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軋轢

講義を終え、葵と別れた苑子は、ぼんやりと講堂の廊下を歩いていた。

一限を終え、講堂の廊下を歩いていると、ポッケに入れていた携帯が振動しているのに気がついた。

それを受け、ポッケから携帯を取り出し、画面を確認すると、伊地知からの着信だった。画面をスライドさせ、それに応じる。

「タカシ、どうした?」

「苑子か。ちょっと、今から部室来れるか?」

電話越しの伊地知の声はいやに低く、少しばかり冷たく感じられた。

「まあ、いけるけど」

「そうか。じゃあ、頼む」

「どうしたの?急に呼び出して」

「それは会ってから話す。とにかく、来てくれ」

そうとだけ言い残し、伊地知は電話を切った。私は耳から携帯を離し、画面を数秒見つめては、首を傾げる。違和感を覚えたのだ。伊地知がここまで急な呼び出しをかけるまでの用がわからなかったし、彼がここまで急な誘いをしてくるのも珍しい。携帯をポッケにしまい、再度首を傾げる。

私の横では、髪をつんつんに立てた二人の男子学生が、じゃらじゃらと音を立てながら、なにやら会話をしていた。その声がそれなりに大きいので、勝手に耳に入ってくる。

「俺、さっき教授に呼び出されたんだけど、やばくね?」

「なんで呼び出されたんだよ。説教か?」

「わかんね。中間のカンニングがバレたかもしんねえわ」

私はそんな二人の会話を耳にして、足早に廊下を後にする。もし冗談でなければ、とんだ非行少年だ。

講堂を出る。なんだか嫌な予感がした。



私が部室に着くと、山田と伊地知が向かい合って話をしていた。

ソファにどっかりと座り込む伊地知と、その正面に立つ山田。その表情はいずれも神妙で、私は自らの嫌な予感がなんとなく当たっていることを悟った。少なくとも、穏やかな用件でないことは確かだ。

「タカシ、今日はどうしたの?」

ソファに近づき、そう話しかけると、伊地知はなお神妙な面持ちで私を見た。彼は何を言ってくるのだろうか。私は腹の底に、力を入れる。

「来たか。じゃあ、早速本題に入る」

伊地知が低い声を出すので、私は彼を見つめ返す。私の隣にいる山田も、どこか落ち着きがないように見えた。

「この間、苑子が書いた曲のTABとスコアと、デモをもらっただろ?」

「うん、あげたね」

「今日は、あの曲のアレンジについて話したい」

伊地知のその言葉を受け、私の胸にどくんと鈍い感覚が走った。覚悟はしていたが、一番されたくない内容の話だったのだ。それを彼は、ピンポイントで突いてきた。

「あの曲のアレンジ、なんか問題あった?」

「あるな。はっきり言って気に食わない」

伊地知は言いながら、床に置かれていたリュックからTAB譜を取り出し、私の前に差し出す。

「コード感のある音をギターが担って、ベースがフレーズを多く担う。それでドラムは、単純なエイトビートではなく、特殊なリズムてんこ盛りの変なアレンジになってる。今回こういう偏屈なアレンジにした意図は、なんだ?」

伊地知の口調が、幾ばくか攻撃的なものに聞こえた。私はそれに、少しむっとする。今回の曲のアレンジは、私の中でも明確に意図をもって決めたものだったのだ。それを「偏屈」と表現されるのは、正直心外だった。

「私、この曲のアレンジは、スリーピースでやるなら、弾き語りにリズム隊くっつけましたみたいな感じにしたくなかったんだよね。この曲、コード進行自体はよくある感じになってるから、リズム隊でアクセントをつけたかったし、私、山ちゃんとタカシも信用してるから」

以前から私は、「No photos」のアレンジには疑問を持っていた。伊地知と山田という優秀なリズム隊がいながら、アレンジは毎度シンプルで、彼らの良さが引き出されていないように感じていたのだ。だから今回は、曲に合っているという前提のもと、あえてリズム隊をリズム隊として扱わず、複雑なアレンジにしたのだ。

「苑子はそう思うかもしれないが、俺はこの曲、シンプルなアレンジの方が良いと思う。この曲はメロディがキャッチーで普遍的だから、ギターとベースはコード進行、ドラムはエイトビート、みたいなシンプルなアレンジの方が、その良さが引き立つと思う。むしろ、それ以外はナンセンスだ」

伊地知の声色には、着実に棘が混じっていた。私を意地でも反駁してやろう、という意思がひしひしと感じられる。私は胸の内、「やってやろうじゃないの」と呟いていた。正直今の伊地知の意見は違うと思ったし、今回のアレンジは個人的にも気に入っていたのだ。折れるわけにはいかない。

「それは違うでしょ。シンプルな曲だからこそ、アレンジを工夫してリスナーを飽きさせないようにしなきゃ」

「本当にキャッチーなメロディなら、リスナーは最後まで時間を忘れずに聞いてくれる。今回の曲はそういう要素を持った曲だし、それがNo photosのスタイルだ」

「No photosのスタイルって、それは志村がいた時のスタイルでしょ? 今回は私が持ってきたんだから、少しは尊重してよ」

「それは違うだろ。アイデアを出し合って作りあげていくのが、バンドってもんだろ」

「でも私は、はっきり言ってタカシのアイデアは違うと思う。全然わかってない。悪いけど、タカシのアイデアは絶対に飲めない」

私が勢い任せに言うと、伊地知は目を見開いて立ち上がった。そうして私を睨みつけ、少し前屈みの格好になる。

「なんか文句ある? 私、間違ったことを言った覚えはないよ? 自分の意見が通らないから怒るって、小学生じゃあるまいし」

「それはお互い様だろうが。お前だって、自分の意見が通らないことに憤っている」

私と伊地知は、そう言って睨み合う。彼のふてぶてしい顔が、いつになく憎らしく感じられる。

体の底から、感情が沸き起こってくるのを感じた。それが、理性を奪っていく。この男を言い負かせずには終われない。そういう気持ちになっていく。

「二人とも、落ち着いて。せっかくバンドを再開できたんだ。楽しくいこうよ」

山田が私たちの間に入り、苦笑いでそういなす。私はそんな彼に、少しばかり苛立ってしまった。伊地知も苛立ったのかもしれない。彼も、山田をじっと睨みつけている。

「貴充だって、こんなのは望まないでしょ」

私たちの間で、山田はそう言って鼻を掻いた。それから、唇を舐める。

「今は志村関係ねえだろうが」

眉間にしわを寄せた伊地知が、山田を指差している。

「山田、お前はどうなんだよ」

「どうって、何が?」

「とぼけるなよ。お前は、どういうアレンジにしたいかって聞いてんだよ」

伊地知が棘のある口調で言うと、山田は虚をつかれて黙りこくってしまった。唇を舐め、眉間にしわを寄せ、顎に手を当て、答えを探している。

その間、伊地知が焦れているのがはっきりとわかった。唇を噛み、指でとんとんとソファを叩いては、じっと山田を見つめている。

「そんなの、決められないよ……」

やがて山田がそう答えると、伊地知はわざとらしく大きなため息をついて、足元のリュックをゆっくりと背負い、部室の出口へ向かう。

「お前はいつもそうだ。志村がいた時から、ずっと」

それが、伊地知の捨て台詞だった。

それを残し、バシン、と大きな音を立てて扉を締め、彼は部室を出て行く。私はそれを、じっと目で追う。痩せた彼の後ろ姿が、いつになく憎らしかった。

二人部室に残る形になった私と山田は、しばらく黙り込んでいた。部室に静寂が訪れる。耳の奥でキーン、と耳鳴りがした。その音にすら、私は苛立ってしまう。

「なんなの、あいつ」

ようやく私がそう本心を言うと静寂が破れ、同時に山田が寂しげな顔をした。



「なんなの、タカシの奴!」

三限の教室へ向かう途中、山田と並んで廊下を歩きながら、私はそう漏らす。今まで伊地知と大きな喧嘩をしたことはなかったが、今回ばかりはさすがに頭にきた。自分の意見が通らないことに逆上するなんて、いくらなんでも身勝手が過ぎるのではないか。

私は未だに、気持ちが高ぶっていた。

「山ちゃん、あいつって昔からああだったの?」

隣をとぼとぼと歩く山田に、私はそう言葉を投げる。彼は下に向いていた視線をこちらに向け、小さく口を開いて話し出す。

「多分、根本は変わらないと思う。だけど、貴充がいた頃は今回みたいな言い合いはなかったよ」

山田の声が、普段よりも数トーン低い。表情も寂しげで、私の怒りは一気に冷める。

今回の口論について、彼は悪くはないからだ。むしろ、興奮する私と伊地知宥めようとしてくれたのだ。山田には、本当に申し訳ないことをした。

「志村も自分の意見が通るまで折れなさそうなタイプに見えるけど?」

山田への謝意とともに理性が戻り、冷静になると、今度は寂しさが胸を襲ってきた。自分の口をついて出た「志村」という固有名詞の語感が、無意識に彼のことを思い起こさせたのかもしれない。

「たぶん、二人は音楽的な感性が近かったんだと思う。タカシから貴充にアレンジの意図を聞くことはあったけど、一言二言で納得してたから」

「それで、タカシはああいうアレンジにしたがってたんだ」

いやに静まった講堂の廊下を歩きながら、先程の伊地知の主張と、これまでの「No photos」の音を思い出していた。リズム隊がエイトビートを刻みがちな彼らのアレンジはメンバー間の充分な同意のもとに決められていて、頑固者たる志村と伊地知は、アレンジの価値観を共有していたのだ。

「山ちゃんは、志村や伊地知の決めたアレンジになんか言ったりはしなかったの?」

「言えなかったよ。言ったら、二人に水を差すことになっちゃうし。僕は後から入ったし、バンドのバランスが崩れるのも嫌だったから」

山田のその言葉が、私に突き刺さるようだった。「バンドのバランスが崩れるのが嫌だった」彼はそう言ったのだ。

志村と伊地知は、音楽的な感覚を共有していた。そして私は、彼らとは違う感性を持っている。伊地知と、音楽性を共有できなかったのだ。

「志村がいれば、こんなことにはならなかったのかなあ......」

私と山田の足音だけが、静かな廊下に響き渡っていた。そんな廊下にて、私は胸に去来した思いを吐露する。意図せず漏れてしまった、という感覚に近いかもしれない。とにかく、自分の発言によって伊地知や山田との軋轢を抱えてしまったという事実に、打ちひしがれていた。

もし、志村がいれば。

そんなことを考えてはいけないのは、わかっている。それでも私は、天国にいるギタリストの存在に、思いを馳せていた。

彼がいれば。

彼が曲を作っていたら、私はアレンジに大きく口出しはしなかったかもしれない。ツインギターだったら、私のアレンジに対する考えも変わっていたかもしれない。私がバンドを再開しようと言い出さなければ、伊地知は怒らずに済んだし、山田も嫌な思いはしなくて済んだのかもしれない。

もし志村がいたなら。私は考える。

こんなことには、ならなかったのだろうか。私がいけないのだろうか。

心の中で叫んだが、隣の山田は俯いて歩き続けるだけだった。

私たちは、講堂に着いた。そして混み合う講堂の喧騒に打ちひしがれ、ちょこんと前方の席に着く。

「この間の中間テスト、カンニングがあったらしいぜ」

隣の男子学生の浮ついた声が姦しい。



部屋の中、私は一人、無心でストロークをしていた。『No photos』を弾いてみていたのだ。それで、彼らが今までどういう考え方で音楽をやってきたのか、確認しようと思ったのだ。譜面を見ながらCDを聴き直し、ニュアンスを再確認してから、レスポール・ジュニアを背負い、なんとなく弾いてみる。

ジャカジャカと弦を鳴らしていると、サビ後のギターソロの途中、指にちくりと痛みが走った。私はそこで演奏をやめる。お馴染みの感覚だ。これは切れたな、と思った。

ギターを確認すると、案の定二弦が切れているのがわかった。ストロークが強すぎただろうか。いずれにせよ、弦が切れてはどうしようもない。切れた二弦が情けなく、びよんびよんと垂れ下がっている。私はため息をつき、切れた弦を外してから、レスポール・ジュニアをスタンドに戻した。

今日の練習は終わりにしよう。そう思った。学校から帰った夕方にわざわざ弦を買いに行くのも面倒だし、何より気持ちが乗らない。私は部屋のベッドに寝転び、布団を被った。

布団の中で目を閉じていると、頭の中にとある風景が立ち上がっていった。

頭上には淡い朝焼けの空があって、目の前には毎朝毎晩見るアパートの柵があって、そしてそこに、志村が肘を置くような格好で寄りかかっている。彼は物憂げな顔でタバコをふかし、空を見つめていた。私はそれを、ただ座って見つめている。

タバコのにおいはしなかった。志村の偶像が、ただ私の頭の中にあるだけだ。いつだか見たことのある風景なのに、現実感がまるでない。志村が遠い存在に思えてしまう。それが、悲しかった。

ついこの間まで、あんなに近くにいたのに。あんなに簡単に触れられたのに。一体、どうしてこんなに遠くにいってしまったのだろう。

もっとあの瞬間を噛み締めればよかったのだろうか。もっと早く「No photos」に入っていればよかったのだろうか。小さなベッドの上に、いくつもの「だろうか」が充満する。私はたまらなくなり、がばっと体を起こした。埃が舞う。私は一つ、咳をする。

体を起こすと、当然ながら目の前にはいつもの部屋があった。中心に鎮座する丸テーブルと、その奥にある本棚、タンス。母から送られてきた無駄に大きい薄型テレビも、目に入った。その風景には生活感が溢れていて、私はふいに現実に戻された。頭の中がきゅっと冷却され、引き締まるような感覚になった。

しかしふと、この場所にもかつて志村がいたのだということを思い出した。酒を飲んで喚き散らし、丸テーブルに突っ伏しては、一杯の水で嘘のように酔いを覚ます。そんな彼の姿を思い出したのだ。私はベッドに座ったまま、俯く。一転、胸が締め付けられるのを感じた。頭の中が急速に熱くなっていくのも感じる。脳裏にこびりついた志村の残像がちらついて苦しい。私は思わず、両手で胸を抑えた。

思い返せば、私の大学生活の傍にはいつも、志村の姿があった。部室に行けばおおよそ彼がいたし、自宅アパートでは何度も飲み明かした。USGでギターを弾いていて、彼の顔が思い浮かぶこともあった。意図せずとも彼は、私の生活の中心を分取っていたし、紛れもなく、かけがえのない存在だったのだ。

きっとそれは、私だけではない。伊地知や山田、そして将充さんにとっても、きっとそうだったに違いない。

志村は、彼に関わった大勢の、中心に居続けたのだ。

でも今、私が感傷に浸っている今、彼はもういない。

どんなにかけがえのない存在だったとしても、どんなに祈ったとしても、どんなに泣いたとしても、志村はもういない。戻ってこないのだ。

奇跡が起これば、と思う。だけれど奇跡など、起こるはずもない。

もしも、志村と出会っていなかったら。私ベッドの上で、そんなことまで考えてしまう。

もしも志村と出会っていなければ、今私は、もっと楽な気持ちになっていたのかもしれない。

もしも志村と出会っていなければ、今私は、伊地知や山田との軋轢など抱えなかったのかもしれない。

でももしも志村出会っていなければ、伊地知や山田と出会えていただろうか。

もしも志村と出会っていなければ、今の私は、音楽を続けられていただろうか。

もしも志村と出会っていなければ、私の大学生活は、もっとくすんでいたのではないだろうか。

もしも志村と出会っていなければ。

そんなのは、嫌だ。

私は考えるのをやめた。ベッドにもう一度寝転び、目を閉じる。

志村の笑顔が浮かんだ。

しかし、志村はこの世にいない。

泣けど叫べど、志村は戻って来ない。

その現実が、強く強く、私を押しつぶしていく。喪失感が、胸を支配する。

「寂しいな」

そう呟いてみると、涙が一筋、頰に流れた。



夢を見た。志村が私の曲を弾いていた。それも、伊地知が提案したようなシンプルなアレンジで、無邪気な笑顔で、観客席で泣く私にかまわないで、本当に楽しそうに弾いていた。

朝目が覚めると、横隔膜が震えていた。目やにもたまっている。涙の味がする。

嗚呼、私は夢を見て泣いていたのだ。ベッドから起き上がる。部屋は薄暗い。

冗談じゃないよ、と思った。


「エイトビート」という言葉が出てきました。これは(あくまで私の認識においては)、リズムパターンの一種で、簡単に言えば「ドッタンドドタン」というリズムです。多くの曲でこのリズムが使われています。

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