第一章 小心者の焦燥
1
うざい。
うざい。
うざい。
うざいうざいうざいうざいうざい。
うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざい。
今まで否定してきたものの全てが、今まで嫌悪してきたものの全てが、田辺良悟という人間を小分けにしていただけだということを自覚させられる。
夜勤明けの母親は基本的に俺が学校に行っている間に帰ってくるから、今朝の朝食は冷凍庫にあった備蓄用の冷凍チャーハンを適当にフライパンで炒めた。
俺は忌々しいくらい清々しい青空を睨みつけると、脳が揺れるくらいブンブンブン!! と頭を横に振った。
いつもは何か嫌なことがあっても一晩寝ればすっかりどうでもよくなっていたはずなのだが、何故か今回の件に関しては頭から拭い去ることができなかった。
家を出て学校へと向かう。
昨日の公園を通り過ぎて曲がり角を一つ曲がったところにある電柱の側に、凛奈が立っていた。
俺は無意識に視線を逸してしまう。
「よっ」
「……、うっす」
特に約束はしていないはずだが、何故か俺を待っていたらしい凛奈と一緒に通学路を歩いて行くことになった。
「で、どうしたんだ」
「アンタ、昨日のこと忘れてないわよね」
「は?」
昨日のこと。
昨日という日は多分俺の胸の奥の深い場所に爪痕を残す結果となったのは間違いないだろう。
だがその要因が多すぎて何のことだか逆に見当がつかない。
「はァァァァ!?」
ぐぐぐっと迫ってくる凛奈に気圧されるように俺は一歩引く。
「昨日公園で話したでしょ! そ、その……、アタシと、き、霧山くんが上手くいくように具体的に行動してくれるって!!」
「……、あ? あ、あぁ……」
曖昧な返事をしつつそれとなく思考を巡らせるが、確かに昨日の公園でそんな事を約束した気がする。
あの時は凛奈の口から聞きたくないことを耳にした瞬間から、
何かが抜け落ちたようにただ相槌を打っていたが、その時に凛奈と裕也の仲を取り持つとかいう話題になっていたような。
幸い、俺は二人が両思いなのを知っている。
だから具体的に二人の間を取り持つように行動を起こせと言われてもそんなに難しいことではない。
それに裕也の方は文化祭での引退試合で勝ったらそのまま凛奈に告白しようとしているし、このまま放っておいても50%以上の確率でめでたくゴールインすることだろう。
それなら。
「とりあえず、今週の土日まではなにも出来ないぞ。
サッカー部、引退試合やるんだろ? 別段急ぐこともねえんだし、妙なことして裕也のコンディションを下げちまう結果はお前だって避けたいだろ?」
「ぐ……、ついさっきまで何も考えてないふうだったのに意外とまともな意見を」
「まあ、なんだっていいけど、どうしてまた俺なんかに相談してきたんだよ」
「はぁ? こんなことアンタ以外の誰に相談しろってのよ。それに、今回が初めてってワケじゃないでしょ」
「あー……、懐かしいな。下村や青八木のことか?」
「そうよ」
確かに小学生の時、凛奈は気になっている男子がいるという話を何気ない会話の中でそれとなく伝えてきたことがあった。
小学生の頃の同級生である下村大河は運動神経が良く、運動会の徒競走では彼をなんとか阻止しようと敵組の男子たちは結託して情報を収集したもんだ。
そして下村と共に走る走者に足自慢のツワモノ共を連ねたが、それでも下村は悠然と金賞を手にしてしまうほどの実力者だった。
そんな当たり前に格好いい男子に、凛奈は当たり前に好意を抱いていた。
しかし俺は大人気なく――といっても今も昔も大人だったことはないのだが――、
俺は凛奈から浮ついた話題が上がる度に現実を突きつけていた。
下村大河は実は高校生とつるんでいて、万引きや自転車窃盗などの常習犯だったのだ。
そのことを当時の凛奈に躊躇なく伝えると、下村に対する理想とのギャップに幼き頃の彼女はおそらくキャパオーバーを引き起こしたのだろう。
わんわん泣きわめいてしまったことを覚えている。
「あれは小3のころだったか?」
「そ。で、青八木くんは小6」
青八木悟は転校生だった。
たしか小学四年生の新学期と同時にひょっこり現れた気がする。
案外、他のクラスの転校生なんてあまり気にならないもので、俺にとっては気がつけばそこにいたという感じだった。
風のうわさで聞くと、青八木は気立てが良くて転校初日からクラスに上手くとけこんでしまったという。
いわゆるムードメーカーというやつで、いつの間にかファンクラブなんてものが出来ていたほどだった。
偽善を笠に着て周囲にそれを振りまく、いかにも俺が嫌いなタイプの人間だったことが改めて思い出される。
そんなこともあって俺にとって青八木悟は決して触れ合うことのない距離感を保ってきた存在でしかなかったが、例によって凛奈から話を聞いた俺は探偵ごっこよろしく青八木の素行調査に出た。
案の定、薄汚れた偽善の笠は日焼け跡のいらなくなった皮膚のようにペリペリと剥けていったのだ。
実はコイツ、年上の――といっても中学生だが――女子を取っ替え引っ替えの超ハードプレイボーイだったのだ。
いつの日か大怪我を負って学校をしばらく休んだのは、それが原因で何人かの男子中学生にボッコボコにされたのだとか。
「でもね、アタシ諦めてよかったんだなあって思ってる」
「へえ。その心は?」
「だってさ、小学生の頃に好きになった男なんてどうせ長続きしないし、結局は子供のお遊び程度で終わっちゃうじゃん。
ほら、子供って将来の夢とか聞くとパイロットだのお医者さんだのって即答するけど、一週間もたてば全く別の職業になりたいとか平気な顔で言うじゃない? それと一緒」
「なに言ってんだ。俺らは今だってまだまだ子供だよ」
「それもそうね。確か前にアンタ言ってたわよね。『恋の寿命は三年が限度だ』とかなんとか。
最初はどっかで見聞きしただけの根も葉もない都市伝説だと思ってたけど、実際に思い返してみたらその通りなのよね。
最初にいいなーと思った下村くんも小1から小3までだったし、
次に気になってた青八木くんだって小4から小6までだった。
ちょうどぴったり三年間できっぱりさっぱりどうでもよくなっちゃった」
「いつまでも未練たらたらで過去に好きになった男の話をするよりは、お前みたいにきっぱりすっぱり切り替えられたほうが見てるこっちからしても気が楽でいいけどな」
「……、まあ多分アタシが今まで一度も誰とも付き合わなかったのは、アンタが良いところで水を指したからだと思うんだけどね」
「そんじゃ俺はなにもしないほうがよかったか?」
「ううん。ちょっと意地悪言っただけ。本当は感謝してるのよこれでも。
だって下村くんや青八木くんともし仮に付き合ったとしたら、絶対アタシ変な道に進んでったと思うのよ。
髪なんかもまっきんきんに染めちゃってさ、厚化粧なんてしちゃうのが普通になってたかも」
凛奈はどこか嬉しそうに自らの髪をパサパサやったり、口の両端を人差し指で引っ張って豊かな表情を作った。
俺もそれにつられて少し顔が緩むのが分かる。
「そんなん絶対縁切ってるな」
「でしょ。アタシだってそんなの確実に黒歴史だよ。
だから今のアタシがいるのは、紛れもないアンタのおかげってワケ。これでも感謝してるのよ、今も昔も」
そこまで言うと、凛奈は少し駆け足で前に出る。
まるで踊るようにくるりと振り返り、今までとは一変して真剣な表情を向けてきた。
自然とこっちの体もこわばってしまう。
「そこでさ。今回はもう初めに聞いておく」
「…………、」
「中学から側にいたアンタならもう分かってるでしょ、霧山くんがどんな人なのかって。
もしアタシの知らない最悪な一面があったとしても、今度はもう全部受け入れようと思ってるの。
だってもうアタシ達、華の高校生だし。自分の理想を一方的に求めるだけじゃダメだってことくらい、分かってるつもりだから」
嗚呼、だめだ。
真正面から目線を合わせながら低いトーンで訴えかけてくるこの姿勢は昔から変わらない。
一切ほかを受け付けない猛獣の構え。
俺がなんと言おうと、自らの意志を絶対に曲げないという覚悟の表れ。
退路は、断たれた。
別に褒められることではないが、俺は赤の他人の粗を探すのが得意だ。
ちょっとでも不審に思うことがあれば勝手な憶測で塗り固めればいいだけだから。
だが少なくとも六年は側にいる裕也の粗は、全く列挙することができない。
ただ一つ、挙げるとすれば。
「……、裕也はな、言ってみれば恋愛恐怖症なんだ」
ほそぼそと、俺は口を開いた。
その言葉の真偽を確かめるように、凛奈は俺の目をジッと見つめる。
「……、なによ、それ」
「黄本のこと覚えてるか?」
「黄本? 誰よそれ」
「ああ、お前が覚えてないのも無理はないか。中学の時、生徒会の書記をやってた後輩の女の子だよ。黄本好美は、裕也の初めての彼女だ」
「あぁ……、あの子ことね」
「俺らが中3の受験シーズンに、唐突にあの二人は別れたんだ」
「ああそうだったの。中学の頃はあんまり霧山くんと絡みがなかったから気にしたことなかった。中2の頃に初めての彼女ができたっていうのも今初めて知ったし」
団地群を抜けて商店街に差し掛かると、コロッケかメンチカツをせっせと揚げている揚げ物屋から漂う油のニオイや、ラーメン屋から漂う豚骨醤油スープのニオイが混ざって、朝食を食べたのにも関わらず変に腹の隙間を刺激される。
「で、その別れた原因が早い話、黄本好美の浮気なんだよ」
「浮気、ねえ」
「よくある話だよ。受験シーズンに突入して、そんなに二人きりの時間が作れなくなったから、心の隙間を埋めるように別の男に乗り換えたんだ」
「…………」
「だけど、その時の裕也にはショックがデカすぎたんだ。
今まで告白してきた女子全員にしっかりと向き合って、真面目に一人ずつ返事をしていくようなヤツが、
ようやく自らの判断で手を取るのを決意したんだ。
それなのに、人生で初めて好きだと思える相手と巡り会えたのにも関わらず、
ただ少しの間放置してしまったが為にに黄本好美は別の男と浮気をした。
その事実が、裕也の心にとてつもなく深い傷を負わせたんだ」
「それが、恋愛恐怖症……?」
「そうだ。今の裕也は怯えてるんだ。
自分が好きになった相手と結ばれたとしても、相手はそのままずっと自分の事を好きでいてくれる保証はどこにもないからな。
たとえ恋愛が成就しても、そこはゴールじゃない。むしろそこからが本当に辛い事の始まりなんだってことを知ってしまったからな」
「そんなの……、アタシはどうすればいいのよ」
「なんだよお前らしくもない。お前、もしアイツと付き合ったとして、寂しいからって別の男に乗り換えるのか?」
「っは。なにを馬鹿なこと言ってんのよ。アタシはそんなに軽率じゃない。自分のすることにはちゃんとケジメをつけるつもりよ」
「それなら何も迷うことはないだろ。今まで俺も、平気な顔して浮気する奴らを男女問わず見てきた。
でも裕也は浮気をされた者の痛みを知っているし、お前もそんなことをするタマじゃねえんだ。
アイツに気持ちを伝えるときは、まずそれを前面に押し出してアタックするんだな」
「ふーん、なるほどね。ま、やれることをやるだけよ」
「あん? なんかかっるいな」
「良悟はさ、アタシが霧山くんと付き合うことになったら、どう思うの?」
「ど、どうって?」
「……、もういいや。なんでもないっ」
なんだ? コイツは一体なにを考えてるんだ?
真面目に相談に乗ってやってるというのに、いきなり不機嫌になった。
ああそうだ。
コイツ、以前の下村や青八木のときもそうだった。
俺が話を聞いていると、何故かいつも不機嫌になるんだ。
そこだけは未だによくわからない。
気がついたら俺たちは商店街を抜けていた。
大きな通りに出て、その横断歩道を渡るとすぐ大きなクリーム色の校舎が見えてくる。
開放されている校門から校舎までは10mもない。
そんな校門を潜ろうとした手前で、奥の曲がり角から大きなあくびをして裕也が歩いてきた。
「油断大敵だぜ、裕也クンよぉ」
校門前に並ぶ俺と凛奈の姿を見ると、裕也はビクっと肩を震わせてなぜか気をつけの体勢になる。
そんな裕也の目にはおそらく俺なんかは写っていないだろう。
俺の隣に……って、あれ? いつの間にか凛奈が俺の背中に隠れていることに今気がついた。
なんだこの二人。
いつもはあんな性格な癖して意外とピュアか。
「あ、あああ秋吉っ! 今日朝練ないんだっけ?」
「えっ!? あー……、いやちょっと寝坊しちゃって。サボっちった」
俺という壁を一枚隔てて裕也と凛奈が会話をするというなんとも奇妙な光景が広がっている。
とりあえず、なんのつもりかずっと俺の脇腹に肘鉄を与えてくる凛奈の首根っこを掴んで俺の隣に立たせておく。
「そういうお前はいいのか? 追い出し試合、勝つつもりなんだろ?」
「一応、俺らはもう引退してるってことになってるから朝練とか放課後練は参加できないんだよ。
だから三年のチームとは別個で練習してる。昨日も結構遅くまで作戦練ってたんだ」
「いやあ大人気ないねえ。三年どもが揃いも揃って徹底的に勝つ気でいやがる。
追い出し試合ってのは在校生たちに勝たせて士気を高めるもんじゃないのか?」
「自分達のチカラで勝つのと、手抜きをされて勝たされるのじゃ全く違うんだよ。
それに俺らが手を抜いたらすぐにバレるだろうし、アイツらもそんな試合望んじゃいない。
それにウチのサッカー部はどいつも負けず嫌いなんだ」
「……、へえ。よっぽど勝ちたい理由ってのがあるんだなぁ?」
俺がそんな意地の悪いことを言うと、裕也は顔を真っ赤にしてそのまま小走りで校舎に向かってしまう。
重たいゲンコツを俺の頭にぶちかましてから。
2
凛奈とはクラスが違うこともあって、校舎に入ると必然と進む方向が別れた。
教室に入って自分の席に着いて軽い気持ちで後ろの席を見ると、未だに拗ねている裕也の姿があった。
「お前、ホンマありえへん」
でた。裕也の変な関西弁。
エセ関西弁で拗ねているときは、割りと本気で拗ねているときだ。
「わるかったって。ちゃんと凛奈にお前のこと良く言っておいたから許せって」
「ばっかお前あんま余計なこと言うなよ! 不自然に思われるだろ!!」
「大丈夫だって。アイツもお前には引退試合に勝って欲しいみたいだったからマジで気張れよ」
「分かってるわそんなこと。だから昨日だって夜遅くまでミーティングしてたんだ」
「勝てそうか?」
「勝つさ。正々堂々とな」
「ふぅ~かっけぇ~~」
「おちょくってんのか」
「真面目に賞賛してるようにみえるか」
「よかった。俺の目は節穴じゃなかったみたいだ!!」
唐突に、裕也が俺の両脇を全力でくすぐってきた!
自分でもわけの分からない声で暴れまわる。
そこで、ポケットのスマホが振動するのを感じて裕也をなんとか制止する。
画面を見ると、Twitterのダイレクトメッセージだった。
【キキ】
なんどもすみません。今お時間大丈夫でしょうか?
この子は……、確か昨日の昼休みにやり取りした子だな。
恋愛経験皆無で、高校に上がったら好きな人が出来て想いは伝えたいのだけど、でも今の関係を崩したくないからどうしたら良いのか分からないとか。
なんだか、自分と同じ境遇を感じるのは気のせいか。
【秋茄子】
ん。いいよ。どうしたの?
【キキ】
実は昨日、相談に乗ってもらった通りちょっと勇気を出してお話したんですが、彼女さんはどうやらいないみたいでした。
【キキ】
でも多分、その……、好きな人はいるんだと思いました。
【秋茄子】
それは直接本人に聞いたの?
【キキ】
いえ、そういう訳ではないんですが。
【キキ】
とある人の名前を出したときの反応が明らかにおかしかったんです。
それで、勘付いてしまったといいまずか……
【秋茄子】
それじゃあ本当かどうか分からないじゃん
【秋茄子】
あくまでキキちゃんの予想でしかないんでしょ?
やっぱ本人からさりげなーく聞いてみるのがいいんじゃないかな
【秋茄子】
彼女いるいないの話しちゃった手前、ダイレクトに聞くと怪しまれちゃうかもしれないし
【キキ】
そうですね……。じゃあちょうど、今日の昼休みに会う予定があるのでお話ししてみます!
そしたらまたご連絡しても良いですか……?
【秋茄子】
あー、うん別にいいけど、昼休みはちょっと携帯開けないかもしれないから返事遅くなっちゃうよ
【キキ】
昼休みに携帯が開けないんですか? ああ、もしかして部活とか?
【秋茄子】
いやいや。図書委員会の仕事があってさ。図書室に行かなきゃいけないんだ
【秋茄子】
後輩の女の子と一緒に作業してるんだけど、その子がまた色々厳しい子でさw
【秋茄子】
昨日も作業があったのにサボっちゃったから余計ヘンなこと出来ないっていうか
【秋茄子】
俺も先輩だからちゃんと作業しないとって思うしね
【キキ】
へえ。図書委員ですか。昼休みなら受付とかやってるんですか?
【秋茄子】
まあそうなんだけど、昨日は新しい蔵書が来る日だったからそれを棚に並べる仕事があったんだ
【秋茄子】
それをサボっちゃったから放課後図書室に連行されて残りの作業手伝わされちゃったよw
【秋茄子】
まあ俺が全部悪いんだけどね
顔も知らないネット上の知り合いになにを真面目にリアル話をしているんだなんて思いながらスマホを操作していると、朝のホームルームが始まる始業のチャイムが校内に鳴り響いた。
気がつけば、いつの間にかクラスメイトが全員教室に入ってきていた。
【キキ】
あ、ごめんなさい。
こっちの学校、もう授業始まるみたいなんでまたあとで!
【秋茄子】
やっぱ大体の高校って同じ時間に始まるんだねw
【秋茄子】
こっちももう始まるから、それじゃあ!
とうとう教室にも暖房がつきはじめる季節になった。
人工的な温かい空間というものは無駄に眠気を誘ってくるものだ。
朝のホームルーム恒例の「気をつけ、礼、着席」を最後に、俺の意識は深淵に誘われたのだった。
3
いつも通りホームルームで寝て、そのまま昼休みまでーとか思っていたら、ホームルームが終わった途端、裕也に叩き起こされた。
「な、なんだよまだ一時間目じゃないか」
「バカ野郎。今日は一日文化祭の準備だろ。寝てる暇なんかねえぞ」
「えっ? だって文化祭って土曜からだろ? 今日は木曜じゃねえかよ」
「お前、ほんっとなんも話聞いてねえのな。明日は開校記念日で休みだろ。だから今日中に校内の飾り付けとか色々準備しなきゃいけないんだよ」
「えぇー、でも俺販売係だしぃ、やることないっていうかぁ、帰って良いかな?」
「バカタレ。販売係とか運搬係ってのはあくまで当日の役割だ。
今日は屋台の飾り付けと、看板の作成作業がメインだからそんなの関係ないんだよ。
しかも午後には近所の八百屋に予約しておいた大量のバナナを取りに行かなきゃいけないんだから男手が必要になる。
時間があれば試作品を何個か調理して、本番であたふたしないようにしたいんだ」
「なんでお前、文化祭実行委員でも学級委員でもないのにそんなに詳しいんだ?」
「いやいや詳しいもなにもたった今ホームルームで話したことそのまんま言っただけなんだが」
「ファーーーーーめんどくせぇぇぇぇ!!」
「ほらサッサと看板作りに取り掛かるぞ。まずは建築室から大きめの木の板をもらってくるんだ」
俺は半ば強引に裕也に連行される。
運動不足も甚だしい俺は、今日一日でおそらく全身の筋肉が痙攣を引き起こすだろう。
とはいいつつもなんだかんだサボり上手な俺は、周りに指示を飛ばす役目に回って自分は突っ立っているだけだった。
クラスメイトが木の板を運んでいる前でオーライオーライ言ったり、
運んできた木の板を設計図通りの大きさにするためにやたらやる気のあるヤンキー共に無駄な部分をカットさせたり、
看板の下書きから色塗りまでは美術部ブーストをかけて二時間程度で完成させた。
ああ、マジで俺は指揮官として優秀すぎるなと思っていると、サボっていたことがバレて裕也に小突かれる。
まあでも許して欲しい。
皆に指示を出す役に回って常に次の事を考えておかないと、妙なことが頭を過ぎってしまうような気がしたのだ。
そんなこんなで昼休み。
クラスの男子諸君は近所の八百屋に発注した大量のバナナを取りに行くらしい。
なにをそんなに急ぐことがあるのか。
自分たちにぶら下がっているお粗末なバナナにでもチョコレートを塗りたくっていればいいのにHAHAHA。
まあ俺は図書委員の仕事があることを盾に、まんまとサボることに成功したわけだが。
というか、こんな日まで図書室なんて開けなくても良いと思うのだが……、
まあそれを口走るときよみんになにを言われるかわかったものではないので黙っておくことにする。
図書室に行くと案の定誰の姿も見受けられなかったが、受付には既にきよみんが座っていた。
なにやら本を読んでいるようだ。
もちろん俺と裕也が貸し借りするような下賤な類のものではないが、どうやら表紙のアニメチックなイラストから察するにライトノベルというやつらしい。
「うい~っす」
「静かにしてください。図書室なんですから」
「いやぁ真面目だねえきよみんは。こんな誰もいない空間でそんなこと気にしなくてもいいのに」
俺は別に日頃から読書を嗜むような趣味はないので、特にやることがない。
とりあえず、きよみんの横の席にドカリと座ることにした。
「先輩は節操なさすぎです。というかきよみんって呼ばないでください」
「相変わらずキビシイっすなぁきよみん。俺も暇だからなにか読もうかなぁーっと」
何気なく、俺は図書室の中に旅立つ。
この図書室、きよみんみたいなオタッキーな層には対応して結構な種類のライトノベルは置いてあるのに、漫画とかは全く置いてないでやんの。
仕方ない。
この際きよみんと新興を深めるべく、俺もラノベとやらに手を出してみますか。
とりあえず面白そうだったから、きよみんが持ってた本の一巻を読んでみよう。
俺は棚からラノベを引き抜くと、受付に戻って再びきよみんの隣へと座る。
二人とも本を読み始めてしまうと、なにやら胸がざわつくような静寂に包まれた。
他のクラスが昼休みも返上して文化祭の準備をしているのだろうか、廊下から様々な声や靴音が聞こえてくる。
なんか妙な空間だなあ。新鮮だ。
世界から隔絶された、俺ときよみんだけの空間。
というか、このラノベ結構面白いな。
これなら抵抗なく読めそうな気がする。
「ど、どこまで読みましたか?」
唐突にきよみんが俺に話しかけてくる。
俺はそちらへ視線をやると、なにやら視線を泳がせながらモジモジとしていた。
なんだそのウナギ踊りは。
「え、なにが?」
「そっ、その小説ですっ」
「ああこれ? 今主人公たちが変な男の依頼を受けてるとこ。なーんか胡散臭えよなあコイツ。ぜってー裏切るぜ」
「なんでそう思うんですか?」
「だって明らかに不自然だろー。なんとなくだけど」
「鋭いですね。実はその男が二つの仕事を同時に依頼してきたってとこが、後の伏線になってるんです」
「え、そうなの!? うわぁ続き読みたくなってきたぁ。きよみん、あんまりネタバレしないでね」
「じゃあ早く最後まで読んでください。後半の戦闘シーンから結末までの勢いと、斜め上を行くどんでん返しが面白いんですから」
「きよみん、相当読み込んでるな?」
「この作者さんの大ファンですからね! 自称ですけど!!」
「よっしゃ。今日中に語り合えるようになってやるから待っときな」
「いいですよゆっくりで。なんなら、私が持ってるやつ貸してあげますから」
「え、いいの?」
「いいですよ。この作者さんのラノベは読む用、保存用、布教用に三冊ずつ買ってますから」
「うわぁ、そういうやつってホントにいるんだな」
「今バカにしましたね?」
「しっ、してないしてない! すげーなーって思って。さー続き読もー」
何気なく誤魔化して再び読書に戻った。
しかし普段あまり活字に触れてなかった俺にはどうやら厳しかったらしく、15ページほどで本を閉じて休憩をとることにした。
「そういえば」
きよみんが、何気なく会話を振ってくる。
どうやら俺が本を置いたのを見計らって話を始めたらしい。
「昨日の放課後、先輩と私の他にもう一人、図書室にいたんですよ」
「へ?」
昨日の放課後といえば、きよみんに連行されて図書室の蔵書整理をしていたが……、確かその時俺ら以外に人はいなかったはずだ。
色んな棚を回って本を収めていたから、誰かがいれば絶対に気がつくはずだが。
「いや、おかしいでしょ。なにかの見間違いじゃない?」
「そんなはずありませんっ! だって、私ちゃんと見ましたし、お話もしたんですよ」
「へえ。どんな人だったの?」
「三年生の先輩でした。女の人で、肩に届かないくらいのショートヘアで……、なんだか凄くキレイな人でした」
「え、なにそれ怖いこわい。きよみんそれお化けだって絶対」
「違いますよ!! ちゃんと足ついてましたし。帰る時ちゃんと足音してましたし。
あっ、そうだ!! その人、ここの生徒会長だって言ってました。確か、お名前も聞いたんです、けど……」
「けど?」
「あれ……? 思い出せない」
「うわー、それ絶対霊的な何かだって。お祓いしてもらった方がいいんじゃない?」
「むぅ!! 馬鹿にしてぇ!!」
「いや、割りと本気で心配してるんだけど」
「もういいです。先輩に話したのが間違いでした」
きよみんは拗ねてしまったのか、再び本を開いて読み始めてしまった。
きよみんが嘘をついているとは到底思えないけど、あの空間にもう一人いたなんてどうしても信じられないなあ。
というか、物理的に不可能でしょ。
隠れてたの? 忍者かよ。
三年の先輩……、ショートヘア……、生徒会長…………?
待てよ。
「きよみん」
「なんですか? もうこの話はおしまいです」
「それ、マジでおかしいぜ? だってさ――」
そこまで言いかけると、きよみんの表情が強張る。
多分、気づいたのだろう。
なにせ、俺が手に取った今週の学級新聞にはその生徒会長のことについて一面に書かれていたのだから。
生徒会が市のボランティア活動に参加したんだとかなんだとか。
とりあえず今はその記事の内容はどうでもいいんだ。
俺が言いたかったのは、
「ウチの学校の生徒会長って、男だぜ?」
「そ、そうだよ……、そうですね。なんで私今までそのこと忘れてたんだろ……、いつも学生総会で挨拶してるのに」
「ほらやっぱりきよみんの見間違いだって。それとも、俺が帰った後もしかして寝ちゃってたとか」
「そ、そうですね! そうだったかもしれませんっ! あ、あはは、あははは……」
無理やり笑おうとするきよみんを見ていると、どうしても顔が引きつってしまう。
まさかきよみんに潜在的な霊感があったなんて。
それとも、相当疲れてたのかな。
多分後者だと思うけど。
「せ、先輩っ!!」
「なんだいきよみん」
「楽しい話しましょうよ楽しい話!」
「そ、そうだな! どんな話をしようか?」
「そうですね。じゃあ恋バナで!!」
「ンーナニカナソレハ。錦鯉がバナナ食べちゃった話カナー」
「ぶっちゃけ先輩、サッカー部のマネージャーさん……、秋吉先輩でしたっけ? 秋吉先輩のことどう思ってるんですか?」
「なっ!?」
あまりに唐突すぎた質問に、さすがの俺でも面食らった。
しかし先程の慌てふためいていたきよみんとは打って変わってかなり真剣な面持ちでどこか遠くを見ている。
「なに言ってんのきよみん。その話は昨日したはずだけど」
「好きなんでしょ」
「ねー楽しくなーい。俺この話ぜんぜん楽しくないよー」
ダンッ!!!!!! と。
次の瞬間には、きよみんが受付のカウンターを思い切り叩いていた。
俺は少しだけビクッと震え、何事かといった形相できよみんを見る。
「真面目に答えてください。私は真剣に聞いているんです」
俺の知ってる恋バナってこんなんだったっけ……。
話というよりは尋問に近い。
なんだか初めて俺の心の敏感な部分を明確に抉られてる気がしてたまらない。
俺は今まで一度も、凛奈への気持ちを誰にも打ち明けたことがなかった。
それこそ、自分の口から声に出して明言したことなんてない。
俺はそもそも「愛してる」だの「幸せにしてやる」だのと軽々しくのたまう輩が大嫌いなのだ。
よくもそんな無責任な台詞をペラペラと並べられるな、と関心すら覚える。
だって考えてみて欲しい。
人間は誰かと結ばれても、一生を添い遂げられるのはほんの僅かなのだ。
なのにそんな無責任な言葉を伝えて、もし破局してしまった場合、どう言い訳をするというのだ?
言葉にしたからには責任が伴う。
もし俺がその立場に陥ったなら、俺は俺を決して許すことはできないだろう。
だけど。
きよみんになら、言えるかもしれない。
初めて俺の心の殻を一枚ぶち破り、平然と土足で踏み込んできたこの子なら俺を理解し、赦してくれるかもしれない。
「な、なんですか……? ちょっと怒っただけじゃないですか。そんなに怯えないでくださいよ」
どうやら、頭で色々と考えてる間ずっときよみんを見つめていたらしい。
それはもうまるで、先生に怒鳴られて何も言えなくなった子供のように。
「好きだよ」
世界で初めて言葉が紡がれた。
責任が孕んだ。
もう後戻りは出来ない。
「もう、どうしようもなく好きだ。
いつからかなんて覚えてねえよ。
だってアイツとは物心ついたときから一緒にいたんだから。
一時期はウジウジしてる自分に嫌気がさして、いくらでも自分のなりたいキャラクターを演じていられるネットに逃げたこともあったけど、それでも好きだ。
俺は、凛奈のことが…………、好きだ」
ああなんて女々しいんだ。
もはや制御できなくなった気持ちをだだ漏れにして、後輩の女の子に自分の弱い部分をさらけ出し、承認欲求を満たそうとしている。
俺は生まれて初めて死んでしまいたいと思った。
「知ってました」
きよみんはそれでも、平然とした態度だった。
もはや頼もしさすら感じるほどに。
「校内とか、たまに校外でも先輩と秋吉先輩が一緒にいるところを何度か見たことがありますけど、先輩、ずっと秋吉先輩のこと見つめっぱなしなんですもん」
「えぇ……、うそぉ。それめっちゃ気持ち悪いやつじゃん俺ぇ……」
「あ、自覚がなかったんですか? なら安心してください。先輩は今も昔もちゃんと気持ち悪いですよ」
「へいへいどーせ気持ち悪いですよー。あーでもスッキリしたぁ。もうなんか、もう、どうでもよくなっちまった」
もはや笑いすらこみ上げてくる。
今なら図書室のど真ん中で大の字になって寝られる自信がある。
もうどーでもいいや、グンナイ世界♪ と一言告げてから。
「ありがとうきよみん。俺きよみんに話せてよかったと思うわ」
「そうですか、それはよかったです」
ああ、なんだその笑顔は。
とても純真で屈託のない笑みだ。
まさに完璧。
まさに天使。
大天使キヨミエル様だ!!
俺はキヨミエルの笑顔を眺めていると、何故か不意に目をそらして、手元にあったライトノベルで口元を隠してしまった。
「それに、ちゃんと自分の気持ちを言葉にしたとき先輩はかっこ(ゴニョゴニョ)」
「ん? んんん??? きよみん、今俺のこと格好いいって言った? 言ったよね? 絶対に言ったな!!」
そんないつも通りのノリできよみんをいじり始めると、きよみんはクスっと笑い、そこからなにやら不敵な笑みへと変じる。
「バカ言わないでください。私が先輩を格好いいと思うなんて百万年経ってもあり得ませんから」
きよみんもいつも通りの決め台詞を放った。
しかし何故かこの時、少しだけきよみんの頬が震えていたような気がした。
4
そこからはもう水道管が破裂したように、次から次へと言葉が飛び出した。
昨日の放課後にファミレスで裕也に打ち明けられた話、
その後の公園で凛奈に打ち明けられた話、
そしてタイムリミットは文化祭二日目に行われるサッカー部の追い出し試合だということ。
吐き出して、吐き出して、全て残らず掃き出した。
一言ひとこと発するごとに、心に積もったゴミの山がするすると排出されていくようだ。
とても清々しい。
そうか、俺はこれが欲しかったんだ。
自縄自縛でがんじがらめになった思いを紐解くための、『理解者』が。
「――ってことなんだ。どう思う?」
それこそ最近起こった面白おかしい出来事を話すような感覚で、何故かつまらなそうにラノベを読んでいるきよみんの意見を煽る。
「どうって、何がですか?」
「だから、裕也が引退試合で勝てるかどうかって話だよ。アイツなら大丈夫だと思うんだけど、やっぱり心配なんだ」
「先輩、話の軸がどんどんズレていってませんか? 先輩は秋吉先輩のことが好きなんでしょ? もしこのまま霧山先輩が引退試合で勝ってしまったらそれこそおしまいですよ。
秋吉先輩は霧山先輩の全てを受け入れるつもりでいて、霧山先輩は恋愛恐怖症を乗り越えて秋吉先輩にアタックしようとしているんですよね?
そんな二人が結ばれちゃったら、もう本当に田辺先輩の入る隙なんてなくなりますよ」
「……、さっきも言ったけど、俺は凛奈と裕也の幸せを願ってるんだ。
凛奈はそこら辺の女子と違って絶対に軽率な行動はしないし、責任感もあるから何があっても裕也を好きでいると思う。
そうなれば、裕也の恋愛恐怖症も気にせずに済むだろ。アイツのアレは好きになった子が自分を裏切ったことがトラウマになってるから。
それでいいんだよ、それで。その空間に俺はいらないんだ」
「嘘ばっかり」
そう言ったきよみんの目を見ると、かなり険悪な表情になっていた。
というか今それに気づいたということは、俺は今まできよみんの顔を見ずに話していたのか。
多分、慎重に言葉を選んで発していたのだろうが、どうやらそれがきよみんの癇に障ったらしい。
「う、嘘なんか……」
「じゃあなんで先輩は今朝、秋吉先輩との会話で『今週の土日まではなにも出来ないぞ』なんて言ったんですか?」
「えっ……?」
「だってそうじゃないですか。二人が両思いだってことを知ってるんだったら、早急に二人をくっつけるべきじゃないですか。
そうすれば二人は幸せになるし、先輩の願いだって叶うでしょう?」
「いや、それは引退試合に向けて頑張ってる裕也のコンディションに影響が出たら悪いなとおもっ
「違いますね」
かなり食い気味できよみんが反論してきた。
俺は内心ドキッときてしまう。
どうやら、きよみんには俺の御託は徹底的に看破されてしまうらしい。
「好きな子と付き合えて調子が悪くなる人なんていますか? むしろ絶好調になるはずです。
二人がくっつくにはベストタイミングだったんですよ? 良い事尽くめなのに、先輩は何故それを妨げるような事をしたんですか?」
嗚呼、ダメだ。
この子には全く敵わない。
俺の唯一の『理解者』には、何もかもお見通しなんだ。
言葉が詰まってしまう。
少しでも反論しようとするが、何を言ってもきよみんは顔色ひとつ変えずに論破してしまう気がしてどうしても言葉が出なかった。
それすらも察したのか、俺がなにかを言う前にきよみんがグイっと顔を近づけてまくしたてる。
「先輩は臆病者ですね。何か余計なことを口走るのをかなり警戒してるみたい。
それなら私が代わりに言ってあげましょう。
二人がくっつくのを先延ばしにしたのは、霧山先輩のことを気遣ったんじゃない。
先輩は無意識に、二人がくっつくのを避けたんですよ。
あのタイミングで、先輩が率先して二人を合わせて話をさせていたら、ほぼ間違いなく二人はお付き合いすることになる。
けどそれを先延ばしにすれば、霧山先輩が引退試合で勝たない限り進展はない。
だから先輩はそれに賭けたんですよ。
100%の可能性をなんとか回避して、50%にまで引き下げたんですっ!!」
完敗だ。
何ひとつ余すことなくその通り。
頼もしいことに俺のたった一人の『理解者』は超優秀だった。
「ッフ……」
体が震えた。
ピリピリとした感覚が全身を駆け抜け、どうしようもなく笑いがこみ上げてくる。
俺は嬉しかった。
とてつもなく、嬉しかったんだ。
俺のことはこの俺自身にしか理解できないのだと思っていたのに、
その考えを軽々と踏みにじり、表情ひとつ変えずに片手で要塞をぶち破ってきたたった一人の『理解者』の存在が心の底から嬉しかった。
「なに泣いてるんですか」
おっと。
どうやら俺は泣いているらしい。
でもこれは決して悲しみによる涙ではないことは断言できる。
俺は今、生まれて初めて嬉しさによって泣いていた。
「あーあ。俺の善人化計画がめちゃくちゃだよ」
「なんですかそれ」
「誰にも知られることなく、自己犠牲によって他人を救う。これこそが俺の思う本当の善人の姿なんだ」
「はぁ。先輩は無駄に自分をカッコよく見せようとしすぎなんですよ。
そんなことばかりしてるから自分の変な意地がどんどん自分の首を締める結果になるんです」
俺はもはや、きよみんの言葉に鼻で笑ってしまった。
全くもってその通りだ。
「きよみん、俺はどうしたらいいかな」
俺は湿る頬を拭くこともせず、ただ嬉しさに任せて笑顔を作った。
「そこまで私が言わなきゃ分かりませんか?」
「いや、分かってる」
ズズズ、と鼻水をすすってから両手で目元を拭うと、一度深く息を吸い込んだ。
そこからまた涙が零れそうになったから俺は上を見上げてただ笑う。
「俺は凛奈が好きだ。だから凛奈の幸せを最優先に考えたいし、それによって親友の裕也のトラウマも拭い去れるならこれほど嬉しいことはないじゃないか」
ここまではまだ善人化計画の一環。
二人の幸せのために俺は自分の気持ちを押し殺して行動を起こそうとしていた、1%に食い込むための惨めな努力にすぎない。
「でもダメだ。俺は凛奈を手放したくない。このままずっと、俺は凛奈の特別であり続けたいんだ!!」
「ふふっ。やっぱり、ちゃんと自分の本心を口にしてる先輩は格好いいですよ」
「デレたっ!! きよみんがついにデレたぁ!! そうだろ格好いいだろ! 改めて惚れ直しちゃったんじゃない?」
「バカ言わないでください――」
あれ? きよみんもいつの間にか泣いている。
涙を流すほど俺の姿がおかしかったのだろうか。
なんだかちょっと恥ずかしくなってきたな。
「――私が先輩に惚れるなんて百万年経ってもあり得ませんから」
5
少年は、校舎内を徘徊していた。
その理由は単純で、今まで司令塔として仕事を上手くサボっていた親友の姿が見当たらないからだ。
昼休みに入る際にクラスの男子数名で近所の八百屋に発注依頼をしていたバナナを取りに行くことになったが、件の親友は図書委員の仕事があるからとこれまた上手く仕事をサボっていた。
しかしその昼休みが終わってもソイツは一向に姿を見せなかった。
どうせどこかで油を売っているんだろうと思い、とりあえず図書室に向かうことにした。
そして少年は図書室へ向かい、案の定図書室にはその親友の姿があった。
しかし少年は図書室に入ることはせず、そのまま教室へと戻ることにしたのだ。
なぜならその時、親友が後輩の女子としていた会話を耳にしてしまったから。
「はぁ。何やってんだろうなぁ、俺」
しかし会話の一部始終を全て盗み聞きしていた訳ではない。
彼はそこまで狡猾な人間ではないからだ。
親友の口から聞かされた言葉。
その言葉が今でも、少年――霧山裕也の心の中に反響していた。
霧山は教室に帰る途中、ふととある教室の前でその足が留まった。
表札には何も書かれていないことから、そこは空き教室であることが分かる。
その教室内には机や椅子が大量に置かれていた。
おそらく普段から使われていないものの他に、文化祭で教室を空けるために一時的に運び込まれたものまであるのだろう。
霧山の視線は、そんな教室に一人佇む透明な少女へと向けられていた。
後ろ姿なので顔まで見ることが出来なかったが、その髪型には見覚えがあった。
もともと肩甲骨くらいまでの長さの髪を頭の両サイドでお団子にして、黒地に白の水玉模様柄のシュシュをしている。
制服からしてうちの生徒であるのは間違いないはずだが、それが霧山に強い違和感を与えた。
「好、美……ッ!?」
空いた口が塞がらないまま、霧山は思い当たる少女の名前を口にして空き教室に踏み込んだ。
それに気づいたのか、後ろ姿だった少女はこちらへと体を向ける。
霧山と少女の目が合うと、少女はにっこりと微笑んだ。
しかしその顔は霧山の知る少女の顔ではなかった。
『どうしたんですか、先輩?』
透き通った声に、透き通った肌。
まるで彼女自身が空気であるかのような存在感を放っている。
蝶ネクタイが緑色であることと、霧山のことを先輩と呼んだことから、どうやら1つ下の後輩のようだ。
「あ、いや……。ごめん、なんでもない。後ろ姿が知り合いに似てたからつい。あははは……」
霧山は引きつった笑みを浮かべながら頭を掻いた。
『フフフ。そういうことってよくありますよね。私も、先輩とは前にどこかで会ったような気がします』
「まさかそんな」
『冗談ですよ。あ、そうだちょうどよかった。ちょっとこれを見てもらってもいいですか?』
少女は手招きして霧山を誘う。
霧山がゆっくりと少女の立つ窓際へと近づくと、少しだけ強い風が一瞬教室を駆け抜ける。
よく見ると、教室の窓が開けてあった。
この校舎の各教室の窓には落下防止用の柵が取り付けられており、背の高い裕也でも窓枠によじ登りでもしない限り身を乗り出すことも出来ない。
その落下防止用の柵になにやらワイヤーが取り付けられており、留め具で固定されていた。
『今日、試しに文化祭用の看板を生徒会の皆で取り付けていたんですけど、
もう確認作業が終わったので、これを取り外すのを手伝ってもらってもいいですか? 私一人じゃちょっと力不足で……』
「あ、あぁなるほど。キミは生徒会の人だったのか」
『あっ、そうだごめんなさい。自己紹介がまだでしたね』
少女は可愛らしく舌を出して自らの頭を小突くと、パッパとスカートを両手で払ってシワを直す。
そして改めて霧山と目を合わせた。
『私は田辺未来っていいます。生徒会書記の二年生です』
「た、なべ……?」
霧山の脳裏になにかが引っ掛かる。
しかしその違和感を掴もうとすればするほど、まるで鰻が手の中で踊るようにするりとどこかへ消えてしまう。
結局霧山は、その違和感の正体に辿り着くことはできなかった。
それどころか、次の瞬間にはその違和感を綺麗さっぱり忘れてしまう。
「……、俺は霧山裕也。それにしても、こんな偶然ってあるもんなんだなあ」
『どうかしましたか?』
「さっき言った、俺の知り合いってのも生徒会の書記をやってたんだ」
『へえ、それは凄いですね! もしかしてこれって、なにかの運命だったりして』
未来は上目遣いで霧山に迫るが、霧山は瞬時に一歩下がる。
『フフ、冗談ですよ。さ、先輩はそっちの留め具を外してください』
「どうやるんだ?」
『ここを、こう外すとワイヤーが引き抜けるようになります。留め具を外しても看板の重さで落下することはありませんが、風に煽られたりしたら危険ですので絶対に離さないでください』
「オーケー。じゃあ外すぞ」
霧山が言うと、少女はもう一つの留め具を外してワイヤーを引き抜いた。
これで完全に看板を支えるものはなくなり、ワイヤーから手を離すといよいよ校舎の下へ真っ逆さまになってしまう。
看板は横長で、このまま引き上げても窓に引っかかって取り込むことが出来ない。
そこで男の霧山が窓の外で看板の向きを変えてそのまま教室内へと引き上げた。
「確かにこの重さじゃ女の子一人だと危ないな」
『わー、先輩チカラ持ちなんですね! すごいすごい!』
看板を適当な机の上に置く霧山の傍らで、未来はパチパチと小さく拍手をした。
「まあ、一応これでも運動部だからね。人並み以上に筋肉はあるよ」
『いやあ、格好いいですねえ。頼もしいです!
なんでこんな素敵な彼氏さんがいるのに浮気なんてしたんでしょうね?』
突然の出来事だった。
あまりにも不意を突かれたその言葉に、霧山の思考は一瞬停止した。
改めて警戒の視線を未来へ向けると、彼女はしたり顔で不敵な笑みを浮かべていた。
「……、キミ、なにを知ってる?」
『うーん、それは少し難しい質問ですね。
私は私の知っていることを全て知っているし、知らないことは全て知りません。
しかし逆に、知らないことを知らないということは私の知識はそこで完結してしまっているのかもしれません』
「…………」
霧山は何も答えない。
いや、何も答えられない。
妙なことを口走れば、そこからどう切り込まれるのかわかったものではないから。
『とある少年は、ひょんな事からとある少女の秘密を知ってしまう――』
未来はまるで踊るように、空き教室の中をなんの目的もなく歩き出した。
『――それをきっかけに、少年は少女の相談に乗ることになった。
話を重ねるごとに少女の魅力に惹かれていった少年は、ついに少女へ恋心を抱いてしまう。
しかし少年には、拭い去れない過去の柵があった。
さらには少女や自分の親友の幸せを願う気持ちが。
少年は長い長い葛藤の末、少女にひとつの提案を持ちかけた。
全ては思惑通りだった。そう、ついさっきまでは』
まるで舞い踊り、軽やかに歌うように、透明な少女の口から言葉が流れる。
霧山は頭の中が真っ白になるのを実感していた。
「キ、ミは……、一体、誰なんだ?」
『私ですか? 私は田辺未来です。
とある一つの物語を見守る、ただの観測者にして添削者。それじゃあ先輩、私はこれで失礼します』
少女はそう言うと、小走りで教室の外へと出ていく。
そこでくるりと振り返って、霧山に小さく手を振った。
『引退試合、頑張ってください。勝てるといいですね』
そう言い残すと、透明な少女は廊下を走っていってしまう。
そこで霧山は我に返り、彼女を追うように廊下へ出て辺りを見回すが、もうそこには長い廊下がただ続いているだけだった。