ライブ開始
ここ一ヶ月、練習を続けてきた苑子たち新生No photosは、いよいよ文化祭当日を迎える。
朝、目が覚める。時計を確認する。八時四七分。ベッドから起き上がり、顔を洗う。目が醒める。私はそこでようやく、今日が文化祭だということを思い出した。そこで少し、緊張感を覚える。
私たち「No photos」は、ライブのトップバッターになった。葵からその旨の連絡があった。
頭からヘマでもしてしまったら、と思うと、文化祭のライブでハードルが下がっているとはいえ、やはり少しは緊張する。しかし、ギター初心者のいる「USG」がちゃっかり大トリさせられていることを考えれば、私たちはまだマシなのかもしれない。私は心の中で、「がんばれ」と彼女たちにエールを送った。
いちごジャムを塗った食パンを食べ、朝食を終えると、私は何気なく、枕元の携帯を手に取った。そうしてロックを解き、確認をすると、二件のメールを受信しているのに気がついた。私はそれを順に開いていく。一件は喜多から、もう一件は、将充さんからだ。二人には昨晩、「No photos」の演奏開始時間を伝えてあったのだ。
「了解です! 朝早いっすね……(汗)
苑子さんの超絶ギターを見逃さないために、がんばって起きます!」
「了解しました。当日会いしましょう。「No photos」の演奏、楽しみにしています。頑張ってください」
同じ内容の連絡であるのに、文字面が対照的なのが面白い。お互いに私を励まそうとしてくれているのだが、字面から想像される口調の違いは歴然だ。
さらに、この二人が同じ楽器の奏者だというのも面白い。これだけ毛色の違う人たちを、揃いも揃って魅了する楽器。そんな魔法の楽器こそ、エレキギターなのかもしれない。
私は今からそんな楽器を弾いて、ここにはいない人の思いを紡ぐ。それこそ、「今」の私が最も輝ける手段なのだと思う。
窓際に、レスポール・ジュニアが鎮座している。丸っこいボディに黒と黄のツートンカラーを湛え、「出番はまだか」と言わんばかりに輝いている。
よし、行こう。私は意気込み、身だしなみを整える。
やがてギターケースを背負い、家を出た。
◯
ライブは、部室棟の地下一階奥にある、リハーサルルームで行われる。
リハーサルルームは、部室棟に入ってしばらく歩いたところにある。そしてその用途は、あくまで「リハーサル」なので、ステージもなく、実態は視聴覚室に近い。そのため、音響はお世辞にも良いとは言えず、演奏環境ははっきり言って悪かった。
しかしそんな環境でも、否、そんな環境だからこそ、暗いリハーサルルームには、アマチュアバンドがしのぎを削る、小規模のライブハウスのような熱量が漂っていた。
演奏スペースにまとめられた機材と、真剣な表情で最終調整を行うバンドマンたち。それらの織りなす、殺伐としたロックの空気感。
私はそんなぴりぴりとした空気を感じ、いよいよライブが始まるのだな、と再度認識させられる。少しばかりの静けさと今にも溢れ出しそうな衝動が、張り詰めた空気感を演出していた。
私はそんなリハーサルルームの片隅にて、一人レスポール・ジュニアを背負いながら、最後の発声練習を行なう。喉を開いてファルセットを出し、次は少し閉めて、鼻から頭に響かせるような感覚で、ヘッドボイスを出す。閉めた喉の間から、声が流れていくような感覚があった。今日は声がよく出ている。喉の調子も良いかもしれない、と思った。
「いよいよだね、苑子」
次はチェストボイスの練習をしておこうと思っていると、葵がそう、声をかけてきた。緊張していたうえ、一人で若干の孤独を味わっていたからかもしれない。葵の一声が、嬉しかった。
「いよいよだね。何だかんだで来ちゃったね、ライブ当日」
「苑子は緊張してる?」
「してるよ、そりゃあ。ライブでボーカルやるの久しぶりだし」
「そっか。私も、今から緊張しっぱなしだよ。なんたって、大トリだから」
暗いリハーサルルームでは、葵の正確な表情は判断しかねたが、彼女の整った眉がすっと垂れていく輪郭は、うっすらと見てとれた。
「麗と聡子は、まだ来てないの?」
「麗は盛大に寝坊。聡子は知らない間にどっか行っちゃったよ。あの子らも世話ないね、本当」
葵が、ふっと息を吐いたのがわかった。
「なんか、あの子ららしいね」
「本当、やんなっちゃうよね」
そう言いながらも、葵の声は弾んでいる。リハーサルルームは薄暗く、やはり彼女の正確な表情は相変わらずわからないが、少なくとも険しい表情はしていないだろうとは推測できた。それくらい、葵の口調は楽しげで、また優しげなものだった。
「じゃあ、がんばってね。私たちも、手に汗握って見てるから」
葵はそうとだけ言い、少しだけ俯いてから、薄暗い中、手を上げた。私もそれに手を上げて応じる。
「ありがとう。「USG」の演奏も、楽しみにしてるよ」
私の言葉を聞くと、葵は俯いた。そうして少し間を開けてから、顔を上げる。
「じゃあ、ライブ楽しんでね。苑子なら、絶対やりきれるから」
葵はそう言い、リハーサルルームの出口の方へ、体の向きを変えた。
「じゃあ、また後で。私は、ちょっと聡子を探してくるから」
「うん、また後で」
私が軽く手を振ると、葵はリハーサルを出て行った。私はその後姿を見送り、レスポール・ジュニアのネックを握る力を強める。心臓の鼓動は未だ激しいが、その感覚が少し心地良くさえ感じられた。
喉が、程よく潤っている。今日はやはり、調子が良いのかもしれない。
私は弦を鳴らし、気持ちを高めてから、最後の発声練習を再開した。
◯
音響担当との調整を終え、機材に囲まれた仮設ステージでライブの開始を待ちながら、私はひとつ唾を飲んだ。口の乾きを感じる。ここまで緊張したのは、一体いつ以来だろうか。
リハーサルルームには、さほど多くの人は見られなかった。順番を待つ「USG」やその他のバンドに、喜多と将充さん、やんちゃそうな高校生、大学生と思しきカップル。そしてその中に、どこかで見覚えのある女性がいるのが面白い。相変わらず慈悲深そうな顔をし、おろおろと周囲を見回している。私はその様子を見て、少し緊張感を解く。私たちのやることに変わりはない。練習の成果を、存分に発揮するだけ。そう、気持ちを切り替えることができた。
私は小さく息を吐く。肩に、ずしりとレスポール・ジュニアの重みを感じる。
「緊張してるか?」
後ろから、伊地知の優しげな声がした。暗くて表情はよく見えなかったが、少なくとも、穏やかな表情はしてくれているだろうと推測した。
「そりゃあ、ねえ」
「そうか。まあ、俺もしてるよ。山田はどうだ?」
「僕も、少し緊張してるよ。一発勝負だからね」
そう言った山田の声が、少し震えていた。
「各々、緊張してるんだな」
伊地知の声も、少し不安げなものになる。
「大丈夫だよ。どうにかなるって。私たち、練習はしてきたし」
私がそう言って山田を交互に見ると、彼は深く頷いた。そして、私と山田を交互に見た伊地知が、ふっと静かに笑い声をあげる。
「それもそうだな。やってきたことを、出すだけだ」
「そういうこと。とにかく、楽しく全力でやろうよ。どっかの二流ロッカーも、そんなこと言ってたでしょ?」
私たちがそんな会話をしていると、音響担当の先輩が「本番」と声を出した。私はそれを受け、大きく息を吸い込む。
ライブが始まる。一ヶ月半の集大成たる十分弱が、これから始まるのだ。
私は、目を閉じた。これまで記憶が、ゆっくりと思い出される。
楽しかったことも、辛かったことも、全て平等に、頭の中に情景として思い浮かぶ。
意識が、殺伐としたロックの喧騒に溶けていく。胸の底から、ぞわぞわと衝動が立ち込めていく感覚があった。
「福岡市、博多区から参りました、「No photos」です」
私がそう言うと、リハーサルルームにささやかな笑いが起こる。
「ちょっと言ってみたかっただけです」
そう言った後、ようやく拍手が起こった。
ファルセット...世間一般でいう「裏声」です。すごく雑に言うと透き通った高い声で、オペラの女性歌手のようなイメージです。
ヘッドボイス...これも裏声の類いです。鼻から頭へ声を響かせるように発声することからこの名称になりました。ファルセットのような所謂「裏声」ではなく、少し地声っぽさの混ざった裏声です。裏声らしくないけどすごく高い声はここに分類されると思います。
チェストボイス...所謂地声です。皆さんがカラオケに行ったときに一番楽に出せる声です。
※これらの情報はあくまで私の認識なので、間違っているだろうと感じた方はご指摘願います。