天国より野蛮01
天国より野蛮
暗く埃っぽい場所を背景に見知らぬ男が純の上で蠢いている。自分がどこにいるのか分からなかった。視線を巡らせば荒い息をした男の両肩辺りでゆらゆらと揺れる二本の足が見える。人形の足かと思ったが、どうやらそれは自分の一部なのだと意識した時には足の感覚は消え失せていた。なのに純の意志とは関係なく、ゆらゆらと揺れ動く足は不自然だ。変なの、と思った。男の息が一層荒くなる。何をしてるの? そう、男に声を掛けようとしたが叶わなかった。純の唇からは声らしい声が出ないのだ。そう言えば喉元がヒリヒリと痛い気がする。何故? 純は思い出そうとしたが、頭の中は靄が掛かっているかの様に全ての輪郭がぼやけいて上手く働かない。そんな中でハッキリと思い出せる人がいた。どんな時でも色褪せない、たった一人の人。「他に好きな奴が出来た」と振られはしたが、大好きな幼なじみで恋人だった。彼の名前なら上手く紡げるかも知れない。純はそう思って彼の名前を口にしようとした。
「 」
「俺から振っておいて勝手過ぎるのはって分かってる。こんな状態の純に言うのも卑怯だって分かってる。でも俺は純とやり直したい。純の支えになりたいんだ!」
病室に備え付けられた丸椅子に腰を掛けながら鶴田瑛は端正な顔を歪ませた。久し振りに会ったかと思えば、いきなり何を言い出すのだろう。純は白色に統一されたベッドの中で身体を起こした。記憶がごっそりと抜けているが、自分は今入院しているらしい。自分の事なのにどこか他人ごとの様に思うのは、状況が読み込めていないからだ。仕事で忙しいと言うのにほぼ毎日顔を見せてくれる両親やたまに顔を見せてくれる数少ない友人達は、誰一人何も教えてくれない。皆、顔は笑っているがピリピリとした雰囲気を纏っているので、純としても何も聞けなかった。聞いてはいけないという暗黙の了解があった。その所為で、個室で過ごす入院生活はそれなりに快適なのだが不安は常にあった。声が出ない以外の自覚症状はないが、不治の病にでも掛かってしまったのではないか。純はぶるりと身震いする。死を受け入れる覚悟などない。自分は病名すら聞かされてないのだ。けれど両親や友人達の態度、何より久方振りに再会した鶴田の告白が自分の病の重さを裏付けているような気がした。追い縋っても復縁を受け入れてくれなかった、元恋人が折れるなんて余程の事だ。あの子はどうしたんだろう。純を振って、新しく付き合い始めたあの美しい少年は。どんな病に掛かろうが、病気を盾にしたくない。同情なんていらないのだ。ここでようやく亀井純は鶴田の顔を正面から捉えた。ばちり、とあからさまに視線が交じり合ったが、どう反応して良いか分からない純は小さく首を傾げる。それを悪い意味に受け止めたのか、鶴田は柳眉を下げた。
「怒ってるのか? 当然だよな、俺………自分の都合ばっかりで」
鶴田の言葉を純は左右に首に振る事で否定してみせる。自分は怒ってなどいない。ただ哀れみから復縁を持ち掛けるのを止めて欲しいだけだ。そう言いたいのにいくら声を出そうとしても唇は酸欠した金魚の様にパクパクと開閉するだけだ。ああやはり声は出ない、と純は肩を落とした。何故声が出ないのかは知らないが、声の出せない世界は不便だ。自分の気持ちを上手く伝えられない。純はもどかしい気持ちになった。どうしたものか、と悩む純に鶴田からB5サイズのスケッチブックとペンが差し出される。遠慮なくそれを受け取った純は自分の思いを文字にした。ベッドの上で三角座りをしながら足を画板代わりにしてスケッチブックを安定させる。覗き込んで来ない限り、鶴田からは死角となって見えない位置で純はペンを走らせた。純の一挙一動に鶴田の視線が嫌と言うほど突き刺さる。
“同情はいらない”
これが正直な気持ちだが、文字にするとえらく突き放した印象を受けた。同情とはいえ、せっかく見舞いに来てくれているのだからもう少しオブラートに伝えた方が良いだろうか。純が悩んでいる間も鶴田がこちらを伺っているのが分かる。待たせる方が悪いかも知れない。少しだけ迷った純だが、鶴田の視線に耐えかねてスケッチブックに書いた文字を見せた。
「違う! 同情なんかじゃないんだ!」
文字を読み取った鶴田は、苦渋な表情でそう叫んで勢い良く立ち上がる。ガタリ、と丸椅子が音を立てて揺れ動き、長身の鶴田らしい迫力を伴った。瞬間、声にならない悲鳴を上げた純は身を竦ませて震え出す。恐い、恐いと身体中が怯えていた。目の前にいるのは鶴田だ。なのに何故。純は訳が分からなかった。
「御免。守ってあげられなくて御免」
怯える純の傍でで鶴田の啜り泣く声が聞こえる。
ーー何で泣くの?
純の声はやはり声にならない。




