アマネ
伊地知との雪解けを経た苑子は、今日も張り切って練習をしていた。
この後、飯でも行くか?」という伊地知にしては珍しい誘いを、私はやんわり断った。音合わせを終え、スタジオ前でコーヒーを飲んで談笑している時のことだった。
私と山田は微糖、伊地知は無糖。志村がいなくなっても、私たちが選ぶコーヒーに変わりはなかった。
「何か予定があるのか?」
「後輩と会うんだ。昔バンド組んでた奴」
私が言うと、山田と伊地知は同じような表情で、ほぼ同時に、「へえ」と声を上げた。
「その後輩って高校の?」
「そうそう。今は東京の大学に通ってて、学生の本分は遊びだって言うような奴だよ」
私の言葉に、山田が少し表情を歪めた。真面目な彼は、不真面目な私の後輩をなじりたくも思ったかもしれない。
「ああ、そうなんだ。まあでも、楽しんできてね」
「なるほど、それなら苑子は行けないな。山田、お前は飯行けるか?」
そう言われた山田は、伊地知をじっと見つめたまま、小さく苦笑いを浮かべる。その表情までさえ人が良さそうに見えるのは、やはり山田らしい。
「ごめん、今日は家族で外食なんだ。予約とってるらしいし、父さんの有給もなかなか取れないから、今日は遠慮させてもらうよ」
「なるほど、そうか……」
伊地知の表情がぱっと悲しげになる。
「まあ、今度行こうよ。どうせ、また音合わせはするわけだからさ」
私がそう言うと、伊地知は「それもそうだな」と呟くように言った。極貧生活をしている彼からの食事に誘いはこちらとしても嬉しかったし、行きたいという気持ちは当然あった。
「じゃあ、私はここで」
私は残っていたコーヒーを飲み干し、駅の方向へ歩き出す。後輩との集合場所は私の大学の最寄り駅ではなく、三駅ほど離れた場所となっていた。
「おう、じゃあまた」
「また今度」
伊地知と山田はまだコーヒーが残っているのか、スタジオ前に残って手を振っていた。
私はその姿を背に、駅を歩いて行く。
それから電車に揺られ、集合場所の駅に向かった。
◯
駅の人混みでも、「奴」の姿は悪目立ちしていた。黒いロングコートのポッケに手を突っ込み、パーマをかけたボリューミーな髪を揺らしては、改札前の私の元に早足で歩いてくる。
私の目の前にやって来ると、憎たらしいくらいに高い身長で私を見下ろし、目が隠れるくらいまで伸びた前髪を揺らして、笑った。
「苑子さん、久しぶりっす」
私の前に立った「奴」、喜多亜真音はそう言って、ポッケに突っ込んでいた左手を上げた。
「何、その頭? 高校の時は短くしてたのに」
「俺も大学デビューしたんすよ。シティボーイっすから」
「そんな前髪長くて前見えんの?」
「見えてますよ。視界良好っす」
「じゃあ、これ何本?」
人差し指を一本立てる。
「1ですよ。舐めてんすか?」
「ごめんって、元気そうで良かったよ」
私たちはそんな会話をしてから、駅前のファミレスに入った。久しぶりに会って入る店がファミレスなのかとは思ったが、喜多が真顔で親指と人差し指をくっつけてお金マークを作ったので、やむを得ない。私たちは店の奥、喜多の要望で喫煙席に座った。
「アマネあんた、タバコ吸うの?」
「ギタリストにタバコはつきものっすよ。苑子さんもお利口に生きてないで、社会に喧嘩売っていきましょう」
そう言ってタバコを吸う喜多の姿が、妙に大人びて見える。煙を吐いてする渋い表情に、高校時代の「やんちゃ少年」たる雰囲気は感じられなかった。
「なんか、大人っぽくなった?」
「本当すか? なんか、苑子さんに言われると照れますね」
そう言った一瞬だけ、高校時代の喜多の姿がちらついた。高校時代の彼は、今よりもっと純粋そうだった、ような気がする。
「そう言う苑子さんも、なんか可愛くなりました? そう見えます」
「そんなわけないでしょ。なんもしてないし」
「なんか、大人っぽくなりましたよ」
「そりゃ、成人したし、ぽくっていうか大人だよ」
「いや、そういう話をしてないっすって」
「わかってるよ。ありがとうね」
私の言葉を聞くと、喜多は笑い、高校時代の面影をにおわせる。私はそこで、彼が高校時代とさほど変わっていないことを知って安心する。駅で会った時は大人びたような雰囲気を感じたが、人間見た目は変わっても、根本は変わらないらしい。
「アマネ、何食べる?」
「なんでも良いっす。苑子さんのセンスを信じます」
「なんだよ、それ」
私が不満気にメニュー表を見ると、彼はふうっと煙を吐いた。見れば喜多は、またもや物憂げで大人びた表情をしている。
「じゃあ、このトマトパスタで良い?」
「大丈夫っす。俺は苑子さんのセンス信じてるんで」
「だから、なんだよそれ」
呼び出しボタンを押し、店員を呼んで私は「三種のトマト熟成煮込みパスタ」を注文する。トマトを三種使う必要性や熟成させる必要性はわからなかったが、写真がおいしそうだったので、問題ないだろう。私は、それこそファミレス側の「センス」を信じることにした。
店員が厨房へ向かうと、私はタバコを吸って渋い表情を浮かべる喜多を見る。
「大学でも、ギターはやってるの?」
私がそう尋ねると、喜多は灰皿にとんとんと灰を落とした。そうしてもう一度タバコを咥え、それから、煙を吐く。その表情は、相も変わらず渋い。
「やってますよ。同期数人でバンド組んで、ぼちぼちってとこですけど」
「へえ、何人組?」
「スリーピースです。そんで面白いことに、俺が歌ってます。他の奴があんまりにも下手なんで」
「面白い」という言葉とは裏腹に、喜多は浮かない表情をしていた。
「アマネがギタボって、高校時代じゃ考えられなかったね。あんた、絶対歌いたがらなかったから」
高校時代、喜多にコーラスを頼んでも、「俺はギターに集中してえっす」と言って聞かなかったのを思い出す。
「そうっすね。でもまあ、他の奴が本当に下手なんで、しゃあないっす」
「そうなんだ、大変そうだね」
自分の近況について話す喜多の表情は、やはり大人びていた。眉を寄せ、煙を吐きながら、どこか諦観が滲んでいるようにも見えた。
「苑子さんは、音楽やってるんすか?」
「やってるよ。スリーピースのギタボ」
「へえ、そこは俺と一緒なんすね」
そう言いながら、喜多はタバコを一本取り出し、慣れた手つきで火をつける。ちゃき、という小気味よい音がした。その時の彼の表情は、相変わらず大人びている。
「嫌なんでしょ、今やってるバンド」
私は喜多を見ながら、そう言ってみる。彼の表情と高校時代のことを思い返せば、彼が現場に満足していないことは明白だ。案の定彼は、そっと頷いた。
「正直、高校時代の方が断然楽しいっす。ギターに専念できたし、何より苑子さんが俺の弾きたいギターラインを作ってくれたから」
喜多は左手の人差し指と中指にタバコを挟みながら、そっと俯いた。私はそんな彼を見て、少し前の自分のことを思い出していた。
「やめたいなら、やめちゃえば良いんじゃない?」
私がそう呟くと、喜多は視線を上げた。そうして私と目を合わせ、驚いたような表情を見せる。その表情は先ほどとは一転、高校時代を思わせる、純粋そうなものだった。
「やめて、どのバンドに入れって言うんすか?」
「自分がやりたいと思う音楽ができるバンド。時間は有限なんだから、自分がやりたくもないバンドにずっといるなんて、もったいないよ」
私がそう言うと、喜多はまだ残っているタバコを、灰皿に捨てた。そうして頬杖をついて、少し考えるような表情をしてから、少し身を乗り出す。しかしそこで、店員が「三種のトマト熟成煮込みパスタ」を持ってきたので、喜多は口を噤んだ。テーブルに、皿が二つ置かれる。
「とりあえず、食べようか」
フォークを喜多に渡しながら、私はそう言う。彼はそれをやや憮然として受け取り、頷く。
「そうっすね。腹減りましたし」
喜多は言い、手を合わせてから、パスタを巻き始める。その動作がぎこちなく、はっきりいって下手で、やはり高校時代の彼の姿がちらついた。
「スプーン使わなくて良いの?」
「大丈夫っす。男なんで、気合で食います」
前髪の奥、そう言った喜多の目が、笑っている。
◯
「俺、今のバンドやめることにしました。つまんねえっす」
帰り際、夜も更けて混み合ってきた7番線へ向かう階段の前で、喜多はそう言って笑っていた。その表情に今日会ってすぐの大人びた雰囲気はなく、純粋無垢でやんちゃな、あの頃の面影がそこにある。
「そうなんだ。アマネのやりたいようにすれば良いよ」
「そんで、苑子さんのバンドに入ります」
「まだ言ってんの?」
ファミレスの後に行ったカラオケで私が歌うたび、喜多はそう言っていた。初めは冗談だろうと適当にいなしていたが、五曲目あたりで本気なのかもしれないと思い、とりあえず文化祭のライブに来るように勧めておいた。
「俺、本気っすよ。やっぱ俺、苑子さんの曲が好きっすもん」
喜多のその言葉が照れくさかったが、私はあえてそれは表に出さぬよう、心がけた。喜多に悟られるのが癪だったのだ。
「じゃあ、さっきも言ったけど、とりあえず、文化祭のライブに来なよ。それで他のメンバーの様子を見て、曲を聴いて、そっから考えてよ」
「じゃあ苑子さん的には、俺が入っても良いってことですか?」
「どっちでも良いよ、私は。他のメンバーが何て言うかは知らないけど」
「マジっすか。じゃあとりあえず、文化祭のライブ行かせてもらいますね」
喜多は口調を弾ませた。その表情にはやはり、高校時代の面影がある。私はその表情に安心するとともに、高校時代に覚えた、音楽の衝動を思い出す。自分の曲を作って持っていき、メンバーと話し合って仕上げていく。大学に入ってから長らくその作業はしていなかったが、今日、喜多との交流で再度思い出すことができた。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
「楽しかったよ、またね」
私が手を振り、階段を降りていくと、喜多は7番線のホームへ向かう階段を上がって行った。私はその、細くスラッとした後姿を見送る。
私はエスカレーターに乗りながら、自分が喜多に言ったとある言葉を思い出していた。
「やめたいなら、やめちゃえば良いんじゃない?」私は彼に、そう言ったのだ。
少し前の自分を振り返れば、どの口が言うのか、とも思われるこのセリフが、自分の口から、自然に出てきたのだ。
今思い返せば、自分でも不思議な感じがする。あのセリフを喜多に言ったあの時、私は特に何を言おうとも思わなかった。ただ頭に浮かんだ言葉を、そのまま口にしたような感覚だったのだ。
私はおそらく、喜多にあんなことを言えるような立場ではない。自分も「USG」での音楽に物足りなさを感じながら、一年以上も続けていた身なのだから。
しかしそれでも、例えば志村が亡くなる前に喜多に会って同じ話をされた時、私は彼に、今日と同じセリフを言っていただろうか、と考えた。その答えははっきりとは出なかったが、どこかでぼんやりと、言っていなかっただろうと思う自分がいた。
そんなことを考えているうち、階段を下り終える。ホームには、スーツ姿のサラリーマンが多く見られた。
私は口を結び、そうして、文化祭のライブに思いを馳せる。果たして私たちは、ライブを成功させることができるのだろうか。
成功させたい、と思った。成功するだろう、とも思った。
電車が来て、止まる。その時に吹いた風が、私の前髪をふっと揺らした。