序 章 偽善者の日常
アナタは、誰かのために100%尽力したことがありますか?
私は、みなさんにそう問いたい。
果たして本当にイエスと答えられる人がいるのだろうか。
否、例えいたとしてもそれは九割が偽善であることに気づいていないだけである。
この質問を、教師にしてみるとしよう。
すると偽善にまみれた教育者のクチからは、必ず「イエス」と答えが返ってくるだろう。
しまいには聞いてもいない自らの手柄話を鼻高に添えてくるはずだ。
教師はよく「自分が生徒を叱るのは、生徒の為を思ってのことだ」と言うが、本当にそうだろうか?
赤の他人が産んだ子供の悪行に対して、本当に真剣に向き合えるオトナがどれほどいることだろうか。
私に言わせれば、教師が生徒を叱るのは自分の面子を保つためないしは学校の評価に悪影響が出ないようにするためである。
親にしたってそうだ。
子供を叱るのは、子供のためなんかじゃない。
子供のせいで周りから自分が孤立するのが怖いから子供を叱るのだ。
学校で子供が悪さをすれば親はどういう教育をしているんだと責められるのが怖いから、親は悪事をした子供を手ひどく叱るのである。
つまりは人間の行動原理の根源は「自分のため」であり、それが結果的にあるいは間接的に他者にとって有意義なものになったかもしれないだけであって、本質的に「第三者のために尽力した」と断言する資格のある人間は全人口の1%にも満たないだろう。
しかし私はそれが悪いとは思わないし、そんな自分勝手な思想を受け入れてしまう人間を冷酷だとは思わない。
むしろ実に人間味に溢れていて良いことだと思う。
結局私が何を言いたいのかというと、そのたった1%未満に分類される人間こそが、本物の善人とされるのだ。
そしてその善人たちの善行は、基本的に他者に知れ渡ることはないということだ。
例えアフリカの子どもたちのために募金をしたとしても、そのことを他者に知られてしまった時点でそれは善行ではなく偽善になってしまうのである。
人知れずに善行を積み、その行いを自己完結させられる人間こそが本物の善人なのだと私は思う。
つまり私が最初にした問いにイエスと答えた時点で、その者はただの偽善者にすぎないということだ。
他人から評価されたいがために心にもない偽善を行って自己満足するだけの、極めて人間らしい人間だ。
かく言う私はこんなことを常日頃から考えているゆえに、決して本物の善人になることは出来ないだろう。
私はそんな、誰にも知られることなく善行を積む本物の善人を心から敬愛する。
これからも誰に愛されることもなく、ただ他者のためだけにその身を捧げてほしいものだと切に願うばかりである。
…………。
たまの休みになんとなく散らかった部屋を片付けていたら、
あまりにも痛々しく、中二病全開な作文が発掘された。
しかし許してほしいのだが、これを書いたのは俺が正真正銘の中学二年生だった頃だ。
しかも何故かこの作文が当時のクラスメイトの心に刺さったらしく、俺はクラス代表として同学年の生徒全員の前で音読させられたのだから堪ったものではない。
まあでも今でもこの考えは変わらないし、自分の想っている事を文章に起こして評価されたのだから、ここは素直に喜んでおくとしよう。
おっと。
いきなりザ・黒歴史な作文を読み上げた挙句に身の上話をしてしまって申し訳ない。
俺の名前は田辺良悟。
前述の通り、本物の善人に憧れるごく普通の人間らしい人間だ。
高校に入ってもう三年が経ち、中二病が治ったかと聞かれれば正直に頷けるわけでもなく。
だが俺はクラスの皆に親しまれる程度の人望くらいはある、昔よりはちょっとマシな人間になれたと自負している。
しかしあまり期待しないでもらいたい。
これから綴る物語は、決してハッピーエンドにはたどり着かない。
惨めで、哀れで、どうしようもなく愚かなヘタレ男が、
無様で、卑小で、この上なく滑稽な悪足掻きをする、そんなお話。
酒の肴にでもしながら読んでいただければと思う。
そして同時に、こんな価値観が存在することを理解してほしい。
これから、田辺良悟という人間の全てを語るとしよう。
1
香ばしい匂いが、眠っている俺の鼻をつく。
粗挽きソーセージに、独特な目玉焼きの香りだ。
そして鼻の奥に残るこの微かな香りは味噌汁だろうか。
どちらにせよありきたりで貧相な朝食のメニューだが、その匂いは寝起きの程よい食欲を掻き立てるのには充分すぎた。
いつもなら頭に響く母親の声で無理やり起こされるのだが、今日だけはこの匂いで自然と目が覚めた。
気持ちのいい朝とはおそらくこういうことなのだろう。
誰に睡眠を邪魔されることなく、自分の意志で覚醒して優雅な朝食をとる。
なんと理想的で素晴らしいことだろうか。
「そんなにゆっくり食べてる時間ないよ」
そんな俺の悠々自適な朝食から現実に引き戻すような気分の萎える事を言ってくるのは俺の母親だ。
母親は介護系の仕事をしていて、出勤時間は午前六時からのときもあれば午後三時からのときもあってまばらだ。
しかし今日はどうやら早番ではないようで、起床のついでに俺の分の朝食を用意してくれたらしい。
決して口には出さないが、心の中でそっと感謝の言葉を述べつつ、俺は仏頂面で目玉焼きの黄身を潰す。
「分かってるよ。今日は夜勤?」
「そう。だからアンタが学校行ったらもう一眠りするよ」
「え? じゃあ今夜の飯どうすんの」
「はい」
そう言って母親はおもむろに自らの財布から千円札を取り出すと、俺の食べかけの目玉焼きが乗った皿の横に乱雑に叩きつける。
「外食にいけと」
「ご飯炊いて、豚肉とキャベツ残ってるから適当に炒めればなんとその千円はそのままアンタのお財布に入るって寸法だけど」
「おとなしく外食してきます」
「そろそろお母さんのために料理覚えてくれない?」
「くれない」
「なんでよ」
「だって! 豚さんが可哀想だよ!」
「アンタが今フォークで突き刺してるそれ、豚さんすり潰して羊さんの腸に詰め込んで焼いたものなんだけど」
「人間とは、生まれながらにして残酷である」
俺はなんの躊躇もなく、乾いた木の枝を思い切りへし折ったような爽快な音を立てながらソーセージを噛み切った。
「まあなんて残酷なの」
「そらあんた、俺が人間らしい人間だったってことだよ」
「今日はバイト?」
「あいにくお休みなんですねー。だから学校終わったらそのままどっかで飯食って帰ってくるよ」
「どうせ外で食べるんなら、凛奈でも誘ってけば?」
「なんで凛奈が出てくるんだよ」
「アンタら幼馴染でしょ? 小さいころから一緒にいたじゃない」
「最近はそうでもないよ」
「そうなの? てっきりアンタ、凛奈のこと好きなんだと思ってたけど」
「……、そんなことねえよ」
母親から目をそらし、下品に味噌汁を啜って口の中の食べ物を無理やり胃の中へ押し込む。
「ふぅーん……、まあそれならいいんだけどさ。あの娘可愛いから、もたもたしてたら誰かにすーぐ盗られちゃうよ」
「むしろ俺なんかに貰われるんだったら他の誰かに拾ってもらった方がアイツも幸せだろ」
「なぁーに言ってんだよ男らしくない」
「好きなヤツの幸せを一番に考えてこそ男だろうが」
「結局好きなんじゃん」
「うるせえ」
ウチは母子家庭で、俺が生まれた時から父親はいなかったらしい。
小さいころはそれが気になりはしたが、今となってはむしろこの方が良かったとさえ思っている。
おそらく俺に父親がいたら間違いなく今の自分はいないだろうし、そもそもこんなねじ曲がった思想の持ち主にはならなかったかもしれない。
しかし俺は今の自分が好きだし、むしろ父親がいないことに感謝したいくらいだ。
ありがとう、顔も知らないお父さん。
アンタの息子は、今日も元気に反抗期です。
そんなこんなで結局時間ギリギリまでダラダラと朝食を食べ、学校につく頃には始業のチャイムが鳴る五分前だった。
鉄製の重い引き戸を開けると、華々しい青春のいちページを他愛もない無駄話で埋め尽くしているクラスメイトたちの視線が一瞬だけ俺に集まる。
しかし担任の教師ではない事がわかると、そのほとんどが各々の会話を再開する。
俺もいちいちそんなことに関心は抱かず、教室中央寄りにある自らの席へと向かったのだった。
「よっ。今日はちょっと早めの登校だな」
「まるで俺が毎日遅刻してるみたいな言い方をやめろ」
「実際してんじゃねえか」
「否定はしない」
俺の席の後ろから話しかけてきたのは霧山裕也。
中学からの腐れ縁で、昔は俺より頭ひとつ分くらいは背が小さかったから周りからはよくチビヤと呼ばれていた。
でも高校に入ってサッカー部に入部してからというもの、グングンと身長が伸びて今では俺よりも頭ひとつ分は背が高くなってしまった。
三年になった今ではサッカー部のキャプテンを努め、弱小チームだったウチのサッカー部を去年の夏にはインターハイへ連れて行ったほどの実力者である。
しかしコイツの真骨頂はむしろスポーツよりも勉学の方だろう。
成績は三学年でトップオブザトップだし、中学の頃は生徒会長も務めていたくらい人望が厚い。
ぶっちゃけ、コイツと肩を並べて歩いていると取り柄の少ない自分がかなり見劣りしてると感じてしまう。
「なぁなぁ、この前お前から借りたあの本、あれすっげえよかった」
「だろ? あれに出てる女優、絶対お前好みだと思った」
俺はよく、裕也に本を貸している。
といっても俺らは真面目な顔して文学を語り合えるような根暗ではない。
健全な男子高校生なのだ。
つまり、端的にいうとエロ本である。
「ほんっと、お前俺の好み分かってるわ」
「お前と何年一緒にいると思ってんだ。ロングよりショート、茶髪より黒髪、高身長より低身長、貧乳より巨乳、私服より制服でメガネを掛けてれば尚良し……、だろ?」
「そこまで知られてると逆に怖いわ。なんなんだよお前のその観察眼」
「いや。流石に六年間も一緒にいれば嫌でもわかるっての。てか、お前顔に出過ぎてるから」
健全な男子高校生が朝っぱらから猥談に花を咲かせていると、再び重い鉄の引き戸が開けられて教室の人口がまた一人増えた。
入ってきたのはこのクラスの担任を務める男性教師だ。
先生は自分の胸下ほどまである高さの教卓の前に立つと、黒い名簿をその上に置いて日直に挨拶を促す。
いつもどおり。
ここからは、何もかもがいつもどおりの日常が再び繰り返される。
高校生なら必ず経験するような、あくびの一つでも誘うような退屈すぎる学校生活が。
2
かくして昼休みである。
今週の土日に文化祭が控えてる事もあって、午前中の授業ではそのことについて最終確認が行われた。
俺らのクラスは屋台を出してチョコバナナを売るらしい。
それに伴って材料調達と実際に調理、運搬、販売をする係があり、
俺自身は販売をメインに行うため今更確認事項もクソもあったものではないので、授業開始五分後には穏やかな夢のなかだった。
というわけで午前中の授業は七割くらい睡眠に費やしたわけだが、眠気というのは簡単に底つくものではないらしく、昼休みに入ってからもしばらく机に突っ伏していた。
しかし俺はポケットの中のスマホのバイブレーションで飛び起きるように覚醒した。
あまりの奇行にクラスメイトが笑うが、俺は構わずにスマホを開く。
表示されたのはTwitterのダイレクトメッセージを知らせるものだった。
そういえば、昨日の深夜にフォロワーの人とやり取りをしていた途中で寝落ちしてしまったのを思い出した。
何故か食欲も湧いてこないし適当に暇つぶしをするとしよう。
【キキ】
昨日は寝落ちしてしまってごめんなさい!
こっちから話を聞いてもらいたいって言い出したのに……
【秋茄子】
いやいや別にいいよ。
言っちゃなんだけど、こっちも結構眠かったしw
それで、恋愛相談……、だっけ?
【キキ】
はい。
秋茄子さん、凄く良いアドバイスをくれるってフォロワーの人に聞いたので……。
大丈夫でしょうか……?
【秋茄子】
うん全然問題ないよ。
でもいいの? 俺、偉そうに色んな人に言いたいこと言いたいだけ言ってるけど恋愛なんて生まれてこの方一度もしたことないですぜ?
【キキ】
無問題です!
秋茄子さんが率直に思ったことをお聞きしたいんです!
【秋茄子】
そこまで言うなら遠慮無く相談に乗らせてもらうよ
【キキ】
ありがとうございます!
それでは早速お話させていただきますね……。
【キキ】
私、今年高校に入学したんですけど、秋茄子さんと一緒で今まで恋愛とか一切縁がなくて、どうしたら良いかわからないんです。
こんなことリアルの友達には話しづらくて
【キキ】
私自身、あまり積極的なタイプじゃないですし……。
ああでも、付き合いたいなんて図々しいこと思ってるワケじゃなくて、なんて言うんですかね。
【キキ】
気持ちは伝えたいんですけど、もしそれで相手に迷惑がかかってしまうんじゃないかって……、それで今までの関係が崩れてしまうのが怖くて……
【キキ】
すいません。上手く伝えられなくて……。
男性として、その気がない女子から告白されるのってどうなんでしょうか。秋茄子さんのご意見を聞かせてください!
【秋茄子】
うーんそうだなー……。
【秋茄子】
とりあえず、その相手に好きな人がいるかどうか聞いてみたら?
【秋茄子】
もし意中の相手がいて、というか最悪恋人なんていたら場違い感があるし。
もし、恋人も好きな人もいないようだったら逆にチャンスかも。自分に振り向いてもらえる可能性がまだ残ってるってことだし
【秋茄子】
確かにそういうアクションを起こせば、めったに今まで通りの関係を続けることは出来ないと思うけど、やっぱり後悔すると思うんだ。
【秋茄子】
男なんて星の数ほどいるんだし、こんなとこでクヨクヨしてるなんて勿体無いだろ。
高一なんてまだまだこれからじゃないか。これを機に恋愛に慣れちまえよ
【キキ】
そ、そうですよね。分かりました。ちょっと頑張ってみます。
【キキ】
ありがとうございました!
もう昼休み終わっちゃうんで、また今度お話聞いてもらってもいいですか?
【秋茄子】
うん全然いいよ。
こんな俺のチャチなアドバイスでよければいつでも。
こっちもそろそろ昼休み終わるから、また今度
最近は便利になったものだ。
SNSというものが発展し、誰とでも一対一でやり取りが出来る。
しかもメールよりも簡単とくれば、もはやスマホに付属するメール機能なんて使っているヤツを見かけることの方が少なくなってしまったと思う。
この便利機能を活用して、何度か顔も見たことのない人間の相談に乗って偉そうに口を挟んできたのも、偏に1%未満に分類される本物の善人になりたいがためである。
ふとスマホから教室内の時計に目を移すと午後の授業が始まる三分前だったが、授業開始のチャイムが鳴るよりも前に自分の腹の虫が絶叫した。
「おいおい飯食ったんじゃねえの?」
「裕也いつの間に帰ってきてたんだ」
「いやいやだってもう授業開始するぞ」
「言われれば確かに。サッカー部のミーティングどうだった? またフォワードの選抜で揉めたか?」
「まあそれはウチの恒例行事みたいなものだし。
しかも、もうインターハイも終わったから俺ら三年はそろそろ引退なんだ。
だからあんまミーティングも口出ししないことになってんだよ」
「そういや、お前ら文化祭で何か出し物やるんだっけ?」
「出し物ってそこまで大それたものじゃねえよ。
追い出し試合だよ追い出し試合。
俺ら三年のチームと、一、二年から選抜されたチームで校庭貸し切ってやるんだけどー……って、去年も一昨年もやってるはずなんだけど」
「いやほら俺って、文化祭とか体育祭とかクソ面倒くさくてやってらんねーってタイプの人間だし、しかも体育会系の部活の奴らが仲間内でウェイウェイやってるの見てうっせーなクソがとか思っちゃうから、出来るだけそういうのと関わりたくなくって」
「お前それよくそのウェイウェイ族の前で堂々と言えるな」
「お前ってなんかああいう奴らと一線を画してる感じがするから別にいいんだよ」
「なんか納得できないけど、ここは素直に喜んでおこう。それはそれとして、よかったら文化祭当日に試合観に来いよ」
「えーめんどくさ」
「いいだろ一回くらい。親友の華々しい引退試合なんだし。お前が来れば秋吉も喜ぶって」
「……、そういや凛奈ってお前んとこのマネージャーだったな」
「一年の時からずっとだぞ。そういやってレベルじゃないだろ? お前ら幼馴染なんだから」
「まあ全然話さないワケじゃないけど、たまに話すとしても日頃の愚痴とかそんなんだから」
「へ、へえ……。アイツ、愚痴ったりするんだ。なんか意外だな。結構周りには明るく振る舞ってるから、そういう不平不満とかないんだとばかり思ってた」
「誰にでも平等に明るく接してるようなヤツに限って影ではちゃんと発散してるもんだぜ。ま、そのはけ口がたまたま昔っから一緒にいる俺に向けられてるだけだがな」
「なんかそういう関係って羨ましいな」
「羨ましい?」
「なんかこう、信頼してるからお前に愚痴る訳だろ?
前に付き合ってた彼女なんて、日頃の鬱憤があっても俺にぶつけずに女友達とかお前みたいに聞き上手な男友達とかに話してたらしくってさ。
なんかそういうのって、心の距離が遠く感じるっていうか。普通、恋人いたらなんでも話すものじゃないのか?」
「テメェそれは生まれてから今日まで純潔を貫いた俺に対する嫌味か?」
「半分は」
「殺すぞ」
なんて事を話していると、五時間目のチャイムが鳴り響いた。
そういえば、今日の放課後は暇なんだったことを忘れていた。
六時間目が終わったくらいで裕也と凛奈辺りに声をかけてみるとしよう。
3
どうやら、文化祭が近いこともあって放課後の部活動はほとんどが休みのようだ。
まあ、一部の熱血的な運動部などはそんなもんクソ食らえと言わんばかりに息を荒げて校庭を駆けずり回っているが。
そんな中サッカー部のキャプテンである裕也は三年ということもあってすでに部活動自体自由参加ということになっているらしい。
それでも昼休みのミーティングに顔を出すのだからアイツの部活にかける純粋な熱意が伝わってくる。
もっとも風のうわさに聞いたのだが、在校生チームは追い出し試合でどうしても三年たちに勝ちたいらしく、そういった日頃のミーティングに顔を出されるのも凄く抵抗があるんだとか。
まあとりあえず、先程裕也に声をかけたらほぼ即答でオーケーしてくれたし、凛奈にもLINEで声をかけたので今日の放課後は友人二人と外食という見る人が見ればかなり青春ポイントの高いイベントが急遽決まった。
無駄に高揚する気分を抑えつつ、ちゃっちゃと教室の掃除を終わらせて最後は他の班員に掃除道具を押し付け、半ば強引に教室を飛び出す。
あー青春してるな俺。
いいぞいいぞ。
スキップでもかましてやろうか。
「田辺さんッ!!」
ボリューム最大。
喜怒哀楽で例えるなら、確実に怒の感情に近いものが込められた声が背後からぶつけられる。
しかしその声はとても可愛らしい。
怒っているのは分かるのにどこか弱々しさを感じるソプラノボイスは、むしろ心地良ささえ覚えた。
振り返るとそこには両手で膝を抑えて息を整えつつ、鋭い眼力で睨みつけてくる小動物のような少女がいた。
「きよみんじゃん。どうしたの?」
「きよみんって呼ばないでください!」
「相変わらず元気だねー、きよみんは。関心関心。
で、どうしたの? わざわざ四階まで来て。
もしかして告白? それなら屋上に移動しようか」
「からかわないでください!! そんなんじゃありません。先輩、今日の昼休み図書室に来なかったでしょ!」
「え、図書、室……?」
それでも何も思い出そうとしない俺を見て、きよみんこと一年生の佐藤清美はリスのように頬を膨らませながらその細い足を一歩一歩重く鳴らして俺の元へと近づいてくる。
「もしかして今日って……」
「水曜日です! 毎週水曜日と木曜日は私と先輩が図書室の受付担当でしょう!!
しかも今日は新しい蔵書がたっくさんあったんですよ!
私、昼休み中に一人で整理してたんですからねッ!!」
「忘れてたぁぁぁぁぁぁ!! すまんきよみん。今度なにか奢ってあげるからね」
「頭を撫でないでください!! なんで私が諭される子供みたいになってるんですか!」
「いやあ怒ったきよみんもなかなか良いなと思って」
「気持ち悪いです。そんなことより早く来てください!!」
きよみんは俺の制服の袖を強引に掴むと、その小柄な体のどこにそんなモン隠しもってたの? と思ってしまうほどのパワーで俺を引きずり始める。
「ちょちょちょ、どこ行くんだよ? 屋上ならそっちじゃないぞ」
「バカ言わないでください。私が先輩に告白するなんて百万年経ってもあり得ませんから。
図書室ですよ図書室! 昼休み中にやりきれなかった蔵書の整理がまだ全然残ってるんです!」
「えっ……、ウソ」
「ウソじゃありません。ほら早く来てください」
「いやん今日のきよみん積極的」
「うるさいです!」
まるで犬のように腕を引かれながら廊下を歩いていると、かなり同学年たちの目を引くものである。
まあこれはこれで悪い気はしない。
しかしそんな優越感に浸りたいのは山々だが、とりあえずLINEで裕也に遅れる旨を告げておこう。
4
俺は、偽善が嫌いだ。
今更なにホザいてやがるんだこのゴミ虫変態クソ童貞野郎と思うかもしれないが、
俺は自分の中で善行と偽善の定義付けをしてしまっているが故に、他者から評価されることが目的の偽善に対してひどく嫌悪してしまうのだ。
極端な話、バスや電車でお年寄りに席を譲ったり町中でゴミを拾ったり。
そんな公の場で誰にでも出来ることを我が物顔で行い、まるで善人になった気でいる人間を見ると吐き気がする。
だから俺は基本的に近くに年寄りがいても席が空いたら我先に座るし、例え空き缶が目の前を転がってもそんなものに見向きもしないだろう。
人間の行動原理はあくまで「自分のため」であり、決して1%未満の善人になれない俺はとことん人間性を極めることにしているのだ。
善人には憧れるが、偽善者にはなりたくない。
憧れはあくまでただの憧れであり、目標ではないのだ。
おっと。また独り語りをしてしまった。
図書室は静かすぎて、こういった余計なことを考えてしまうからいけない。
あれから裕也とは何通かのやり取りをして、結局は校門で待ってくれることになった。
まあこちらも長引くことはないだろう。
なにせ小さなダンボールふたつ分ほどの本を指定された棚に納めるだけだ。
しかも、きよみんに聞いたところダンボールは全部で四つしか届いていなかったとか。
むしろなんで一人だったとはいえ昼休み中に終わらなかったのかが不思議でならないほどだ。
きよみん、ああ見えて怪力だからな。
「フォークより重いものを持ったことがないの~」とか言っちゃうそこらのか弱い女子(自称)とは違って、
淡々と両手で辞書を10冊ほど持ち上げちゃう系の女の子なんだから、この程度の量の本を捌けないはずがないと思うんだが。
さては、携帯でもいじってたな?
ま、俺がサボったのは事実だし文句言わずにちゃっちゃと片付けちゃいますか。
「うっし。こっちは終わり……、っと」
「こっちも終わりました」
「あれ? やけに早いな」
「そうですか?」
「ま、いっか。さて、俺は帰らせてもらうよ」
「なんかやけに急いでますね」
「まあな。友達と飯食いに行くんだ」
「彼女さんですか?」
「あれれ~? 僕いま友達って言わなかったかなぁ。おっかしいなぁ。そっか、俺彼女いたんだ実は。早速帰って童貞捨てなきゃ」
「なんかごめんなさい」
「そんな本気で可哀想な人を見る目しないでくれない? きよみんにそんな顔されると割りとガチでへこむ」
「じゃあ先輩は彼女さんいないってことですね」
「あーはいはいいませんよ。どうせ右手が恋人ですよ」
「あの私一応女子なんですけど。下ネタばっか言ってるとセクハラで訴えますよ」
「あれぇ? 俺、右手が恋人って言っただけなんだけどなぁ。どこが下ネタなのかなぁ、教えてほしいなぁ」
「ウザイです」
「……、きよみん最近ホントに俺だけにはキツくなってきたなぁ。最初は本ばっか読んでて俺が話しかけたらビクビク怯えてたのに。今のその調子で図書委員会とかクラスで積極的になればもっと友達出来ると思うよ」
「……、余計なお世話ですよ。先輩こそ、色んな女の子に変なことしなければ彼女だって出来るんじゃないですか?」
「色んな女の子に変なこと……、だと? マジか俺そんなことしてたのか初耳だわ」
「この前だって図書委員の別の女の子と一緒にいるの見ましたし」
「あー……、あの子はちょっと家族のことで悩みがあるって言ってたから相談に乗ってあげてただけだよ」
「サッカー部のマネージャーの人ともよく一緒にいるじゃないですか」
「いや、あれはただの幼馴染……、ってだけだよ。っていうかきよみん、どんだけ俺のこと観察してんの? もしかして嫉妬してるの?」
「バカ言わないでください。私が先輩に嫉妬するなんて百万年経ってもあり得ませんから」
「へいへい。そんじゃ、俺急ぐから。また今度な!」
「また今度じゃありません! 明日の昼休みです!」
「わーってるわーってる。んじゃ、また明日なー」
これ以上裕也や凛奈を待たせるわけにも行かないので、きよみんには悪いけど図書室の戸締まりは任せた。
今更だがこの時きよみんも食事に誘ってやればよかったなーと、後々になって思ったワタクシ田辺良悟なのであった。
5
かくして放課後の大イベント。
友人二人と外食に行く。
鼻で笑われるかもしれないが、いくら帰宅部だからってここ最近ただ授業を受けてただ真っ直ぐ帰ってただネトゲに没頭するかバイトに行くかの毎日だった気がする。
こんなことを繰り返していれば、たまの外食がまるで誕生日会のように感じられてしまうのも無理は無い。
まあ、俺だけかもしれないが。
日が落ちるのが早くなる季節である。
外は既に紫に近いオレンジ色で染まっていることもあって、やけに遅い時間帯のような気がする。
「おっすおっす。いやあ時間通りですなあ」
俺は別に腕時計を着けているわけでもないのに白々しく右手首の甲を指差しながら、気だるそうに校門に背を預けていた裕也に声をかけた。
「なーにが時間通りじゃ。こちとら一時間近く待ってんたんだぞ」
「あれ? 凛奈は?」
「お前、LINE見てないのか? 秋吉、既に別の女子グループと約束があるからって今日はパスらしいぞ」
「え……」
裕也に言われてはじめて、俺は自分のスマホを見る。
そこには凛奈からのLINEの通知があった。
もう少し自己主張をしてもらいたいものだ。
「あ、ほんとだ」
「それにしても一気にむさ苦しくなっちまったなー」
「テメェはいつでも女の子と飯食えるんだからたまの放課後くらい俺の飯に付き合え」
「はっはっは。分かってるって。あんま寂しいこと言うなよ」
「うるせえ」
俺はまるで拗ねたように、鞄を片手で持って肩から背に放って歩き出す。
「待てよ悪かったって」とニコニコしながら俺の後を裕也がついてくる。
かなり肌寒くなってきていて、ブレザー一枚じゃ心もとないと感じる今日このごろ。
夕日もほとんど沈んで、大きな道路を挟んだ通りを歩いているとやたら街灯が頼もしい光を放っているのが分かる。
「最近やけに冷え込んできたよなあ」
「まあもうすぐ11月だしな」
「で、今日はどこに行くんだ?」
「すぐ近くのファミレスでいいだろ」
「はぁ……、お前はそれだからモテないんだよ」
「は?」
「もう少しお洒落な店とか選んで相手を退屈させないようにしないと」
「なんで好きでもねえしそれ以前に女でもねえお前にそこまで気を使わにゃならんのだ」
「へえ。好きな女子が相手ならちゃんと出来るのか?」
「あたぼうよ。昼には洒落たイタリアンレストランで優雅にカルボナーラを食べた後に今話題の映画をじっくりと鑑賞して、
最後は彼女の家まで送っていってキメる。これが最高のデートプランってもんだ」
「これだから夢見がちのドーテークンは困るなあ。今時、そんなロマンチックを求める女子なんて少ないのよ?
何事も積極的に、情熱的に愛を素直に伝えれば、大抵の女子は首を縦に振ってくれるもんだ」
「はいはい。ただしそれはスポーツ万能成績優秀ルックス最高完全無欠のイケメンって肩書が頭についてる男ってのが前提だろ。
そりゃそんな奴に愛なんて伝えられた日にゃ、どんな女子だって即ヘドバンするわな」
「なーに卑屈になってんだよ。お前べつに顔が悪いワケじゃないんだから、そのどうしようもなくねじ曲がった考え方直したら結構モテると思うんだけどな」
「はい余計なお世話ですよー」
俺は聞き流すようにして、そのままそそくさと到着したファミレスへと入っていった。
いや、分かっているのだ。
改めてそんなことを言われずとも、自分の思想が歪んでいることくらいは。
でも、コイツに言われると無性に腹が立つ。
教師や親から説教を食らっている気分だ。
どうして、ああいう大人たちから受ける説教というのは聞いていて無性に反抗心が湧いてくるのだろうか。
決して間違っているわけではないんだ。
というかむしろ、正しすぎるのだ。
正しいことを何度も言い聞かされることで「そんなことわかってる」「分かってることをなんで何度も言い聞かせられなきゃいけないんだ」という感情が反抗心を生み「もう同じことを言っても俺にはきかないぞ」という感情から更に素行が悪くなったりするのだろう。
加えて俺のように親や教師が子供を叱るのは偽善だと思っている人間からすれば、どうせ「自分は一人の子供を更生させた凄い人間だ」という周りからの評価が欲しいのだろと思ってしまうからなおタチが悪い。
しかし裕也は別に俺の親でもなければ教師でもない。
日頃コイツを見ていれば確かに偽善で動いていると思うけど、やっぱり長い付き合いなだけあってコイツがどれだけ真面目でどれだけ純粋でどれだけ賢いかをよく知っている。
実際、童貞だのモテないだのと俺のことを茶化すのだって、コイツなりの気遣いなのだ。
親友の俺に、サッサと恋人のいる幸せを分かって欲しいと思ってわざと俺を煽っているのだろう。
しかし俺は自分のペースで何事も進めていきたいし、なにより自分の考えを曲げるのが大嫌いな面倒くさい人間なのだ。
いくら俺を思ってのことだったとしても、放っておいて欲しいと思ってしまうから仕方ない。
これもやはり、元をたどれば反抗心の現れなのだ。
そう考えてみると、なんだか自分がものすごく子供っぽく思えてくる。
オーライ。
自己嫌悪は辞めにしよう。
今日は楽しい外食だ。
俺と裕也は店員に案内されるがまま適当な四人がけの禁煙席に座った。
俺は豪勢にミックスグリルのライス大盛り、裕也はなぜか少量のサラダとドリアという運動部にしてはとても控えめなメニューを注文した。
「お前、そんなんで足りんの?」
と思わず聞いてしまうが、裕也はなんとなく言いづらそうな顔でこう答える。
「いやほら俺もそろそろ部活引退だし、大学行っても続ける気はないから今のうちに食生活とか考えないと卒業してから一気に激太りしたらイヤじゃん?」
ほっほーう。
この真面目ちゃんは痛いとこ突いてきやがる。
こちとら高校三年間帰宅部のエースでこれからもそれを貫こうとしてるけど、常時お前の三倍以上は平らげるし体重計なんてここ数ヶ月乗ってないぞ。
というか、怖くて乗れない。
いまやジェットコースターよりも怖い乗り物として俺の脳内にランクインしている。
まあそんな事を言ってもただの自虐にしかならないので、ここは適当に相槌をうっておこう。
あとは淡々と料理が来るのを待つだけである。
俺はふと自らのスマホを開いて、ようやくさっき着た凛奈からのLINEに既読をつけた。
【世界の田辺】
今日の放課後、裕也と飯食いに行くんだけどお前も来いよ
【あきりん】
んー
【あきりん】
霧山くんも来るのかー……
【あきりん】
ごめん、パスするわ
【あきりん】
あとさ、それが終わってからでいいんだけど、今日の夜会える?
スマホを操作していた指が止まる。
いつの間にか、凛奈からこんなにメッセージが届いていたなんて。
というか、なんだこの文章は。
凛奈のヤツ、裕也を避けてるのか?
裕也の話では他の女子グループと既に約束があるってことになっていたが……、まあ考えていても仕方がないだろう。
ここは、それも踏まえてこの後直接あって聞くことにしよう。
【世界の田辺】
会えるよ
【あきりん】
んじゃ、ちょっと話したいことあるから。いつもの公園で
【世界の田辺】
なんだそれ。ここで言えばええやん?
【あきりん】
や。ログに残したくない
【世界の田辺】
よーわからんな
【世界の田辺】
オーケー。一時間後な
【あきりん】
りょーかい
そうこうしている間に料理が運ばれてくる。
地味に焦げたハンバーグの香ばしい匂い。
メニュー表の写真に比べて明らかに小さいベーコンとソーセージの油が跳ねる音が、なんとも食欲をそそる。
ああ分かっているさ。
こんなファミレスの食事なんてどうせレンチンだろうが、空腹に押しこめばなんでも美味しくいただけるんだから不思議である。
6
白米が残った汚い大皿と、綺麗に平らげられた鉄板が店員に持って行かれる。
もっと裕也を肥え太らせてやろうと、ハンバーグを何切れかとソーセージ一本をドリアに乗っけてやった。
いくら食生活を考えようとしても、所詮は運動部で成長期の食べ盛り少年は腹の底から湧き上がる食欲には勝てないのだった。
物足りなさを感じた俺は、食後にイチゴパフェを頼んだ。
明らかに裕也よりも先に肥え太りそうだ。
「……、なあ、お前ってさ……、その……、本当に秋吉のことなんとも思ってないのか?」
それは唐突なことだった。
生クリームを口に運ぶ手が止まる。
何故、コイツは今そんなことを言い出すのだ?
俺は、無駄に思考を巡らせた。
裕也の表情、会話を持ちだしたタイミング。
その他諸々の要素まで考えて、裕也が次の声を発するより早くに俺は何かを察してしまう。
気がつけば、心臓が嫌な鼓動を繰り返していたのが分かる。
とても気持ちの悪い血液が体を巡り、暑くもないのに汗が滲んでくるほどだ。
「……、は、はは。ないない。アイツとはただの幼馴染だ。てか、なんでそんなこと聞くんだよ」
言うと、俺は生クリームの乗ったスプーンをパフェのグラスの中へと戻していた。
「いや……、その、なんというか。親友で聞き上手なお前に、折り入って相談があるんだよ」
「なん、だよ……」
聞きたくない。
裕也には申し訳ないが、素直にそう思ってしまった。
しかし、どうしてだ?
俺は、なにをそこまで焦っているんだ?
今まで他人の相談には何度も乗ってきた。
それは善人になりたいがために行ってきたことだったが、その他にも俺がその人間の人生に深く関わることが出来るということに優越感を覚えていたのだ。
だから他人の相談に乗るのにそこまで抵抗はなかったし、むしろ率先して話を聞いていた気がする。
しかし、今回だけはなぜか動揺していた。
その原因も分からぬまま、俺はただ裕也の声に耳を傾けるしかなかった。
「実はさ、俺、秋吉のこと好きなんだ」
思考が止まる。
しかしそれはなにも、全く予想外な事を言われたからではない。むしろ、予想通りすぎてなにも言えないというのが正しかった。
ついに来てしまったこの時が。
一番恐れていた、しかし一番起こる可能性のあったことが。
今思えばこの瞬間から、何かが大きく変化し始めていたのかもしれない。
「知ってた」
俺はあくまで冷静を装いつつ、細長いスプーンで溶けかけのアイスクリームを崩していく。
「知ってたのかよ!」
「今朝も言ったけど、お前顔に出過ぎてるんだよ」
「えー……、そこまで分かりやすいのか俺って……。でも逆に、お前はなに考えてるか分からないよな。ポーカーフェイスっていうの?」
「確かにお前とポーカーしたら負ける気しない」
「お前とはサシで心理戦をする気にはならないな」
「……、ってか、なんで急にそんなことカミングアウトする気になったんだ?」
「いや、実はさ……」
裕也は片手で頭を掻く。
考えを整理するように、少しだけ間があってから決心したように俺の目をしっかりと見据えた。
「俺の前の彼女のこと、知ってるよな?」
「あ……? ああ」
もちろん、知っている。
コイツとは中学一年から一緒にいるのだから。
中学の頃コイツはかなりの痩身矮躯なナリをしていたが、
しかしそれでも顔は良かったし学力は特に秀でていたので、もちろん女子にはモテていた。
それでもコイツは根が真面目だったから、いくら毎日のように別の女子から告白されても彼女を取っ替え引っ替えなんてことは絶対にしなかった。
一人ひとりの女子と真剣に向き合い、一週間は悩んでから返事を出しに行っていたくらいの堅物だ。
そんな裕也に、俺が知る中で初めての彼女が出来たのは中二の夏。
相手は同じ生徒会に所属し、書記を務めていた後輩の女子だった。
交際は一年以上続いて、その間に何度ノロケを聞かされてウンザリしていたか。
しかし事実は小説よりも奇なり。
順風満帆に思えた二人の仲は、ある日を堺に突如として崩壊することになる。
「俺、あれ以来なんていうかその……、恋愛が……、というか女子が怖くなっちまったんだ」
「ほう。またそれは贅沢な悩みですこと」
俺はポツリとそう言った。
裕也とは目を合わせず、ただいたずらにアイスクリームをコーンフレークの中に沈めていく。
「まあ、その……、なんて言って良いのか分からんのだが。
中学の頃は一度も秋吉とはクラスが同じになったことなかったし、お前がたまに話しているのを見るくらいだったけど……、サッカー部のマネージャーになってから熱心に部員たちのサポートをしてくれるし、
誰にでも明るく接して裏表のない純粋な女の子なんだなって思ったんだ」
「裏表のない純粋な子……、ねえ」
俺はアイスクリームとコーンフレークが練り混ぜられたそれを口に含みながら、密かに心で笑っていた。
コイツは、秋吉凛奈という女子のことを何も知らないんだなと。
やはり俺だけだ。
俺だけが、アイツの本当の顔を知っている。
俺だけが、アイツにとって特別な存在なんだと。
「でも秋吉のやつ、時々すうっと人が変わったような表情をするんだ。なんというか……、憂いを帯びた、というか」
「なんだそりゃ。お前も俺になんだかんだ言っておきながら夢見がちなロマンチスト少年じゃねえか」
「違うんだよ。さっきまで他の女子と楽しそうに話していたと思ったら、
皆が目を逸らした一瞬だけ、流し目になるというか……、と、とにかく! 俺はそんな秋吉に、他の女子にはないなにかを感じたんだ。
そう思ったら、考えれば考えるほど秋吉の魅力に惹かれていってさ。気がついたら好きになってた」
俺は適当に聞き流しながら、細長いスプーンでパフェのグラスの底に溜まったババロアをかき出して口に流し込む。
「それで、相談ってなんだ? それを打ち明けるだけか?」
「いや違う。さっき言っただろ。
俺の恋愛理念は、好きになったら積極的に、情熱的に素直に気持ちを伝える」
「……、つまり?」
「つまり、俺は文化祭の日に秋吉に告ろうと思う」
そうきたか。
コイツの行動力は凄まじい。
やると言ったら必ずやる男だ。
俺はコイツのこういうところに信頼を置き、長い間親友としてやってきたんだ。
俺はゆっくろと口元についたイチゴソースを拭う。
「……、どうだ?」
「どうって?」
「成功する、と思うか?」
「ん……? ま、まあお前ならどんな女子でも二つ返事でオーケーするんじゃねえの」
「それは、長年秋吉の側にいた者としての意見か?」
今一度、裕也の視線が真剣味を帯びる。
俺は何度もこの目を見てきた。
思えば、中学の頃女子に告白される度に俺に相談しにきたっけ。久しぶりすぎてすっかり忘れていた。
「俺は優柔不断だし、お前みたいに他人の気持ちにすぐ気付けるような人間でもないから、どうしても大切な決断を迫られた時にはお前みたいな頼れるやつに協力してもらわなきゃ何もできないんだ……、我ながら情けねえよ」
「でも、俺がなにか助言してやっても結局はお前自身が決断してきたじゃねえか。
つまりは、そういうことなんだよ。最終的な決断を下すのは俺じゃない。お前自身だってことだ」
「良悟、お前ホントいいこと言うよ。いつもその強気な言葉に励まさられる」
「ま、それでも俺が言ってやれることがあるとすれば……、そうだな。
アイツは強い男が好きなんだ。
だから文化祭の追い出し試合で勝ちでもすれば、成功率は圧倒的に跳ね上がるんじゃねえか?」
「そうか……、そうだな!
今も昔も男はやっぱり強くなきゃいけないよな。
よし分かった。俺決めたわ。
文化祭の追い出し試合に勝ったら、秋吉に告る。もし負けたら、綺麗サッパリ諦める」
「ほう。相当自信があるんだな」
「いや、そんなことはない。
次期キャプテンの石塚っていう二年生はかなりの実力者だ。
サシで勝負したら敵うかどうか分からない。おまけに今年の一年は軒並み強者揃いだ。
在校生の選抜チームは必ずそいつらを投入して全力でぶつかってくるはずだ。全く油断はできない」
「え、じゃあどうすんの?」
「そんなの決まってるだろ」
裕也は、右手の拳を強く握りしめた。
そこにはおそらく、様々な想いが込められているのだろう。
「絶対に勝つ。俺の想いをちゃんと伝えるために」
それはまさに男の拳。
硬い意志と信念が込められた、純粋な魂そのものだった。
7
俺はよく、他人の相談に乗る。
それはネットを介した見知らぬ人間であったり、リアルで知り合った友達だったりと様々だ。
しかしその大半は女子である。
まあこれは基本的に俺が、恋だの愛だので悩みを抱えるのは女だけの特権だと考えているからだと思う。
というのも、俺は女々しい男というのが世界で一番嫌悪する人種なのだ。
彼女が構ってくれないだの、好きすぎてつらいだの、どうして同じ男としてそこまでクヨクヨできるのか甚だ疑問でしかたがない。
まあそれもこれも俺自身、恋愛経験が皆無だからだと言われればそれまでなのだが。
しかし俺の持論はこうである。
『恋愛は人をキモくする』
ネットではこの前まで堅実さを気取り、他人の間違いを率先して指摘していたような男が、
ある日突然彼女ができたからと言ってタイムラインをノロケ話で埋めたり、
リアルでは、昨日まで「もう一生恋愛なんてしない。男なんてロクな奴がいない」とかなんとかのたまっていた女子が唐突に彼氏を作り、その男がハマっているゲームをやり始めたりと。
貴様らはどうしてそう、自分の意見を容易く曲げたり今までの自分を貫き通せないのだ!? と声を大にして叫びたい。
恋愛に関しては他者の例をいくつも目の当たりにしてきたことから、自分はこうはなりたくないという思いがおそらくどこかにあるのだろう。
だから、いつまで経っても彼女ができないのだ。
……、と正当化しないとやってられない。
時刻は18時を少し回った頃。
既に日は落ちかけ、空は完全な紫色に落ち着いた頃合いだからか、その公園には全く人がいなかった。
一人の人物を除いては。
ここは、俺の住む団地の裏手にある小さめの公園。
遊具もシーソーとブランコしかなく、普段はあまり子供たちも多くいるイメージはない。
昔はもっと遊具があったのだが、いつの間にか撤去されてしまっていた。
悲しい時代の流れというやつだろう。
その人影はブランコに揺られながらスマホをいじっていた。
マフラーに顔をうずめ、パーマのかかった茶髪を揺らしているその少女を、俺はしばらくその場に立ち尽くしながら眺めていた。
「んあ……? あー良悟! おそいぞこら」
秋吉凛奈は俺の存在に気づくと、スマホをポケットに収めて俺のところへ小走りで寄ってくる。
「いやいや時間通りですよ」
「12分オーバーだぞ」
「はいはいわーるかったですよー」
俺は不機嫌な凛奈を素通りして公園の傍らにそびえる大きな桜の木の下にあるベンチへと腰を掛けると、俺に並ぶように凛奈も腰を下ろす。
「…………」
「…………」
沈黙。
肌寒い夜風が二人の髪を撫でるが、俺は自分からは話を切り出さない。
今日はやけに星が見える夜だなと思いつつ、月明かりと薄暗い街灯のみが支配する公園に漂うカレーの匂いに腹の虫を刺激される。
何故だ。俺はさっき食ったばかりだぞ。
「……、そっちのクラス、チョコバナナやるんだっけ?」
「ああ。三年だからやっぱ飲食系やろうってことになったんだ。ほら、ウチって飲食系の出し物は三年が優先されるだろ」
「まあそうだね。ウチも焼きそばだし」
言うと、凛奈は深い溜息をついた。
これがいつもの合図。
凛奈がいつもの皮を脱ぎ、本来の彼女へと変わる際のクセ。
俯いた凛奈の顔には先程までの明るい笑顔はなく、心底ウンザリしたような、まるでこの世界に潜在する全ての闇を知り尽くしたような表情をしていた。
「でもさぁ……、今の学校の雰囲気、大っ嫌いなんだよね」
凛奈の顔に笑顔はなく、吐き捨てるようにそう告げる。
俺はいつも通りの凛奈を横目に、静かに話を聞いていた。
「いつもはただアホなだけの男子が先陣切って出し物を企画したり、
調理担当の女子が自己流の美味しい焼きそばの作り方を自慢気に皆に披露したり……、
あーうざったい。団結だの友情だのに浮かれて和気あいあいと文化祭に取り組んでる奴ら見ると吐き気がする」
「お前昔から学校の行事とかことごとく嫌ってたもんな。去年も一昨年もそれ聞いたぞ」
「学校は戦場なのよ。情操教育の型に嵌められて仲良しごっこを強いられてるアタシ達は、友達のふりをして常日頃から密かに皆を出し抜こうと考えてるの。
いつ誰が裏切られて孤独に追いやられるか分からないのに、よくもあんなに気の抜けた雰囲気に浸れるなって思うわ」
「ねじ曲がってんな~……、お前にとって友達ってなによ」
「さあね。多分、側にいて安心するのが友達なんじゃない?
あ、この場合の安心する存在っていうのは、自分より劣っている部分の多い人間のことね。
そういう欠点だらけの奴らの側にいると、ああ、アタシはこいつらより遥かにマシな存在なんだって自己暗示できるのよ」
「ほう。さぞ俺はお前にとって相当な安心感を与えてくれる存在なんでしょうな」
「そうね。それは否定しない」
「お前、この世界が窮屈に感じないか?
一体なにを信じて生きているのか是非お聞きしたいね」
「アタシが信じてるもの……、そうね。
強いて言えば、アタシ自身かな。うん、これはしっくりくる。
アタシが唯一信頼してるのはアタシ自身なのよ。それ以外はみんな敵ね」
うん、うんと一人で真剣に頷いている凛奈の顔を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「ははは、お前は相変わらずいい性格してんな」
「…………、ねえ良悟」
いつもならここで罵倒のひとつでも飛んできそうだが今日は違った。
そう、なにかが違う。
軽々しく皮肉を言い合うようないつもの凛奈ではなかった。
どこか思いつめたような声と表情に、俺は違和感を覚えてならない。
「なんだよ」
「アタシってさ、やっぱり性格悪いかな?」
圧倒的な、違和感。
いつもの凛奈なら絶対に聞かないであろうそんな疑問に、俺はさらに猛烈な違和感を覚えた。
なんだその表情は?
お前は一体、なにを考えている?
「急になんだよ」
「急じゃないよ。そもそも今日呼び出したのは、このことについて相談したかったんだ」
「今さら性格直してどうすんだよ。
お前はソレでずっと通してきたじゃねえか。日頃の鬱憤を俺にぶつけて発散するってのがお前のスタンスだろ」
「アンタは嫌じゃないわけ?」
「あ、それ今聞いちゃいます? ちと遅すぎる質問じゃないですかね」
「やっぱ嫌なんじゃん」
「嫌もなにも俺が物心付いたときには既にお前の愚痴を聞いてた気がするけど。
お前がそう言う奴だって分かってるし、そもそも本当に嫌ならとっくに縁切ってる」
なんだ、その顔は?
俺が宥めても凛奈の表情は一向に晴れなかった。
なんだ、なにが不満なんだ?
お前は何を言おうとしている?
今さら俺に何を打ち明けるつもりだ?
妙な考えが堂々巡りした挙句、なんの答えにもたどり着けなかった。
これほどまでに、コイツの思考が読めないのは初めてだ。
「……、でもさ、それってアンタだからそう言ってくれるんだよ。
もし……、もしだよ? 別の友達に……、例えば、霧山くんとかさ。
普段のアタシしか知らない人に、溜め込んだものぶち撒けたらさすがに嫌われちゃうよね……」
「は……? なんだよそれ。結局なにが言いたいんだよお前」
俺が言うと、凛奈は両手で顔を覆って唸る。
「うぅぅぅぅ……、言いたくないなぁ」
「はぁ? ここまできてそれとかあり得んでしょ」
「絶対誰にも言わないでね。言ったら殺すから」
「何だお前今日変だぞ。気持ち悪いぞ」
「ひやかすなら喋らない」
「聞かなくていいの?」
「無理」
「じゃあ早く喋れ」
胸の鼓動がやかましい。
何故だ。
俺はなにをそんなにドキドキしているんだ?
自分でも意味がわからない。
目の前にいる幼馴染が、次に口にする言葉の真意は…………。
なにをゴチャゴチャ考えているんだ、俺らしくない。
「……、はぁ。実はさぁ、アタシ――」
いや、違う。
俺は初めから全てを知っていたのだ。
しかしそれはあくまで可能性の一つでしかなかったら目を逸らしていただけだ。
思えば今までソレがなかったのがおかしかったのかもしれない。
ただ時期が遅かっただけ。
たったそれだけのはずなのに。
凛奈にとって唯一の存在であり続けていたことに満足してしまっていた。
俺は、なんてバカなんだ。
8
前述の通り、俺は女々しい男がこの世で一番嫌いだと豪語した。
まるで自分を棚に上げたようで申し訳ないのだが、今回の件ばかりは駄目だった。
『実はさぁ、アタシ、霧山くんのことがさ、その……、すき、みたいなんだよね』
頭にこびりついて離れない。
凛奈にそう告げられた後、自分では冷静を装ったつもりで接したがおそらくかなり危なかったと思う。
それからはあまり覚えていない。
とりあえず凛奈の話を聞いて適当に相槌をうって話を終えた後、凛奈を家まで送ってしばらく彼女の家の前で俺は突っ立っていた。
まるで心にぽっかりと穴が空いてしまったような、俺の中のなにか大切な部分がスルリと抜け落ちてしまったかのような感覚に襲われる。
こんな空しい気分になったのは果たして何年ぶりだろうか。
おそらくは幼少期、母親が俺に何も言わずにいつの間にか買い物に出掛けてしまった時以来か。
あるいは中学一年生のインターネットに深く触れ始めた当初、ネット上で仲良くなった同年代の女子と付き合うことになったはいいもののある日突然連絡が途絶えてしまったとき以来かもしれない。
ここで何かの矛盾に気がついた読者様がいてもなんら不思議ではないだろう。
というか、その疑問こそ正解なのだ。
しかし俺は俺の意見を変える気はない。
俺こと田辺良悟は生まれてこの方、一度も恋愛をしたことがない。
今思えば、中学一年の時に起きたネットによる恋愛ごっこの末路が、今まで浮ついてた俺の中の恋愛観念というものを今の形に仕上げたのかもしれない。
いわば、この言い知れぬ虚無感こそが田辺良悟というねじ曲がった思想の持ち主を形作ったのだ。
確信こそないが自信ならある。
思い返してみれば、そんな経験をした翌年にあの中二病全開の作文を演説したのだった。
重度に保守的で、過度に受動的な俺の恋愛観念は、一番心の支えにしていたものがある日突然なんの前触れもなく自らの手元から零れ落ちてしまったなんていう経験が原因のひとつであるということは、俺の中でかなり明白な事実になっていた。
そんなことをつらつらと頭の中で並べ立てている間に、俺はいつの間にか家に帰って風呂に入って布団に潜り込んでいた。
ほんと、どうしようもなく女々しい男だと自己嫌悪が鋭くなる度に、自分で自分の胸の奥を傷めつける。
そう。
女々しい男が大嫌いだと豪語するのも、
恋愛は人をキモくするなんてカッコつけた持論を展開するのも、それは全て自己嫌悪で縫い合わせた隠れ蓑なのだ。
それは何重にも何重にも、何重にも何重にも何重にも覆い被さって、俺はいつの間にか心に大きな大きな要塞を築いていた。
嫌なことを忘れるように、現実から逃れるように、俺はゆっくりと眠りに落ちる。
情けないことに、誰かがいつか、この要塞を破ってくれることをただ待ち続けながら。
9
少女は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
遠ざかる上履きの音が廊下の角を曲がり、階段を下って行った方向を見つめながらその音が消えるまでただ呆然と。
一面の大きな窓ガラスから差す陽射しはすっかりオレンジ色になっていて、この図書館も既に染め上げられている。
「……、また駄目だった」
佐藤清美は呟いた。
きらびやかなオレンジ色の図書室に背を向け、視線を床へと落としながら。
「まあ、でも、今日の私は頑張った方だよね。今までクラスメイトともまともにお話したことがなかったんだから、さ…………」
佐藤清美はただつぶやく。
今まで何度も経験した諦めと後退を繰り返しながら、自分の心にそっとフタをする。
クスッ
唐突な笑い声。
まるでカーテンが動いた音か、はたまた風に煽られた本のページがめくられたような音に似ていたその声は背後から、具体的には図書室の中、窓際の机に座る透明な少女から発せられたものだった。
オレンジ色の夕日に照らされ、まるでその陽射しに溶け込んでしまいそうなその少女は佐藤清美と同じ制服を着て、三年生のカラーである赤の蝶ネクタイをしていた。
「あ、貴女は誰ですか!? いつから、そこに……ッ!?」
『いつから、ですか。それに答えるのはちょっと難しいかもしれないですね。
「私」は生まれたときから「私」だし、「貴女」も生まれた時から「貴女」でしょう?
私は常に私がいる処にいるし、貴女も同様。
まあでも、貴女に佐藤清美という固有名詞があるように、私という存在を定義付けるとするなら……、
そう、田辺未来と呼んでもらえればと思いますかね』
「たな、べ……、先輩?」
なぜだろう、心のどこかに何かが引っかかる名前だ。
しかし佐藤は頭がボーッとして、どういうわけか思案することができない。
陽が陰り、窓際の机に座る透明な少女を改めて視認すると、とても異質なものに感じる。
放課後の図書室にたった一人でいることは取り立てて珍しいことではないが、彼女の座る机には一冊も本が置かれていない。
それどころか鞄や私物と思しきものまで。
彼女は一体いつからそこに座り、今の今まで何をしていたのだろうか。
この図書室に来てから田辺良悟と本の整理をしている間、一切気づかれずに息を潜めていたのか。
そんな怪訝そうな表情を見てか、未来と名乗ったショートヘアの少女は薄く口を開いた。
『あらら知りませんかぁ? 結構有名人だと思ってたんですけど。
私こう見えても一応、この学校の生徒会長とかやってるんですよ?』
「……、すみません」
『いやいや別に謝るほどのことではありません』
未来は立ち上がる。
丁寧に椅子を戻し、佐藤の元までゆっくりと歩いてきた。
「もう閉館の時間ですので、そろそろご退室をお願いしたいのですが」
『ええ。私もそのつもりでしたから。ところで貴女、もう答えは出ましたか?』
「……、え?」
未来の声に佐藤はさらに怪訝そうな顔をする。
すると未来はなんの目的もなく図書室の中を歩き始めた。
まるでダンスを踊るように。
まるで舞を舞うように。
宛もなく歩き、しかしその姿は実に神秘的だった。
『とある真面目な女の子は、今まで誰にも心を開けないでいた。
今まで誰にも関心を抱かず周りからも関心されずに生きてきたその女の子は、
高校に入学して初めて自分に積極的に話しかけてきてくれた一人の男の子に恋をした。
それまでの灰色の世界がウソのように色づき、彼女の青春を薔薇色に染め上げていった。
そしてある日、彼女は思った。自分に色を与えてくれた、あの少年に自らの想いを打ち明けよう、と。
しかし同時に彼女には不安が襲った。
その行動によって、今の彼との関係にヒビが入ってしまったら。嫌われでもしてしまったら……。
女の子は今でも燻っている。その最後の一歩を踏み出せずに、いつまでもその場で惨めに足踏みを続けながら』
言葉はまるで歌のように、すらすらと未来の口から紡ぎ出される。
その異様で、しかし蠱惑的な光景に魅了されないように、佐藤はただ耐え忍ぶ。
「先、輩……? 一体なにを言って――」
『もう一度聞きましょう。答えは、出ましたか?』
紫を背負った透明な少女は、佐藤清美に問いかける。
しかし佐藤は何も答えられない。
自らの出した答えが、自らの意思と反するものだと知っているから。
それを口に出してしまえば、何を隠そう彼自身に嘘をつくことになってしまうから。
ややあって、田辺未来は薄く微笑んだ。
佐藤清美の隣を素通りし、放課後の廊下に声を響かせながらその場から消え去って行くのだった。
『恥じることはありませんよ。その沈黙こそが、貴女自身の「答え」なのだから』