惰性と不一致
徹夜明けの苑子は、眠い体をおして、自分のバンドの練習へ向かった。
大学近くのスタジオにやって来た私を見るなり、「苑子ちゃんだ!」と麗が快活な声を出した。
斎藤麗。ボーカルという都合上、他のメンバーよりも荷物が少なくすむ彼女は、音合わせの時、早くから集合場所にいることが多い。そうして元気な声と笑顔で、やって来たメンバーたちを迎えるのだ。
「おはよう、麗」
「うん、おはよー」
麗は今日も変わらず、元気に笑っていた。私はまだ重いまぶたを上げながら、麗に笑い返してやる。
空元気だ。心なしか、いつもよりギターケースも重く感じられる。
「苑子ちゃん、眠そうだねえ」
「昨日オールしたから、すごい眠い」
「ええ、久しぶりの音合わせなのに、オールしたの? 良くないなあ、非行少女だなあ、苑子ちゃん」
いつもと変わらないゆったりとした口調で、麗はやんわりと私を非難する。
「ごめんね、もし私の演奏がボロボロだったら、怒って良いから」
「ええ、そんなこと言わないでよ。苑子ちゃんはすごいギターじょうずだから、わたしからはなにも言えないって」
麗は相変わらずゆったりとした口調で、透き通った声を出した。彼女の柔らかな口調は、ひらがな表記が似合うな、と思う。画数が少なく、すんなりと耳に入っていくような声だ。
「あ、葵ちゃんが来たよ」
麗が指差す先には、ギターケースを背負った葵がいた。彼女はこちらに気がつくと手を振り、笑顔を見せる。
「二人とも、なかなか時間作れなくてごめんね」
「そうだよ。葵ちゃんが忙しいって言うから、なかなかみんなで集まれなかったんだよお」
麗はぷうと頰を膨らませる。葵にも色々事情があるだろうと思いはしたが、言わないことにした。
「ごめんね、これからは少し落ち着くだろうから、次のライブに向けてがんばろうね」
「そうだね。がんばろう、がんばろう」
葵は申し訳なさげに眉を下げながら、麗に笑いかけた。それに麗も、人懐っこい笑顔で応じている。
「苑子も、ごめんね」
「謝ることじゃないって。しょうがないよ」
葵は、私たちのバンド、「USG」のベース担当だ。彼女は私が大学に入ってから初めてできた友人で、どの軽音サークルに入るか決めあぐねていた私を、今のサークルに誘ってくれた人物でもあった。だから彼女は、大学生活の基盤を作ってくれたある種「恩人」であり、恩義を感じてもいた。
「二人とも、合わせられてない間は練習できてた?」
葵は私と麗の目を交互にしっかりと見てから、ハキハキとした口調でそう問いかける。二年生になってから満場一致でサークル長に任命された彼女は、場の雰囲気を作るのが上手な人だった。
「私は、ぼちぼち練習できてたよ。バイトもあんまり入れてなかったし」
「そうなんだ。それは良かった」
「やっぱりギター弾くのは好きだし、言われなくても私は勝手にやってるよ」
ギターへのモチベーションを自慢する形なってしまったが、葵は深く頷いた。そうして麗に、視線をやる。
「麗は練習した?」
「てへぺろ」
麗は舌を出す。葵が大きなため息をつく。
「てへぺろ、じゃないよ。君のサボリ癖はいつ治るの、まったく」
「ごめなさーい、以後気をつけまーす」
麗は、とても反省しているとは思えない笑顔を見せた。それに葵はまた大きくため息をついたが、それ以上文句は言わなかった。
「じゃあ、以後気をつけてね、本当」
「以後気をつけまーす」
相変わらずへらへらしている麗を見ながら、彼女が「以後気をつけ」ることはないだろうな、と思った。麗は声質こそ悪くないが継続的な努力は苦手なようで、バンドを組み始めて以来、飛躍的な上達は見られなかった。
「あ、聡子。おーい!」
麗が視線を移し、手を振っている。その先を見れば、ドラム担当の鈴木聡子がポッケに手を突っ込みながら、猫背で歩いてきていた。大股で足を運び、私たちの前にやって来ると、「よ」と短く言って手を顔の横に挙げた。
「聡子ー、元気してたあ?」
麗は言いながら、鈴木聡子の両肩に手を置いた。そこで鈴木聡子が、照れ臭そうに口を曲げる。高校時代からの友人だという麗と鈴木聡子は、微笑ましいくらいに仲が良かった。
「別に元気でもないし、元気じゃないでもない」
「ええ? どっちなのお?」
「強いて言うなら、不元気寄りの元気」
「結局よくわからないよ」
「まあ、そこはどうでも良いでしょ」
鈴木聡子は抑揚なく言ってから、四方八方に散った髪をいじる。整った姫カットの麗とは対象的に、鈴木聡子は寝癖の目立つ不均一な長髪だった。
「まあ、元気そうだから良いや。長い付き合いだし、私にはわかる!」
麗がそれこそ「元気」に言って、胸を張る。鈴木聡子はそれに控えめな笑みを浮かべ、私と葵を交互に見た。そうして少しだけ上がっていた口角を下げ、「じゃあ行く?」とぶっきらぼうに言う。
「行こうか」という葵の返事とともに、私たちはぞろぞろと動き出した。
◯
機材の準備と確認をし、各々軽くウォーミングアップを済ませたところで、麗が満面の笑みを浮かべ、「合わせてみようよ」と言い出した。
私はそれに反対だった。一ヶ月ぶり音合わせということもあって、曲をやるのは時間的に少し早いと思っていたのだ。もう少し各々の楽器の調子を確認し、それからでも悪くないと思っていた。
しかし、葵の「そうだね、合わせよう」と鈴木聡子の「まあ、いいんじゃない?」で多数決の原理が発動し、音合わせをする運びとなった。私は一抹の不安を覚える。
「苑子もそれで良い?」
「……まあ、それでいいんじゃない」
我ながら不満の色が滲む返事になってしまったなと思ったが、葵は微笑んで頷いた。
「じゃあ、みんなどの曲やりたい?」
「葵ちゃん、わたし『恋の魔法』やりたい!」
「『恋の魔法』かあ。なるほど、良いね」
「でしょ? わたし、最近よく聴いてるんだよねえ」
麗と葵の会話を聞きながら、私はさらに不安を強めていた。
私たち「USG」は、主に「Square girls」というバンドのコピーをしている。基本的にはシンプルなアレンジでコピーしやすい部類のバンドではあるのだが、彼女たちが挙げた『恋の魔法』は別で、難易度が高い楽曲なのだ。一ヶ月のブランクがある私たちが演奏できるとは到底思えない。私を除くメンバーは、大学に入ってから音楽を始めている。それだけに、久しぶりの音合わせで『恋の魔法』をやるのは得策ではないように思えた。
「苑子はどの曲がやりたいとかある?」
葵の視線がこちらに向く。
「うーん」
私は、どう説得すべきかを考える。
「『恋の魔法』もすごく良い曲だし、やりたいのはやまやまなんだけど、私は『君に逢いたい』が良いな。みんな久しぶりなわけだし、初期の比較的簡単な曲の方が気持ちよくできると思うし。麗の意見を遮るようで申し訳ないのだけれど……」
なるべく角が立たないよう、心がけた。
「確かに、『恋の魔法』って難しいもんね」
葵は口元に手を当て、私と麗を交互に見る。
「麗、苑子はこう言ってるけど?」
「そうだね、苑子ちゃんが言うなら『君に逢いたい』をやろ。わたしも、ノリで『恋の魔法』って言っちゃったところもあるし」
麗は言いながら、いやに納得した様子だ。彼女は以前から、私の指摘を受けて自分の意見を簡単に変えることが多かった。
「じゃあ、とりあえず『君に逢いたい』をやってみようか。聡子もそれで良い?」
鈴木聡子の方をしっかりと見て、葵は尋ねる。
「麗やみんなが良いなら、私は構わないよ」
葵は愛想よく尋ねたが、鈴木聡子は彼女と視線すら合わせずにスティックを回している。どの曲になっても良いと思っていたのかもしれない。葵もそのあたりを察したのか、返事の代わりに「じゃあやろうか」とだけ言った。その言葉を合図に、私たちは準備をする。
各々コードやリズムの確認を終えると、お互いに目を合わせて頷き合った。演奏が始まる。
鈴木聡子がスティックをカチカチと鳴らす。それを合図に私は六弦三フレッドと五弦五フレッドを押さえ、丁寧にストロークした。乾いた和音が、スタジオに響く。
◯
曲が始まってしばらくすると、まずリズム隊がずれ始めた。最初のきっかけはドラムとベースの小さなズレだったのだが、鈴木聡子がそれに構わずテンポを上げていった結果、それまで安定してリズムを刻んでいた葵に焦りが生まれ、サビ前にはそのズレが顕著になってしまった。そんな状況では麗も落ち着いて歌えるはずがなく、いつもは透き通っている声は上擦り、リズムもピッチも乱れた。
無論、私も混乱してしまい、自分が今弾くべきコードがわからなくなってしまった。『君に逢いたい』のギターは、四つのコードだけで弾ける簡単な進行なのだが、これだけリズムがしっちゃかめっちゃかに乱れると、どの音に合わせて弾けば良いのか判断しかねた。私は仕方なく、ベースの音を頼りにコードを辿る。鈴木聡子による主張の強いエイトビートは先を突っ走り続けていたが、気にせず左手をネックに走らせていく。演奏の最中、「この曲ってこんなに難しかったっけ?」と何度思ったかわからない。
麗がラストのフレーズを消え入りそうな声で歌い、致命的なズレを抱えながら、曲はアウトロに入る。
突っ走るドラム、ぶれぶれのベース、迷子のギター。それらが渾然一体のハーモニーを奏でるはずもなく、それぞれ別の曲を演奏しているような違和感を生み出していた。「カオス」とはこのことを言うのだろう。一つ一つの音は悪くないし、音作りも間違っていない。ただただ、演奏が噛み合っていないのだ。スタジオ内に響く不協和音に、私は耳を塞ぎたくも思った。
やがて最後のフレーズを終え、曲が終わる。スタジオ内はそこで、嘲笑するかのようにしんと静まり返った。しばらく誰も喋らない。誰もが、誰かの慰めを待っている。
麗は葵を見た。葵が私を見た。私は鈴木聡子を見た。鈴木聡子は私と視線を合わせず、葵を見た。葵は表情を強張らせる。そうして全員の視線が葵に集まると、彼女は静かに「休憩しようか」と言った。それを合図に、私たちはとぼとぼとスタジオを出て行く。
笑みを浮かべながら出て行くメンバーは、誰一人いなかった。