十二話 時は流れ
第二章です!
和也が博麗神社に来て、一年が経とうとしていた。この一年を振り返ってみると、麗奈には代わり映えのない毎日という評価になるだろう。ただ、家に居候がいるだけで特に気にかけることは無かった。
勿論、食事も一緒にとるし仲が悪かった訳でもない。だが、特段良かった訳でもない。
「…つまらん」
今現在博麗麗奈は、大変非常に億劫と毎日を過ごしている。この一年間、例年に比べて異変や妖怪退治といった自身の専売特許ともいえる事柄は少なくなっていた。
(異変はないのに越したことはないんだけど、なさすぎるのも困る。それに比べて、一年前に拾ったバカは人里や付近の妖精相手で退屈してないらしい。……すごくムカつく)
そして、和也は今も人里で警備の仕事に出掛けている。麗奈としては、和也の仕事が生活の為のお金になっているゆえにくだらない妬みをしている自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
「はぁ…なんであんな奴拾ったのかしら」
拾ったという表現はおかしいかも知れないけど、外の世界から来たのを住まわせてあげてるんだから拾ったのと同じと、そう自分の中で自己完結させる。
「まぁ暇だし、人里でも回ろうかな」
思い立ったら吉日、麗奈は自分の部屋へ駆け足で移動し、壁にかけてある刀を手に取る。
「何かいいことないかな」
あわよくば、妖怪退治とそんな不純な気持ちを抱えて人里に飛び立った。
そして、人里に仕事に出掛けている男も麗奈と同じ思いを抱いていた。
「...つまらん」
溜息と共に言葉を零す。
今現在和也は大変非常に退屈している。つい最近まで妖精であるチルノや大ちゃんこと大妖精と遊んでいたが、春になって大妖精は氷の妖精であるチルノの力が弱まっていると言って、こっち来ない。
「はぁ...何でこんなことしてんだろ」
博麗神社に住み着いて一年、特に目標も無く生きている。博麗神社に来る前は神社に辿り着くといった一応の目標があったから、比較的行動的になっていた。だが、一年前は真新しかった人里は代わり映えの無い日常に変化して、この仕事も習慣と化してしまった。最初は、真面目にやっていた仕事も妖怪が来ないこともあってか今では親衛隊の人との雑談を楽しんでいる。
「俺も変わっちまったな……」
そう、この仕事を初めて一年…記憶をなくした男が一丁前に言う。
だが、やっぱり目標がないのは人間はいけない気がする。
「今、目標を決めるか!」
高らかに宣言した和也は、一人しかいない櫓の中で腕組みをしながらウロウロと歩き回る。傍から見たら不自然極まりない動きを繰りかえす和也は悩みに悩んでで……最終的には櫓の縁に背を預け、自分の体重を任せる。和也の上半身は半分外に乗り出す形になっている。心地よい人里の風を感じながら、青空を眺めながら大きく溜息をつく。
「やっぱ……それしかないよなぁ」
それは当分の間、目を背けていた問題……。
「俺の記憶……」
幻想郷に来た時に、紫から言われた通りならば和也の記憶はここに来る時に起こる副作用によって消失している。それなら、取り戻す方法がよく分からないことになる。
「どうせなら、誰かに盗られたとかだったらよかったんだけどな………。まぁ、どうにかなるか!」
和也は外に向けて、思い切っきり背を伸ばす。和也の上半身が投げ出されてる訳で、そんな状態で上半身に力を込めれば当然……。
「あー、やば」
視界が反転して、浮遊感に襲われる。文字通り真っ逆さまに地面に迫る和也の頭部。一年前の和也なら、そのまま落ちていだろう。だが、今の和也は一年前の和也ではなく一年の成長を遂げた和也だ。
確実に地面に迫っている。
迫って……迫って…迫って。
「誰かー!助けてッ!!」
死を覚悟した。
この一年はなんだったんだろうか。妖精や妖怪がいる世界で剣を持たされ、とりあえず一年間やってこれたが……。
それが櫓から落ちてまともに着地も出来ないのだから……笑えない。今もこうやって必死に叫びながら、助けを求めている。
和也は少しでも痛くないように体を丸めて、受け身の態勢をとる。
……ドスッ。
和也が予想していたのはドスーンという効果音だったのだが、案外にも軽い音がした。それに、地面に当たるような衝撃もなかった。
……花のようないい香りがする。
察するにここは……?
「天国かな?」
「何馬鹿なこと言っているんですか?重いから降りてください」
甘い香りに誘われた蜜蜂のように、目を大きく開く。そこには、女王蜂である魔璃が呆れた顔をしていた。和也は今、魔璃に抱き抱えられているいわゆる「お姫様抱っこ」だ。
顔が熱くなるのを感じて、和也は慌てて飛び上がる。
周りを見れば、あまりの絶叫に集まってきた人里の人達がくすくすと笑っている。中には手を叩いて、爆笑している人までいる。
男が女に抱き抱えられるなんて、恥ずかしいにも程がある。
「あっ、魔璃さん!ありがとうございました!それでは!」
手を挙げて挨拶した後、和也は一刻もここを逃げ出すべく全速力で走り出した。
助けてもらった挙句、逃げ出すとは失礼にも程があるが今の和也は自分の男としての尊厳を守る為に必死に走った。それが、逆に尊厳を傷付けているのにも関わらず……。
そして、走っている途中で馴染みの店を見つけてゴールテープを切るように飛び込んだ。
「か、和也さん!?どうしたんですか!?」
慌てて飛び込んできた和也に目を丸くする店の切り盛りをしている小傘。
「はぁ…はぁ…小傘ちゃん、とりあえずお団子一つ。それと、お茶も頼む…」
「は、はい!ただいま」
小傘も和也の鬼のような形相を見て、何事かと思い和也に言われた通りにお団子とお茶を用意しようと駆け出していく。
内心、申し訳ないと思いながら近くの席に腰掛ける。「ふぅ」と、落ち着いて息を吐く。これで、男の尊厳を守れただろうと勘違いしている和也は落ち着いてお団子が運ばれて来るのを待つ。
「お待たせしました!」
まだ、何事か分かっていない小傘はそわそわしながらお団子とお茶をテーブルに置く。
「それで、和也さん?」
「あ、別になんでもないんだ。これで解決出来たから小傘ちゃんは業務に戻りな」
満面の笑みでそう清々しく言う和也に、困惑しながらも業務に戻っていく小傘。
「これで一件落着。それでは……いただきます!」
お団子の串を一本手に持ち、口に運ぶ。
だが、その手は突然停止させられた。
「何が一件落着……なんですか?」
「うわぁ……鬼〜」
いつ来たか分からない魔璃さんに手を止められ、じりじりと串を皿の方に戻されていき……手を離す。
「お説教です」
「……はい」
優しい優しい魔璃さんのお説教が始まった。
和也が魔璃から説教を食らっている時、麗奈は博麗神社を離れて、人里上空で見回りをしている。それにしても寒い。霖之助に冬用の巫女服頼むべきだったかなと、心の中で春用の巫女服を頼んだ自分を恨む。春を迎えたばかりの空は、今の麗奈には少しきつかった。
「とりあえず、今アイツは何してるんだろ?」
人里の警護の仕事をしている和也のことがふと気になり、上空から和也の霊力を探し出す。警護というのなら櫓にいるものだと思っていたら、霊力はあの団子屋で止まっている。
「仕事なんて都合のいいこと言って、優雅に団子食ってんじゃないわよ!」
仕事を放棄している和也に悪態をつく。「つくづく呑気な奴」だとすっと辛辣な言葉が出てくる。最近のストレスが言葉と共に吐き出されていく。だけど、ちっともすっきりしない。いっその事飛んでいって叱ってやりたいところをグッと押さえつけた。
それは何故か……。
……そう、用事が出来たのだ。
「...........さて、お仕事の時間かな」
麗奈は感知した魔力の元へ高鳴る気持ちを抑えつつ、大急ぎで向かった。
森の木々を縫って移動している。がさがさと葉が揺れる。今はそれさえも命取りになりかねない。
今まで、ばれずに移動することが出来たのは奇跡に近い。何しろ、博麗の巫女は三里離れた場所でも霊力や魔力を感知できるらしい。人里から、一里も離れてないこの場所にいる自分達はもう気付かれているだろう。
……だが、我らにもやらなければならないことがある。
「よし…やるぞ」
「いやでも、人里には博麗の巫女が.....」
「今更何を恐れている!博麗の巫女一人ぐらい何とかなる」
「そうだ。何せ、今回は四人で来てるのだ」
「それでは……行くぞ!」
そう意気込み、森を抜けようとしたその時……。
「あら、殺気ムンムンでどこに行くのかしら?」
気が付けば、そこに立っていた。こちらを威嚇するかのように、冷徹な声音で問いかける少女。その声に完全に足が止まる。冷や汗が頬を伝い、顎から雫となって落ちる。その感覚が数分のように感じられる。身体中が警鐘を鳴らして、震えている。
彼女こそ、幻想郷で私達が最も恐れる存在……。
「.....博麗の巫女か」
「大当たりよ。さて……どこに…何しに…行くのか教えてもらおうじゃない」
……背にいるのはただの人間の少女なのだ。なのに、振り向けない。目線を隣にやると河童がカタカタと、奥歯を震わせている。誰も、博麗の巫女の質問に答えようとはしない。それは秘密を守っているからなのか、それとも恐怖からなのかは分からない。
ーーたが、ただ一人答えられる者がいた。
「教えてどうする」
そう答えたのは、妖怪最強の種族である鬼の奴だった。三人は巫女の威圧に押され動けない中、一人だけ振り返り堂々と巫女と対面している。
「答え次第では何かが起こるかもね?」
答え次第……そう言っているもののこの場にいる者は全員理解した。
どんな答えをしても殺られる……。
巫女はそれだけの威圧を放っている。言葉の端々に霊力の圧が込めら、受けているだけでくらくらと脳を揺らされる。だが、依然として鬼だけは真っ直ぐ巫女を捉えている。隣にいる河童なんて顔が青くなっている。
「でも、珍しいわね。四種族混合で人里襲おうなんて、いつ同盟でも結んだのかしら」
四種族……ここにいる種族は天狗である自分と鬼、河童、狐の四人だ。普段、妖怪の山で勢力争いをしている種族同士が手を組んでいるのには、とある理由がある。
が、それは明かしてはならない。
「その事を分かった上で俺たちを殺そうとするのか」
「何か問題でも?」
強い上の慢心かと思っていたが、鬼の奴も自分が窮地に立たされていることは理解しているみたいだ。
この場の全員戦闘態勢の中、河童が辛うじて声を出した。
「鬼よ、博麗の巫女に見つかったからにはここは退くべきでは?」
「お前ら、全員同じ気持ちか」
奴らは互いに顔を見あってから、何か当然のように逃げる準備している。
「貴様ら、今引き返しても同じだぞ」
「だ、だが…」
「いいか、この作戦を成功させるためにわざわざ同盟を組んだんだ。このまま何も成果なしで帰っても良くて追放、悪くて殺されるぞ」
全員が再確認した。
作戦の重要性……。
この作戦には自分の命を掛けなければならない事を……。
全員が恐怖を殺し、博麗の巫女と対峙する。全員戦闘態勢に入った。
「さて、相談は終わったかしら?どうやら……やるようね。でも、私を殺すには各種族あと五十人はいないと無理よ」
「だが、我々も退けない」
「アンタらも不幸ね。物見にきて私に見つかるなんて……。でも、決して私を恨まないことね!」
相手も戦闘態勢に入る。四種族といっても最近出来た即席。連携なんてあったもんじゃない。この中で一番力の強い種族、鬼、を倒せば後は逃げるかもしれない。
麗奈は、刀を鞘から抜く。
「どこからでもかかって来なさい!すぐに片付けてあげる!」
妖怪達は私を取り囲むように幅をとる。どうやら四方からの同時攻撃が狙いらしい。
一人で複数人を相手にするのは、熟練者であってもかなりの技術がいる。その中で一番気を付けなければならないのは……。
それは一人でも相手を見失わないこと。
麗奈は自分の意識下に精神を潜らせる。柄を力強く握り、正面にいる鬼を見る。周りの妖怪の魔力を肌で感じとる。
そして、その先にある…ありとあらゆるものを把握する。周囲の気候、風向き、木の数、花の数、敵の呼吸音から鳥の囀まで漏らさずに……。
全てのものを掌握する私の絶対領域。そこから計算される戦いに負けはない!
「はッ!」
麗奈は鬼の頭部目掛けて博麗の札を投げる。だが、それは警戒している鬼にとってあまりに遅い速度だ。当然のように避けられる。それを好機と見た鬼は正面から殴りにかかる。
「博麗の巫女!ここで死ねッ!」
魔力で威力が増大されている拳が高速で飛んでくる。普通の人間だった頭が跡形もなく吹き飛ぶであろう一撃……。それをさも当然かのように避ける麗奈はそっと鬼に耳打ちする。
「そんなに飛び込んで大丈夫?」
「なんだと!このッ!」
鬼が二撃目を放とうとするが身体が宙に浮く。何が起こったのか分からない鬼は後ろを見て気付く。
麗奈が最初に放った札から煙が上がっている。麗奈の投げた札は元々鬼など狙っておらず、その奥の木を狙っていたのだ。札は麗奈の霊力によって爆発し、必然的にその爆風の直線上にいた鬼は吹き飛ばされる。だが、妖怪最強の鬼はその程度ではダメージにもならない。吹き飛ばされたものの体勢の立て直しは簡単だ。
だが、それも相手が麗奈以外に限る……だ。
そのチャンスを麗奈は見逃さない。
剣先を鬼へと向け、閃光のような速さで鬼に近づく。
周りの妖怪はそれに気づき、妖弾を放つが麗奈の速さはそれを上回る。
鬼も自分が狙われていることに気付き、吹き飛ばされながらも体を捻り、何とか麗奈の攻撃に対応しようとする。
鬼が麗奈を視界に捉えた時には自分と麗奈の位置がもう既に手の届く範囲いる。
麗奈は鬼に向かい、刀を振る。
その衝撃で大きく地面が揺れる。
「アンタ中々やるわね。普通なら一撃逝ってるわよ」
「グッ!?」
咄嗟に防御した腕が片手……後方に飛ばされていた。
流石に動揺したのか、鬼が数歩…腕を庇いながら後ずさる。麗奈の意識は完全に鬼に向いている。
それを確認した天狗、河童、狐の三名は目配せをしながらタイミングを合わせて自身の最大火力の攻撃を放つ。
天狗の初級妖術『風刃』
河童の初級妖術『水砲』
狐の初級妖術『狐火』
どれもこれも並の妖怪や人間なら一撃で殺せる威力だ。それが、鬼を見つめている麗奈に直撃する。水砲が身体を貫き、風刃が狐火の火力を高め、周囲の木々が燃え盛る。
……手応えはあった。
実際、博麗の巫女はあの場から一切移動していない。移動した素振りは見えなかった。初級とはいえ、三種族の最大火力だ。流石の博麗の巫女も無事ではいられない。
まだ、巫女がいる位置は燃えていて姿は見えない。姿を視認しようと目を凝らす。
だが、不意に肩を叩かれる。
「なんだ…今はそんな場合ではないだろ!」
どうせ狐か河童の奴が喜んでいるのだろう。俺はそんな慢心はしない。巫女の生死を確認するまで気を抜くつもりは無い。
煙ったくその手を振り払った。だが……またしつこく肩を叩いてくる。
「だから、やめろって言っているだろう!」
あまりにもしつこいので俺は振り向いた。
「やっほー」
そこには呑気に手を振っている巫女がいた。
「いや、そんなはずは無い……。だって、巫女はあそこに……」
ようやく火が収まってきた。
……その中には誰もいなかった。
それを確認した俺は助けを求めて、両隣にいた狐と河童を見る。
たが、その胴に首は繋がっていなかった。断面は鮮やかに…一切の凸凹も無い。実に綺麗な切り口だった。
それにしても、いつだ。いつ移動した?
俺はそれを確認出来なかった。その数秒に二人は既に死んでいた。
「安心しなさい…苦しみはしないわ」
そう言って、巫女はゆっくりと俺の横を通り過ぎる。
なんなんだ?何が起こった?
視界がだんだん上に逸れていく。そして、世界が反転した。
ここでようやく理解した。
あぁ、俺は死んだんだ。
博麗の巫女の体を上から下へ重力に任せるまま、視界に捉えていく。……巫女のくるぶしが視界の平行に来た時、そこで俺の精神は事切れた。
「後は、アンタだけよ」
腕を押さえたままの鬼に実質的な死刑宣告を送る。鬼は何も言わずに、倒れている仲間に目を向けている。その目は憐れみを意味するのか、それとも一瞬にして倒れた仲間への軽蔑か……彼の表情は異様に冷静だった。
「その刀、名刀土影だな」
「良く知ってるわね?」
「知ってるも何も……その刀は妖怪殺しのために作られた我々妖怪にとって天敵のような刀だ」
麗奈は見せつけるように、刀についた血を振り払ってみせる。
「なら分かってるわよね。アンタに勝ち目はない。今すぐ退きなさい」
「それは無理な相談だ」
そういうと、鬼は麗奈のすぐ奥。茂みの中に視線を移した。
「ッ!?」
麗奈は咄嗟に体を捻り、その場を離れるように飛んだ。それは博麗の巫女としての勘だったのか、麗奈の目の前を竜巻のような何かが通過した。
慌てて服を見ると、腹部の布が綺麗に切られていた。
(これは……)
「そんなによそ見をしていて大丈夫か?」
突然のことに理解が追いついていない。鬼は麗奈が気を取られている間に自身の腕を治し、尚且つ今麗奈の目の前まで迫っているのだ。
だが、攻撃してくる気配はない。余裕が無い麗奈でも、自身が大いに舐められていることは分かった。
「このッ!」
愛刀を振り上げる。未だに防御も攻撃もする様子がない。
渾身の一撃を放とうとした瞬間……。
地面の泥濘にはまり、体勢を崩した。
麗奈は仕事に関しては完璧を求める人間だ。人里を中心に自分の仕事をする範囲は地理や地質を全て把握している。麗奈の知る限り、ここが沼地だった覚えもないし、実際鬼達と戦っている時は違和感など微塵も感じなかった。
体勢を崩した麗奈はその拍子に地面に手を着いた。
「なによ…これ」
地面が湿っている……というより水浸しになっていると言った方が正しいか。麗奈が手を動かすと、水溜まりのようなちゃぷちゃぷという水音がする。
その水は不自然に地面を這っていた。
完全には理解できない。
出来ないが、麗奈の勘が今までにない最大級の警告を打ち鳴らしている。
麗奈はその判断に従うように、その場から逃げようとする。
「え?」
だが、肝心の体は動かなかった。真下に目をやると、さっきの水が麗奈の足首に纏わりつていた。麗奈の頬に苦笑と共に冷や汗が流れる。
麗奈を逃がさんとばかりに水量は増していき、形も何も無い液体が意味を持つ形に変化していく。
徐々に水流は上に登っていき、気づけば天井らしき水の蓋が出来ていた。そして、麗奈の目の前には格子状の水流が勢いよく流れている。いくら液体といっても、触れてしまえば腕の一本位余裕で切断出来そうだ。
水の檻に閉じ込められた麗奈は大きく溜息を吐いて、鬼を睨みつける。
「私としたことが、油断していたわ……相手の力量が分からないようじゃ博麗の巫女失格ね」
「ふっ…」
鬼は麗奈を嘲笑うように鼻を鳴らす。
「あの竜巻……あれは天狗の上級妖術『カマイタチ』。そして、これが河童の上級妖術『水固』。こんな妖術を高い練度で使えるのは、私が知っている中ではアイツらしかいないわね……」
がさがさと草むらから出てくる二人。その顔には見覚えがある。
「久しいな……博麗の巫女」
「別に私は来なくてもよかったんじゃ……」
「黙れ」
「うぅ〜……怖いよ、天ちゃん」
麗奈の中ではあまり想像したくない最悪の事態に、思わず唇を噛む。麗奈はこの二人をよく知っている。
「天魔……水神」
「水神なんてむず痒いなぁ……」
このお調子者で腹が立つ笑みを浮かべている河童は種族の長である『水神』の現保有者である『河城くとり』。そして、黒い翼、長髪の黒髪を風で靡かせている現『天魔』の称号を保有している天狗の長『鴉羽ふみ』。
妖怪の山で四大勢力と言われている河童と天狗の長が同時にこの場にいる。その事実だけで、人里が臨戦態勢になるだけの条件は揃っている。
……どうする。
麗奈の頭では、この後の最悪の事態まで予想している。まだ、見覚えのあるこの二人がさっきの戦闘で出てきてくれれば逃げる手段は幾らでもあった。
だが、こうして二人の奇襲を受けて改めて強く感じたことがある。
それは……あの鬼の存在だ。
奇襲という戦術を使うには条件が二つある。
一つは――襲撃者が見つからないこと。
勿論、見つかってしまっては奇襲の意味がなくなるからだ。
そして、二つ目は――目的をどれだけ誘導できるかだ。
今回の場合、最初の斥候は囮だったのだ。上級の妖怪には自身の妖力を隠すことのできる個体がいるらしい。例に漏れず、天狗の長と河童の長は隠すことが出来たのだろう。
といっても、麗奈もそこまで甘くわなかった。斥候の他に敵がいることは常に警戒はしていた。もし、斥候があのまま全滅していたら二人の存在に気づいていたかもしれない。
だが、全滅はしなかった。
「そろそろ、正体明かしてもらってもいいかしら……」
「おぉ、そうだな。お前とは初めてだな…博麗の巫女」
切り飛ばされた腕は完全に治り、余裕の笑みを浮かべるこの鬼……。
「俺は鬼の当主『酒呑童子』……今後よろしく頼む」
この男わざと自分の力を隠して、麗奈と戦っていた。腕を切り飛ばされたのも麗奈を油断させる為の演出だろう。
「でも、意外だわ。鬼といったら獲物は他人に譲らず、正々堂々勝負するって聞いてたんだけどね」
「諸事情でね、今回ばかりは共闘させてもらった」
腕組みをしながら無警戒で近づいてくる酒呑童子。その態度に刀を握る力が強くなる。
檻に閉じ込められているとはいえ、博麗の巫女を完全に相手にしていない。格下だと既に決めているのだ。
「童子、巫女をどうするつもりだ?」
「目的は果たした。このまま解放してもよいぞ。それと俺を童子と呼ぶな……王と呼べ」
「それで童子〜!もう疲れたから解除してもいいの〜?」
「いいと言っているだろう!それと王と呼べと何回…」
「でも〜、巫女はお怒りらしいよ」
当たり前だ……。
このまま舐められたままでは、博麗の巫女としての名が廃る。
(それにこいつは……!)
博麗式剣術奥義『炎舞』
「ッ!?」
「あっつ!?」
「……」
突如、水の檻からは想像もできない炎が吹き出す。そして、覆っていた水はその熱によって一瞬で蒸発し、閉じ込められていた麗奈がゆっくりと酒呑童子に向かって歩き出している。
「酒呑童子……アンタに対しては最初から本気で行かせて貰うわ」
「これは……なかなかだな」
ここでようやく酒呑童子の余裕の表情が崩れる。酒呑童子は楽しそうに笑った。
「ここからは俺達の勝負だ……手を出すなよ」
「了解した」
「ねぇ、もう帰っていい?」
――これが遊びとでもいうのか。麗奈の頭に血が上っていくのを感じる。
天狗と河童の両名は、呆れ気味に鬼の後ろに距離を取った。酒呑童子は静かに構えている。
(いい度胸じゃない……やってやるわ)
戦闘に関しては冷静を保とうとする麗奈だが、今ばかりはそうはいかなかった。完全に脳の血管がプチンといってしまいそうな勢いで怒り狂っている。
博麗の巫女を完全に舐め腐っているこの妖怪共にどう後悔させようか、その事が頭から離れない。
そして、この酒呑童子……。
(この鬼だけは……私がこの手で殺す!)
麗奈は無計画に酒呑童子に向け、突撃する。酒呑童子はその場から微動だにせず麗奈を迎え撃とうと構えている。
麗奈の刀に炎舞の炎が絡み合う。麗奈が使う炎舞は霊力を媒体に炎を発生させ、式神の如く自由自在に操るという麗奈自身が編み出した剣術というより霊術だ。
まず、酒呑童子に迫るのは業火にも匹敵する炎。普通の妖怪なら近づくだけで肌が焼け、逃げ惑うであろう炎を酒呑童子は諸共しない。
鞭の如く、しなりを効かせる炎を半身になり間一髪躱す。だが、たじろぐ様子はない。それが恰も当然かのように整然としている。
麗奈も最初から当たるとは思っていない。酒呑童子が避けた瞬間を狙い、切っ先を突き出す。
酒呑童子はそれに対して不敵な笑みを浮かべる。そして、何を血迷ったか麗奈の刀身に対して垂直に防御もせずに棒立ちする。
麗奈も一瞬罠も疑ったが、放たれた一撃は止めることは出来ない。ありったけの霊力を込めてその一撃を当てることだけに集中する。
「グッ…」
霊力の込めすぎで少し目が眩む。だが、これが麗奈の最大火力で人生をかけた一撃でもある。霊力が尽きようが、倒れようが関係無い。これを当てれば殺れるという自信が麗奈にはあった。
ふらつく足腰を必死に抑え、麗奈は渾身の一撃を酒呑童子の心臓に射し込んだ。
――炎が吹き荒れる。
麗奈の霊力が尽きた為、霊力で纏っていた炎が全て放出されたからだ。周りの木々が燃え盛る。辺り一面は一瞬にして焼け野原に変わっていた。
霊力の尽きた麗奈はその場で膝をついた。
(手応えはある……刺した感触もあった)
酒呑童子がいた場所は未だに煙が立ち上り、その姿を確認することは出来ていない。
「ねぇ、天ちゃんまさか本当に…」
「いや、待て……」
ぽつぽつと雨が降り出す。春独特の冷たい冷気と冷たい雫が体に当たり、麗奈の体温を徐々に下げていく。それと同時に、すぅと感情が落ち着いていくのを感じていた。
突然の雨によって、煙は雨に打たれ地面に染み込んでいく。
段々と酒呑童子の姿が見えてくる。刀は水平に突き刺さっているのはこの場にいる三人が確実に視認した。
段々と煙が晴れていき、完全に鬼の姿を麗奈は確認した。
「う、嘘でしょ……?」
「残念だったな……博麗の巫女」
刀は確実に酒呑童子の心臓に目掛けて刺さっていた。だが、肝心の酒呑童子はさっきと変わらない笑みを浮かべて、そこに立っていた。
「惜しかったな……あと数センチ刺さっていたら、俺は死んでいたかもしれんな」
麗奈は絶句する。
自分の霊力を全て注ぎ込んだ最大火力ともいえる一撃を自身の妖力とその肉体だけで止めたのだ。そんなのまともな妖怪が出来ることではない。
実際、天狗と河童の二人も目を丸くてして驚いている。
「まぁ…及第点といったところか。精々、俺を退屈させんように励むんだな」
酒呑童子は自身の胸に刺さっている刀を抜き、麗奈にそれを投げる。刺さった傷はその瞬間に塞がっていた。
「行くぞ……天狗、河童」
「ま、待ち…なさい」
麗奈は必死に体を起こそうと力を込めるが、霊力が尽きた体は言うことを聞いてはくれない。
「やめておけ。今のお前では遊び相手にはなっても、脅威にはならん。霊力を使いすぎて死ぬのがオチだ」
「くッ……!」
酒呑童子はそれ以上麗奈に声を掛けることなく、天狗と河童を引き連れ燃え盛る森を後にした。
森に残るは雨音と少女の叫び声だけだった。