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昼下がり、目が覚めた苑子は、昨晩のことを述懐する。

起きたら、昼だった。窓から差す、ありえないくらい強い日差しに目を細め、私はベッドから体を起こす。体が重い。ついでに言えば、頭も痛い。二日酔いだろうか。とにかく、まともに思考をできる気がしないほど、体がだるかった。

しばらくベッドでぼんやりしていると、ふいに昨日の記憶が戻ってきた。山田や伊地知と宅飲みをし、明け方に彼らを見送った後、シャワーを浴びて眠りについたのだ。そして現在、おそらく昼頃に目が覚めた。そんな記憶を辿り、自分で思い返して、まったく大学生らしいことをやっているなと思った。静岡の両親が知ったら、たぶん怒られる。こんな生活ができるのも今のうちだぞ、となじられるかもしれない。

ふと、今は何時だろうかと思った。私は一体、どのくらい眠っていたのだろうか。手元をあさり、現在時刻を確認できそうなものを探す。

枕元に、携帯があった。画面をつけて時刻を確認すると、現在は14時34分であるらしいことがわかった。昨晩の就寝時間は思い出せないが、かなり長い時間眠っていたような感じがする。眠すぎて逆に眠い、というのが、現在の率直な感覚だった。

私はとりあえずとベッドから出て、顔を洗うことにした。とにかく、目を覚まさなければと思った。そして、顔を洗えば多少目が醒めると思ったのだ。そうして重い瞼をこすり、私は流しに向かう。私の住む自宅アパートに洗面所がないのは、ご愛嬌だ。銀色のシンクの上でバシャバシャと水を出し、手ですくって顔に当てる。

冷たい水が、寝ぼけた体にガツンと衝撃を与えた。体の穴という穴が、きゅっと縮こまっていく感覚がする。目が、ばっちりと醒めた。

顔をタオルで拭き、再びベッドに寝転んだところで、私はようやく、今日の重要な約束を思い出した。

とある人物と、会う約束をしていたのだ。待ち合わせは夕方だからさほど急ぐことはないが、心構えは必要に

思えた。今日会う人物は、安易な気持ちで対面してはいけない人物なのだ。

私は、壁際の本棚にある漫画に視線をやった。教科書に挟まれ、肩身狭そうに本棚に鎮座するその二冊の漫画の所有権は、私にない。一昨日、こっそり部室から回収してきたけれど、それは、一時的に私が預かっているにすぎないのだ。

だから今日、私はこの漫画を本来の持ち主に返す。

志村将充。それがその人の名だった。




大学の最寄り駅前のコンビニが、集合場所だった。しかし大学の最寄り駅とはいえ、大学生はほとんどいない。今日は日曜日なのだ。大方、アルバイトや遊びに勤しんでいるのだろう。わざわざ、大学の最寄り駅に行く筋合いもない。

そんな駅前にて、私はコンビニ前で壁に寄りかかりながら、先ほど買ってきた微糖のコーヒーを飲んでいた。

コンビニのドリンクコーナーにて、一瞬無糖のコーヒーを選びかけ、選ばず、そのかわりに取った微糖のコーヒーだ。ふいに、志村の顔が思い浮かんでしまったのだ。それで私は泣き出しそうになってしまい、隣にあった微糖のコーヒーを手に取った。レジの店員が少し驚いた表情をしていたのは、私の目が赤らんでいたからだろう。そんな客がレジにやって来たら、私だってびっくりする。少し申し訳なかったな、と思う。

コーヒーを飲み終わり、缶を捨てたいなと思ってぼんやりあたりを見回していると、視線奥の改札から、見覚えのある人物が出てきた。その人物は黒いジャケットを着こなし、颯爽と私の前にやって来る。

「遅れてごめんね、後藤さん。こちらから呼び出しておいて。葬儀の時以来なのにね」

見覚えのある人物、将充さんが私の前に立っている。私よりは背丈がある彼だが、おそらく志村ほど高くはない。

「いえ、私もついさっき来たところですから」

「言い訳になっちゃうんだけれど、ちょっと電車が遅れちゃって。ごめんね、本当」

将充さんは、小さく頭を下げる。

「大丈夫ですよ。それじゃあ、どこか喫茶店でも入りますか?」

「そうしようか。この辺に喫茶店ってある?」

「ありますよ。案内しますね」

私の言葉に将充さんが頷くと、私たちは歩き出した。駅から数分歩いたところに、コーヒーチェーンがあったはずだ。

「後藤さん、その缶」

「コーヒーですね」

「喫茶店だと、コーヒー被っちゃうね」

私は将充さんに指摘され、少し赤面した。コンビニで缶コーヒーを買った時、この後に喫茶店に行き得ることをまったく考えていなかったのだ。

黒縁眼鏡の奥、将充さんの少しつった大きな目が、きゅっと細くなる。目元のシワがきゅっと寄り、将充さんが優しげな表情になる。どことなく、志村を想起させる表情だった。やはり二人は、紛れもない兄弟なのだ。

「紅茶を飲むつもりだったんですよ、私」

「そうなんだ。じゃあ僕は、コーヒーをもらおうかな」

私が見栄を張ると、将充さんはそう言って小さく笑った。



注文を終えると、私たちはそれぞれ「目的の品」を取り出した。

私は志村が部室に置いていったコミック本を、将充さんは私が志村に貸していたビニール傘を、それぞれ手渡した。今日の形式上の目的は、お互いの返すべき物を、それぞれ返すことだったのだ。私は、将充さんから受け取ったビニール傘を確認する。将充さんも、私から受け取った漫画をぺらぺらとめくっていた。黄ばんだ漫画本に対して、ビニール傘は事故に遭った志村が使っていたとは思えないほど綺麗で、少し傷はあるものの、大きな破損も見られなかった。それがかえって痛ましく感じられ、私は思わず口を結んだ。志村は死の瞬間、この傘をどのように扱っていたのだろうか。

「もし嫌だったら断ってほしいのだけど、もう一つ受け取ってほしい物があるんだ」

ビニール傘を窓枠に立てかけていると、将充さんがそう言ってかばんからビニール袋を取り出していた。ガシャガシャ、と使い込まれたビニール袋が擦れる音がする。

「これは、何ですか?」

将充さんがビニール袋から取り出したのは、素気のない一枚のCD‐Rだった。当初の話では私が将充さんから受け取るのは傘だけだったから、このCD‐Rが意味するところは判断しかねた。

「昨日、貴充の部屋を整理してたら出てきたんだ。中身を見てみたら、一曲ぶんだけデータが入っていたよ」

「一曲ぶんですか。その曲、聴きましたか?」

「うん、聴いたよ。想像以上だった。貴充も真剣に音楽やってたんだなって、本当に感心したよ」

将充さんがそう言うのを聴いて、私はCD‐Rに入れられた一曲の目星をつけていた。

「ちなみに、曲名とかって覚えていらっしゃいますか?」

「確か、『No photos』だったと思う。なんか、あいつが好きそうな曲だなって思ったよ」

やはり、という感じだった。特段の根拠があったわけではなかったが、将充さんのしみじみとした表情と、頭にちらついたあの時の志村の演奏で、私はなんとなく、CD‐Rの中身は『No photos』なのだろうと想像していた。

「そんな大事なものを、私に?」

私がそう尋ねると、将充さんは小さく頷いた。

「僕が持ってるより、メンバーや後藤さんが持ってた方が良いと思ってね。僕が持ってたって、貴充もこの曲も喜ばないと思うし」

将充さんはそこまで言って、窓の外に視線をやった。私はそこで思わず「そんなことないですよ」と言いそうになったが、店員がコーヒーと紅茶を持ってきたので、言いそびれる。私は一息つき、まだ暑い紅茶をすする。茶葉の香りが、ふっと立ち込めた。

「将充さんに聴いてもらったら、貴充くんも喜ぶと思います」

私がそう言うと、将充さんもコーヒーをすすり、小さく苦笑いを浮かべる。

「気を使わせてごめんね。でも多分、貴充は僕に自分の音楽を聴かれたくないと思ってると思うんだ」

将充さんは、依然苦笑いpを浮かべたまま、そう言い切った。

「どうして、そう思われるんですか?」

「随分前のことだけど、貴充に面と向って言われたんだよね。「負け犬の兄貴には、絶対俺の曲聴かせねえから」って。よく覚えてるよ。その時の僕は何も言い返せなかったから」

将充さんは寂しそうな表情で、コーヒーを飲んだ。そうして小さくため息をつき、窓の外を眺める。

私は、そんな将充さんを見ながら、彼の言ったことに驚いていた。志村が、暴言まがいの言葉をかけているとは、思えなかったのだ。

「僕も、貴充と同じようにギターをやっていた。ついでに言えば、それで飯を食おうと思ってたし、食えるとも思ってた。でも恥ずかしい話、諦めたんだ。そんな僕の姿が、貴充の目には負け犬に写ったんだろうね」

将充さんのそんな言葉を聞き、私は生前の志村が言っていたとある言葉を思い出していた。「兄貴には、感謝してる」

あの日、雨の帰路にて彼は、自分がプロを諦めた理由がお兄さんにあると語っていた。そして他方で、お兄さんが無理なら自分もプロにはなれないだろう、とも語っていたのだ。

私はそれを思い出し、志村が将充さんに対して抱いていた感情を推測する。おそらく彼は、将充さんを負け犬だとは思っていないだろう。

「負け犬とも、ちょっと違うと思います」

私がそう言うと、将充さんは視線をこちらにやった。

「貴充くんにとって将充さんは、ギターヒーローのような存在だったんだと思います。ギターがうまくて、カッコいい兄貴。だからこそ、将充さんがプロを諦めた時、誰よりも残念に思い、感情に任せて負け犬だ、と言ってしまったのではないでしょうか」

私の推測を話すと、将充さんは少し眉を動かした。その動きが、物事に興味を示した時の志村のそれに似ていて、私は切なく思う。

「それは、貴充がそう言ってたの?」

「直接そう言っていたわけではないんですけど、彼の発言を総括すると、おそらくそう思ってたんじゃないかと私は思います。彼は、将充さんが無理なら、自分はプロになれないだろう、とそういうことを言ってましたから。きっと、将充さんの夢破れる姿が、自分のことのように悔しかったんだと思います」

私がそこまで言うと、将充さんはじっと私を見つめ、やがて俯いた。そうして小さく息を漏らして、顔を上げると、黒縁眼鏡の奥、少しつった大きな目は、赤く潤んでいた。

「それでもやっぱり、このCDは僕が持つべきじゃないな」

そう言った将充さんの声は、確かに震えていた。

「今の僕に、生前の貴充が持っていたような情熱はない。社会人三年目、僕のギターは、すっかり部屋のインテリアだ」

将充さんは依然声を震わせながら、そう声を絞り出した。それから、自分の手元にあったCD‐Rを私の方に持っていき、赤く潤んだ目を、きゅっと細めた。

「だから、後藤さん。自分勝手だっていうのは、よくわかってる。だけど一つ、頼みを聞いてほしい」

そんな将充さんの声を聞いた時、脳裏にはやはり、志村の姿が浮かんでいた。ギターを肩から下げ、無邪気な笑みを浮かべながら、目をキラキラと輝かせていたあの姿が、脳裏にはっきりと浮かんでいた。

「貴充が残したこの歌を、どうか忘れないでやってほしい。それがきっと、あいつが生きていた証になるから」

将充さんはそこまで言い、一つ鼻をすすった。目元に浮かんだ涙は、いよいよ溢れそうになっていた。しかしそれでも、赤く潤んだその目は、じっと私を見つめていた。

「わかりました。彼の遺したこの曲を、忘れはしません」

志村は、今を鮮明に、濃密に生きて、死んだ。その二十年の生涯の中で、彼は何を思っていたのだろうか。

おそらく生前の彼の中には、「今しかない」という感覚が強く根付いていたのだろう、と私は思う。大好きな音楽を思う存分できる時間は限られている。そういう焦燥感が、きっと彼のなかにあったのだと思う。

だからこそ彼は、二度とないかけがえのない時間を、自分のやりたい音楽と共に全力で生きていたのだと思う。

人間、いつ死ぬかはわからない。例えば私だって、今飲んでいる紅茶が、人生最後の一杯になるかもしれないのだ。ならば私は、今、何をすべきなのだろうか。

「今しかない」

頭の中に、その言葉の語感が強く残った。私は手元にあったCD‐Rに、優しく手を置く。この中には、志村の思いが、魂が、込められている。その重みを漠然と感じ、私は膝に置いていた左手を、ぎゅっと握りしめた。

「今を生き抜く覚悟はできてるぜ」

志村の歌声が脳裏にこだました。

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