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伊地知と山田

志村との会食の翌日、苑子はいつも通り大学へ行き、講堂にて、友人でNo photosのメンバーである伊地知と出会う。

「今日の君は、寝癖の形が違う」と二限の授業終わりに、伊地知から言われた。

私は、だだっ広い講堂の一角、教授から一番見えにくい席にて、机に突っ伏しながら「メリープハイドか」と突っ込んでやる。伊地知が、『メリープハイド』というバンドの歌詞を引用してきたのだ。

「あのバンドの何が良いの? 私には良さがわからないんだけど」

「聞き捨てならん。ボーカルの声が一番の魅力だ」

「私からすりゃ、そのボーカルの声が受け付けないんだけど」

「聴きたくないなら聴かなきゃ良い。かわいそうだから聞いてやるだなんて、思うなよ。余計なお世話だ」

伊地知のメリープハイド愛を聞き、ほぼ真っ白のルーズリーフを鞄にしまうと、私は席を立った。彼からはたびたび『メリープハイド』を勧められるが、ボーカルの声がどうも苦手だった。

「タカシは、昼どこで食べるの?」

「今月は昼食抜き月間だからな。夜まで我慢だ」

「ああ、またやってるんだ」

「そうだな、腹が減ってかなわん」

一人暮らしでバイトもしていない伊地知は、大学に入って以降、常に金欠の状態だった。彼の薄汚い財布が潤っていたことは、まず見たことがない。

「で、夜は何を食うの?」

「今日はマヨご飯だ」

「それだけ?」

「無論。金欠だからな」

伊地知は悲観するでも自慢するでもなく、低い声を出した。

「よくやるよ、本当。私には絶対にできないわ」

「やむを得ない。これも、プロになるための試練だと思ってるよ」

そう言って、伊地知は講堂の出口へ向かった。私は彼ほど金欠ではないので、昼食は当然食べる。私は手を振った。

「俺はここで」

「じゃあね」

伊地知は、講堂を出て行った。その後ろ姿を見て、私はふと、彼が新歓でした自己紹介を思い出す。

「俺は、プロを目指してます。生半可な覚悟の奴は、俺とバンド組もうだなんて、思わないでください」

彼は新歓でそんなことを豪語し、注目の的になった。そんな彼をしつこく口説き、自身のバンドに加入させた男こそが、何を隠そう、あの志村だったのだ。

プロを目指していると豪語するだけあって、伊地知のドラムへの情熱はただならぬものがあった。ドラムのために家賃の高い広々とした地下のアパートを借り、暇さえあれば練習をしているのだという。バイトをしていないのも、練習時間を確保するためだそうだ。私は彼のそんなストイックな姿勢を、尊敬していた。

伊地知とバンドを組んだら楽しいだろうな、と思う。ドラムが安定していると、他の演奏者は安心するのだ。演奏する空間に強固なリズムの壁に構築してくれ、その壁に従って進んでいけば、間違いなく良い演奏ができる。そういう安心感を、テクニックのあるドラマーは与えてくれるのだ。

講堂を出て廊下を歩きながら、鈴木聡子がインフルエンザにかかった去冬のライブを思い出していた。あの時は急遽代打をお願いしてしまったが、当日の伊地知は完璧に叩いてくれ、他のメンバーも落ち着いて演奏できていた。あの時の心地の良い感覚は、今でも忘れることができない。

大学生協へ向かうため、階段を降りる。そこで私は、また彼にドラムを叩いて欲しいなと思った。安心してギターを鳴らせるあの感覚を、やはりもう一度味わいたかった。

「No photos」に入れば、それも叶う。そんな当たり前のことも、同時に思った。



大学生協で菓子パンを買い、私は次の授業がある講堂へ向かった。必修科目とあって次の授業は履修者が多く、毎度講堂は満員になる。だから、昼休みから席取りをしなければ、最悪の場合立って授業を聞くことになるのだ。授業が終わるたびに誰かしらが教授に不満を漏らしてはいるが、改善される気配はない。この大学は、一体どうなっているのだろうか。

そんなちょっとした不満を胸に講堂へ向かうと、席は埋まり始めていた。人気のある後ろの方の席はすでに座れそうになく、満員御礼と言わんばかりの大盛況だ。私は教室を見まわし、やむを得ず前方の席に座ることにした。

前の方の席を眺めていると、教卓の真正面の席に、見覚えのある人物が座っているのが見えた。私はその隣に座ろうと思い、向かう。

「山ちゃん、ういっす」

その人物ー山田は、私がやって来たのを見ると、三人がけの席の真ん中に置いていた荷物を自分の方に寄せ、耳からイヤホンを外した。私はその配慮に小さく頭を下げ、真ん中の席に荷物を置いて、座る。

「No photos」でベースを担当する山田は、授業を毎度最前列で受ける、奇特で生真面目な男なのだ。

「山ちゃんは、今日も一番前なんだね」

「まあ、いつもそうしてるしね。惰性だよ」

山田は照れ臭そうに笑ってから、先ほど外した黒いイヤホンを丸め、専用と思しきケースに入れた。その手つきがいちいち丁寧で、そこがまた彼らしいなと思う。

「やっぱり前だと、後ろより授業の聞きやすい?」

私がそう尋ねると、山田は口を結び、眉を寄せ、真剣そうに考え始める。

「うーん、ちょっと嫌味っぽい言い方になって申し訳ないんだけど、後ろに座ったことがないから比較のしようがないっていうのが答えかな。大学入ってから前の方にしか座ったことがないから、前より後ろの方が授業が受けやすいかはわからないね。ただ、後ろには、結構喋っちゃう人もいるっていう話は聞くから、おそらく前の方が質の高い授業を受けられると思うよ」

私の何気ない質問に、山田はとても丁寧に答えてくれる。鄭重(ていちょう)と謙虚さが服を着て歩いているような彼は、何に対しても真摯に取り組む。そのためベースもうまく学業成績も優秀なのだが、決して驕ることはなく、常に向上心を持って物事に取り組んでいた。

「すごいな、山ちゃん。私も、「前にしか座ったことないから」とか言ってみたいわ」

「別に、そんなにすごいことでもないよ。だって僕が前に座ってる動機なんて、スーパーで野菜を選んで買うのと一緒だよ?」

山田は目尻にしわを寄せて、優しそうに笑った。

「野菜を選ぶのと一緒ってどういうこと?」

スーパーで野菜を選ぶ身としては、少し興味があった。

「いやあ、大した意味じゃないんだけどね。僕が思うに、スーパーで野菜を選ぶ動機って、費用対効果だと思うんだよ。同じお金を払うなら、美味しい野菜を買いたいっていう心理だね」

私は、山田の言ったことを自分に引きつけて考え、そうかもしれないと納得した。どうせ同じ代金を払うなら、少しでも良いものを食べたい。そういうけち臭い心理から、私は野菜を選んで買うのだ。

「それで、それが前に座るのとどう関係があるの?」

「まあだから、それを大学の授業に適用すると、同じ授業料を払うなら、より質の高い授業を受けたいっていうことになるんだよ。僕は大学での四年間をモラトリアム期間だと捉えてるけど、やっぱり学生の本分は勉強だからね。せっかく高い授業料を払うなら、前に座ってより質の良い授業を受けてやろうって思ってるんだ。野菜をスーパーで選ぶのって結構みみっちいよね? でも僕って結構みみっちい奴だから、性懲りも無く前にずっと前に座り続けてるんだ」

山田は、淀みなくすらすらとそう話した。その時の彼は「みみっちい」の部分をいやに強調していて、現に野菜を選んでいる身としては堪えた。私は「みみっちくても良いじゃないか!」と答える代わりに「お見それいたしました」と答え、メロンパンの袋を開けた。そうしてそれを、大口でかじる。乾いたメロンパンのクッキー生地は、何故だかいつもより硬く感じられた。

「そういえば、最近バンドの方はどうなの? そろそろ、次のライブに向けて動き出す頃でしょ?」

単純に気になったので、私はそう尋ねてみる。私たちのサークルは約一ヶ月半後の11月に、毎年恒例の文化祭ライブをやる予定になっているのだ。

「そうだね。今は貴充が持ってきた新しい曲の練習をしてるよ。最近歌詞も完成したみたいで、順調に進んでるから、もうほぼ完成に近いかな」

「へえ、志村が新しい曲を書いてきたんだ」

私に何も言っていなかったあたり、温めておきたかった楽曲なのだろう。

「今回はどんな感じの曲なの?」

「いつも通り、貴充や僕らの好きなオルタナとかパンクっぽいサウンドだよ。多分、聴いたら苑子も気に入ると思うよ」

「本当? 志村って、たまによくわからない曲作るからなあ」

志村の楽曲は基本的には良いのだが、時折血迷うことがある。

「前回の酒の歌とか、どういう心理状態だよって思ったし」

エイトビートにビールの魅力をのせたところで、良い曲にはならない。

「まあ、貴充は自分のやりたい曲をやるって感じだから、たまに変な曲もあるよね。でも、今回は貴充も本気だから大丈夫。苑子も、絶対気に入ると思う」

そう言った山田の表情がそれこそ「本気」なので、バンド全体としても今回は相当気合が入っているのだろうと察することができた。

「じゃあ、期待しとく。完成したら聴かせてね」

「たぶん、「近いうち」に貴充から連絡があると思うよ。その時は、ちゃんと聴いてあげてね」

「近いうち」の部分を強調して言い、人の良さそうな笑顔を浮かべてから、彼は教科書とノートを取り出す。

その際に見えた彼の左手には、去年から変わらずサポーターが巻かれていた。山田は去年の夏前に腱鞘炎になってしまったことがあり、それ以来ずっと、左手に黒いサポーターを巻いていたのだ。

「腱鞘炎、まだ治りきってないの?」

「いや、もうほぼ完治してるよ。これも惰性でつけてるだけだね。つけてた方が、なんとなく安心するんだ」

山田は左手をグー、パーと動かし、完治をアピールした。

「治ってるなら良いんだけど」

「発症から一年以上経ってるし、もうさすがに完治してるよ」

山田はそう言った時だけ、少し遠い目をした。

「もう、無理したらダメだよ。あの曲者二人を抑えられるのは、山ちゃんくらいなんだから」

山田がいなければ、「No photos」はとっくの昔に解散しているだろう。あのバンドには、良心たる山田の存在が不可欠なのだ。

「ありがとう。でも言われなくても、もうあんな無茶な練習はしないよ」

山田は小さく笑って、サポーターの巻かれた左手を振ってみせる。私はそんな彼の姿に、安心する。やはり、山田は強い。

山田は、「No photos」からギターとベースが同時に脱退した後に、後任として加入した。しかし、当時の彼にとって志村の求めるレベルは高く、それに応えんと無理を重ねた結果、加入から数ヶ月後に腱鞘炎を発症した。後の伊地知の話によれば、山田は「本当の限界になるまでその素ぶりを見せなかった」らしく、腱鞘炎の発症には、彼の生真面目で責任感の強い性格にも原因があるようだった。

「あの時は、僕が不甲斐ないばっかりにみんなに迷惑かけちゃったからね。もうあんなことにはならないように、僕もベースっていう楽器と真摯に向き合うことにしたよ」

私が回想を終えると、山田は三人がけの真ん中の席に置かれたギターケースを優しく撫でて、目尻にしわを寄せた。

「だから、もう心配はいらないよ」

山田のその言葉を受け、本当に心配はいらないなと思った。努力ができて決して油断をせず、向上心と責任感がある。山田は、そんな男なのだ。

「わかった。本当に大丈夫そうで、安心したよ」

私は言って、そう笑いかける。すると山田も優しげに笑みを浮かべた。

あたりの席はいよいよ埋まり始め、講堂も騒がしくなってくる。もうじき授業が始まる。私の隣、山田は、以前穏やかに微笑んでいた。

鄭重と謙虚さが服を着て、私の隣に座っている。

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