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第二章 愚か者の末路

 

  1


「いらっしゃいませー」


 商店街の裏手にある小さなコンビニ。

 ここが、俺のバイト先だ。

 今日は学校が終わってから直接バイトに出勤した。

 ここは商店街から外れていることもあって客は全くと言っていいほど来ない。

 一時間で来店する客の人数は両手があれば十分数えられるほどだ。

 まあその分、店の仕事を余すことなく出来るから別に究極に暇というわけでもないが。

 ただ一つ問題なのは。


「よっす田辺ぇ!」

「なんだよ河原(かわはら)、こんな裏通りのコンビニなんか立ち寄りやがって」


 オレンジ色の制服姿の俺は、おそらく部活終わりでひやかしに来たクラスメイトに手に持っていたハタキで悪霊退散を促す。


「うわやめろやめろ!! 制服がホコリまみれになっちまうだろ!」

「というか運動部って今の時期引退じゃないのか? なんでお前こんなに帰り遅いんだよ」

「いやいや、見くびってもらっちゃ困るぜ。こう見えても俺は後輩想いの面倒見の良い先輩で通ってるんだ」

「うそつけ。どうせ隣のコートで練習してる女子バレー部の太ももでも眺めてたんだろ」

「おまっ!! なんでそのことをッ!?」

「やっぱ単純ですねえ運動部って生き物は」

「というか田辺さ、すげえよなお前」

「なにが?」

「今日のチョコバナナ試作会のことだよ。俺、てっきりバナナまるまる一本を串刺しにしてチョコでコーティングするとばかり思ってたから、あの発想はなかったわ」

「ああ、あれな」


 今日の昼休み、ついついきよみんと話し込んでしまって気づいたころにはとっくの昔に昼休みが終わっていた。

 教室に戻ると誰もいなくなっていて、もしかしてもう帰ったのかと思ったが、

 そういえば裕也のやつが時間があればチョコバナナの試作をするとかなんとか言っていたことを思い出して調理実習室へ向かうと、案の定うちのクラスメイトでごった返していた。

 てっきり裕也に小突かれると思っていたのだが、なにやら神妙な面持ちで皆に指示を飛ばすだけだった。


 クラスはたった一本の試作を作るのにかなり四苦八苦していて、チョコがダマになったり熱しすぎて焦がしてしまったり、割り箸からバナナがすっぽ抜けてしまったりと見るに堪えない惨状だった。

 そこで俺はより多く販売してとりあえずバナナ代くらいは元を取れるようにと考え、バナナを輪切りにしてから紙コップに詰めてその上からチョコを少量だけ垂らすことを提案した。

 そうすれば一つ辺りバナナもチョコも少なく済んで多く売れるし、串からすっぽ抜ける心配もないのではと進言したところこれが大成功。

 今日一日はクラスのヒーローになれたのだった。


「まあ、チョコの扱いに関してはどうにもならないから、調理班で研究してくれって丸投げしてたけどな」

「うるせーやい」


 言うだけ言うと、河原は台風のごとく去って行った。

 しかも結局なにも買わずに。

 ホントにひやかしに来ただけだったらしい。

 一発ぶん殴っておけばよかった。


 今日のバイトはマネージャーと二人だけで、基本的にマネージャーは事務所で独り言を呟きながらパソコンで作業をしているので、店内には俺一人だけ。

 あまりの客の来なさに監視カメラの死角でちょっぴりスマホを覗くが、特にこれといって新着の通知もなかった。

 ついこの間まで当たり前だったのだが、最近は裕也や凛奈とLINEをしたり、Twitterのダイレクトメッセージで顔も知らない女の子の相談に乗ったりと結構充実していたからか、異様に寂しさを覚える。


 そういえば、あの子……、キキって言ったっけ? あの子昼休みに意中の相手と話をする機会があるから放課後にでも連絡するとか言ってなかったっけ。

 まあでも、相手にも色々あるのだろう。

 今の俺からしたら、自分が好きな相手には別の好きな人がいてそれでも諦めることが出来ずに健気に想い続ける彼女の気持ちが痛いくらい分かる。

 分かるから、純粋に願えるのだ。

 どうか幸せになってほしい、と。


  2


 そうこうしてると、そろそろ退勤の時間だ。

 各所温度チェックもしたし、今日の分の廃棄も済ませた。

 返本は全て夜勤の人に任せるとして、あと五分くらいしたらレジ点検をして今日はもうおしまいだな。

 しかしこうしていると五時間勤務も早いものだななどと関心しつつ、レジ点検のためにレジを操作しようとしたその矢先、来店を知らせる軽快な音楽が鳴った。

 もうなんなんだ。

 よし次の作業に移ろう! って時に客が来られるとちょっとイラッとする。


「にーちゃん、マルメン一つ」

「せめてマスクとグラサンと帽子してこい」

「そんなんしてもアンタにはバレるでしょ」

「まあな」


 赤いコート姿の凛奈だった。

 おそらくズボンから察するにそのコートの下はパジャマなのだろう。

 もう風呂に入ってきたのか髪は濡れていてほのかにシャンプーの香りが漂ってきた。

 そんな彼女は、ひやかしにウンザリしてる俺を見ながらからかうような笑みを向けてくる。

 可愛い。


「で、何の用ですかお客さん。ワタクシもう帰宅の時間なので出来れば手短にお買い物の方済ませていただきたい所存でございますのですが」

「なによつれないわね。いいわよいいわよ。牛乳買ったらすぐ退散しますよーだ」


 そう言うと凛奈は不機嫌そうに頬を膨らませて、店の奥のパック飲料コーナーへ進んでいった。

 正直なことを言おう。

 俺は凛奈が来店したのを見た瞬間、心臓が飛び出るかと思った。

 思わず習慣になっている「いらっしゃいませ」を忘れるほどに。

 昼休み、きよみんに対して自分の思いを大爆発させたのが原因なのは間違いない。

 はっきりと言葉にしたことで、俺の気持ちは確定された。

 今では迷うことなく言えるだろう。

 田辺良悟は、秋吉凛奈が好きである、と。

 そして俺は今日の昼休み、とある決断をした。

 それを凛奈に伝えよう伝えようと思っていたが、LINEを開く勇気が出なかった。

 全くのヘタレだ。

 そんなところに、凛奈本人が登場したのは多分なにかの運命なんだと直感する。

 平静を装いつつ、1リットルの牛乳パックを乱雑にレジに叩きつける凛奈の対応をする。

 小さめのレジ袋に牛乳を入れてお釣りを渡す。


「じゃ、明後日の文化祭でねー」

「ちょ、ちょっと待って凛奈」

「んー、なによ」

「俺あと10分くらいでバイト終わるからちょっと待っといて」

「えっ……、なにか用?」

「まあそんなとこだ。昨日公園に付き合ってやったんだから少しくらい待っとけよ」

「昨日だって10分くらい待ったんだけど」

「いいからいいから」


 俺は事務所からマネージャーを呼んでくると、もう一つのレジを開けてもらった。

 その間に自分が操作していたレジの点検を済ませる。


 備えろ。

 覚悟を決めろ。

 これから長い長い、一世一代の大勝負に出るぞ。

 もう逃げられないんだ。

 もう隠れる要塞なんてないんだ。

 一歩退れば崖なんだ。

 もう前に進む以外に方法は残されていない。

 1%への憧れなんてタダの言い訳に過ぎないんだから。

 もっと人間らしく、もっと偽善者らしく、自分のためだけに生きろ、田辺良悟!!


  3


 10月も下旬。

 この前までの暑さはどこへやら。

 すっかり上着が手放せなくなった、そんな夜の帰り道に俺はレジ袋を持って歩いていた。


「牛乳パック一本くらい自分で持てよ」

「えぇ? 女の子にそんな重たいもの持たせる気なの? 待ってあげたんだからそのお礼よ」

「お礼される側がお礼とか言うなよ」


 バイト終わり。

 俺は商店街を抜けた、人気のない住宅街を凛奈と肩を並べて歩いていた。

 バイト先から商店街を抜けるまでそれなりの距離はあったが、周りの目もあってなかなか本題に踏み出せないでいた。

 凛奈も何故かそのことには触れようとしなかった。

 俺の出方を窺っているのか。

 いや、違う。

 そもそも俺らは、もともとこういう関係だったはずだ。

 お互いの領域にはお互いの許可があるまで干渉しない。

 不可侵であることを暗黙の了解に据えながら、しかし一番近い位置にいる。

 そんな関係だったはずだ。


 そうだ。

 もう周りは何もしてくれない。

 きよみんはこの場にいないんだ。

 俺は俺の意志で口を開かなきゃいけないんだ。


「あの、さ……」

「ん? なに?」


 先行していた凛奈がくるりと回転してこちらへ体を向ける。

 月を背にしている凛奈は、どことなく天使のように感じられた。

 パーマがかかった、今はしっとりとしているその茶髪に赤いコート、パジャマの上からでもわかる細い脚。

 どれもが美しく思えた。

 そんな彼女の魅力に圧倒されそうになるのをなんとか堪え、俺は一歩前へ踏み出す。

 踏み出す。


「……ッお前さ、明日なにか予定ある?」

「明日……? 別になにもないけど」

「じっじゃあさ、明日、映画観に行かね? ほら、今テレビとかで宣伝してる海外のフルCGアニメーションの最新作」

「ああ、あれね! 行くいくっ!! アタシもあれ観たいと思ってたんだよね!」

「よしじゃあ決定な! 多分、平日だから人もいないと思うし。じゃあ待ち合わせどこにしようか」

「えー、家近いんだから迎えに来てよー」

「絶対言うと思ったわ。わーったわーった。じゃあ11時にお前ん家行くわ。絶対起きとけよ」

「11時ね。分かった! よっしゃーっ!! 久々の映画だー! 楽しみだなぁ」


 凛奈は無邪気に笑う。

 今までだって何度も見てきたはずのこの笑顔が、今ではとても愛おしく思えてしまう。

 しかし勘違いするな、田辺良悟。

 こんな笑顔も、もう俺だけのものじゃなくなるんだ。

 コイツは今までとは違う覚悟を持って、一人の男を好きになっている。

 それは俺なんかじゃ決してなくて、スポーツ万能、成績優秀、スタイル抜群の優男。

 こんな言い訳ばかりで塗り固めた俺なんかとは比べ物にならない男の中の男。

 でも俺はそんな理不尽な運命に少しだけ抗いたかったんだ。

 だから明日、俺の人生で初めての一世一代の大博打に出る。

 卑怯者? 裏切り者? 汚い? 陰湿? なんとでも言ってくれればいい。

 こっちだって、人生を賭ける気なんだから。


  4


「おかえり」


 家に帰ると、母親が晩ご飯を作って待っていた。

 学校終わりにそのままバイトに向かってそこから五時間拘束されていたから、俺の腹の虫はオペラばりの声量で鳴いていた。

 そそくさと席につくと俺は早々に口に白米をかっ込み、豚肉とキャベツの炒め物を頬張る。

 夜勤明けで俺が学校へ向かった後に帰ってきた母親の頭には寝癖がついていた。

 おそらく、俺がバイトから帰る前まで寝ていたのだろうか。

 まあそれも無理はないが。


「アンタ、大学の受験勉強はしなくて大丈夫なの?」

「は? だからさ何回も言ってるけど、俺指定校推薦なんだよ。だから年明けに軽い面接に行くだけでいいの」

「うーん、でもなんか心配ねえ」

「何も心配いらないから。お母さん大学行ってないから分からないんだよ」


 俺は一応、工業系の大学の情報学科に進学する予定でいる。

 まあ確かに高校の入学祝いで母親にノートパソコンを買ってもらってから多少はいじるようになったが、どうやらそれを見た母親が「アンタはパソコン得意なんだから、情報系の大学に進みなさい」と言い出したから流れでそうなってしまったのだ。


 というか、もともとそうするために俺にノートパソコンを買い与えたらしい。

 情報系の専門職のほうが、これからの時代食いっぱぐれなくていいというのが母親の意見だった。

 しかし俺はそんな少しズレた方向に期待をする母親に対して、次第に心が離れていっているのを感じている。

 母親は自分が思い描く通りに俺を育てたいみたいだし、母子家庭の母親なんて大体はそんなものだろうとは思うのだが、

 なんというか俺の意見そっちのけで俺の人生を決定されると、どうも母親は俺に対する関心や興味が薄いのではないかと感じてしまう。


 これからの時代パソコンを使えるようになったほうが就ける職も増えると母親は言うし、たしかにその通りなのかもしれない。

 しかしそこに俺の意思や意見、将来の夢などを考慮してくれてはいなかった。

 思い返してみると、昔からそうだった。

 俺の家には、オセロやトランプがある。

 さして珍しくもないとは思うが、俺が小学生の頃だったか。

 オセロを持って母親に一緒にやろうと言った時、母親は「今度ね」と言いながら寝そべってテレビを見ていた。

 俺はその日以来、部屋で一人きりのオセロをするようになった。

 俺が覚えたての手品を母親に見せるためにトランプを広げて一生懸命頑張っても、母親の視線は常にどこか別の場所にあった。

 俺が小学校四年生の誕生日、母親は俺にテレビゲーム機を買ってくれた。

 一緒に買ってくれた大人気RPGのシリーズは、母親も子供の頃やったことがあるという。

 そこで母親もプレイするという話になったので、自分とは別にセーブデータを作っておいたがそれは今でもオープニングすら開始されずに残っている。


 母親は昔から俺なんかに興味がなかったんだ。

 今思えばどれも子供の我儘かもしれないが、そういった経験の一つひとつが、今の俺の性格に現れてしまっているのかもしれない。

 極端な話をすると、俺の恋愛観念が常に受動的なのは、俺から積極的に行動を起こしても関心を持ってもらえないんじゃないかという恐怖があるからなのかもしれない。


「でね、テツが今度アンタに会いたいっていうんだよ」

「誰だよテツって」

「テツだよ。お母さんの小学校の同級生」

「いや、知らないし」


 母親は最近、サッカーの話か自分の同級生の話しかしない。

 それはついこの間行われた小学校の同窓会に行った際に、その友達の一人がプロサッカーチームの監督をしていたことがきっかけで、他の同級生も引き連れて試合をよく見に行くようになったのがきっかけだった。

 裕也には申し訳ないが、俺はサッカーにも野球にもバレーにもバスケにも興味がない。

 俺が興味のないことの話をつらつらと並べた挙句、俺の全く知り得ない人物が平気であだ名のまま会話に登場する。

 ああ本当に、母親にとって俺なんかはただの『話を聞いてくれる存在』でしかないんだな、と今更ながら実感した。


 俺は適当に空返事をしながら、そそくさと晩飯を平らげて食器を流しに運ぶと自分の部屋へと戻る。

 俺にはさっさと明日の映画のチケットを二人分確保しなければならないという使命があるんだ。


  5


 翌日午前八時。田辺良悟、起床。

 けたたましいアラームの音で目が覚めた俺は、特に憂鬱になることもなくすっきりとした寝覚めとなった。

 俺はベッドの上で伸びをするのも忘れて、起床と同時にそのままリビングへ向かった。

 ヤクルトを一気飲みしたのち、昨日の晩ご飯の残りをチンして白飯をよそう。

 テレビもつけずに朝食を済ませて一息ついたところで浴場へ。

 シャワーを浴びて、顔を洗って、歯を磨いて、髭を剃る。

 慣れない髭剃りに悪戦苦闘しながらもなんとか生まれたままの体だけは清潔になった気がする。

 問題は、服装だ。

 今日のような日にはどういう服装がいいんだ?

 今まで全く自分の容姿に気を配ったことがないからこういう時に困ってしまう。

 普段だって頻繁に髭を剃らないから無精髭でいることが多いし、髪も鬱陶しいなと思ったら切りに行く程度で、ろくに整髪料もつけない。

 洋服だって、母親と買い物にいったついでに新しいものを一着、二着買ってもらう程度だ。

 ははっ!! よくよく考えたら、こんな男がモテるワケがない。

 そもそも「モテたい」などという戯れ言は、今俺が挙げたモノ全てに日頃から気を配って容姿に金をかけている人間だけが言っていい言葉なのだ。

 努力をしたのに実らないからそれを嘆くのと、努力もせずにただ己が欲求を傲慢(ごうまん)に満たそうとするのでは意味が違ってくる。


 ま、今そんなことを言っていても仕方がない。

 とりあえず今から新しい服を買いに行くわけにもいかないので、適当なシャツの上にセーターを着てその上から普段友達と出掛ける時にしか着ないような、首のとこにモコモコがついたピッチリめのジャケット。

 下はジーパンにナウなヤングのイカしたベルトをして、靴はハイカットのスニーカー。

 携帯でちゃんと今日の映画の予約ができている事を確認したし、さらに今日の昼食には裕也と行ったようなチャチなファミレスじゃなくてちょっと高めのイタリアンレストランを予約した。

 財布はボディバッグに入れたし、携帯は今手に持ってるし、定期入れも持ったし……。

 うん、今日の俺、我ながら完璧。

 さあ、いざ出陣!


 って馬鹿か俺はッ!!


 今まだ9時半にもなってないじゃねえか!! 凛奈との待ち合わせは11時だぞ。

 なにを考えてるんだ俺。

 上着きて、靴まで履いてキメ顔まで晒して。

 焦ってる。

 完全に焦ってる。

 というか、動揺してる。

 凛奈と二人きりで出掛けるのなんて本当に何年ぶりだろうか。

 それこそ、小学校以来かも知れない。

 その嬉しさもあるが、なにより不安の方が大きい。

 とりあえず上着をハンガーにかけて靴を脱いで部屋に戻ってデスクチェアに腰掛けて一息つく。


 待ち合わせ時間まで、あと約1時間半。

 ここから凛奈の家まで歩いても5分はかからないから、大体10時50分に家を出れば余裕で間に合う。

 さて、それまで何をしていようか。

 パソコンで動画でも見るか?

 それとも最近サボってたネトゲのレベル上げでもしようか?

 うーん、ううーん、うううーん…………。

 あ、そうだ。

 昨日きよみんから借りたラノベの続きを読もう。

 心を落ち着かせるにもいいかもしれないな。

 俺は通学用のリュックの中からラノベを取り出して開く。

 昨日図書室ではそんなに読めなかったからまだまだ序盤だ。

 とりあえず読み始める前に、ヘアピンで前髪を留めていい感じの分け目を作るとしよう。


 なんやかんやあって、10時45分。


 うーん、たしかに面白い。

 設定も斬新だと思うし、世界観もなんとなく良い雰囲気なのは分かるけど、ちょっと難しい書き方をしているというかなんというか。

 もうちょっと三人の主人公に対する情報を小出しにした方がいいような気もする。

 中盤の戦闘シーンまで読み進めるのに少し苦労しちゃうなあ。

 ライトなノベルなんだからもうちょっとマイルドな文章で、かつだらけないようにすればもっと読みやすいかもしれんのに。

 と、偉そうにラノベの批評をしている場合じゃない。

 そろそろ家を出よう。

 まあ、上着をきて靴を履けばもう終わりなのだが。


 俺は結局、1%の善人にはなれなかった。

 俺なんかよりも裕也と付き合ったほうが凛奈は絶対に幸せになれるし、そのほうが裕也も凛奈も自分の過去を拭い去ることが出来るだろう。

 本来は俺なんか出しゃばらず、それを外から応援すべきなんだ。

 自分の気持ちを殺して、それを成し遂げてこそ本物の善人になれる、と俺は思っていた。

 でも結局、俺はただの人間だったんだ。

 99%の偽善者でしかなかった。

 だから俺は、自分の欲求に素直になるんだ。

 これまでの自分と決別し、本来の自分として生きていくんだ。


 俺は玄関に立ち、改めて深呼吸をする。

 開戦。

 まさにそんな言葉がふさわしい門出となるだろう。

 オラ、新しい自分。

 アディオス、今までの自分。

 心の中でそんなカッコをつけて、俺は勇ましく玄関の扉を開け放ち、外へとその重き足を力いっぱい踏み出したのであった。


 でもヘアピンを外し忘れてたのでちょっとやり直させてほしいのであった。


  6


 かくして秋吉家前。

 時刻は10時59分4秒。

 俺はママチャリに(またが)ったまま、ただその時が来るのを待っていた――なんて考えていたら、20秒なんてあっという間で。

 すぐにスマホの時計は11:00を示した。

 よし。チャイムを押すぞッ!! と決意してゆっくりと手を伸ばした矢先、秋吉家の玄関の扉が開かれた。


 上は赤のタートルネックニット、下は白のミニスカートに黒タイツの天使がそこには立っていた。


「おいっすー」


 軽い調子で俺に近づいてくる凛奈は、そのブーツが地面を鳴らす音さえも魅力的に感じてしまう。


「お、おう……」

「ていうかアンタ、その格好暑くない? 今日陽射しが暖かいからアウターなにも着てこなかったけど、それでもちょっと暑いくらいなのに」


 言われてみれば……。

 まあ多分それは、俺は今の凛奈と違ってピアスやネックレスをつけない人間だから自分の身を飾る為にはどうしても着込まなきゃいけないわけで。

 それでも、凛奈に言われたら余計暑く感じるようになった。


「そういやあっついな」

「そうでしょ。どう見ても着すぎだもん、それ」

「凛奈、上着持っててくれない?」


 俺はそう言うと、首のとこにモコモコのついたピッチリめのジャケットを脱いで凛奈に渡す。


「別にいいけどさぁ……。じゃあアンタ、アタシのカバン前カゴに乗せてってよ」

「そりゃもちろん」

「交渉成立ね」


 言うと、凛奈は俺のジャケットを受け取って大きめの手提げバッグを俺のママチャリの前カゴに突っ込んだ。


「てか何よこの上着。めっちゃヤニ臭いんですけど」

「母親のせいだ!」


 くっそぉぉぉぉ、ぬかったぁぁぁぁぁぁ……。

 母親が日頃からスパスパやってるからついついニオイに慣れて違和感がなかった。

 昨日の夜のうちにファブリーズにでも漬けておけばよかったな……。

 心の中で盛大に頭を抱えていると、凛奈が俺のジャケットを抱えながらママチャリの荷台に腰を掛ける。


「で、映画は何時からなの?」


 凛奈は片手を俺の腰に回す。

 それを合図にして、俺は自転車を漕ぎ出した。

 昼食のイタリアンレストランも、駅前の映画館の側にあるから目的地は変わらない。


「一応、13時から上映開始だけど、その前にメシ食おメシ」

「えっなに? まさかアンタが予約とか取ってくれちゃってるわけ?」

「まあな。映画館の近くにあるイタリアンレストラン。確か前にお前が一度行ってみたいとか言ってたっけ?」

「えっ!? ホントなの!? 冗談半分で言ったんだけど」

「まあ、ちょっと高いんだけどな……、だが、今まで無駄に貯め込んできたバイト代でお前の分くらい払える!!」

「あははっ!! コンビニ店員がなに言ってんのよ。アタシなんか居酒屋でバイトしてんだから絶対アンタなんかより稼いでるんだから。見くびってもらっちゃ困るわ」

「バッカお前、そこは男にカッコつけさせるんだよ」

「分かってる分かってる。男にカッコつけさせるのも女の仕事だからね。でも昼食代くらいは自分で出させてよ。そこまで面倒見てもらうほど図々しい女じゃないし、アタシの意地が許さないわ」

「えっ……、じゃあどこでカッコつけさせてくれるわけ?」

「そうね、じゃあ映画観終わったらショッピングでも付き合って。アタシ、新しいお洋服が欲しいなぁ~」

「うわぁ、図々しいなぁ……」

「なに? 嫌なの?」

「謹んでお付き合いさせていただきますぅ……」


 二人乗りしているということもあって、少し息を切らせながら陸橋の坂を登る。

 ギアを一番軽くして全力でペダルを回せば、なんとか登りきることができた。


「ねえ、なんかそのリアクションだとアタシがすっごく重いみたいだからやめてくんない?」

「いやいや、最後にお前を後ろに乗せたのなんていつだよ!? 多分小学6年の頃に迷子になったお前を見つけた時以来だろ? どんだけ成長してんだよ」

「違うわよ。アンタの筋力が衰えたのよ。だってアンタ、小1から小6まで水泳やってたし、小3から中学まで空手やってたじゃない」

「まあ素晴らしい記憶力ですこと」

「無駄にアンタの幼馴染やってないわよ」

「……、そうだな」


 陸橋の上は清々しい風が吹いていた。

 平日の昼前ということもあって、車もあまり通っていないし人も休日に比べたら全然歩いていない。

 唯一気になるのはお巡りさんの監視だが……、まあ多分大丈夫だろう。


 それから俺らは昔のことを話しながら進んでいった。

 その度にその時の記憶が鮮明に蘇ってくるのを肌で実感する。

 凛奈と俺。

 高校に上がった今となっては、幼いころから今までの思い出は全て俺と凛奈の二人だけのものになっていた。

 そこに、裕也の姿はない。

 だがむしろそれが、名状しがたい悲壮感を産み落としていった。


  7


 イタリア料理専門店『アリヴェデールラ』。

 俺らが今から行く映画館の三つほど隣の建物がそのイタリアンレストランだ。

 俺はとりあえず、駐輪場に自転車を留めて凛奈から上着を受け取って前カゴに入っている凛奈のカバンを持つと、二人肩を並べて店内へ入っていく。


 イタリア料理専門店などと銘打ってはいるが、所詮はチェーン店なので別に特別高級な訳ではない。

 バイトをしていない学生にとっては大打撃になるかもしれないが、あいにく俺と凛奈はそうではないので別段気にすることもない。


 昼時ということもあって店内は結構混雑していたが、店員に予約を入れていた旨を伝えると、すんなりと奥の席へと案内された。

 窓に面した四人がけのテーブル。

 俺は手前の椅子に座り、凛奈は奥のソファに座った。


「いやぁ、ご飯食べてこなくて正解だったわ」

「あ、その可能性があったか……。あぶねえなあ。事前に言っといたほうがよかったな」

「そうだぞこの無計画め」

「うっせーわ」

「で、なんにするなんにする? おすすめは?」

「おすすめ、ねぇ……」


 一応この店は以前に母親と来たことがあるが、その程度だ。

 正直なにを食べたのかも覚えていないが、メニューをパラパラ見ているとなんとなく思い出してきた。


「店員さんに『いつもの』って言ってスッと出してもらえるようなもんないの?」

「たかがレストランでそこまで出来るようになるのにどんだけ通い詰めるんだよ。とりあえず、無難にカルボナーラだな。前食べた時、割りと衝撃的だった気がする」

「ほうほう。あー、でもこのペンネアラビアータってのも美味しそうだなあ。

 あっ!! モッツァレラだってモッツァレラ! このマルゲリータピザに乗ってるやつ!

 これも食べたい! あぁ、迷う! 迷うわぁ……」


 もはや俺からメニューを奪い取って一人ブツブツと何かを呟きながら目を輝かせている凛奈。

 まあ俺が食べるものはもう決まってるし、これはこれで可愛いからいいんだけど。


「全部頼んじまえよ」

「ゔぇっ……、でもやっぱ高いよぉ」

「いいって。じゃあ割り勘にしよう」

「ううううううううん……、アタシのプライドがぁぁぁぁぁ」

「捨てちまえそんなもん。俺とお前の間にプライドもクソもねえだろ」

「それもそうね」

「はやっ!! 切り替えはやっ!!」

『ピンポーン♪』


 凛奈は俺の渾身のツッコミを完全スルーして、なんの躊躇いもなく店員召喚スイッチを押す。

 昼時ということもあって忙しいのかなかなか店員は現れなかったが、その間にも凛奈はメニューから新たに頼むものを追加しているようだ。

 しばらくして店員がやってくる。

 凛奈はメニューから目を離さずに自分の食べたいものを次々と注文し、最後に俺が注文する。


「あ、俺はカルボナーラで」


 そこで俺は初めて店員に目を向けた。

 だが、それが間違いだったことに気づく。


「はいーッス。んじゃ、ご注文繰り返させていただきまーッス……」


 店員と目が合う。

 その男は、昔より伸びた髪を後ろで一つにまとめていた。

 制服姿できっちりしているように見えるが、とんでもない女ったらしのアイツだ。


「うおっ!! キミ、どっかで見たことあると思ったら同小(おなしょー)の人だよね!

 あんま絡んだことなかったけどー……、って! そっちは凛奈チャンじゃないッスかぁ!!」

「えっ、うそ! 青八木クン!?」


 そこで凛奈も初めて店員を視認した。

 そう。

 このウェイターは、風貌こそ変わってしまったがその顔には面影を感じる、俺と凛奈の小学校の時の同級生。

 青八木悟だ。


「あっれー? どうしたんスか? 今日学校は?」

「ウチの高校、今日が開校記念日なんだぁ。それにしても、久しぶりだね青八木クン。小学校以来?」

「っだねぇ。いやぁ、懐かしいッスわぁ……。あっ、思い出した! キミ、凛奈チャンとよく一緒にいたワタベクンじゃないッスか!」

「田辺だよ、田辺」


 俺はどうにもノリについていけない青八木をあしらうように返す。


「あぁっとぉ、こりゃ失敬失敬!」

「青八木クンこそ、ここでなにしてるの? アルバイト? でも今日平日だよね」

「あぁ、俺今通ってんの定時制の高校だから学校は夜なんスよ」

「あー、なるほど」

「あ、そうだそうだ凛奈チャン! 再開の記念に連絡先交換しない? なんならLINEでもいいよ!」

「え? まあ、別に――」


 凛奈が言いかけた時、俺は強引に二人の会話に割って入る。


「おいおい、その辺にしとけよ店員さん? 早く注文したもの持ってきてくれないかな?」

「うっはー! イタイとこ突いてくるねえ、田辺クン! あっ、もしかして今の俺KYだったぁ?

 そっかそっか、考えてみりゃそうだよなあ。せっかくの休日に二人でこんな店にランチに来てるんだもんなあ」


 青八木はポケットから取り出そうとしたスマホを戻しながら肩を落とした。

 なんだ、案外話せば分かるやつだったんだな。

 というか店員がこんな店とか言うな。


「どういうこと?」

「えっ? だって、二人って付き合ってんでしょ? 小学校の頃から一緒だったもんなあ。当然っちゃ当然か」


 淡々とがっかりしながら発した何気ない青八木の言葉に、俺と凛奈は自然と目が合ってしまう。

 しかしなんだろう。

 いつもの凛奈とは少し違う表情だ。

 テレてんのか?


「ば、バカなこと言わないでよ! そんなんじゃ――」


 凛奈が慌てて誤解を解こうとしたところで、俺はまた割って入ってしまった。

 何故だろう、今度はほとんど衝動的に。


「あぁそうだよ。俺ら付き合ってんだ。だからあんま凛奈に馴れ馴れしくすんな」

「だっはぁ!! かっけえなあ田辺クン!

 了解了解。俺だって、もう小学生の時に年上のネーチャンたちを誰かれ構わずとっかえひっかえで、それが原因でソイツらの彼氏にボッコボコにされたッスからねえ。

 流石にもうヒトサマの女にゃ手ぇ出さないッスよ。んじゃ、オーダーを厨房に伝えてくるッスわぁ。そろそろマネージャーに怒られそうだしな!」


 そう言うと、青八木は厨房へと姿を消していった。

 昔の印象と一変して、かなり物分りの良いやつになったもんだなあ。

 まあ、アイツの言った通り俺は青八木とほとんど接したことはないのだが。


 それにしても、ついつい凛奈が昔好きだった奴と楽しそうに会話をしているのを見ていたら無性にイライラして突発的とはいえすげえことを言ってしまったなと反省する。

 ゲリラ豪雨のように突如として現れて突如として去っていった青八木の背中が消えるのを見送ってからため息を一つついた。

 そこで気を落ち着けてなんとなく凛奈に目を移すと何故だかものすっごく顔を赤らめていた。

 な、なんだなんだその反応?

 今まで見たこともないぞ。


「なっ、なななななに言ってんのよアンタ!? あんな嘘ついてどういうつもりよ!!」

「はっ!? なに意識してんだよお前!!

 違うわ! ただアイツが鬱陶しかったから追っ払うための口実だ!」

「まったくもう、急に変なこと言い出さないでよね」

「へいへい悪かったですよ。でもあそこでお前が裕也と付き合ってるって言っても青八木は裕也の事知らないし、第一他に彼氏いんのに俺と二人でここに来てるのもおかしな話になるから仕方なかったんだよ」

「は? なんでそこで霧山くんの名前が出てくるわけ?」

「えっ……、いや、別に」


 凛奈は一変して不機嫌そうに俺を睨んできた。

 なんだなんだ? 凛奈の心境が見えない。

 急に赤くなったり急に不機嫌になったり……。

 こんなに感情の起伏が激しいやつじゃなかったと思うんだが。

 なんとなく変な雰囲気になってしまったことに肩をすくめつつ、俺と凛奈の間には料理が運ばれてくるまで一度も会話はなかった。


  8


「ありがとうございやした! またのご来店をお待ちしてるッス!」


 料理を運んでくるのも最後の会計も青八木が担当してちょくちょく俺らをひやかしにきたが、なんとなく奴のあしらい方にも慣れてしまった。


「ふぅ、お腹いっぱい! 美味しかったわねぇ」


 ポンポンと自らのお腹をさする凛奈の隣で、俺は自分の財布をさすっていた。


「二人で7800円ってお前……、食い過ぎだろ!! 俺カルボナーラしか頼んでないのに!!」

「まあ堅いこと言いなさんなって旦那!」

「誰が旦那じゃぁぁぁ!!」


 凛奈はすっかりご機嫌だった。

 そりゃ自分が払うはずだった昼食代の半分を俺が払ったんだから当たり前だ。

 まあ別にいいんだけど!


 時刻は12時50分。

 映画の上映開始時間は13時で、大体15分前くらいから入場ができるから、今から映画館に向かえばちょうどいいくらいだな。

 乗ってきたママチャリだが、このままレストラン専用駐輪場に置いておくのもまずいので、来る途中に通りかかった有料の駐輪場に移すことにした。

 それから映画館に辿り着くと、ちょうど5分前くらいだった。

 発券機でチケットを発券して、昼食もとったからポップコーンは買わずに二人分のドリンクのみ購入してから入場する。


「アンタにしては結構いい席とってるじゃない」

「俺にしてはってのが余計だ」

「いやぁ、それにしても楽しみだね!!」

「そうだなあ。最近映画自体あまり見てないからな。多分、CGの技術も飛躍的に進化してるだろうからきっと圧倒されるぞ」

「この映画、予告映像も結構気合入ってたからねえ。あ、始まるはじまる!」


 シアター内の明かりが暗くなり、非常灯だけが暗闇の中にポツンと取り残されていた。

 凛奈と出掛けるための口実とは言えど、この映画は俺も気になっていたから結構楽しみだ。


 約2時間の超大作フルCGアニメーション映画が終わり、大画面にエンドロールが流れ始める。

 いやはや素晴らしいの一言に尽きた。

 最後にフルCGアニメーション映画を見たのはいつだったか……、多分それこそ小学生以来かもしれない。

 あの頃は多感な時期だったこともあってたしかに感動したが、今回はその頃からの圧倒的な技術進化が観ただけで実感できた。

 髪の質感から雪の結晶一つひとつまで細かく描写されていて、もはや現実世界で見るものよりも美しく感じた。


 俺はまだ暗いシアターの中で、隣に座る凛奈へそっと視線を移す。

 すると凛奈の頬はスクリーンの光に反射してキラキラと光っていた。

 それが涙の跡だと理解するまでに数秒は要した。

 凛奈は、静かに泣いていた。

 俺にはなにもしてやることは出来ない。

 今現在高校三年生。

 ほぼ青春の終わりと言ってもいいこの時期まで一度も恋愛経験を積んでこなかった俺は、暗い映画館で一人感動の涙を流す女の子の手をそっと握ってやることなんて出来なかった。

 ただ見て見ぬふりをして、エンドロールが流れきるのを静かに待つだけだった。


  9


「いやあ、感動したわぁさっきの映画。今まで観てきた中で一番かもしれない」

「確かにそうかもな。俺なんかCGの質感ばっか気にしてたけど、ストーリーも作り込まれてたからなあ」

「まさか冒頭で主人公のお兄さんが死んじゃうなんて思わなかった!」

「そんで、あの火事で死んだはずのもう一人の人物が実は生きててラスボスとして登場するっていうね。最後の怒涛の展開は胸熱だった」


 先程の映画の感想を言い合いながら、俺と凛奈はショッピングモールを歩いていた。

 凛奈のショッピングに付き合って、さすがに全額払うと自己破産してしまいそうだったので結局洋服代も割り勘で払った。

 俺の両手には紙袋がそれぞれ一つずつ提げられている。


 その後に適当な店で夕飯を済ました。

 帰路はすっかり空も暗くなった後だった。

 おかげで懐は物悲しくなっていたが、不思議と心は満たされていると感じる。

 しかし今日が終わりに近づいていることを実感した途端に、今世紀最大の緊張が俺を襲っていた。

 いよいよだ。

 いよいよ『その時』が来るのだ。


「ウッ、寒っ!!」


 外に出たところで、凛奈が自分の肩をさすっていた。

 日も陰ってきて、日中は陽射しが暖かかったが今は結構肌寒い。

 赤いセーターのみで上着を着ていない凛奈からしたら結構寒そうだ。


「駐輪場まで行くと遠回りになるな……。凛奈、ちょっとここで荷物と一緒に待っててくれるか? 俺自転車とってくるからさ」

「オッケー。早くしなさいよ、寒いんだから」

「あー……。ほらよ」


 俺は自分が羽織っていた首のとこにモコモコのついたジャケットを凛奈に放る。


「それ着とけ。すぐ戻ってくるから」


 俺は凛奈の足元に、両手に持っていた紙袋をそっと置いて小走りで駐輪場へと向かっていった。

 ショッピングモールは映画館と駐輪場よりも手前にあって、荷物を持ちながら戻るよりも自転車を先に出したほうが早いと思ったから取りに行くことにしたのだ。

 それと同時に、自分の気持ちを整理する時間を少しでも得たかったというのもある。

 50mもない距離なので、小走りで行けばすぐに駐輪場へついた。

 この駐輪場の良心的なところはなんといっても数時間単位で料金が発生するのではなく日付単位で発生というところだ。

 そのお陰で五時間くらい停めていてもたったの100円しか発生しなかった。


 精算機で精算を済ませ、自転車を取り出して跨ると俺は大きく深呼吸をした。

 さっきからやかましい心臓をどうにか抑えようとしたのだ。

 そして、ゆっくりと漕ぎ出す。

 ここからが正念場。

 ゆっくりと、ゆっくりと凛奈の待つショッピングモールが近づいてくる。

 もはやこのまま時間が止まってしまえとさえ思ってしまう。

 曲がり角を曲がって、凛奈がいる場所が視界に入る。


 するとなにやら俺のジャケットを羽織った凛奈が、外見20歳前後の男三人に囲まれているのが目に写った。


「ヘイヘイ、キミきゃわうぃーーーね!! ぼくちんと付き合わなぁい?」


 ドレッドヘアの男が凛奈に壁ドンしながらそんなことを言うが、凛奈は全く動じない。


「キミどこ住み? どこ高? 何歳? 彼氏いる? てか、LINEやってる?(笑)」


 ツーブロックに剃り込みを入れた男が、スマホ片手に迫るが凛奈は鬱陶しそうにあしらった。


「すいません。そういうのホントいいんで。キモイし」


 うっわー……、初めてみたよああいうの。

 ってか本当にいるんだ。

 都市伝説かと思ってたわ。

 でも凛奈の奴も軽くあしらってるし……、やっぱ居酒屋で働いてるとああいうのに慣れるもんなのか?


「あっれー? っていうかキミ、凛奈ちゃんだよね? ほら、俺だよ」


 すると三人のうちの一人、金髪のホストのような男がそんなことを言い出した。

 なんだなんだと思ってよく見てみると、風貌こそえらい変わってしまったが確かに俺も見覚えがあった。

 なんだなんだ今日は!

 厄日かなにかか!!


「し、下村くん?」

「そうだよ、そう!! 下村大河!

 やっぱ凛奈ちゃんだよね? いやあ久しぶりだなあ。

 なにしてんの、こんなとこで? 暇ならちょっと俺らと遊びに行かない?」

「やっ、ちょっとやめて!」


 いやいやそれはマズイだろ。

 下村の奴、ついに凛奈の手を強引に掴みやがった。


「いーじゃんいーじゃん♪ 昔のよしみでさ、ほら、カラオケ行こうよカラオケ!」

「お、イーネイーネ!! 俺、監視カメラついてないとこ知ってっからさぁ」


 もう我慢ならない。

 俺は止めていた足を全力で動かしていた。

 三人の男の背後に自転車を向かわせる。


「はい、ストップストーップ。お前ら男三人で何みっともねえことしてんだ」


 三人の視線が、俺に集中する。

 我ながらとんでもないことをしているなとしみじみ後悔しながらも、嫌な汗が流れるのをなんとか我慢した。


「はぁぁぁぁ? なんですかァお前。ヒーロー気取りですかぁ?」


 ドレッドヘアの男が俺に向かってきた。

 いつしか、周りにいる人達も騒ぎに気づいたのか立ち止まったりしてこちらに視線を向けている。

 俺は別に喧嘩慣れしているわけじゃない。

 中学まで空手を習っていたが、学校などで殴り合ったことは一度もないんだ。

 実戦経験がなく、ただただ惰性(だせい)で空手を続けていたモヤシ野郎と、日頃から路地裏で暴れまわってるやつとが闘ったらどっちが強いか、なんて分かりきっている。

 幸いにも下村は俺に気づいていないようだ。

 青八木よりは面識があるが、今はドレッドヘアがいい塩梅に下村の視界を遮っている。


「おっ、俺はソイツの連れだよ。だから勝手に連れてってもらっちゃ困るんだ」

「あ? んなこたどうだっていいんだよ。邪魔すんじゃねえ!!」


 よく吠えるドレッドヘアよりも、周りの視線の方が痛い。

 とりあえず早急にこの場を立ち去らなければならない。

 もし誰かが通報して警察にでも補導されれば学校にも連絡がいくだろうし、受験にも響くかもしれない。

 なにより凛奈をそんなことに巻き込むわけにはいかない。

 どうやら凛奈も同じ気持ちらしい。

 俺にガンを飛ばすドレッドヘアの肩越しに凛奈と目が合うと、小さく頷かれた。


「おいおい、男三人が女の子に寄ってたかって恥ずかしくねえのか?

 お前、頭悪そうだからなあ。だって頭悪そうな髪型してるもん。

 なにそれ? なにをテーマにしてるの?

 俺が美容師にその髪型を注文するとしたら『陰毛で出来たモップみたいにしてください』って頼むかな」

「アァンッ!? テメェ、ナメてんじゃねえぞ!!」


 精一杯の挑発だったが、案の定頭の弱いやつだったらしい。

 簡単に釣られたドレッドヘアは、ついに俺に殴りかかろうとする。

 おっと、それは予想外だ!!


「凛奈ッ!!」


 俺が言うと、凛奈は自分の手首を掴む下村の手を力強く振り払う。

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「はっぅッ……!!!???」


 時間が、止まる。

 痛い。

 これは、痛い。

 さすがの俺でも同情する。

 その光景を見ていた全ての男性が、思わず前かがみになっていた。

 しかしそんなことは言っていられない。

 かわいそうだが、震える拳が俺に届くすんでのところで俺は思い切りドレッドヘアの男を蹴り飛ばした。

 凛奈のそばにいた下村と剃り込みツーブロックを巻き込んでボーリングのピンよろしく勢い良く倒れ込む。

 その間に凛奈は足元の紙袋を素早く手にとって俺の元へ走ってくると、前カゴに放り込んで自分も荷台に腰をかける。


「行って!!」

「お、おう!!」


 凛奈の合図で、俺はペダルを全力で踏み込んだ。

 ギアを次第に重くして、とにかく人の多い道を抜けて路地へと向かう。


「待てゴルァァァァ!!」


 そこで一人猛スピードで走ってきたのは下村大河だった。

 小学生の時は走ったら敵なしと言われていただけあって、その瞬発力とスピードは足を緩めれば自転車でも追いつかれそうなほどだ。

 あの様子だと、おそらく中学も高校も陸上部かなにかでずっと走っていたのかもしれない。


「あぁ、やっちまった!!」


 俺は思わず叫ぶ。

 地の利を活かして道を選んだはずが、入ったそこは大きなゴルフの練習場と工場に挟まれた、全長200m強の直線一本道。

 下村大河が最も得意としたのは、コーナリングよりもむしろ短距離を全力で走るスプリント。

 荷台には凛奈を乗せ、三段変速のママチャリで引き離せるかどうか。

 カーブからの直線のため、こっちは速度が落ちている。

 全速力で突っ走るために、いきなり一番重い3ギアに切り替えて立ち漕ぎをしたのが間違いだった。

 全体重を乗せても、一向にペダルは回らない。


「オラッ、ナメんじゃ、ねえぞ!!」


 息を切らしながらも、さらにスピードを増していく下村。

 俺が一度サドルに腰を下ろしてギアを軽くしようとしたその時、まさに下村の手が荷台に乗る凛奈を掴もうとする。


 しかし、そのすんでのところで俺はハンドルを思い切り横に振った。


 凛奈を掴むはずだった下村の片手が空を裂く。

 そのはずみで力が抜けたのか、下村はそのまま走るリズムを崩して道路の上に勢い良く転がった。

 ギアを変えてスムーズな加速を果たした俺と凛奈は、下村の追走を引きがして夜の住宅街へと姿を消していく。


  10


「キャハハハハッ!! あー面白いッ!! マジ最っ高よアンタ! ひぃ、ひぃ……、久々に大爆笑したわ!」


 凛奈が俺の背中をバシバシ叩きながら馬鹿笑いをしている。

 なんとか思い通りにことが運んで俺も一安心だ。

 凛奈にジャケットを貸していて今はセーター姿だが、全力で自転車を漕いだせいで汗がシャツを濡らしていた。


「もうあんな大逃走劇、二度とやりたくねえ……」

「えぇ? 面白かったじゃんか。もう一回やろっ! もう一回!」

「やらんわアホ」


 一難去ってまた一難。

 もうすぐ凛奈の家の前に到着する。

 つまり、今日が本当に終わろうとしているのだ。

 さっきの緊張を押し退けて、ドギツイ胸騒ぎが俺を襲っていた。

 凛奈の家の前に自分の家の前を素通りして、曲がり角を曲がる。


「おっ、ウチまで送ってくれんの?」

「まあな。すぐそこだし」

「ありがたいねえ。でもそんなことしても何も出ないぞ?」

「今日お前の為に使った金額を考えたら何をもらっても割に合わんわ」

「いやあそれほどでも」

「褒めてない」


 嗚呼、着いてしまう。

 凛奈の家はすぐそこだ。

 昨日の朝、凛奈が待っていた曲がり角。

 そこにある一軒家が凛奈の家であり、俺のゴールであり、俺の墓場にもなる場所か。

 ゆっくりとカーブして、凛奈の家の前で自転車を停める。


「よいしょっと」


 凛奈は荷台から降りると、前カゴに入っている紙袋を取る。


「良悟、今日はありがとう。久々にすっごく楽しめたわ」

「……、おう」


 俺は今日、凛奈に自らの想いを打ち明ける為に映画に誘った。

 今日一日その機会を窺っていたが、ついにここまで来てしまった。

 自分のヘタレ加減を身にしみて実感する。

 しかも自分の気持ちを打ち明けたところで結果は目に見えているのだ。


 凛奈は裕也のことが好きだ。

 今日俺と二人で出かけてくれたのも、幼馴染だからという理由でしかないだろう。

 しかし俺はそんな凛奈の気持ちを利用して、更には凛奈と裕也の二人の気持ちを知っておきながら、自分勝手なことをしようとしている。

 この気持ちをぶつければ、おそらく明日から凛奈と今まで通りに接することは出来ないと思う。

 凛奈自身はサッパリとした性格だから気にしないだろうが、俺自身がどうしても凛奈を避けるようになると思う。


「それじゃ、また明日ね。これありがとう」


 凛奈は俺に、羽織っていたジャケットを差し出す。

 俺がそれを受け取ると、凛奈は俺に背を向けた。

 そして玄関の扉へ向かって一歩ずつ進んでいく。

 俺はそんな背中を見て葛藤した。

 あの扉の向こうは、俺にとってどうしようもなく遠い。

 あの境界線の向こうに凛奈が行ってしまえば、もう二度と彼女と会えなくなってしまうのだ。

 心臓が高鳴る。

 汗が吹き出る。

 呼吸が荒くなるのを感じる。


 さあ言え、田辺良悟!!

 言い訳ばかりで逃げてきた人生だった。

 自分の行動を正当化させる為に取り繕った何重もの要塞は、きよみんにぶち壊してもらっただろ!!

 もうお前は、自分のすべきことが分かっているはずだ。

 こんな時くらい、男を見せてみろ。

 裕也は言っていた。

『何事も積極的に、情熱的に愛を素直に伝えれば、必ず相手の心に届く』と。

 俺にだって一度くらい、そんな行動を取る権利はあるはずだ。

 何のために今日という日を用意したのか考えろ。

 そしてそれを成し遂げろ、田辺良悟ッ!!


「凛奈ッ!!」


 俺は思わず叫んでいた。

 しかし凛奈は驚くことなく、一瞬静止した後くるりとこちらへ振り返り笑った。


「ん、なに?」


 純粋な笑顔だった。

 本当に幸せそうな微笑み。

 俺はこの笑顔を守りたかったんだ。

 幼い頃から彼女の毒吐きを受け止めてきたのも、そうして悩みを発散させればいつも通りの優しい笑顔の凛奈になってくれると信じていたから。


 俺の顎は震えていた。

 それは寒さによるものではない。

 今から言おうとしている言葉が、喉につっかえているからだ。

 この言葉を吐き出せば、その言葉には責任が伴う。

 俺が今から打ち明ける言葉は、果たして凛奈を幸せにできるのだろうか?

 俺が今からしようとしている自分勝手な行動は、彼女の暖かい微笑みを歪めてしまうことに繋がらないか?


 俺はなにも分からなくなった。

 頭が真っ白になる。

 俺が今、一番すべきことは分かっている。

 昔の俺がそうしてきたように、今の俺も凛奈の幸せを守るために行動すべきだ。

 嗚呼、なんだ。

 それなら答えは簡単じゃないか。

 俺のすべき事なんて、ここまで頭を抱えて悩むことなんて一つもなかったのだ。


 俺は震える口元をなんとか緩めて、荒い呼吸を整えるために深呼吸をした。

 そして凛奈に真正面から向き合う。

 俺の気持ちを、伝えるために。


「明後日の引退試合、絶対に裕也を勝たせてやれよ」


 凛奈の幸せを俺は願っている。

 そして俺の思う凛奈の幸せは、裕也と結ばれることだ。

 そこには決して俺なんかの姿はない。

 必要ない。

 俺は1%の善人になれなかった男。

 99%の偽善者として生きていくことを決めた人間。

 だから俺は、自分がしたいように行動を起こすだけだった。

 そして俺のしたいことは、凛奈を幸せにすることだった。


 俺の胸中に宿った凛奈に対する好意は、果たしていつから宿ったものなのかも思い出せない。

 しかしこの想いは、凛奈を幸せにすることなんて決して出来ないのだ。

 それなら俺は自分の想いを殺す。

 胸の奥底へと叩き落とす。


 凛奈は一歩ずつ、俺の元へと歩いてきた。

 そしてどこか物憂げで、しかしそれでも笑みを崩さなかった。

 ポスッと、凛奈は俺の肩に軽く拳を当てる。

 まるで、何かを訴えかけるように。


「……、おうよ。任せときなさい」


 凛奈は再び俺に背を向け、玄関の扉へと向かっていった。

 俺はもう彼女を呼び止めることはしなかった。

 ただ鉄製の扉が閉まる重たい音を耳にしても、しばらくそこに立ち尽くしていた。


  11


 少女は自宅の玄関の扉に背中を預けながら、脱力するようにへたり込んでいた。

 父親はまだ仕事から帰っておらず、母親は買い物にでも行っているのか今は家に誰もいなかった。

 そんな自宅の玄関で明かりもつけず、少女は座り込んでいた。

 傍らには今日買った洋服の入った紙袋が二つと、肩にかけていたカバンが乱雑に置かれている。


 少女は静かに泣いていた。

 外にまだいるであろう少年の耳に届かぬよう、静かにしずかに泣いていた。

 秋吉凛奈は鼻をすすって頼りなく立ち上がると、紙袋を持ってよろよろと自分の部屋へと向かった。

 部屋の片隅に紙袋とカバンを乱雑に放ると、秋吉はネックレスやピアスも外さずに自らのベッドへと倒れ込む。


『イデッ!!』


 毛布の中から何かが唸る。

 しかし秋吉は毛布の上からどこうともせずに、ただそのまま仰向けになって天井を眺めていた。

 毛布の中にいたソレはもぞもぞと動き出すと、スルリとベッドから抜け出る。

 窓から差し込む月明かりに照らされた透明なソレは、小学生くらいの少女の容姿をしていた。


「なんで今日はその格好なのよ」


 秋吉は少女の姿をチラッと見ると、再び天井に視線を戻して物憂げに問うた。


『なんででしょうねえ? 私には姿形の概念はありません。

 ですから、見る人によって私の姿は変わるみたいです。

 でも特にそれに規則性はなく、その人の心に強く影響を与えた人物だったり、はたまた全く知らない赤の他人だったりと様々なようです。今回は果たして、どちらなんでしょうか』

「知らないわよ、そんな子」

『なるほど。それじゃあ、今回は後者のようです。それにしても貴女、すっかり私を見ても驚かなくなりましたね』

「驚いているわよ内心は。でも今は表面に出せるくらい余裕がないの」

『そのようですね』

「結局、アンタは何者なのよ。今回でもう四度目くらいだけど、なにをきっかけにしてアタシの前に現れてるの?

 しかも所構わず。オバケかなにかの類? それとも妖精さんですか?」

『確かに私は人間ではありません。しかしオバケなんて恐ろしいものでも、妖精なんて可愛らしいものでもないですよ。

 私は私です。田辺未来は生まれてから今日この日まで田辺未来でしかないんです』


 田辺未来は舞い踊るように、秋吉の部屋を目的もなく歩き回る。

 時折、タンスにおいてあるぬいぐるみをいじってみたり、机に置いてある携帯ゲーム機で遊んでみたりしながら。


「で、前者の質問の方がアタシにとっては結構重要なんだけど」

『私が、貴女の前になぜ現れたのか、ですね』

「そうよ」

『ま、でもそんなのどうでもいいじゃないですか』


 田辺未来はそう言うと、ゲーム機を丁寧に元の場所へ戻す。

 そしてそのまま秋吉と並ぶようにベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。


「はぁ。そうね。どうでもいいわ」

『貴女の涙の理由を当ててみましょうか』

「…………」

『とある少女は、幼い頃からとある少年に恋をしていた。

 しかしどうしても自分に振り向いてくれない少年の気を引くために、少女は何度か別の少年のことが好きだと嘘をついた。

 それでも彼は、一向に自分に振り向いてくれなかった。

 そんな時、少女は思い切って彼にラブレターを書いた。

 しかし、不運なことにその手紙を部室に落としてしまう』


 秋吉はベッドから立ち上がり、机に座ってネックレスやピアスを丁寧に取り外していく。

 その合間にも未来の言葉は続き、小学生のような風貌の彼女は秋吉のベッドの上をゴロゴロした。


『慌てて手紙を取りに戻った時、その手紙はその部で一番信頼のできるキャプテンが拾っていた。

 それをきっかけにして、少女はキャプテンに恋愛相談をするようになる。

 キャプテンは親身になって話を聞いてくれて、その都度適切なアドバイスもくれた。

 そんなある日、キャプテンの口からとある提案が出された』


 秋吉はアクセサリーケースにピアスをしまうと、机の上にある鏡に映る自分の顔をじっと見つめ、未来と同じタイミングで口を開いた。


「『もう一度、他の男が好きだと嘘をつけばいい。そして今度は、どんなことがあってもその男を受け入れる覚悟があるという姿勢を見せるんだ』」


 秋吉がベッドの方へ振り返ると、未来はうつ伏せで足をバタバタさせながら、両手で頬杖をついて含蓄のある笑みを浮かべていた。


『そして少女がその嘘の相手に選んだのが、そのキャプテンだった。

 少女は、徹底的に少年を揺さぶった。

 今度こそ本気だと少年に思わせるために。

 以前少年が言っていた。「恋の寿命は三年である」と。

 でもそれは真っ赤な嘘だ。だって自分は18年も彼を想い続けてきたのだから。

 それでも、少女は決意した。

 もし今回も少年が振り向いてくれなかったのなら、その時はもう潔く諦めようと。

 18年の恋心に終止符を打って、新しい恋に生きようと、少女は自分に誓ったのだった』


 秋吉はため息をつく。

 嫌そうな目で未来のことを見るが、未来の表情は変わらない。


「ホント、アンタが現れると気持ちが悪くなるわ」

『どうしてですか?』

「自分の心にスピーカーを取り付けているみたいだからよ」

『なかなか斬新なご意見ですね』

「もういいわよ。アタシそろそろシャワー浴びたいから」


 秋吉は立ち上がって、部屋の扉へと歩いていく。


『貴女にとって、今日は一世一代の賭けだったんですね』

「…………」


 ピタリと、秋吉の足が止まる。


『昨日の夜、貴女はあの少年に今日一緒に出かけないかと誘われた時とても嬉しかったし、とても驚いた。

 家に帰ってから今日着ていく洋服をチョイスするのに一時間以上悩んで、朝もかなり早起きして待ち合わせ時間ピッタリになるまで玄関で座って待機しちゃったりして』

「……、うるさい」

『もしかしたらようやく、自分に振り向いてくれるんじゃないかと思った。

 もしかしたら、今日彼に告白されるんじゃないかとドキドキしていた。

 そして最後、彼が背を向けた自分を呼び止めた時、貴女は最高の結末を期待したんですね』

「うるさい、うるさいッ!!」

『しかし期待は、大きく裏切られてしまった。

 冷酷にも彼が最後に言った言葉は「明後日の引退試合、絶対に裕也を勝たせてやれよ」……、流石の私も、同情してしまいます。

 でも貴女はまだ諦めきれていない。

 18年も続いた恋心は、そう簡単に払拭できるものじゃない。そうではありませんか?』

「…………」


 秋吉は何も言わず、扉を開けて浴室へと向かっていく。

 まるで現実から逃避するように。

 自分の気持ちを強引に整えるように。


 秋吉の部屋には、もう誰もいなかった。

 ただ秋吉の体温だけが、ベッドから緩やかに抜けていく。


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