻りはしない
僕は今何ができる
Aメロの歌詞は、共通して「時の流れ」を歌っているように感じられた。志村の歌詞は、自分の肌感覚を比較的わかりやすい言葉でストレートに表現することが多い。風景描写をほとんど使わないため、やや抽象的な印象になることもあるが、基本的にはすっと耳に入ってくる。メロディにうまくのっているのかもしれない。歌詞が「文字」ではなく「音」として、自然に響いてくるのだ。
現実は存外甘くないぜ
焦燥感 将来 タバコ吸って
(焦燥 感傷 ライター 跋扈 吸って)
しみったれた朝四時に
日が昇るのを見た
Bメロの歌詞は、彼なりに言葉遊びを入れてきたのかもしれない。あえてぼかすように歌い、はっきりとは発音しなかったが、「焦燥感 将来 タバコ吸って」とも「焦燥 感傷 ライター 跋扈 吸って」とも取れる発音をした。
間奏のギターを弾きながら、志村がにやりと笑って私を見る。私は「うまくねえよ」と彼を見つめ返してやった。歌詞はリズムよくメロディに乗っているから良いものの、字面だけ見れば意味の通っていない単語群にすぎない。決してうまい言葉遊びではないだろう。
間奏の後、伊地知がスネアを十六分で叩き、いよいよ曲がサビに入った。
志村はマイクスタンドに顔を近づけ、大きく息を吸い込む。
今日には今日の光があるから
写真には写らない光があるから
シャッター 切る間もねえぜ
一秒後 過去になるそのセツナ
「一秒後、過去になるそのセツナ」
志村がいかにもしたり顔で書いていそうな、そのクサいフレーズが、やけに印象深く耳に残った。彼が歌の中で最も伝えたかったのは、このフレーズなのかもしれない。
今、こうして「No photos」の演奏を聴いている瞬間も、しみったれた朝四時に志村と夜明け前の空を見ている瞬間も、ひいては大学生として自由に音楽ができるこの幸せな時間も、いつかきっと、取り返しのつかない「過去」になる。志村の歌い上げたワンフレーズから、私はそんなことを思った。一見当たり前のことだが、普段意識をしないだけに、改めて考えるとはっとさせられる。今過ぎた一秒は、もう二度と戻らないのだ。
志村がロングトーンを終えると、曲は長い間奏に入った。スタンドマイクから距離を置き、小さく跳ねた志村は、細長い人差し指と薬指を目一杯に使い、その名の通り力のあるパワーコード主体のフレーズを弾いていく。
歪んだ音色がスタジオに響き渡る。それに呼応するかのように、志村の目はきらきらと輝いていく。さながら水を得た魚のように、彼は自らの相棒たる赤と白のフェンダー・テレキャスターを、嘶かせた。その歪んだ音色が、スタジオを支配しているかのようだった。
志村のギターソロは、ひたすらに長かった。一分以上はあったかもしれない。後で考えれば、その長いギターソロは彼なりの自己顕示欲に起因していたのかもしれなかったが、その時の私はそんなことを考えず、ギターソロを弾く志村の心底楽しそうな表情と、歪んだギターの音色をただただ無心に追っていた。長い指が、ネックを縦横無尽に駆ける。そして志村は汗を流し、歯を食いしばりながらも、目の輝きを失わない。
胸の奥から湧き上がるのを感じた。鳥肌が立つ。ギターサウンドのもたらす興奮が、私を存分に高揚させる。
志村がスタンドマイクの前に戻って、ぐっと口角を上げた。ギターソロが終わる。曲がいったん落ち着き、Bメロに入る。
現実は存外甘くないぜ
焦燥感 将来 タバコ吸って
(焦燥 感傷 ライター 跋扈 吸って)
しみったれた朝四時に
日が昇るのを見た
志村はギターソロの疲れを微塵も感じさせず、Bメロを歌いきる。その掠れた声は、それこそ「焦燥」や「感傷」を消し去るがごとく、迷いのない響きだった。
曲が、ラスサビに入る。
今日には今日の光があるから
写真には写らない光があるから
Shut up いつかの自分
今を生き抜く覚悟はできてるぜ
志村はそんな最後のフレーズを歌い切ると、再びイントロのメインリフを弾いた。四つのパワーコードのみで構成されたそのリフは、爽やかだが、奥にどこか悲しみを感じさせるものだった。志村はこのリフを、一体どのような気持ちで作ったのだろうか。
リズム隊は相変わらずの安定感で志村のギターを支える。背筋を伸ばし、脱力したスムーズな動きで着実に叩き切る伊地知も、動きは少ないが曲のコード進行をしっかりと辿る山田も、その小慣れた演奏感が、これまでの努力を示しているようにも思えた。
志村が、最後のフレーズを弾き終え、大きくストロークをする。ギュイン、と心地の良いギターサウンドが響く。曲が、彼らの演奏が、終わった。
スタジオが静まり返る。
山田と伊地知が、大きく息を吐く。志村が、満足気に笑う。
私は、その時一体どんな表情をしていたのだろうか。
「苑子。どうよ、俺らの新曲は」
志村はそう尋ね、こちらに歩み寄って来る。その表現は、演奏中に見せた少年然とした無邪気なものであった。
「良かったと、思うよ」
私が率直な感想を言うと、志村は満面の笑みを浮かべた。彼の親指が、ぴんと立っている。
◯
スタジオの外で、私たちは四人並んでコーヒーを飲んでいた。志村が「一旦休憩しよう」と提案したのだ。あれだけ全力で演奏するとさすがに疲れたのだろう。山田と伊地知も同意し、ひとまず外に出て、自販機でコーヒーを買った。私と山田は微糖、志村と伊地知は無糖を選んだ。
「お子ちゃまだな」
私が自販機で微糖のボタンを押した時、案の定志村はそうからかってきた。面と向かってそう言われるとやはり少し腹は立ったが、私は気にせず微糖の缶を開けた。そんなことよりも、あれだけの演奏を間近で聴かせてくれた感謝の方が、大きかったのだ。
「苑子、居酒屋で言ってたこと、忘れてねえよな?」
隣にいた志村が飲み終えた缶を握りながら、私を見る。そして私も、志村を見つめ返す。
さっきの演奏で、私の気持ちは固まていった。もう、迷いはない。
「忘れないよ。私も、「一秒後に過去になるセツナ」を後悔したくないから。志村みたいに、今を全力で楽しみたい」
志村をじっと見つめたまま、宣言するような気持ちでそう告げた。そしてその瞬間、心臓が軽く跳ねる感覚がした。今まで言えなかったことが、思いのほかすっと口をついて出て、驚いている自分がいる。
「言質取ったぜ。絶対後悔すんなよ」
私の言葉を聞くと、志村はにっと笑った。私の肩に手を置く。
「じゃあ、よろしくな。「No photos」のリードギター兼コーラスさんよ」
志村がそう言うと、山田と伊地知が同時にこちらを向いた。そうして二人揃ってポケットから何かを取り出すので、私は訝る。
「ようこそ、「No photos」へ!」
その声と共に、パン、と大きな音がした。私は急なことに驚く。こげっぽい臭いがした。山田と伊地知が、一斉にクラッカーを鳴らしたのだ。
「ちょっと待って、どういうこと?」
「昨日の夜、タカシに苑子が入りたがってたことを言ったんだ。そしたら、タカシがクラッカーを用意しようって言ってきて、そんでこうなった」
志村にそう言われ、伊地知の方を見ると、彼は丸い顔を綻ばせ、照れ臭そうに笑った。
「めでたい出来事にはクラッカーが定石かと思ってな。用意させてもらった」
視線を合わせず、顔を少し赤くしながら、伊地知はそう言った。
「タカシ、顔に似合わず結構粋なことをするのね。見直した」
「顔に似合わず、とは聞き捨てならんな」
「冗談だって。本当、ありがとうね」
私が笑いかけると、伊地知も表情を明るくした。普段はぶっきらぼうな彼だが、やはり根は優しいのだな、と思う。
「山ちゃんも、わざわざありがとうね」
「いやいや、僕はタカシが用意してきてくれたクラッカーを鳴らしただけだから」
山田は、やはり謙遜をした。真面目だが案外ノリが良いのも、彼に好感が持てる理由だろう。
私は山田に笑いかけてから、志村の方を向く。彼もまた、口角を上げて満面の笑みを浮かべていた。
「ここで祝杯、といきたいところだけど、苑子はこの後バイトらしいからな。まあ、シケた缶コーヒーだけど、新メンバーの加入を祝って、乾杯しようや」
志村が、そう音頭をとった。それを合図に、私たちは各々手元の缶を近づける。
「乾杯!」その掛け声と共に、それぞれ缶を当て合い、コーヒーを飲み干した。微糖の、ほんのり甘い味がする。やはりコーヒーは微糖が好きだ、と思った。無糖の渋い苦さよりも、ほんのり甘さがあった方が、飲みやすくて良い。
ふと、「USG」のメンバーたちの顔が浮かんだ。この間の音合わせでの葵の悲しげな顔も、頭をよぎった。やはり、彼女たちには申し訳ないという思いも、ある。
でも今は、今だけは、私を律する主導権を私にくれ、と思った。
おそらく社会人になれば、自由に音楽をやるほどの時間的余裕も、精神的余裕も、今ほどはなくなってしまうだろう。だからこそ今、志村と一緒にやりたい音楽をやらなければ、私はいつかきっと、後悔してしまう。そう思えた。
「まあ、音頭取っておいてなんだけど、俺、もうコーヒーないんだよね」
志村がそう戯けると、私たちはそれぞれ、小さく笑った。胸の底から、温かい感覚が湧き上がってくる。これから、こういう時間がもっと増えるのだろうと思うと、私は胸が踊った。今の私ならなんだってできると、根拠のない万能感を抱いたりもした。
「USG」のメンバーとは、今度ゆっくり話をしよう。話せばきっと、彼女たちもわかってくれるだろう。
志村の笑顔がこちらに向く。
だから今は、これで良いんだ。
◯
バイトを終えて自宅アパートに帰り、かばんを床に放り投げて、私はベッドに倒れ込む。今日は色々あって疲れた。バイト中は気分が上がっていたのでどうにか乗り切れたが、いざ終わると、それが空元気だったことに気がつく。体が、だるくて重い。シャワーを浴びる気にも、何かを食べる気にもなれない。私はベッドに横たわったまま、ぼんやりと部屋を見回した。
ふと、窓際のギタースタンドに目がいった。青春時代を共にした、TVイエローのギブソン・レスポール・ジュニアがそこにある。
中学と高校の間の春休み、好きなバンドのギタボが使っていたからという理由で、親から借金をし、高校時代のバイト代すべてで返済した代物だ。右も左もわからないままデザインが気に入って買ったが、その上品ながら力のある音と丸っこいフォルムには存分に満足しており、愛着はかなり湧いていた。
私は立ち上がり、もう数年は弾いていないアコギの横にあるレスポール・ジュニアを肩にかけてみた。最近は昔のように楽しく弾いてやれていなかったが、その黄色いボディは確かに、私の眼下にある。
私は、バンド活動をしていた高校時代を思い出した。あの頃は、今よりもっと、楽しかったような気がする。レスポール・ジュニアと曲を作り、それをメンバーと演奏する。私の青春はこのTVイエローのレスポール・ジュニアと共にあったといっても過言ではないだろう。
そんな感傷浸っているうち、いよいよ瞼が重くなってきた。私は億劫には思ったが、理性でレスポール・ジュニアを置き、浴室へ向かった。そこからは脊髄反射的にシャワーを浴びて歯を磨き、泥のような深い眠りについた。
「エイトビート」...ポップスやロックなどに用いられるリズムの中で最も多いもの。すごく雑に言うと、「ドッタドドタ」というようなリズム。
「パワーコード」...ものすごーく雑に言うと、ロックなどで頻繁に用いられる力強いコードのこと。人差し指と薬指だけを使って押さえます。比較的習得が容易なコードですが、今でも様々な曲に使われます。
「オルタナティブ・ロック」...ロックミュージックの一種です。オルタナティブという単語は「もう一つの」という意味があり、このジャンルの黎明期に主流だったパンク・ロックやヘヴィメタル、ハード・ロックとは一線を画す、反商業的なロックのジャンルとして成立しました。わかりやすい例で言うと、凛として時雨やKANA-BOON、UNISON SQUARE GARDENといったバンドは一応このジャンルに入ると思います。