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第三章 傍観者の決断

 

  1


 翌日が来た。

 今日は土曜日だが、二日間ある文化祭の初日である。

 しかしウチの高校は二日間ある文化祭のうち、保護者や他校の生徒が入場できるのは二日目のみである。

 初日は学校関係者および在校生のみが参加できるような形態を取っている。

 なので今日の客はおそらくひやかしが多い。

 調理実習室で作られたカップチョコバナナを屋台に並べて売るのだが、野球部の馬鹿が部員数分を注文してくるものだから思わず顔が引きつった。

 お前のイガグリ頭、千本ノックしたろか!! と心の中で嘆く。


「あっざしたー」


 俺はカップチョコバナナを適当にラップで巻いて二つのビニール袋いっぱいに詰めると、嘲笑を浮かべるイガグリ頭に渡す。


「ありがと! またよろしくな!」


 二度と来んなハゲッ!! と叫ぶ間もなくイガグリ頭は颯爽と立ち去っていく。


「迷惑すぎるわぁ……」

「にしても、お前やっぱ接客慣れてるな」


 今の時間、一緒に販売担当をしている裕也が項垂れる俺に話しかけてきた。


「まあ一応、コンビニで三年間バイトしてりゃあね」

「頼もしいわ。俺なんかバイトしたことないからなあ」

「お前、ボンボンだからなぁ。まだ小遣いもらってんだろぉ?」

「いやいや俺だって働きたいんだけど、父さんがバイトなんてしてる暇あったら勉強しろって聞いてくれないんだ」

「へえ。裕福な家庭の考えることはよくわからんなあ。そんなことよりお前、明日の試合大丈夫なのかよ」


 俺が何気なく問うと、裕也は何故か一瞬だけ硬直した。


「……、ああ。順調だよ」

「……、へえ。ならいいけどさ」


 なにかまずいことを聞いたか?

 まあでも、明日の試合は裕也にとってもかなり大事な試合だからそれだけ神経を尖らせているってことか。

 と、そんなことより今屋台の隅にある小さな時計に目を移したらもう交代の時間を10分も過ぎていた。


「はぁ? 次の当番だれだよ」


 俺が気だるげに当番表を確認しようとするが、裕也は頭の中に入っているのかすぐに応える。


「ああ、確か次は河原だな。俺は引き続きここにいるからアイツが来次第、お前と交代ってことで」

「了解。ってかアイツなにやってんだよ」

「確かアイツ、文化祭実行委員だったからその関係でなにか仕事任されてるんじゃねえかな?」


 噂をすればなんとやら。

 河原のやつがなにやらビニール袋を片手に小走りでやってきた。


「ハァッ!! 間に合ったぁ!!」

「間に合ってねえよ!! おっせえよ!!」


 イガグリ頭の件でイラついてた俺は、思わず叫ぶ。


「悪い悪い。そう怒るなって。ちゃんと来たんだからさ」


 どこまでも能天気な河原。

 そんな奴にイライラしても無駄に毛が抜けるだけだと思ってなんとか諦める。


「ん、なんだ河原、その袋」

「おお裕也、午後はお前と二人で店番だよな。よろしくなっ!! あ、これか? これ俺の昼飯と、暇潰しの本」

「昼飯と暇潰しって……。午後になったら食べ物を買いに来る奴も増えるし、そんなモン読んでる暇ねえぞ」

「ヴェッ!! うっそぉ~ん!!」


 どこまでも能天気なやつである。

 そんなこんなで俺は河原にバトン代わりのエプロンを渡すと、屋台を後にした。

 特に行くところは決まっていないが、知り合いのいる店にでも顔を出してみるかなどと思いながらしばらく外をブラブラと歩き出す。


 たこ焼き、じゃがバター、フランクフルトなど縁日でよく見かけるラインナップが校舎の周りをぐるりと囲んでいた。

 偶然、同じ中学のやつが店番をしていた綿あめの屋台でひやかしをしつつ、適当にでっかいのを一つ買う。

 そして、そこから去ろうとした時に事件は起きた。


「あっ。田辺先輩」

「あっ。良悟!」


 退路は塞がれた。

 前方からは焼きそばを2パック持った秋吉凛奈。

 後方からは手ぶらの佐藤清美。

 現時点での要注意人物は、前方の秋吉凛奈だ。

 昨日の事が脳裏に過ぎって思わず後ずさってしまう。

 しかしそこには、頭の上にハテナを浮かべたキヨミエルの姿があった。


「ちょうどよかったわ、良悟。今アンタのとこに差しい――」

「おっ! どうしたんだい、きよみん! 偶然じゃないか!! 探してたんだよ。俺ら今日一緒に回るって約束してたもんなぁぁぁッ!!」

「は? なに言ってるんですか。支離滅裂ですよ」

「(頼むきよみんこの通りだ!! 今は話を合わせてくれぇぇぇっ!!)」


 俺は凛奈に見えないようにきよみんに全力で頼み込んだ。

 そんな様子を見てさらに怪訝な表情を向ける凛奈と俺の間に盾を張るように、俺は綿あめをきよみんに渡すとそそくさとその小さな背中に隠れる。


「おお、凛奈か! 悪いな。俺らちょっとこれから行くところがあるから! それじゃっ!!」

「あっ、ちょっと――」


 俺は凛奈と目を合わせることもせずに、きよみんを引っ張ってその場を立ち去る。

 とんでもないヘタレである。


  2


 そんなこんなで、俺は逃げ込むように校舎内へと退散した。

 隣をてくてくとついてくる小動物のようなきよみんは、何故かいつの間にか俺が渡したでっかい綿あめにかぶりついていた。


「で、どういうことか教えてくれるんですよね?」

「あっ……、ハハハ。ハハ、ハハハハハハはははは」


 言えない。

 一昨日の図書室で大見得を切ったのにもかかわらず、最後の最後で心変わりをして結局なんの進展もなかったなんて。

 幸いきよみんは今現在、絶賛でっかい綿あめと格闘中であまり俺には興味が無いようだ。


「きよみん、それちぎって食べればいいと思うよ?」


 言いながら、俺はきよみんの持つオバケ綿あめの頭を引きちぎって頬張る。


「なるほどっ! その手がありましたか。っていうかきよみんって呼ばないでください」

「きよみん、勢いで連れてきちゃったけどクラスの出し物とか大丈夫なの?」

「それならモーマンタイです。クラスの方は教室でお化け屋敷をやってますが、午前中に仕事が終わったので一人でブラブラしてただけですから」

「なんだきよみんも俺と同じだったんだな。それじゃ、本当にちょっと見て回るか」


 大きな綿あめを握り拳よりも大きくちぎって頬張っていたきよみんの動きが止まる。

 心底驚いたような表情で俺の顔を見つめていた。


「えっ……? 俺、なんかマズイこと言ったか?」

「いっ、いえいえいえいえ!! 大丈夫です大丈夫です。

 そ、そうですね。私も暇ですからね。仕方ないから独りぼっちの先輩に付き合ってあげます」

「なによー生意気な。きよみんだって生粋の独りぼっちだろ」

「孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれるのである」

「なにそれ」

「哲学者、フリードリヒ・ヴェルヘルム・ニーチェの言葉ですよ」

「哲学者ってぼっちの人が多いの?」

「もういいです」


 そうして俺ときよみんは校内の出し物を見て回った。

 レストランもどきで昼食をとったり、チャチなカジノで景品のお菓子を大量に獲得したり、

 見てるこっちが恥ずかしくなるような、下手すぎる演技がウリの自主制作映画を見たり、パソコン部が開発した対戦ゲームできよみんに惨敗したり。


 とにかく俺は、おそらく三年間で間違いなく一番文化祭を堪能していた。

 最後に学校の歴史や行事などが点々と壁に張り紙されている休憩所の机を二人で囲んでいた。


「先輩センパイっ! 体育館の方では演劇やダンスといったものもやってるみたいですよ」

「へえ。じゃあ後で行ってみるか」

「はいっ! あ、武道場の方に行けばバザーもやってます」

「あ、そんなのやってたの」

「なに言ってるんですか。私たち図書委員も蔵書整理のために図書室の古くなった本を出品してるじゃないですか」

「あー、そんなこと言ってたような言ってなかったような……。

 あっ、そうだそうだ。きよみんに借りてたあのラノベ、今日返そうと思ったんだけど持ってくるのわすれちまった」

「いいですよ急がなくても。というか、もう読んだんだですか?」

「読んだよんだ! きよみんが言ってた通り、最後の怒涛の展開がすっげえ面白かった」

「でしょ! あの作品は読み進めていくにつれてとても面白くなっていくんです」

「まあ逆に、序盤と中盤で疲れちゃうってのもあるけどな」

「ああ、それはありますねえ。あっ! じゃあ先に二巻を貸してあげます!」

「おっマジで? ありがてえありがてえ」

「…………」


 するとそこで、きよみんはハッとして何かに気がついたような表情を浮かべていた。

 俺は怪訝な顔になりつつもきよみんを眺め続ける。


「……、マズイです。一昨日、図書室に本を忘れたみたいです」

「わおそれは一大事なことで」

「今取りに行ってくるので待っててください」

「いや、俺もついていくよ。というか、図書室の鍵どうするの?」

「私が合鍵を持ってます」

「揺るぎねえな」

「かまわんよ」


 俺ときよみんは休憩所を後にする。

 二階廊下端の図書室は文化祭では使用されないため校内は騒がしいのにその周辺だけは静まり返っていた。

 きよみんの合鍵で図書室に入り、受付付近を捜索するがそれらしきラノベは見当たらない。

 試しに本棚も覗いてみたが、図書室用の本だけがズラッと並んでいた。


「んー……、見当たらないぞきよみん。本当に忘れたの?」

「一昨日、昼休みに先輩とここにいた時に読んだのが最後で、家に帰ってカバンの中身を整理した時には出てこなかったので間違いないと思うんですが……」

「…………」

「…………」


 そこで、しばしの沈黙が訪れた。

 俺ときよみんは互いに目を合わせて硬直する。


 今日は文化祭。

 そして図書委員は図書室にあるいらない本をバザーに出品しているという。


「……、ねえきよみん。すごく最悪な事態が頭を過ぎったから言ってもいい?」

「……、奇遇ですね。多分、私も今先輩と同じこと考えてます」

「そっかぁ……」


 俺ときよみんは何も言わなかった。

 図書室から静かに出て鍵をかけると、お互い顔を見合わせてニッコリと微笑む。


 次の瞬間、俺ときよみんは走り出した。

 階段を勢い良く下り、一階に到着すると行き交う生徒たちを避けながら長い廊下を一直線に進んでいく。

 渡り廊下を通って体育館の前を素通りし、向かうは武道場。

 図書委員が読まれなくなった本を出品しているバザー開場である。


  3


「買い取られたぁ!?」

「はい。そのタイトルのライトノベルでしたら午前中に販売しましたけど……、なにかまずかったでしょうか?」


 想定した中で最悪な事態が起こった。

 きよみんのラノベは確かに誤ってバザーに持ち込まれていたらしい。

 そして運の悪いことに既に買い取られたとか。

 俺ときよみんがガックリと肩を落としていると、バザーの販売担当だった後輩の女の子がオロオロし始めたので、俺は顔を引きつらせながら作り笑いを浮かべた。


「その買い取った客ってどんな人だったか覚えてる?」

「えっ、えーと……、その人、自分たちの出し物の宣伝ついでに本を買って行かれたのでそこに行けばたぶんいるかと……」

「どこの出し物っ!?」

「ひゃいっ!!」


 おっと俺としたことが焦るあまり声を大きくしてしまったらしい。

 図書委員の後輩がおびえてしまった。

 というかなんで本の持ち主であるきよみんより俺のほうが急いでるんだ。


「その方は二年生の女の人で、文芸部が販売している文集の宣伝に来てましたっ」

「……、なるほど文芸部か」


 ああいう連中は古典文学だけを好んで、ライトノベルとかのサブカルチャーの類を軽視してるなんて勝手な偏見を抱いていたが、どうやらそうではないらしい。


「きよみん、文芸部だ。確か校舎三階の隅に部室があったよな」

「はっ、はい。文集の販売も部室でやっているはずです」


 次の目的地が決まった。

 俺は販売担当の女の子に事の経緯を軽く説明すると、本を販売した際に受け取った料金を預かった。

 おそらくもう本が移動することもないだろうと、俺ときよみんは少し早歩きで校舎三階の文芸部室へと向かった。


「先輩、なんかワクワクしてません?」

「ん? きよみんこそニヤけてるぞ」

「そんなことないです」


 多分、文化祭の浮ついた空気に()てられたのだ。

 宝探しのアトラクション感覚だったのかもしれない。

 たどり着いた文芸部室は開放されていて、文集を販売している旨の看板が立てかけられていた。

 中に入ると、女子生徒が一人店番をしている。

 最初はニッコリ笑顔だったが、俺が文集を買いに来た客ではないことがわかると一気に不愛想になる。


「何の用ですか?」

「すみません、午前中にバザーでライトノベルを購入されませんでしたか?」


 先輩の俺に対してやけに威圧的な後輩女子にビビってペコペコする情けない男子高校生がいた。

 何を隠そう俺だった。


「ああ、あれね? 今度、部の皆でライトノベルを書いてみようって話があがったからその参考にと思って買ったんだけど、それが?」

「アハハハハ、あれな、間違えて販売されたものなんだ。だから返金するので返してほしいなーなんて思って」

「…………」


 なんだろうこの子。

 とても警戒されているというか軽蔑されているというかすごくジトっとした目で俺を見つめてくる。

 惚れられたのかな?


「いいですよ、別に。さっき喫茶店で休憩してるときに全部読み終わっちゃったし。というかあの本、二巻だったからあまり参考にはならなかったけどね」


 なんかサラっと凄いことを言ってる気がする。

 活字慣れしてない俺は15ページ読むのにもやっとだったのに、流石は日頃から本を読んでるだけはあるな。

 俺は文芸部の女子生徒に代金を渡すとなぜかその瞬間、女子生徒はハッとした表情に変わる。

 なにかを思い出したようだ。

 おそらくは俺たちにとってすこぶる都合の悪いことを。


「あっ!! そういえばあの本、喫茶店に忘れてきたんだった!!」

「うおいっ!! そんな超重要事項わすれてんなよ!!

 料金は返したからな。喫茶店で本を受け取ったらそのまま持ち帰らせてもらうからなー!」


 次から次へと目的地が変更される。

 俺は文芸部室を後にしてきよみんと再び校舎内を歩きだした。

 喫茶店といえば、三年の教室を使って開かれているものだろう。

 暗黙のルールで、文化祭では他クラスと同じ出し物はしないことになっているから(おの)ずと目的地は決まった。


「先輩、なんかごめんなさい。変なことに付き合わせちゃって」

「いいんだよ別に。あの本、きよみんにとっては大切なものなんだろ」

「まあ、そうですね。あれは初版で買ったものなので、今じゃ手に入らないですね」

「そ、そんなレアな代物だったのか……ッ」

「レアというほどのものではありませんよ。気にしない人からしたら全く気にならないことですし。

 それに、私一人じゃバザーで販売されてしまったと分かった時点で諦めていたかもしれません」

「きよみん、知らない人と話すの苦手だもんな」

「うぅ……、否定できません……」


 お、きよみんが弱ってる。

 なんだか新鮮な気持ちを抱きながら、俺たちは喫茶店についた。

 喫茶店といっても所詮は文化祭で行われるちょっと規模の大きなおままごとのようなものだ。

 机4つをまとめて一席としてテーブルクロスを敷き、ポットを使ってコーヒーや紅茶を提供したり、クーラーボックスからペットボトル飲料を販売したり、ちょっとした茶菓子を販売する程度だ。

 それでも客数は結構多く、文化祭ではしゃぎ疲れたウェイウェイ族が複数いた。

 どの席も埋まっていて、その机の上に本らしきものは出ていなかった。

 おそらくこの喫茶店を運営している三年生が落とし物として拾ったか、見知らぬ誰かが持ち去ったか。

 後者はもはや行く宛がなくなってしまうから考えたくない。


「すいません、ちょっといいですか?」

「はい? ちょっと待って」


 ウェイターの格好をした長身の男子が慣れた手つきでインスタントコーヒーを入れてから茶菓子を添えて、運動部と思しき男子達が囲むテーブルへと運んでいった。

 彼の友達なのか、多少のヤジを交わしたあと改めて俺の前に戻ってくる。


「お待たせ」

「アハハハ。大変だなあ店員は」

「アイツらサッカー部なんだよ。明日の引退試合の宣伝に来たついでにくつろいでるだけだ。気にしないでくれ。で、何か用か?」

「ああ、少し前に文芸部の女の子がここで本を落としたらしいんだけど、アンタなにか知らないか?」

「本……? ああ、あのアニメ風の絵が書いてあったやつか。確かに拾ったよ」

「よかった! 実はあれ、誤ってその子の手に渡ったもので、返して貰いに来たんだ」

「へえ、そうなの。まあどうでもいいけど、ここにはないよ」

「……、え?」

「文化祭中の落とし物は一階の文化祭実行委員のいるブースに届けることになってるだろ?」


 ああ、確かに言われてみればそんなようなことを毎年聞かされているようにな気がする。

 自分に関係のなさそうなことは聞き流す主義だったから今の今まで忘れてた。


「ああ、そっか。ありがとう」


 またもや行き先変更だが、そろそろゴールは見えてきた。

 文化祭実行委員の常駐する忘れ物センターに届けられているのなら、そこから移動することはまずないだろう。

 もはやいちいち落胆することもなく、俺ときよみんはまた教室を後にしようと歩き出したその時、なにやら気になる会話が耳に残った。


「なあ話は変わるんだけどさ、一昨日の放課後、裕也の様子おかしくなかったか?」

「確かにそれは思った。明日が本番だってのに大丈夫なのか?」

「まあ、今日の最終ミーティングで話聞いてやろうぜ」


 それはおそらく、サッカー部の連中と思しき奴らが囲んでいたテーブルから聞こえたものだ。

 しかしその時は、ただの雑多だと思って気にも留めなかった。


  4


 もはや走る気力もなかった。

 文化祭なのに体育祭よりも体を動かしている気がする。

 かくして俺ときよみんは、一階保健室の隣にある事務室についた。

 文化祭期間中は文化祭実行委員が常駐しているサポートセンター兼落とし物預かり所だ。

 コンコン、「失礼します」、事の経緯の説明と。

 もはや流れ作業だった。

 流石にもうこれ以上は移動することはないだろうと思っていたが、そこにいた文化祭実行委員の後輩男子はとてもバツが悪そうな表情を浮かべた。


「えぇ……、まさかここにもないの?」

「アハハハ……。そうですねぇ、確かに二時間くらい前まではあったんですけど……」

「で、どこ行った? 探しもしないで無いって言うからには在り処を知っているんだろ?」

「は、はい……、実は――」


 後輩男子は申し訳なさそうに語る。

 確かに、俺らが次に向かう場所は決まった。

 しかし文化祭実行委員の後輩男子の話を思い出す度に腹が立ってくる。

 いや、その後輩男子が悪いわけでは決してないのだが。


 俺ときよみんはその男子に一礼すると、落とし物預かり所を後にした。

 ズカ、ズカ、と一歩一歩に怒りを込めて進んでいく先は、そう離れていなかった。

 隣の保健室を素通りし、昇降口から外に出る。

 もう文化祭初日も終盤。

 外に居並んでいた屋台では、すでに今日の分の商品を売り切って片付けをしているところもあった。

 焼きそばの屋台の前を過ぎる時、クラスメイトと笑いながら屋台を畳んでいる凛奈の姿が目の端に映る。

 俺は下を向いて少し早足になったが、きよみんから制止の声がかかったので減速する。


「いやあ、それにしても先輩。なんだかなあ、ですよね」

「ホントだよったく。俺ら後半ただ運動してただけだかんね!」

「でも、今までの文化祭で一番楽しかったかも……、ですっ」


 変なものが余分に混ざりあって複雑な心境の俺の隣をてくてくとついてきて、純粋な笑みを向けてくれるキヨミエル。


「いやあ、きよみんは本当に癒し系だなあ」


 俺がいつもきよみんをからかうノリで何気なくそんなことを言うと、何故だかきよみんは顔を真っ赤にする。


「なっ! なななななに言ってるんですかっ!! ぶん殴りますよ!!」

「広辞苑10冊を軽々しく持ち上げちゃうきよみんのパンチ食らったら多分骨何本か持って行かれるからやめて」


 そんなやり取りをしていたら、目的地へと到着する。

 全体的に黄色を基調として作られた屋台。

 店先にはもうなにも無いことから、ここももう品切れのようだ。

 男子生徒二人が屋台の上にかかった看板を取り外そうとしていたところだった。

 その看板には、こう書かれている。


『俺のバナナ』、と。


「おお、どうした田辺」


 看板を下ろし終わった二人の男子生徒のうちの片方が俺に気づいた。

 ズン、ズン、ズン、ズンと怒りの足音を響かせながら俺はそのクソ野郎へと近づいていく。


「河原ァァァァァァァァァァァッッッ!!」

「な、なんだよ田辺!? びっくりしたぁ!!」

「テメェ、さっき俺と当番交代するときに持ってきた本、落とし物預かり所からかっぱらってきたモンなんだってなぁ!!」

「なぁぁぁっ!? なんでそれを!? あ、まさかあの後輩、チクりやがったなぁぁぁッ!!」

「いいからそれ返せ! ここにいる女の子の大切な私物なんだよ!!

 お前みたいなアホが触っていい代物じゃないの! しかもお前それ二巻だし!!」

「え、これ二巻だったのか……? どうりで内容があまり理解できなかったわけだ……」


 生粋のアホだコイツ。

 まあ何はともあれ今日一日でたくさんの人の手垢がついたであろう本を受け取ると、俺は袖で適当に拭いた後にきよみんに手渡した。


「先輩、今日は本当にありがとうございました。助かりました」

「見直したかきよみん! ハッハッハ。告白ならいつでも待ってるぜ」

「バカ言わないでください。私が先輩に告白するなんて百万年経ってもあり得ませんから」


 やっぱりこれぞ俺の唯一の『理解者』きよみんだよな。

 あんな弱ったきよみんじゃあいじり甲斐もないし。


「なんだかよく分からんが、よかったな」


 もう一人の男子生徒こと裕也が俺の肩に手を置いた。


「おうよ。お前、今日の放課後最終ミーティングあるんだろ? お前もガンバレよな」

「……、ああ分かってるよ」


 その裕也を見て、俺は先程喫茶店にいたサッカー部の連中と思しき奴らの会話が脳裏に過ぎった。


『裕也の様子おかしくなかったか?』


 確かに一瞬いつもの裕也じゃないような気がした。

 しかしそんな裕也も次の瞬間にはいつも通りの調子で、きよみんを口説こうとしていた河原の首根っこを掴むと屋台の片付けを再開する。


  5


 文化祭初日、終了。

 カップチョコバナナは予想以上に盛況で、一日分を完売することができた。

 今日は生徒だけの文化祭なので量はそんなに用意していなかったのだが、それでも完売したことでバナナ代は完全に黒字。

 かくして俺はクラスのヒーローになった。

 そんな気持ちの良い放課後、俺は図書委員の仕事に出向いていた。

 バザーで売れ残った本を一旦図書室にしまう作業だったが、そんなに量もなかったので俺ときよみんが名乗り出て(というか半ば強引にきよみんに連れられて)二人だけで図書室の受付にダンボールを起きに来たのだ。


「先輩、秋吉先輩となにかあったでしょ」


 ビクゥッ!! と、俺は不自然なくらい肩を震わせた。

 唐突に発せられたきよみんの声は、そのまま俺の核心をズブリと突いた。


「はぁ……、きよみんにはなんでもお見通しだなあ」

「今日の文化祭で秋吉先輩を見た時の先輩のあんな反応みたら誰だって気づきますよ。

 で、どうしたんですか? 確か一昨日の昼休みではあんなに堂々と告白する宣言してましたよね」

「……、昨日な。凛奈と二人で出掛けたんだよ」


 きよみんは何も答えない。

 ただ、俺の言葉を待っている。


「そこで俺の気持ちをぶつけるつもりだった。全て吐き出して、楽になれば良いと思ってさ。でも駄目だったんだ。

 1%の善人になることを諦めて、99%の偽善者として生きていくって決めたのに、ついには何も言えなかったよ。

 でもこれでいいんだ。俺なんかが出しゃばらなくても、このまま行けば自然と凛奈は幸せになれる。

 だから俺の出番はもうないんだよ。これからは傍観者として徹底するだけだ」


 俺はきよみんに背を向けてそう語っていた。

 情けないのは重々承知しているつもりだったが、いざ打ち明けるとどうもきよみんの顔を正面から見れない。


 沈黙。

 後ろにいるはずのきよみんは、なにも言葉を発しなかった。

 今、彼女はどんな顔をしているのだろうか。

 おそらく呆れ果てているに違いない。

 どうしようもなくヘタレな俺の背中を見て、ただただ呆れていることだろう。

 だがそれも仕方がない。

 全ては優柔不断な俺が悪いのだ。


「……、ですか」


 微かに、震える声が背後から聞こえた。

 なんだ? きよみんは今、なんて言ったんだ?

 俺は怪訝な表情で、背後へと振り返った。


 その瞬間、気がつけば俺は顔面に凄まじい衝撃を受け、

 壁に思い切り背中を打ち付けていた。


「が……、ぁはッ!!」


 一瞬、なにが起こったのかが理解できなかった。

 目の前には右拳を大きく突き出したきよみんがいて、俺の左の頬には鈍い痛みが遅れてやってきた。

 そこで俺は、初めて理解する。

 嗚呼、俺は今きよみんに殴られたんだ、と。


「なにが……、なにが、偽善者ですかッ!!

 1%とか99%とか、所詮はテメェが逃げるための言い訳だろうがッ!!

 そんなこと、一昨日のうちに気がついたことじゃないのかよ!?」


 きよみんは泣いていた。

 次から次へと溢れ出る感情を必死に抑えようとして、それでも吹き出てしまった間欠泉は止まらなかった。


「……、先輩は、臆病者です。どうしようもないヘタレです。

 でも、そんな先輩が自分の気持ちとちゃんと向き合った時は本当に格好いいと思ったんですよ。

 私には出来ないことだから、その時は先輩を尊敬しました。

 でも私が唯一尊敬できた先輩は、結局自分の都合の悪いことから目を背けて、したり顔で傍観者に徹するなんて言っちゃってる。ホント、馬鹿みたいですよね私」


 震える声を抑えるように、きよみんは左手で荒く目元を拭った。

 俺はただ左頬をさすりながら、俯いていることしかできない。

 口の中に鉄臭い液体が滲む。

 しかしそんなことはなんの現状解決にもならないし、退場の言い訳にもなりはしない。

 だっておそらく、俺の顔を力いっぱい殴ったきよみんの拳の方が、ずっとダメージが大きいはずだから。


「先輩はクチを開けば、やれ凛奈の幸せだとか裕也の幸せだとか……、そんなのもう聞き飽きたんですよッ!!

 それじゃあ、()()()()()()()()()()()()()()!?

 先輩が、先輩自身が幸せにならなかったら、なんの意味もないじゃないですかッ!!」

「……、お、俺にとっての幸せは、凛奈が幸せになることだよ」


 俺はそのとき、多分とても情けない作り笑いを浮かべていたと思う。

 きよみんの怒りをなんとか鎮めようと作った笑み。

 しかしそれは、きよみんにはどう写っていたのだろうか。

 今になってもわからないが、きよみんはそんな俺の言葉に対して強く歯を食いしばると更に険悪な表情で言う。


「……、分かりました。アナタがそこまで言うのなら、自分の幸せの為に尽力しなさい」

「俺の、幸せのために……?」

「ええ、そうです。今のアナタは、一昨日となにも変わっちゃいません。

 親友の、好きな人の幸せを願うなんてカッコつけてるけど、その本心は今の平和な日常が崩されるのが怖いだけですッ!!

 霧山先輩と秋吉先輩が予定より早く結ばれるのを避けたのも、

 自分の気持ちをぶつけられなかったのも、

 アナタが今甘んじている平和ボケした日常が壊されるのが怖かったから現状維持の自己防衛に入ったんでしょう!?

 そして今となっては傍観者に徹するとか言っちゃって、必ず来てしまうタイムリミットまでただただ待ち続けるだけの可哀想な人に成り下がってる!!」


『理解者』の言葉は、明確に俺の心を抉る。

 無意識に再構築していた、あまりに保守的であまりに受動的な要塞を的確に崩しながら。


「……、これは、私が前に友達から聞いた話です。

 生まれて初めて好きな人が出来て、その子は別の友達に恋愛相談をしたらしいです。

『自分の気持ちを打ち明けてしまったら、確かに今まで通りの日常は送れないかもしれない。けど、打ち明けなかったら絶対に後悔すると思う。そんなところでいつまでもクヨクヨしていたら勿体無い』と、その人は言っていたそうです。

 今のアナタじゃ絶対に言えないし、絶対にそんな行動起こせないでしょう。でも――」


 きよみんはそこまで言うと、いつまでも壁に背を預けて座り込んでいる俺のもとに、いつまでも左頬をさすりながら立ち上がろうとしない俺のもとに、ゆっくりと歩いてきた。


 俺は思わず視線をきよみんの顔へと移してしまう。

 さっきまで目を向けることもできなかった、その表情に。

 きよみんは(まなじり)を決していた。

 今にも爆発しそうな怒りを押し殺して、その細い足で俺の胴体を跨ぐと、中腰になって今にも折れてしまいそうな細い左腕に目一杯のチカラを込めながら、俺の胸ぐらを引っ掴んだ。


 俺の上半身は弱々しく、小動物のように小柄なきよみんの腕力で軽々と引き寄せられてしまう。

 今度こそ、絶対に目をそらさせない為に。

 後輩の女の子にここまでさせておいて、それでも無意識に目をそらしてしまう自分がいた。

 心底情けない。


「――それが出来ないんだったら、せめて逃げるんじゃねえ!!

 凛奈の幸せが、自分の幸せなんだろ?

 裕也の幸せが、自分の幸せに繋がるんだろ!?

 だったら!! テメェが今すべきことは、明日のタイムリミットをただ蚊帳(かや)の外で待つことじゃない!!

 秋吉先輩の幸せを今すぐ叶えてあげることじゃないんですかッ!?

 いずれ壊れる日常なら、誰かに壊されるのを待つんじゃなくて、自分で壊しにいきなさいよ!! 田辺良悟ッッッ!!」


 ぽたり、ぽたりと、俺の頬をきよみんの涙が湿らせた。

 自分の精一杯の感情をぶつけてもなにも言い返せないでいる俺を見かねたのか、きよみんは俺の胸ぐらからゆっくりと手を離す。

 涙や鼻水以外にも色々な感情でぐしゃぐしゃになってしまったその表情を左手で隠しながら、きよみんは小走りで嗚咽(おえつ)とともに図書室から立ち去っていく。


 俺はそれからも、しばらく立ち上がれないでいた。

 きよみんが激情にまかせて吐き出したさっきの言葉を頭で反芻(はんすう)しながら、ただ無力に座り込んでいるだけだった。


  6


 それからどれだけ、俺が図書室でへたり込んでいたのかは分からない。

 無気力に立ち上がって適当に戸締まりをした後、図書室の鍵を職員室へ返しに行ったときにはすでに17時半を回っていた。

 もうほとんどの生徒が帰宅して、制服姿が一切見えない紫色の帰り道。

 商店街のニオイにひとしきり腹の虫を刺激され、住宅街へ抜けた頃にはグゥと弱音を吐いた。


 俺はすっかり暗くなった夜空を見上げると、口の中がズキリと痛むのを感じる。

 きよみんに殴られた。

 いや、俺が殴らせたんだ。

 自分が守ってきた日常がついに壊されるのを嫌って、その現実から目を背けていた俺を正すために。

 俺は言った。

「凛奈を幸せにしたい」と。

 俺が口を割ってその言葉を発したということは、紛れもない責任がその言葉には伴ったということだ。

 しかし俺は、凛奈から逃げた。

 このまま俺が何もしなければ、凛奈は勝手に幸せになるだろうと思っていたから。

 でもそれは、果たして俺が凛奈を幸せにしたことになるのだろうか?


「違う」


 俺は夜空に呟いた。

 痛む口の中なんて気にせずに、俺は思い切り歯を食いしばって両手の拳を力強く握りしめる。

『凛奈の幸せが、俺の幸せだ』

 俺はさっき、そう言った。

 きよみんの怒りを逸らすために紡がれた、不意の一言だったかもしれない。

 けど確かに、俺の口から出たセリフであることは間違いない。

 それなら。

 そうであるなら。

 しっかりと責任を取るべきだ。


 というか、きよみんにあそこまでさせておいて結局なにもしませんでしたなんて、俺が俺を許せない。

 どうしても正当化しなきゃ行動が起こせないんだったら、無理矢理にでも正当化させるべきだ。

 そしてきよみんの言うとおり、責任を取るべきだ。

 俺は自分の幸せのために、凛奈を幸せにするべきなんだ。

 凛奈を幸せにするためには、裕也とくっつける必要がある。

 しかし明日の午後になればそれは自然と叶うだろうが、そうなってしまっては俺が自らの手で凛奈を幸せにしたことにはならない。

 それなら、今すぐにでも行動を起こす。

 俺はスマホを取り出すと、LINEから凛奈のアカウントを選択して無料通話をかけた。

 もっと冷静だったらそこで躊躇(ちゅうちょ)したかもしれないが、今の俺は流れるようにすんなりと行動を起こしていた。


『……、なによ急に』


 明らかに機嫌の悪そうな声で凛奈が通話に出た。

 昼間の学校であからさまに凛奈を避けたのが気に障ったのか。


「ああ、凛奈、今ヒマか?」

『……、ちょうどお風呂から上がったところ。晩御飯まですることもないしヒマといえばヒマだけど』

「ちょっと出てこられるか? いつもの公園」

『なんなのよ。何の用なのよ』

「大事な話があるんだ」

『…………』


 明らかな沈黙があった。

 俺は少し小走りで歩きながら、凛奈の返答を待つ。


『分かった。今すぐ?』

「ああ、俺ももうすぐで着くから」

『じゃあちょっと待ってて。10分くらいで行くから』

「おう、分かった。悪いな」

『いいわよ別に』


 通話が切られる。

 俺はスマホをポケットにしまうと、例の公園を見据える。

 俺はこれから凛奈に事の全貌を打ち明けるつもりだ。

 凛奈に裕也への思いを打ち明けられたあの日、その直前に裕也に打ち明けられていた決意の話。

 そして明日の引退試合が、その全ての鍵を握っているという話。

 その全てを打ち明けて、もし仮に裕也が試合に負けたとしてもその時は凛奈から告白するようにと話をすすめる。

 そうすれば、二人は明日必ず結ばれる。

 50%だった可能性が、100%になる。


 俺は全てを正すんだ。

 凛奈の幸せのために。

 わざわざ拳を砕いたきよみんのために。

 そしてなにより、俺自身の幸せのために。

 今から俺は自分の手で、自分の守ってきた日常を、壊すんだ。


 しばらくして、桜の木の下のベンチに腰掛ける俺の目に赤いコートにパジャマ姿の凛奈が公園に足を踏み入れてきたのが見えた。

 この前バイト先に来た時と同じ服装に見えるが、何故か耳にはピアスをしていた。

 だが今の俺はいちいちそんなことに突っ込んでいられるほど精神的に余裕がなかった。

 俺はベンチから立ち上がると、歩いてきた凛奈と向かい合うように立つ。


「アンタから呼び出すなんて珍しいじゃない」

「まあな。ちょっとお前に話しておかなきゃいけないことがあってさ」

「昼間はそそくさと後輩の女の子とどっか行っちゃったクセに」

「……、ごめん」

「……、え? ちょ、なにマジになって謝ってんの?

 ちょっとからかっただけじゃない。それで、話ってなんなのよ。お風呂上がりだから冷えちゃうでしょ」


 一瞬、強めの夜風が肌を撫でた。

 今日はやけに冷え込む。

 少し痛いくらいの寒さが鼻の頭をついた。

 凛奈は火照った体を何故かもじもじさせて俺から視線を外す。

 少しだけ違和感を覚えつつも、俺は本題を切り出した。


「……、単刀直入に言う。裕也も、お前のことが好きだ」

「…………」


 俺の言葉に凛奈は面食らったのか、言葉に詰まってしまった。


「もっと早く言っておくべきだったんだがな。お前から裕也が好きだって話を聞いた日、俺と裕也が二人でファミレス行っただろ?

 そんときに、裕也も前からお前が好きだったんだっていう話を聞いたんだ」

「…………」


 凛奈はなにも話さない。

 ただ俯きながら、俺の話を聞いている。


「そしたらアイツ、文化祭の引退試合で勝つことが出来たらお前に告白するって言ったんだ。

 多分、裕也のことだ。俺が想像しているよりも遥かに練習に打ち込んでるんだと思う。

 裕也は中学の時のトラウマで恋愛恐怖症になったけど、それでも自分でそれを乗り越えてお前にアタックしようとしてる。

 だから俺はそんなアイツの願いを叶えてやりたいって心から思うし、凛奈もそれを望んでいるんだったら行動を起こさない理由がないだろ?

 だからさ、凛奈。お前は明日の試合でもしもアイツが負けるようなことがあっても、その時はお前から告白してやってほしいんだ。お前にとっても、全然悪い話じゃないだろ!?」


 俺はなぜか、必死になっていた。

 これでいいはずなのに、どうしても胸騒ぎがする。

 俺はなにか間違っているのか?

 間違っているのだとしたら、それはどの段階でだ?

 心を必死に整理しようとするが、どうしても混乱してしまう。

 それは多分目の前に佇む凛奈が、俯いたまま全く顔をあげようとしないからかもしれない。


「……、それだけ?」


 凛奈は俯いたまま、平淡な声でそう言った。


「そう、だけど……。ああでもなんだ、なにか足りないことがあったりしたら俺に言えよ。出来るだけ二人の間を取り持つように努力するつもりだからさ」


 俺は何故か作り笑いを浮かべていた。

 次の瞬間。

 俺がなにかを口走ろうとしたその時。


 凛奈は一歩だけ前に踏み込むと、その勢いにまかせて思い切り俺の頬を叩いた。


 鈍いビンタの音が、夜の公園に響き渡る。

 生まれて初めて一日に二度も女の子に顔を殴られた。

 今までろくに喧嘩もしてこなかった俺は凛奈とふざけあいながら軽く小突きあうくらいのことはしたが、今日顔にもらった二発はそのどちらも本気の二発だった。


 腰の入ったきよみんの重い握り拳に比べたら、凛奈の平手打ちは可愛いものだったかもしれない。

 しかし頭に走った衝撃はむしろこちらのほうが大きかった。

 俺はさっきと同じように左頬に手をやりながら、凛奈へと視線を移した。


 凛奈の顔に表情はなかった。

 ただ静かに怒りを込めて、俺を鋭く睨んでいた。

 そして月明かりと街灯に照らされて、一粒の雫が冷たい夜風に流れていくのが見えた気がした。


「最っ低……」


 凛奈はそれだけ言うと、俺に背を向けて公園を後にした。

 俺は酷く混乱していた。

 きよみんに殴られた時は、少なくとも何故殴られたかが理解できた。

 しかし今の凛奈の平手打ちに関しては、全く理由が分からない。

 自分と裕也の仲を取り持ってくれと持ちかけてきたのは凛奈の方で、俺はそれに応えたはずだ。

 凛奈は裕也のことが好きで、裕也も凛奈のことが好きで。

 俺はその二つの想いを繋ぐため、自らの本心との葛藤を振り切ってたった今行動を起こしたはずだ。

 それなのに、凛奈の顔には静かな怒りがあった。

 凛奈の目元には確かな哀しみがあった。


 何故だ?


 俺は気がつくと、桜の木の下のベンチに再び腰を下ろしていた。

 そこで俺は頭の中をなんとか落ち着かせようと様々な思考を巡らせた。

 しかし何ひとつ考えが浮かばない。

 俺は18年間、秋吉凛奈という少女のそばでずっと生きてきた。

 周囲の人間が知らない彼女の一面を知っていたし、彼女の生年月日、血液型、性格、思考パターンなどなんでも知っているつもりでいた。

 おそらくは彼女の親よりも、俺は彼女について詳しいのではないかとも考えていた。

 しかしたった今それは大きな間違いだったことに気付かされた。

 思い返せば近頃、凛奈の考えていることが全く読めなかった。

 だがそれでも俺はずっと凛奈の特別でありたいが為に勝手に納得して付き合ってきたが、今さっきの彼女の行動で秋吉凛奈という少女のことが全く理解できない未知の存在に変貌していたことを思い知らされたのだ。


 もう俺は彼女の特別ではない。

 いや。

 元々、俺は凛奈にとって単なる一人の幼馴染だったのかもしれない。

 俺だけに特別な一面を見せていたのも実は俺の勝手な妄想で、本当は他の人間にも普通に見せていたのかもしれない。

 そうだよ、きっとそうだ。

 俺は最初から凛奈の特別なんかじゃなかったんだよ。

 昔から一緒にいた少し可愛い女の子の普段とのギャップに惹かれた挙句、勝手に自分を特別な存在だと勘違いして浮かれていただけだ。

 そんな痛々しい中二病こそが、俺が凛奈のことを好きなんだと勝手に勘違いさせていたに違いないんだ。

 俺はそんな変な解釈を抱いて、強引に自分の中で終止符を打った。


 もうこれで俺に出来ることは全てやったはずだ。

 伝えることは伝えるべき人に伝えたし、もうこれ以上はこんな無力な俺に何かできるわけもない。

 俺の役目はこれで本当に終わったはずだ。

 傍観者ではなくきっちりと主役たちを引き立てるための脇役として、一人の男の無意味な悪あがきはこれにてめでたく大団円を迎えたのだ。


  7


 文化祭、二日目。

 今日は二日間ある文化祭の二日目、最終日だ。

 生徒だけで行われる一日目と違って今日は10時から校舎が解放され、学外の人間も自由に出入りができるようになる。

 在校生の保護者や家族、他校の生徒やウチに受験を希望する中学生まで昨日とは比べ物にならないくらいの人間が訪れる。

 そして今日の一番の目玉はなんといっても、グラウンドを貸し切りで行われるサッカー部の追い出し試合だ。

 俺や裕也が入学した当初サッカー部は名も知れない弱小チームだったが、裕也の加入で一気にチカラをつけて今となっては期待の新星として強豪チームの仲間入りを果たした。

 それをきっかけにウチのサッカー部目当てで入学を希望する生徒も年々増えてきたのだとか。

 そんな諸々の事情も相まって今日の来校者数は計り知れない。

 まあそれでもウチのクラスのカップチョコバナナはそれを見越して一日目の三倍近い在庫が眠っているので、おそらく大丈夫だとは思うが。


 そんなこんなで俺は午前中の店番の真っ最中だった。

 昨日二人の女の子に左頬をぶん殴られるという、普通の男子高生ならまず経験しないであろうイベントが発生したため俺は昨夜あまり眠れなかった。

 未だにズキリと痛む口の中を気にしながら、俺は無心で客の対応をする。

 相方の河原はバカだからそんな俺の状況に気づくわけもなく。

 まあでもそれが幸いしたのか、なんとかいつも通りを装えている気がする。


「うっひゃー。さっき運ばれてきた在庫がもうなくなっちまったよ! この調子でいったら、俺ら億万長者になれちゃうんじゃねっ!?」


 などとはしゃぐ河原(バカ)を無視して、俺は調理実習室から追加のカップチョコバナナを運んできた運搬係からそれを受け取ると店頭に並べる。


 そういえば今朝教室で簡単な朝礼を済ませて以来、裕也の姿を見ていない。

 最後に叱咤激励でもしてやろうと思ったが、昨日の凛奈を思い出したら何故だか声をかけられなかった。

 大変不甲斐ない。

 情けない。

 酷く女々しい。

 頭の中ではそう思っていても、実際になにか行動を起こすとなると無意識にブレーキをかけてしまう。

 しかし俺はしっかりと最善の選択をしたはずだ。

 いや、きよみんのおかげで最善の選択が出来たはずなんだ。

 俺は逃げずに自らの手で日常を壊し、裕也と凛奈をくっつけるべく行動を起こした。

 これであの二人は幸せになる。

 そうすれば俺自身もちゃんと納得の行く未来にたどり着けるはずなんだ。

 あとはただ見守るだけ。

 しっかりと今日の引退試合を見に行って、二人の行く末を見届ける傍観者に徹するんだ。


「よっしゃ時間だ! 田辺、お前も観に行くよな? サッカー部の引退試合」


 ぼーっとしていた俺に、河原はそんなことを言ってきた。

 よく見るともう午前の店番の時間が終わり、遠くから交代のクラスメイトが歩いてくるのが見えた。


「お、おう。もうこんな時間か。そうだな、俺も観に行く」


 俺と河原は交代の二人にエプロンを渡すと、そのまま肩を並べてグラウンドへと向かった。

 校舎内は未だに人の往来が絶えることはないが、グラウンドにはコートをぐるりと囲むように隙間なく人集りが出来ていた。

 さすがに椅子などは用意されておらず、皆立ち見となるのだがそれにしても人が多い。


 俺と河原はとりあえず両サイドのゴールが見れるような場所を探すためにグラウンドをうろうろする。

 まだ開始まで少しばかり時間があるためか、コート内には誰の姿も見当たらなかった。

 ただ、なにやらグラウンドの端の方で複数名のサッカー部と顧問の教師が話し合っているのが見えた。

 その中には凛奈の姿もある。

 遠くてあまりわからないが、何故だかあまり穏やかではない表情に見えた。

 なにかアクシデントでもあったのだろうか。


「うーん、あんまいいところなさそうだなあ。なあ田辺、ワンチャン校舎内行ってみるか? 二階の空き教室からならグラウンドを一望できると思うんだ」

「あー、なるほど。お前にしてはいいアイデアだな」


 たしか図書室の近くに一つだけ空き教室があったはずだ。

 窓はグラウンドに面していたと思うから、そこに行けばグラウンド全体を見渡せるだろう。

 まあちょっと卑怯な気もするが、別に禁じられていることではないので気にしないことにしよう。

 俺と河原は方向転換して校舎の方へと向かおうとした。

 その時。


「おいおいなんだよありゃあ!! あんなのの下敷きになったら死んじまうぞっ!!」


 誰かが声を上げた。

 俺は何事かと思って視線を泳がせると、校舎の二階の窓枠から垂れている横長の看板が傾いているのが見えた。

 おそらく木材で組んだ枠の表面に紙を貼り付けたもの。

 大きく『第53回 文化祭』と書かれているその看板は、多分生徒会あたりが取り付けたものだろう。

 看板を地面と並行になるように吊るしていた二つのワイヤーの片方が外れたのだ。

 留め具が緩んでいたのか、スルスルとワイヤーが看板の重さに耐えられずにはずれていった。

 しまいには勢い良くワイヤーが外れて縦向きになった看板は振り子のように左右に揺れる。


「なんだありゃあ!! あっぶねえ!! あんなの、もう片方が外れたらどこに飛んで行くかわからないぞッ!!」


 隣で大げさに騒ぐ河原の声が、余計に周囲の不安を煽った。

 一応、看板の真下にいた人集りはその異変に気づいてぽっかりと穴が空いたようになっているがそれでも強風に煽られでもしたら、あの巨大な看板がどこに飛んで行くか分からない。

 周りの人間は全員風に揺れる看板を眺めているが誰ひとりとしてその場を動こうとはしなかった。

 おそらく他の誰かがすでに対処に向かっただろうと思っているからだ。

 かくいう俺も危ないから早く教師どもがなんとかしろと心の中で毒づいていた。


 そして。

 看板を支えていた唯一のワイヤーも、スルスルと緩んで留め具を離れていこうとする。

 ソレを見ていた誰もが固唾を飲んで備えた。

 運悪く、風が強まってくる。

 大きな看板は左右に勢い良く揺れる。

 このままでは落ちる。

 誰もがそう思ったはずだ。


 そして、ついにワイヤーが留め具から抜け落ちた。

 思わず走り出す周囲の人々。

 そんなに近くにいなかった俺や河原でさえも、その状況を前にして無意識に数歩だけ後ろに下がる。


 ガッ!! と。


 俺の身長ほどある看板が、完全に重力に捕まろうとしたその直前の出来事だった。

 窓から上半身を乗り出し、片手で看板の木枠を掴もうとした一人の男子生徒の姿があった。

 しかし寸前で看板はその生徒の手を離れて地面へと落下してしまう。

 運良く真下に落下した看板はそのまま一回バウンドして地面に留まった。


 誰もが安堵したその時、集団の中の誰かが小さな悲鳴を上げた。

 それにつられて、ざわざわと集団が再び視線を上に戻し始める。

 そこには左手で窓枠を掴んだまま完全に宙吊り状態になった男子生徒の姿があった。

 おそらく勢い良く上半身を乗り出した為にそのまま窓の外に身を投げだしてしまったのだろう。


「お、おい……、あれってよ」


 隣にいる河原が言葉を投げかけてくるが俺はそっちに視線すら向けられなかった。

 俺の視線は完全にその男子生徒に釘付けになってしまったからだ。

 足がすくむ。

 しかし俺の足は、頭で考えるよりも早く動いていた。


 校舎へ向かう。

 アイツがぶら下がっている教室に行けばアイツを引き上げることができるはずだ。

 しかし俺が走り出したのと同時に、至る所から悲鳴が上がった。

 俺は立ち止まってそちらへ視線を戻す。

 遅かった。

 現実は漫画やドラマのようにはいかない。

 時間は俺の行動を待ってはくれない。

 地面に落下したソイツは、言葉にならない言葉で大きな悲鳴を上げた。


 校舎の二階といってもそれなりの高さはある。

 男子高生ともなれば、そんな高さから落ちてしまえば自重に足が耐えられるはずもなかった。

 俺はとにかく走った。

 誰でもいいから、教師を見つけるために。

 そうして一刻も早くアイツを……、裕也を病院へと運ばせるために。


  8


 霧山裕也、両足複雑骨折。

 全治、およそ4ヶ月。

 担任の教師にそう伝えられたのは、文化祭が終わった翌日のホームルームだった。

 俺が目にしたあの一瞬の出来事が脳裏を駆ける。


 俺はヒーローじゃない。

 漫画やドラマの主人公を張れるような、正義感や行動力のある男とは程遠い存在だ。

 ただそれでも、あの場で俺に出来たことはもっと他にあったのではないかなんて考えてしまう。

 裕也が落下した教室は俺と河原が向かうはずだった空き教室だった。

 つまり俺らがもっと早くあの教室に行っていれば、こんな結果にはならなかったかもしれない。

 もし看板が傾いた最初の段階で俺が空き教室に走っていたら、裕也が飛び出す必要はなかったかもしれない。

 そんなどうしようもない後悔が頭のなかで渦を巻きつつ、俺は放課後に裕也が入院する病院へと足を運んだ。

 凛奈も誘おうかと思ったが、ここ数日で様々なことがあったからどうも俺からは接触する勇気はなかった。

 だから今日は俺一人。

 ここは結構大きめの病院で、普段行き慣れていない俺が下手に歩き回れば間違いなく迷いそうな場所だった。

 受付で裕也の名前を出して病室を聞き、どこにもよらずに素直にエレベーターでその階へと向かった。


 長い廊下を歩いていると、一つの病室の扉が開いてそこからぞろぞろと四人の男子高生が出て来るのが見えた。

 よくよく顔を見ると、文化祭初日に喫茶店にいたサッカー部連中だ。

 おそらくあそこが裕也の病室で間違いないだろう。

 俺は裕也以外のサッカー部の奴らとはあまり顔見知りという訳ではないので、絡まれない限りスルーでいこう。


「正直、裕也には失望したぜ」

「前日の最終ミーティングであんなことを頼み込んできたときは流石に引いたわ」

「なあまさかとは思うんだけどさ、今回の事故って裕也がわざとやったことなんじゃ……」

「いやあ、それは無いと思うぞ。あの現場を見てたやつに聞いたから間違いはないと思う」


 俺とソイツらがちょうどすれ違いになろうとした時、そんな聞き捨てならない会話が聞こえてきた。

 俺は無意識に足を止め、くるりとその場で振り返っていた。


「ちょ、ちょっといいですか?」


 気がついたときには、俺はサッカー部の連中を呼び止めていた。

 普段は絶対に自分から関わることはしないはずのウェイウェイ族。

 俺は異世界に住む人間に接触するように、おそるおそるクチを開く。


 四人は結構フレンドリーに会話をしてくれた。

 俺の中にあった偏見で、こういう奴らに話しかけたら変に凄まれるのではないかと思ったがどうやらそうではないらしい。

 俺は四人から聞きたいことを聞き終え、心の中で整理すると別れを告げて背を向ける。

 結果的に俺は裕也に怒りを覚えた。

 しかしここは冷静になるべきだ。

 あの頭が良すぎる裕也のことだから、それなりの理由が絶対にあるはずだと自分に言い聞かせる。


 俺は裕也の病室の前に立って扉に手をつけると、胸を這う嫌なものを吐き出すように深く深呼吸をする。

 そして一気に扉を開けた。

 裕也の病室は生意気にも個室だった。

 おそらく過保護ぎみな裕也の両親が手配したのだろう。

 白い空間の白いベッドの上に、両足にギプスをはめて窮屈そうに横たわる裕也の姿があった。

 裕也は俺の顔を見るとバツが悪そうに苦笑する。


「……、よう良悟。出来ればお前にはこんなみっともない姿は見せたくなかったんだが」

「ッハ、お前は普段からみっともないところを見せなさすぎなんだよ」


 いつものように軽口を叩きながら俺はベッドのそばに置いてある一人がけのソファに腰を下ろす。


「そういや、お前が先生に言って救急車を呼んでくれたんだってな。ありがとな」

「別にいいよ。当たり前のことをしただけだ」

「そういや引退試合だけど、ギリギリのところで俺ら卒業生チームが負けたらしいなあ」


 裕也はどこか含蓄のある笑みを浮かべながら語る。

 裕也が救急車で運ばれたあと、文化祭は何事もなかったかのように続行された。

 もちろんサッカー部の追い出し試合もだ。

 俺はどうすることも出来ず、とりあえず河原と一緒にグラウンドの端で試合を見守った。

 結果は3対2で在校生チームの勝ち。

 エースである裕也を抜いた卒業生チームもかなり健闘して強者揃いの在校生チームと闘っていたが結果的には負けてしまった。

 卒業生を倒してこそ盛り上がる追い出し試合だが、試合後のサッカー部は誰もが険しい表情をしていた。

 凛奈も含めて。

 それもそのはずだ。

 不慮の事故だったとはいえ、最大戦力である裕也が欠けた卒業生チームに勝っても在校生にとってはなんの意味もないのだから。


「……、で、なんで二階の窓から落ちたんだ?」


 俺は切り出す。

 裕也の目をしっかりと見据えながら。


「なんでって……、先生からなにも聞いてないのか? あの空き教室から垂れ下がってた看板が落ちそうになったのを止めようとして急いで手を伸ばしたんだ。

 でも遅かった。俺はそのまま勢い余って外に投げ出された。

 なんとか片手で窓枠を掴んだけど、咄嗟のことだったからチカラも入らずにそのまま落下。今思い返してもマヌケだったよ」


 裕也は再び苦笑する。

 偽善者の作り笑いだ。

 だが俺が知りたいのは、その仮面の下にあるお前の素顔なんだよ。


「ああ、それは先生から聞いたよ」

「え……?」

「じゃあちょっと質問を変えようか。なんでお前はあの時、空き教室にいたんだ?」

「…………」


 裕也は思わず固まってしまった。

 俺は空気が読める男だ。

 少なくとも自分ではそう思ってる。

 今の裕也の表情は、これ以上その話に触れないでほしいという表情だ。

 だがそれでも俺は話を続ける。

 俺がどうしても知りたいことが、その先にあるかもしれないから。


「お前、引退試合が始まる五分前になってもグラウンドに姿を見せなかったみたいだな? 部員たちが再三に渡ってお前の携帯に連絡を入れたけど一切返信がなかったって言ってたぞ……、お前、本当はわざと窓から落ちたんじゃないか?」

「……、な、なんでそうなるんだよ。話が飛躍しすぎだ。返信出来なかったのはたまたま携帯の電源が切れていただけだよ」


 嘘だ。

 俺は直感した。

 しかしそれは感覚的なもので、証拠がなければ問い詰めることもできない。


「……、そっか。じゃあこの話はひとまず置いておこう。それじゃ、もう一つ、聞いてもいいか?」

「……、なんだよ」

「文化祭初日の放課後に開かれた最終ミーティングで、お前はチームメイトに何を言った?」


 裕也の表情が再び固まる。

 しかし今回は完全に焦っている表情だった。

 核心を突かれ、逃げ道を必死に探しているといった表情。

 俺は今まであの超人的な裕也のこんな表情を見たことがない。

 しかしきっちり答えて頂こう。

 俺が一番聞きたかったのはそこなのだ。

 さっきサッカー部員たちから聞いた話の中で、最も俺が理解できなかった部分。

 俺はそれを問い詰める。

 俺もさっき部員たちから聞いた時は思わず驚愕してしまった。

 なぜならそれが本当だとしたら、裕也の考えと行動が全く矛盾してしまうから。

 サッカー部員たちは裕也の行動しか知らないが、俺は裕也の考えも知っている。

 だからこそ、甚だ頭が疑問に埋め尽くされてしまったのだ。


「……、さっきの奴らに聞いたのか」

「ああ。全部聞いたよ。今まで率先してチームの士気を高めていたお前が、ある日突然ずっと上の空で練習をするようになったこととか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、試合開始直前になるまでお前が姿を現さなかったこととか。

 その上で今回の事故だ。あの部員たちがお前に不審を抱くのも無理はないだろ」

「……、はは。やっぱり、お前には隠し事はできないな」


 裕也はそれでも無理矢理作り笑いを浮かべた。

 俺に変な心配をさせないようにと裕也がとった行動だろうが、それが無性に俺の怒りを煽る。


「で、なんでそんなことしたんだよ。あの試合は、お前にとって大事な試合だったんじゃなかったのかよ?

 あの試合で勝って、凛奈に想いを打ち明けるって言ったあの言葉は嘘だったのかよ!?」


 思わず声を荒げてしまった。

 裕也の口からその理由を聞くまで、平静を保っていようと決めていたのに。


 俺は全てを知っているつもりだった。

 裕也の想いと、凛奈の想い。

 二人は互いに好意を抱いていて、俺はその成就をなによりも望んでいた。

 少なくとも今は、そうなることが俺自身の幸せにも繋がると信じていた。

 紆余曲折は確かにあった。

 それは俺の優柔不断さが招いたことだ。

 しかしそれもきよみんにぶん殴られたことでしっかりと正しい道筋に戻ったはずだった。

 全ては順調で、あとは二人がゴールテープを切るのをただ見守るだけでよかったはずなのに。

 それなのに、何故か裕也は自らの意志で俺の築いた最善のルートから逸れた。

 俺は、その理由が知りたいんだ。


「……、なあ、覚えてるか? 中学2年の時、お前が学年全員の前で朗読した作文」

「……、は? それと今回のこととなにか関係があるのかよ」

「まあ、聞いてくれよ。

 その作文の中でお前は『親や教師が子供を叱るのは、子供のためじゃなくて自分の為である』って言ってたよな。

 まさにその通りだと思った。

『全人口の1%にも満たない本物の善人とは、誰に知られることもなくただ善行を積む人間のことだ』と聞いたときは鳥肌が立ったのを今でも覚えてる。

 俺はさ、あの作文を聞いてすっげえ感動したんだよ。

 今までモヤモヤしてた心の霧がパッと晴れたみたいでさ。

 それと同時に、お前を本当に尊敬するようになった。

 自分で言うのもなんだけど、俺はその日からその1%の善人になるべく日々隠れて努力してきたんだよ。

 中学の時はお前に頼りっぱなしだったけど、高校に入ってからはただ善人になることだけを夢見て頑張った。

 そのおかげでサッカー部をインターハイに連れて行く事もできたし、多くの人に感謝されるようになったんだ。

 今の俺があるのは、間違いなくお前のおかげなんだ」


 裕也は本当に嬉しそうに語っていた。

 その顔に浮かぶ笑みは作り笑いなんかじゃない。

 まさか俺の書いた作文があのなんでも超人の裕也を動かす原動力になっていたなんて、本人の口から聞いた今でも信じられない。

 こっ恥ずかしい反面、バツが悪い。

 なんたって、あの作文を書いた当の本人はとっくの昔に善人になることを諦めているのだから。

 口だけの俺なんかとは違う。

 裕也こそが本物の、()()()()()()()()()()()()()


「……、だから今回も、俺は善人になるために徹した。

 もし俺がお前だったら、多分こういう選択をするだろうなと思ったから。

 だからお前とファミレスで交わした約束を破らないために、自然な流れで試合に負ける必要があった。

 だからチームメイトに頼み込んだんだ。

 だがアイツらは断固として受け入れなかった。

 俺らが手を抜けば、敏感な後輩たちは絶対にそれを見抜いてしまうって言ってな。

 だったら……、それなら!! もう、こうするしかなかったんだ!! 俺が、俺一人が試合を放棄しさえすれば、後輩に手抜きを見破られることもなく、自然な流れで試合に負けることができるんじゃないかって思ったんだよ!!」


 裕也は手の色が変わるくらい強く、拳を握りしめていた。

 今まで聞いたこともない、裕也の怒号。

 いつもの冷静な裕也からは考えられなかった。

 おそらくコイツは、自分のしたことが本当に正しいという自信がないんだ。

 だから威勢を張ってその不安を払拭しようとしている。


 だが。


「……、ちょっと、待ってくれよ……、なんでそうなるんだ?

 お前は、試合に勝って凛奈に告白するって話じゃなかったのか?

 それがなんで、善人になりたいからってわざと試合を放棄することに繋がるんだよ」


 そう。

 どうしても、辻褄があわない。

 動くはずの歯車が動かない。

 しかしその歯車は錆び付いているのではなく、根本的なところで噛み合っていないような、そんな違和感。


 すると裕也は目を丸くして俺の顔を見ると、肩の力を抜きながら口を開いた。


「良悟、お前は自分のことになるととことん鈍いんだな。

 そんなの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まあでも、それを知ったのはつい最近なんだけどな。

 お前が図書室で後輩の女子と話してるのを聞いた時だよ。

 盗み聞きするつもりはなかったんだけど、聞こえてきちまったから」


 図書室での会話……、おそらく先週の木曜のことだろう。

 俺がきよみんというたった一人の『理解者』を得た、あの日。

 まさかあの時の会話を、裕也に聞かれているとは思わなかった……。

 でも、待てよ。


「なんでそれで俺と凛奈が両思いってことになるんだよ!?

 お前には黙ってたけどな、アイツもお前の事が好きなんだよ!!

 俺は凛奈本人の口から聞いたから間違いない。

 両思いなのは、お前らの方だろ!?」


 頭が混乱してきた。

 しかし、何故だ?

 どこで間違ったんだ?


「なんだって……? 秋吉、そんなこと言ってたのか!?

 まさか、あの提案に俺を選ぶとは思わなかった……」

「おいおい、ここまで来て自分だけ納得すんじゃねえよ。なにがどうなってんだよ?」

「……、そうだな。もう全部を話そう。お前には何も隠さないことにするわ」


 俺は裕也から全てを聞いた。

 俺が思っていたのとは全く違う、事の真相を。

 俺だけが全て知っていると思っていた。

 しかしそれは大きな大きな誤算だったんだ。


 凛奈は俺の気を引くために過去に何度か別に好きな人が出来たと話を持ちかけてきたこと。

 なにも進展しない状況を打破するために、アイツに似つかわしくないラブレターを書いていたこと。

 それを偶然裕也が拾って、そこから恋愛相談を受けていたこと。

 そこで裕也は提案した。


『もう一度、別の誰かを好きだと言え。そして今度は今までと違う、ソイツの全てを受け入れる覚悟があることを悟らせるんだ』


 と。

 裕也は俺の性格を鑑みてそんな提案をしたんだ。

 俺がもし凛奈に対して気があるのだとすれば、逃げ道を極力塞ぐことで俺の焦りを煽る事ができると考えたのだ。

 そして俺は見事にその術中にはまってしまった。

 もしそれでも俺がなにも反応を示さなかったら、その時は潔く諦めることにすると凛奈は言っていたらしい。

 実に凛奈らしい考え方だ。

 むしろこんな俺に18年も恋心を抱き続けていたなんて……。


 俺は一体、アイツの何を見てきたのだろう。

 だけどその話通りだとしたら、文化祭初日の夜に凛奈が俺の頬を叩いたことの説明がつく。

 自分がここまでアピールしているのに、いつまで経っても的外れな事を言う俺に腹が立ったのだろう。

 裕也はそんな凛奈の話を聞いていくうちに、自分も凛奈を好きになっていることに気がついたらしい。

 そんな矢先、俺からファミレスに誘われた。

 裕也はチャンスだと思った。

 俺に気持ちを打ち明け、その上で凛奈に告白することを決意したらしい。

 思い返してみればあのファミレスで裕也が最初に切り出した時、いきなり自分の気持ちを持ち出すのではなく、俺が凛奈をどう思っているのかをさりげなく聞いてから本題に移っていた気がする。


 あの時もし俺が凛奈の事が好きだと正直に言っていれば、おそらくこんなことにはならなかったのだ。

 そうしていれば、多分今の裕也と俺の立場が逆転していたのかもしれない。


 裕也の話を聞いて、俺の中で全ての辻褄が合った。

 歯車が、噛み合った。

 俺が凛奈に恋愛感情がないと思っていた裕也は、引退試合で勝って凛奈に告白すると決意した。

 しかし図書室での俺ときよみんの会話を聞いて、俺の本心を知ってしまう。

 凛奈と俺の本当の気持ちを知ってしまった裕也は言い知れぬ罪悪感に襲われ、今回の事件を起こしたという。

 あらかじめ看板の留め具を緩めておいて、後は風に煽られた看板の重さにワイヤーが引き抜かれて落ちそうになる。

 それを止めるために飛び出して落下。

 流石の裕也もここまで重体になるとは思っていなかったみたいだが。

 その高身長でそれなりに体重があるんだから、たとえ二階だとしても飛び降りたらそうなることなんて、俺でも想像ができるのに。


 俺の失態はあの裕也の判断力を著しく鈍らせてしまうほどだったのだ。

 最初から全部、俺が悪かった。

 心に要塞を築いて自分の気持ちに素直になれなかった俺の言動が、裕也をこんな目に合わせてしまった。

 凛奈に涙を流させてしまった。

 きよみんの拳を砕いてしまった。


「だからお前は秋吉のところに行って、自分の気持ちを伝えてこい」


 ソファで頭を抱えている俺に、裕也はそう言った。

 俺が顔を上げると、裕也は今まで以上に真剣な面持ちで俺の目を見ている。


「……、は? そんなことできるわけねえだろ」

「な、なんでだよ!? 秋吉はお前の事が好きだし、お前だって秋吉のことが好きなんだろ!?

 だったらなにを躊躇ってるんだ?

 俺のことを気にかけてるんだったら余計なお世話だぞ。

 今のこの状況は俺が勝手に招いたことだし、なにより俺自身がお前らの幸せを願ってる。

 お前だって、恋愛に対するひねくれた考え方を改めるいい機会じゃねえかよ!!」


 少し前まで俺も同じことを考えていたっけ。

 完全に俺と裕也の立場が逆転してるな。

 いや、裕也の中ではだいぶ前から立ち位置が決まっていたのか。

 裕也は俺よりもずっと前から傍観者に徹していたんだ。


「この期に及んで、お前の心配なんざしちゃいねえさ。

 だがそれでも、俺は凛奈に想いを伝える事はできないんだよ。

 お前もよく分かってんだろ。

 恋愛なんてのは、告白して付き合ったらそれでおしまいじゃないんだ。

 そこからずっと先があるんだ。

 俺は凛奈の幸せを一番に願ってる。

 でもそれが俺と付き合うことっていうのなら話は別だ。

 俺と付き合っても、凛奈は幸せにはなれない。

 俺はアイツを幸せにしてやる自信がないし、覚悟もない。

 アイツをこれ以上不幸にさせちまうっていうのなら、俺は自分の気持ちを殺す」


 俺はソファから立ち上がり、裕也の病室を出た。

 俺の背中に向かって裕也が何かを叫んでいた気がするが、俺はこれ以上話し合いを続けないことにした。

 多分、俺の考えは俺自信にしか理解できないから。

『理解者』であるきよみんも、俺の全てを肯定してくれるわけじゃなかった。

 だから俺の気持ちは、俺自信が知っていればそれでいいんだ。

 他人がそれに共感してくれなかったとしても、俺は俺自信を曲げる気はないのだから。


  9


 全てが台無しになった。

 頭のなかで思い描いていた未来予想図が音を立てて瓦解していくのが分かった。


 少年はすっかり暗くなった夜道を歩く。

 さっきまでいた大きな病院から自分の家に向かうには、大通り沿いを歩くよりその間にある大きな公園を通った方が近道になる。


 公園の中にまばらに立つ街灯に照らされながら、田辺良悟は誰の姿もない広場をフラフラと歩いていた。


「全部、俺のせいだったんだな……」


 良悟は空を見上げる。

 今日は雲ひとつない快晴だが、それでも夜空に星は見えない。

 都会の光に塗りつぶされてしまった星空は、ただただ広大な黒でしかなかった。


『今夜は、星が綺麗ですね』


 唐突に、正面から声が聞こえる。

 良悟は思わず空から正面へと視線を移すと、広場の中央にポツリと建てられた一本の街灯に照らされて、白く透明な少女がそこにはいた。

 何の変哲もない透明な少女は口元にだけ笑みを浮かべて、良悟を見据える。


「チッ。またテメェかよ。忘れた頃に姿を現しやがって」


 良悟の表情が険悪になる。

 街灯の下に立つ少女を、鋭い眼光で睨みつけた。


『ええ、お久しぶりです。実に6年ぶりくらいでしょうか』


 田辺未来(みく)は華麗に笑う。

 人の身でない彼女は、まるで良悟を魅了するように。


「なあ、お前は一体なんなんだ? なんで俺の前に姿を現す? お前の目的はなんだ? いい加減教えてくれないか」

『そうですね。今日アナタの前に姿を見せたのは、そのためですから』


 予想外の言葉に、良悟は少し身構える。

 今まで幾度となく彼女の素性を探ろうとしてきたが、その度に上手くはぐらかされてきた。

 良悟は半ば未来という存在を探るのを諦めていた。

 コイツは変な時に現れて、気がついたらいなくなる。

 そういう自然現象なんだと強引に解釈していた。

 未来は街灯の下からゆっくりと歩を進め、硬直する良悟の前までやってくる。

 腰を曲げて良悟の顔を覗くように顔を近づけると鼻と鼻がぶつかりそうになるが、良悟は思わず上半身を反ってそれを避けた。


『今から私が言うことに、何ひとつ嘘偽りはありません。でも、信じるか信じないかはアナタ次第です』


 そう前置きすると、未来は良悟の周囲を目的もなく歩き始める。

 くるくると、くるくると。

 まるで舞を踊るように。

 まるでバレエを踊るように。


『私は産まれたときから私。

 田辺未来は田辺未来であり、それ以上でもなければ、はたまたそれ以下でもありません』


『だけど今日は特別に、私という存在が産まれた経緯をアナタだけに教えましょう』


『私が産まれたのは、今から約60年後のミライ』


『無様で、卑小で、この上なく滑稽な人生を送った、

 惨めで、哀れで、どうしようもなく愚かなヘタレ男から産まれた思念体。

 卑怯で、独り善がりな願いを叶えるための「想い出の添削者」』


『それが、私です』


 前後左右、あらゆるところから彼女の声が響いてくる。

 遠くから聞こえる雑多をかき消すほどに、その透き通った声は良悟の脳を揺さぶった。

 良悟は判断に迷った。

 今まで何度か未来に遭遇したことがあって、そのことからコイツが人間じゃないことはなんとなく理解している。

 それでも未来の言うことをいちいち鵜呑みにして良いのか? と、無駄な疑問だけが頭の中で渦を巻く。


『その男は、死の直前まで独りだった。

 誰に看取られることもなく息を引き取ろうとしていたその男は、

 人生最期にとてつもなく後悔したんです』


『自分の人生を狂わせた、明確なる分岐点』


『あの日、あの時、あの場所で、

 自分がもっと勇気を出して最善の選択をしていれば』


『おそらく今この瞬間に、

 一人くらいは隣で涙を流してくれる人間がいたかもしれない』


『そんな彼は死の直前、一粒の涙を流しました。

 一人の人間が歩んだ、人生の全てが詰まったその一粒の涙から、

 田辺未来は産まれたのです』


 良悟はゴクリと喉を鳴らす。

 彼には分かってしまったのだ。

 その哀れな男が一体誰なのかを。

 コイツが今ここに現れた理由。

 そして良悟だけに打ち明けた、田辺未来という存在の経緯。


「お前を生み出したのは……、()()()()()だっていうのか?」


 良悟がそう口にすると、未来はくるりと回って良悟と向き合う。

 ニッコリと浮かべられた笑顔はやはり透き通っていた。


『はい、その通りです。

 私はミライのアナタの後悔から産まれた思念体。

 アナタの幸せを強く願った、アナタ自身から生み出されました』

「……、俺をどうする気だ?」

『私はなにもしません。

 強いて言うなら、アナタがなにかをするべきなのです。

 私はミライを変えるため、アナタに一つお願いをしにきただけです』

「お願い、だと……?」

『秋吉凛奈に、想いを打ち明けてください』

「…………」

『そうすれば、私の役目は果たされる。

 佐藤清美に霧山裕也、そして秋吉凛奈。

 私は今日までミライを変えるために主要な人たちに接触を図り、そして本来の過去を少しだけ変えてきました。

 佐藤清美がアナタの「理解者」になったこと、

 霧山裕也がアナタの本心を知って自らを犠牲にしたこと、

 秋吉凛奈が未だにアナタへ恋心を抱いていること。

 その全ては、本来起こるはずがなかった出来事です。

 あとはアナタ自身が変わり、最後の一歩を踏み出しさえすれば、ミライのアナタは報われるでしょう』


 良悟はチャンスだと思った。

 良悟がここまで頑なに目の前の幸せを拒み続けてきたのは、今まで発信してきた自分の言葉があるからだ。

 自分が発した言葉に異様なまでの責任感を感じてしまう良悟は、今まで自分の心を固める要塞を築く際に発してきた数々の言い訳で自縄自縛に陥ってしまっている。

 そのため自分の築いた完璧過ぎる要塞の中に閉じ込められてしまったのだ。

 しかし未来は良悟に願った。

 どうか、ミライの自分を幸せにするために行動して欲しいと。

 そのために秋吉凛奈に想いを打ち明けて欲しい、と。

 大義名分を手に入れた。

 良悟は心の何処かでそう思った。

 今までの言葉を払拭する大義名分を。

 未来の願いを新たな言い訳にするのだ、と。


 しかし。


「ふざけんじゃねえよ」


 良悟はそんな甘えた心を振り払った。

 絶望の中に垂らされた、たった一本の蜘蛛の糸を自分の手で引きちぎっていく。


「テメェ今こう言ったな? きよみんが俺の『理解者』になったのも、裕也が大怪我を負ったのも、凛奈が俺を好きでい続けたのも、全部自分が仕組んだ、って」

『はい、その通りです。本来であれば、秋吉凛奈はとっくの昔に貴方に愛想を尽かしていたはずでした。そうしてアナタは今と同じく自分の気持ちを押し殺して、霧山裕也と秋吉凛奈を結ばせたのです。だから今のような状況は、本来有り得ないものでした』

「……、なに淡々と語ってやがる」


 ギチリ、という音を良悟は聞いた。

 それが自らの拳が強く握りしめられた音だと理解するのに数秒を要した。


「人の心を何だと思ってんだ!!

 テメェさえ何もしなけりゃ、裕也は両足を折らずに済んだ。

 凛奈が余計な涙を流さずに済んだんだッ!!

 それが全部、ミライの幸せのため? ふざけんじゃねえよ。

 自分で自分の首を締めて、なにもかも自業自得で、

 勝手に孤独を選んだだけの野郎に、他人を不幸にしてまで自分の幸せを手に入れる権利なんて微塵もねえんだよッ!!」


 夜の公園に良悟の声が響き渡る。

 しかし不思議と、どこからか人が現れることはなかった。

 未来はそんな良悟を見て、心底驚いたような顔をする。


『どうして……? アナタは幸せになりたくないんですか?

 自分が幸せになれるんだったら、他人なんてどうなったっていいじゃないですか。

 アナタは偽善者として生きることを決めたんでしょう?

 偽善者の行動原理は全て「自分のため」なんでしょう?

 だったら目の前に転がる幸せに、意地汚くすがりつくのが今のアナタがすべきことじゃないんですか?』

「偽善者とか善人とか、1%とか99%とか!!

 そんなもん、現実から目を背けるための言い訳だッ!!

 ミライの自分勝手な俺が生み出したロボットみてえなテメェに何が分かるんだよ?

 今の俺の人生は、今の俺のモンだ。

 もう誰の指図も受けねえって決めたんだよ。

 自分の大切な人たちを傷つけるような奴が、ただ一人のうのうと幸せを掴んで良いはずがねえんだよ」


 田辺良悟は歩き出す。

 目の前に提示された、幸せのルートを敢えてぶち壊して。


「だからもう二度と、俺や俺の知り合いの前に姿を現すんじゃねえ。今度姿を見たら、ただじゃおかねえからな」


 すれ違いざま、良悟は未来に警告する。

 しかしその時、未来の顔には笑みが張り付いていた。

 いつものような透明な笑みではなく、心から喜んでいるような明るい笑みが。


 良悟はしばらく歩いてから、肩越しに後ろを窺う。

 しかしそこには、ただ一本の街灯が立っているだけだった。


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