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苦い思い

一ヶ月ぶりの音合わせで演奏が噛み合わず、打ちひしがれた苑子は、スタジオ近くの駐輪場で一人、缶コーヒーを飲んでいた。

他のメンバーがスタジオ内のベンチに座るなか、私は一人、スタジオ近くの小さな駐輪場で缶コーヒーを飲んでいた。一人になりたかったのだ。壁に寄りかかり、騒音を立てて通り過ぎて行く電車に顔をしかめながら、苦いコーヒーを喉に流しこむ。缶には仰々しく、「無糖」の文字が書かれていた。

缶を傾け、再び喉にコーヒーを流し込む。しびれるような苦味が、五臓六腑に染み渡っていく。私はその感覚に、ぶるっと身震いをした。

まだ覚めきっていない頭を起こそうとあえて無糖を選んだが、やはり苦手なものは苦手だ。コーヒーにはやはり、砂糖とミルクが必要である。私は周りに誰もいないことを確認してから、道端の排水溝に残りの缶コーヒーを流した。もったいないとは思ったが、背に腹は変えられない。てくてくと歩いては缶を近くのゴミ箱に捨て、再び駐輪場の壁にもたれかかる。舌の上にはまだ、べっとりとしたコーヒーの苦味が残っていた。

「お子ちゃまだな、苑子は」

もし今ここに志村がいれば、と思った。もし今ここに志村がいれば、彼は私をそうなじったに違いない。

無論、彼がこんなところにいるわけはないし、私が彼の前で無糖のコーヒーを飲んだことも、今後飲むこともないだろう。だけれど私は、ここにいもしない志村のことを思い、彼になじられるちょっとした妄想に耽った。自分のバンドの演奏がボロボロだったというのに、私は一体何を考えているのだろう、と思う。自分に少し嫌気がさした。演奏に集中しよう。そう言い聞かせ、私は頭に浮かんだ志村の顔を打ち消した。

気持ちの整理がつき、そろそろスタジオに戻ろうと駐輪場を出ると、そこでちょうど葵に会った。彼女は私と目を合わせてから、スタジオの方を指差した。

「苑子、そろそろ再開するから戻ろう」

「わかった。わざわざごめんね」

私がそう返事をすると、葵は歯を見せずに口角を上げた。ぱっと見れば笑っているように見える彼女の表情だが、目は笑っていなかった。

葵はその表情のまま私から視線を逸らし、スタジオの方へ歩いて行った。私もそれに続いてスタジオに向けて歩き出すと、不意に葵が立ち止まり、こちらへ振り向いた。私はそれに一歩後ずさる。葵の表情が、いつになく悲しげだったのだ。

「葵、どうしたの?」

そう尋ねずにはいられなかった。一体何が、彼女にこれほど悲しげな顔をさせるというのだろうか。

「ごめん、ちょっと暗い話しても良い?」

「う、うん」

葵は、ポツリ、ポツリと零すように、言葉をアスファルトへ落とした。

「私たちの中で大学に入る前から音楽をやってたのは苑子だけで、しかも苑子はギターもボーカルもできて、曲も作れる。私たち今まで、その事を甘く見てたのかもしれない」

葵は依然悲しげな表情で、絞り出すようにそう言った。彼女の言う通り、私以外のメンバーは大学に入ってから音楽を始めた。しかし、葵がそのことを面と向かって私に言及するのは初めてだった。

「私たち、特に私と麗は、苑子が弾き方、歌い方を教えてくれてなかったら、ここまで音楽は楽しめてないと思う。だから私たちは、あんな演奏をしておいてどの口が、と思うかもしれないけど、これからも苑子と音楽を続けたいと思ってる」

そこまで言ったところで、葵は視線を落とした。それからしばらく、そのままアスファルトを見つめていたが、やがてじっと、私の目を見た。

「でももし、もしも苑子が「USG」をやめたいって言うなら、私たちがそれを止める権利はないと思う。だからもしやめたくなったら、私に遠慮せず言ってほしい」

葵はそこで一呼吸置く。

「私、苑子の才能と情熱を「USG」のぬるま湯に縛り付けるのは、嫌だから」

葵はそうとだけ言い残し、スタジオに早足で戻って行った。

そんな彼女に、何か気の利いた言葉を言えれば良かったのだが、残念ながら思い浮かばなかった。頭の片隅にある、「ひょっとしたら、本当はやめたいのかもしれない」という感情が、そうさせたのかもしれない。

私はその場でしばらく、自責の念に駆られる。葵があそこまでのことを言ったのに、彼女に何一つ返事ができなかったのだ。

葵の姿が見えなくなってから、私はスタジオへ歩き出す。戻らなきゃ、という義務感で、足が動く。

スタジオに戻る途中、ふと志村の顔が思い浮かぶ。

ダメだな私、と思った。



スタジオの前、私たちは四人並んで立っていた。ギターケース二つ、鞄四つ。各々持っているものは違う。

結局、今日やった三回の『君に逢いたい』は、いずれも惨憺たる出来だった。皆、一カ月のブランクを甘く見ていたのだろう。演奏はいずれも嚙み合わず、まともな曲になっているとはいえない状況だった。

「次だよ、次。次音合わせするときは、誰もがっかりしない演奏をしようよ! わたし、歌も新しいことも、がんばりたいから!」

鈴木聡子の隣、一番左に立っていた麗が、元気な声を出した。その声に空元気の色はない。麗の大きな丸っこい瞳は、じっと前を見据えている。

「そう、次だね。今回こんな風になっちゃったのも、私のせいだから。その責任を取るって言ったらおこがましいけど、次合わせる時までには、絶対完璧にしてくるから」

握り拳を掲げ、私の隣にいる葵は、強い口調でそう言った。その表情に、先ほど私の前で見せたような悲しさは滲んでいない。鋭く、強い目線でメンバーたちを見つめている。

私はそんな彼女たちを見て、えらいな、と思った。葵も麗も、めげずに次を見据えている。「今自分が何をすべきか」を、考えようとしている。本音を言えば、その向上心をもっと早く持って欲しかったのだが。

「じゃあ、今日は残念だったけど、次は絶対にこんな思いをしないように頑張ろうね」

葵は私たちそれぞれの目を見て、そう問いかける。私たちはそれぞれ頷くなり返事をするなりして、彼女の言葉に応じた。

「じゃあ、またね。次はもっと良い演奏をしよう」

「そうだね、がんばろう!」

葵の言葉に麗が呼応すると、私たちは各々の帰り道へ歩き出した。葵、麗、鈴木聡子は駅の方へ、私はその逆へ、それぞれ歩いて行く。

「苑子、またね」

「またねえ!」

葵と麗が手を振っている。鈴木聡子もこちらを見て、小さく手を挙げている。私はそれに、手を振って応じた。やがて三人は正面に向き直り、駅へ歩いて行く。別れ際の葵の表情に、相変わらず悲しみの色はなかった。

メンバーたちと別れた後、私は昼間に寝ぼけ眼で見た冷蔵庫の中を思い出し、買い物をしなければ、と思った。あれではまともな食事が作れないだろう。私はスタジオ近く、すなわち駅前の小さなスーパーに入った。



買い物カゴに肉や野菜を吟味のうえ、放り込でいく。肉は安いブラジル産鶏胸肉と「お買い得!」のシールが貼られたアメリカ産の豚こま。野菜も季節のものを、母直伝の選別術を駆使して、入れていく。

ニンジンの次は、サツマイモを吟味しようと思った。特に立派な二本を手に取り、どちらがより色鮮やかか、どちらがより紡錘形に近いか、厳しく吟味していた。じっと、二本のサツマイモを見比べる。

「苑子お前、何やってんの?」

もう一方のサツマイモに見切りをつけた時、ふいにそんな声がしたので、私は驚き、危うくサツマイモを落としそうになる。私は持っていた一本を慌てて買い物カゴに放り込み、もう一本を元の場所に戻す。声の主には、なんとなく察しがついていた。

「何驚いてんだよ」

「いきなり話しかけられたら、誰だって驚くし」

私の予想通り、そこには志村が立っていた。ギターケースを背負い、腕にかけた買い物カゴにうす塩味のポテチを入れては、高い背丈で私を見下ろしている。私はそんな姿に、何故だか安心感を覚えた。その理由は、自分でもわからない。

「それにしても驚きすぎだろ。軽く跳ねてたぜ?」

「だって、急に話しかけるから」

「そんなに急だったか?」

「急だったし」

私が口を尖らすと、志村は軽やかに笑った。そうして、「そんなのどうでも良いか」と呟く。

「苑子は、音合わせの帰りに買い物か?」

「察しが良いね。志村は?」

「桜井先輩がサークル外のライブで俺らの曲やりたいっつうから、色々教えてた。そんでその帰りに、母ちゃんからお使い頼まれてな。ポテチ買って来いって」

桜井先輩はサークル内でも指折りの歌唱力を持っていて、一目置かれる存在だった。

「へえ、あの桜井先輩が。志村も出世したね」

「出世。まあ一応出世か。今まで俺らの曲をやるって言った人なかったからな」

そう言った志村の口調は、妙に淡々としている。表情も無愛想とまでは言わないものの、あまり楽しげではなかった。

「あんまり嬉しくないの?」

「嬉しくないこともないけど、別になんとも思わないな。俺、「No photos」でやるために曲作ってるから」

志村は相変わらずにべもなく、淡々とそう答えた。だから私は、「うれしいくせに」と彼をいじる気にもならず、ただ買い物カゴのサツマイモに視線を落とした。

「苑子の方は、音合わせどうだった? 久しぶりだったんだろ?」

「そうだね、一ヶ月ぶり」

「へえ、随分怠けてんな、そっちのウサギさんたちは。で、肝心の演奏はどうだったんだよ?」

志村は語調をいつもの軽やかなものに戻し、そう問いかける。私は彼のその問いかけで、今日繰り広げられた暗澹たる演奏を思い出し、胸が痛くなった。コードがわからくなった時の焦燥感と葵の悲しげな顔が、ちくりと胸を指す。今日感じたあらゆる「嫌な気持ち」が、ぼこっと掘り返される感覚があった。

それがばれないように、私は努めて口角を上げ、繕えるだけ笑顔を繕う。志村にだけは、私の落胆を察して欲しくはなかったのだ。

「良い感じだったよ。久しぶりって思えないくらい、すごい、みんな良い感じだった!」

「本当か?」

「本当、本当。すっごい良い感じだった。そう、本当に……」

私が耐えきれず、語調を弱めながらそう答えると、志村は眉をひそめ、「ああ、そう」と答えた。「良い感じ、か」

志村はため息でも出すように、そうこぼした。そうして口元をぎゅっと結び、じっと私を見つめる。

「なあ苑子、今から時間あるか?」

「まあ、ないでもないけど」

「飯でも行こうぜ。腹減ったよ」

志村がぽつりと言う。その一言が嬉しくもあり、また、悲しくもあった。

「じゃあ、行こうか......」

志村の言葉に頷き、それから、レジで会計を済ませた。そうしてスーパーを出ると、次いで志村もポテチの入った小さなビニール袋を持って、スーパーから出て来た。

「じゃあ、一旦買ったもの家に置いてくるから。その辺で待ってて。なるべく早く戻ってくる」

「おう。十分以上待たせたら、毎分遅れるごとに罰金百円な」

「それ、本気で言ってんの?」

「怒んなって。冗談だよ」

志村のその言葉に応えず、私は自宅アパートへ向かう。その足取りは、自分でも驚くほどに早い。両手に持ったレジ袋が、激しく左右に揺れている。

やがて、自宅アパートに着いた。そうして鍵を回してドアを開けて部屋に入り、今日買ったものを冷蔵庫に詰めていく。

詰め終えたら、駅前のスーパーにまた行く。そうして志村と合流する。私はそんな当たり前のことを、頭の中で再度確認した。

買ったものを冷蔵庫に入れ終え、ビニール袋を畳んでしまう。床に置いた財布を再度持つ。玄関に向かい、靴を履く。靴紐を結ぶ。ドアノブに手をかける。ふと、胸に手を当てる。

私はそこで、いよいよ、目頭が熱くなっていくのを感じた。胸にどろどろと溜まっていた感情が、出口を求めて蠢いている。深く重く、胸にどっさりと堆積している。

ボロボロだった『君に逢いたい』、葵の悲しげな顔、志村の固く結ばれた口元。私は今日の嫌な記憶を全部思い出し、堆積した感情の行き場を探した。感情が、胸の内で逆流を起こしている。私は思わず、両手で胸を抑えた。閉塞感が私を襲ってくる。一体どうしたら良いのか。どうするのが、正解なのか。

考える。わからない。考える。わからない。考える。そして答えより先に、涙が出た。頰を、水滴が伝っていく。涙の温かい感覚が、頰にこびりつく。出たのは、たったその一雫。それっきり、涙は出てこなかった。

「なんのこれしき」と口に出し、自分に言い聞かせる。そうして一枚、ポケットティッシュを取り出し、目元を拭う。こんなことで泣いてどうする、と自分を奮い立たせた。

家を出る。結局駅に着いたのは、志村を一二分待たせた後だった。

「ごめん、遅れた」

「遅えよ。罰金二百円な」

志村は夕日を背に、嘘っぽく笑った。

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