フロントウーマン
伊地知との口論の翌日、苑子はいつも通り、講義を受けていた。
二限の講義を聞き流しながら、やはり私は間違っていないだろうと思っていた。朝、携帯で録音したデモを聴いたのだ。自分の声と数年ぶりに弾いたアコギの湿った音を聴くのは少しこそばゆい感じもしたが、再確認はできた。やはりあの曲には、シンプルなアレンジは似合わない。弾き語りだけだと、物足りなさを感じたのだ。
だからこそ、山田にはベースラインをスイングして欲しいし、伊地知には手数の多いアレンジで叩いてほしいと強く思った。やはり、私は間違っていない。今は強く、そう思う。
そんなことを考えているうち、キンコンカンコン、と講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。学生がぞろぞろと講堂を出て行く。私も真っ白なルーズリーフをかばんにしまい、講堂を出ようとした、その時だった。
私の横に、山田がやって来た。彼とは同じ授業を取っていたが、席は別々だった。私はかばんを持ち、彼の方を向く。
「苑子、ちょっと良いかな」
そう言った山田の表情は昨日と異なり、引き締まっていた。その表情に、私も気を引き締める。何か彼から、大切なことを言われるような気がした。
「どうしたの、山ちゃん」
「あの、昨日話してたアレンジのことなんだけどさ」
山田は言い、一瞬視線を左下にやった。しかしすぐに、視線を私の方に戻す。表情は依然、引き締まっていた。
「昨日一晩考えて、僕は苑子のアレンジでやりたいって思ったんだ。だから今日は、それを伝えたくて」
山田の言葉を聞き、意外さと、次いで嬉しさを感じた。山田がいわゆる「伊地知派」である思っていたことから生じる意外さと、自分のアレンジが認められたという、単純な嬉しさだ。私は彼の一言に、表情が綻ぶのがわかった。昨日、部屋で抱いた悩みが、解けていく。
「どうして、私のアレンジの方が良いと思ったの?」
「良いと思った、というよりは、僕自身が苑子のアレンジでやりたかったっていうのが大きいんだ。いつか、「群青地点」の亀田さんみたいな、忙しいベースラインも弾いてみたいと思ってたから、いつものNo photosとは違う苑子のアレンジは魅力的でさ」
「群青地点」とは、山田が好んで聴いている、数年前に解散したバンドだ。楽器隊のレベルが群を抜いて高いことで知られているバンドで、ベースのアレンジも複雑で難しいものが多かった。
「え、私のアレンジって、あんなにベース難しくしてたっけ?」
「いや、なんていうか、今までのアレンジが基本エイトビートだったから。相対的に難しいというか、そんな感じだよ」
山田は言いながら、自分でも何を言っているのかよくわからないといった様子であった。照れ隠しに、頭を掻いている。
「でもとにかく、僕は苑子のアレンジでやりたい。だから、これから敬を説得しに行こう」
「え、これから?」
「そう。今から呼び出して、昨日みたいに部室でさ」
山田の予期せぬ提案に、私は驚いた。しかしすぐに、その提案に乗ろうと思った。私もおいおい、伊地知には自分の意見は言うつもりだったのだ。
「呼ぼうか。私も、いずれタカシには言うつもりだったし」
「じゃあ、決まりだね。僕から連絡するよ」
山田は言って、携帯を取り出した。そして画面を操作し、実際に電話をかけようとする。しばらくの後、伊地知が電話に出たのか、山田は「もしもし」と声を出した。
「ちょっと急なんだけど、これから部室来れるかな?」
そう伊地知に呼びかける山田の姿を見ながら、彼にどういう心境の変化があったのだろうかと私は疑問に思っていた。昨日の彼は、どちらのアレンジが良いのか、結論を出し兼ねていた。遠慮をしていたのかもしれない。その証拠に昨日の彼は、「バンドのバランスを崩したくなかった」と言っていたのだ。しかし今の山田は、自分なりに意見を決め、それを私たちに表明しようとしている。「バンドのバランス」よりも、自分の意見を表明することを優先しようとしている。こういった心境の変化が、一体なぜ起こったのか。私はそれが、気になっていた。
「敬、今から部室行くって。僕らも行こう」
電話を終えた山田が、私に笑顔を向けている。私たちは二人、講堂を出た。
「ねえ、山ちゃん」
講堂を出て、廊下を歩きながら、私は彼に尋ねる。
「何?」
「どうして今日は、私やタカシに自分の意見を言おうと思ったの?」
私は彼に、率直な疑問をぶつけてみた。すると彼は小さく笑って、静かに語り出す。その表情には、どこか決意が滲んでいるような、力強さを感じさせた。
「昨日、帰って色々考えてたら、思ったんだ。後悔したくないって。このままバンドが軋轢を抱えたまま解散したり、自分の弾きたいベースラインが弾けないのは絶対に嫌だって、そう思ったんだ」
山田の声には、しっかりと芯が通っているように感じられた。自分の言葉で、自分の考えを表明する。そんな意志がひしひしと感じられる、力強い語りだった。
「だから最低限、自分の考えは言っておきたいなって。そうしないと、今できることをやらないと、なんか貴充に怒られる気がしてさ」
山田が、空を向いた。
「だから苑子、これからも頑張ろう」
山田が言い放ったその言葉に、私は深く頷いた。彼の気持ちに応えたいという気持ちで、私の首は自然と、彼の発言を肯定した。
「そうだね。頑張ろう」
私は山田の決意に応じる。私も、「今」を全力で生きたいと思ったのだ。
山田は、自分の姿勢を変えた。「今」を後悔しないために、彼は自らの姿勢を変えたのだ。
◯
部室にやってきた伊地知の表情は、憮然としていた。その表情は、昨日同様攻撃的で、私は少し胃が痛くなる。きりり、と小さな痛みを催した。
「で、なんだよ」
部室のソファの前、横並びで立つ私と山田を見て、彼は問いかける。冷気を含んだ声だった。
「今日は、僕らとで敬とアレンジについて話し合いたいと思って」
「おう、それで?」
伊地知はなお、憮然としている。どこか山田を試すような表情にも、見えなくはない。
「僕は、昨日苑子が提案したようなアレンジでやりたいと思ってる。それは、どっちのアレンジが良い悪いの話じゃなくて、僕がそうしたいと思ったからなんだ」
「俺が、シンプルなアレンジでやりたいと言っても、その主張は通すのか?」
伊地知が表情を変えないまま、山田にそう問いかける。じっと山田を見つめる伊地知の視線は、鋭い。山田も負けじと、彼を見つめ返している。私はその様子を、固唾を飲んで見守る。しばらく彼らの様子を見ていようと思った。まずは彼らの判断を聞きたいと思ったのだ。部室には、糸が張り詰めるような、緊迫感が溢れている。
「もしそうだとしても、僕は気持ちを変えないつもりだよ。敬が納得してくれるまでいくらでも説得するつもりだ。僕だって、自分のやりたい音楽はあるんだ」
山田は伊地知を見据えたまま、そう言う。確かな輪郭を伴った声だった。一字一句すべてに思いを込めたような、そんな強い意志を感じさせる声だ。
「お前、今日は寝癖の形が違うな」
伊地知は、少し表情を緩めていた。山田は彼の言葉を受け、ふっとはにかむと、自分の頭をそっと触る。
「おかしいな、寝癖は直してきたはずなんだけど?」
「例えだ。真に受けるな」
伊地知はいよいよ、表情をほころばせて笑う。つられて山田も、口角をさらに上げる。私も、思わず笑顔になっていくのが分かった。部室の緊張が解けたところで、伊地知がまた話し始める。
「昨日の俺が全部間違ってた、とは言わない。俺の意見は変わらないし、今も正しいとも思ってる」
伊地知が一つ唾を飲んで、喉を揺らした。
「でも、一つ間違えがあったと思ってる。だから、俺はお前たちの意見を一度尊重する。俺は昨日、アイデアを出し合って作り上げていくのがバンドだと言った。それなのに、苑子のアイデアをまったく理解しようとしなかった。昨日の俺は、自己矛盾を起こしていたんだ」
伊地知はそこで一度、言葉を噤んだ。
「だから、今回に関しては、基本的にはお前たちを尊重する。俺から言いたいのは、それだけだ」
伊地知は少し恥ずかしそうに、そう言った。自分の非を認めるのが嫌だったのかもしれない。
「何か、お前たちから言っておきたいことは?」
伊地知が視線を逸らしながら、私たちに問いかける。その頬は、少し赤らんでいた。部室が少しの間静まる。私はその静寂を破るため、口を開く。伊地知に対して、言いたいことはそれなりにあった。
「タカシが誤らないなら、私からも謝らない。私も、昨日間違ったことを言ったつもりはないし、アレンジも自分で納得がいったうえであれにしてる」
伊地知と山田が、私に注目している。私は言葉を継いでいく。
「だから、もし二人が良いって言うなら、これからもついて来てほしい。ちょっと前まで「No photos」は志村がフロントマンだったけど、訳あって今は私だから。ちょっとだけ、私のやりたいようにやらせてほしい」
私はそこまで言って、二人を交互に見る。「いいかな?」
「フロントマンというか、フロントウーマンな気もするが」
伊地知が真顔でそんなことを言うので、私はつい吹き出してしまう。
「いや、そういうこと聞いてないから」
「まあ、ついて行ってやらんこともない」
「僕も、フロントウーマンについて行くよ」
伊地知と山田の答えを聞くと、私たちはお互いの顔を見て、笑い合った。これから私たちは、「バンド」になっていくのだ。三人で音を補い合って、高め合って、最高の演奏を目指す、「バンド」になるのだ。
私たちは一歩前に進んだ。
「No photos」のフロントマン、もといフロントウーマンは、私だ。