9.最終話
♦六月三〇日 木曜日 赤口
あれから、数時間たって朝が来た。翌朝重たい体を引きずってなんとか授業を僕と先輩は受けた。授業中、爆睡してしまったのは、まぁご愛嬌ということにして許してほしい。さすがに、立花さんはあれから数日風邪での欠席扱いで両でゆっくりと休んだらしい。先輩は同じ女子寮なので頻繁に見舞いに行き、すっかり仲良くなっていた。あの時、睨んだ蛇から僕を救った母さんの櫛は真っ二つに割れてしまっていた。先輩に聞いたところ「櫛には様々な霊力が宿るとされているわ。特に有名な逸話は古事記における伊邪那岐神の話よ。あ、でもそうね、母親の櫛っていうのは結構な魔よけの効果があるって聞いたことがあるわ」と嬉々とした声音で答えてくれた。守られた。そのことがうれしいような悔しいような複雑な気分にさせる。お礼に今度帰省するとき、新しい櫛をプレゼントしよう。きっと次ぎ会う時には、今までよりも互いにとっていい関係に、いい家族になれるはずだ。
あの事件から、僕と先輩の中が急速に縮まったというわけはなく。いつも通り、憎まれ口をたたきながら、同じような距離感を維持していた。だから刻々と時計の針は進み、仮入部の終了の六月の末はあっという間に訪れた。思っていたより早く感じたのは不本意ながら僕はあの人との時間を楽しいと心のどこかで感じていたからだろうか。なんだか気恥ずかしくなって頬をかく。
「千歳、ぼおっとしてないで前歩く」
「あ、はい」
突然だけど今僕の目の前には、朱塗りの鳥居に張り付いたこれまた大きな輪がある。人が余裕で潜れそうな大きな緑の輪を前にして僅かながら列ができていた。
「先輩、そもそも夏越の大祓でしたっけ、それって何なんですか」
「夏越の大祓っいうのはね、日常知らず知らずの内に犯し、身に付いた罪・けがれ・災いをひとがたに託して、鳥居にかかっているあの緑色の大きな輪っか、茅の輪を潜るの。まぁ、なんていうのかしらね……心身を清め、残る半年を新たな清々しい気持ちで日々過ごすことができるように祈る神事よ。まぁ毎年恒例行事みたいなものでね、県大会とか地区大会とか、大会ごとがある部活動なんかは基本的に参加させられるわ。穢れを払って、心機一転がんばるぞーみたいなのりなのよ。緑園高校風物詩の一つね」
そう僕らは、の大きな銀杏の木がある蛇を祭った神社に来ていた。蛇というとこの間の魑魅を思い出してしまうが、あれが真っ黒だったのに対してここで祭られている蛇は白蛇のようだ。先輩にそのことを言ったら同じにするなと、怒られ山の神と蛇神について永遠と話を聞かされるはめになりそうだ。先輩の無駄話も、この間は役に立ったので耳半分聞いておくことにしているが、心に余裕があるとき限定でお願いしたい。今日は、仮入部員の僕と部活の先輩である琴吹先輩という関係、最後の日だ。そのことを改めて認識すると心がざわつき落ち着かない気分になる。気分を紛らわそうと、声を出す。
「結構人いるんですね。もっとこじんまりとした感じかと思いました」
「あ、やっぱり? 学長の趣味なの。わざわざ神主さんよんで、毎年こういう神事はしっかりやっているのよ。生徒の参加は強制されてないというか、むしろ全然知らない人の方が多いと思うわ。マイナーだもの」
「でしょうね。彼らだって、部活動だから半分強制参加ですよね。暗部は、どうなんです?」
「自主参加だけど、結構いるわよ。ほら掛け持ちとかみんなしてるしね。あそこの華道部の部長さんとか弓道部のちびっこちゃんとか、野球部の万年補欠の先輩とかもそうだし」
そういわれてその人たちを盗み見るも本当に普通の部活をやっている人たちばかりで、暗部といういかがわしい組織の一員だと誰が見てもわからない。僕もはたから見たらあんなオカルトじみた化け物と戦っていたようには右から見ても左から見てもわからないだろう。
「茅の輪くぐりしたことある? ないのね、いいわ。この私が教えてあげる」
得意げに言う先輩は、慣れた様子で歌を口ずさみながら緑色の大きな輪、茅の輪をくぐっていく。僕も先輩を真似するようにして歌を唱える。
「水無月の 夏越の祓へ する人は 千歳の命 延ぶというなり」
唱えながら、茅の輪を左回り右回り左回りと三回、先輩を真似してくぐった。なんとなくだけど、勘違いかもしれないのだけれど、何かがふっと取り払われた気がした。ずっと自分にまとわりついていたものを脱ぎ捨てたようなそんな爽快感。
「立花さんも来てますね」
「そうね。あの子、合唱部だっけ? 合唱部は学長が顧問に話しをとおして強制的に全員参加になっているわ。私、あの子は、もうこの学校止めちゃうかと思ったわ」
あんなふうに講堂に閉じ込められてトラウマになってもおかしくないのに、それでもその場所に居続けることを選んだ立花さんの考えは僕にはほんの少しだけわかるような、それでいてやっぱりわかんないような気がした。ただわかるのは、立花さんの方が僕よりずっと強いということだ。僕は逃げ出す勇気も選び取る勇気もなくただ流されるがままであった。そして、僕は僕自身も母も傷つけてきた。
「せんぱ~い、琴吹先輩こんにちは。琴吹先輩、この間は部長さんに話を通してくれてありがとうございました。御蔭で、部活の先輩との関係は良好です。あ、宿木君も、久しぶりだね」
「う、うん。ひさしぶりだね、立花さん」
声は震えてないだろうか。笑顔はぎこちなくないだろうか。あの夜最後に見た悲惨な姿が、脳裏にちらついて離れない。震える手のひらを背中に回し、口元に小さな笑みを形作る。
「うん。あ、そうだ宿木君にお礼まだだったね。あの夜、助けてくれてありがとう。正直、半分くらい覚えてないんだけど、でも琴吹先輩から宿木君が私を見つけてくれたって教えてもらったの」
「いや、僕は本当に何もできなかったし、それに……覚えてないって」
「うん。ずっと暗闇に一人閉じ込められていたのは覚えてるんだけどね。助けてもらったときの記憶があいまいで。ごめんね」
申し訳なさそうに、睫毛を俯かせる。
「ううん。気にしないでそれは、忘れていい記憶だったんだよ」
「そうだね。それじゃあ、私もう行くね。もうすぐ順番だから」
背筋を伸ばしはきはきと物おじせずに話すようになり、日に日にまぶしいほどに輝いていく立花さん。もうそのソプラノの声に影はない。遠目で見ていたけれど、直接話すのはあれ以来だ。去っていく姿を見送った後先輩が重たい口を開く。
「あの子を閉じ込めた犯人たちね、やりすぎたことをひどく反省していたらしいわ。途中でやりすぎたと思ったのかしら、学校に戻って解放しにいこうとしたみたいよ。まぁ、止められたんだけどね。まぁ、反省しているだけましとはいえ、学校側からの処罰は受けたみたいよ。親呼び出しで、いろいろ面倒そうだったわ。後悔するならやらなきゃいいのに。女子の嫉妬って怖いわね。はぁ、部活も自主的にやめようとしたみたいだけど、それを知った立花さんが引き留めたらしいわ」
「え」
「美談ではないわよ、別に。ただ、それはあの子たちの罰にもなる。自分より圧倒的にうまい子の歌を間近で聞かされ続けるの。自分が褒めてほしかった人に褒められる立花さんの姿を見せつけられるの。それでいて、自分たちのしでかしたことが部員にうっすらでも知れ渡っているせいで監視されている感じがしてたいそう居心地が悪いことになるでしょうね……ふふふ、あの子もなかなか腹黒いわね」
ぞわぞわ悪寒が背中に走った。なんだか知ってはいけない真実をのぞき見してしまった気分だ。思わず口の端がひくつく。
「確信犯で?」
「ええ。入れ智慧したの私だもの。それでいて部長や私のクラスメイトは協力者。二度と起こさないように、してくれる頼もしいサポーターよ」
「ソウデスカ、アンシンデスネ」
そもそもの発端は顧問のえこひいきだとか、様々な勘違いや行き違いが原因らしい。ささいなことなのに、あそこまでエスカレートしたのは、なんでなのだろう。夜に見たあの瘴気のせいだろうか。いや、それとも人間という生き物の業なのだろうか。一歩道を間違えれば、誰だってそうなる可能性があるということかもしれない。蒸し暑いというのに、うすら寒いものが背筋を撫でる。
「ところで、千歳。この後空いているかしら? 邪気払いに水無月を食べにいかない? 食堂で特別に作ってくれているのだけど」
水無月、聞きなれない名前の和菓子を食べに食堂へ向かう。ふと、上を見上げると、数日前までブルーシートがかかっていた大穴は、見事に閉じていた。数日前、授業中に重機の音がしたと思ったら壁の修復作業を行っていたようだ。一部分だけ真新しいタイルが、あの出来事が夢ではないと叫んでいるようだ。どこかで蝉が鳴いている。シャツのボタンを一つ外すと、少しだけ涼しくなった。昼時も過ぎ、ふだんはがらんとしている食堂に珍しくちらほらと人が入っている。制服やジャージのカラーを見ると、赤や青など上級生や教師が多く、一年生の割合はかなり少数だ。一年生の多くは、僕と同じで先輩に連れられてきているといった感じだ。
「おいしいですね」
注文した水無月は、三角形の形をした白の外郎にあんこが上に載っているシンプルなもの。三角形の和菓子をひとくち口に運ぶ。つるりとした感触が舌に伝わる。小豆の甘さと、良く冷えた外郎がマッチし、荒んだ心をなごましてくれる。
「そうでしょう。ふふふ、最後に、食べさせてあげたかったの」
いろいろあったわと、感慨深そうに怒涛の日々を語る先輩をみて、思わずきょとんとして耳を疑う。確かに、今日が期限の末日。僕の暗部仮入部期間終了の日付。待ち望んだ日がついに来たのだ。先輩の様子に、ある可能性に気が付き、何だか面白くなってきてしまった。先輩は、まだ知らないのだろうか。人の出入りが激しい食堂では絶え間ない人の喧騒と物音が敷いている。調理場から聞こえる水音や、食器の音。人の足音や話し声、いすやテーブルを引く音……あの静かな夜とは大違いだ。
「そうですね。今日で最後ですね」
「はぁ、結局、最後まで君から色よい返事をもらうことができなかったわね。負けた気分だわ」
先輩の残念そうな言葉に、胸の内にふつふつとわきあがってくる想い。それが、顔に出ないように意識して、努めて何でもないことの様に、さらりと、あくまでさらりと口にした。表情を必死になって自分の制御下に置く。
「そうですね。今日で最後ですね。今までお世話になりました」
「たくさんお世話させられました。千歳、部活は一緒じゃないけど、先輩後輩は変わらないのだから、なにか困ったことがあったら頼ってくれてもいいわよ」
名残惜しさを振り払うように、ふわりとお別れ笑みを浮かべる叶恵先輩。しんみりした雰囲気をぶち壊すように、こみ上げてくる笑いが口の端に零れる。慌てて手で口を覆うも一度零れたものは盆には戻らない。
「なによ。何がおかしいのよ。やっと解放されたとでも思っているの?」
「ち、ちがいますよ……あははっ。いえ、その……あははは。本当に、本当にご存じないんですか」
「何がよ」
低く機嫌が悪そうな声。含みのある笑みが、自然と顔に浮かび上がる。
「僕、もう……先輩の後輩なんですよ」
「はい?」
「だから、僕、暗部に正式に入部しました。これから、よろしくお願いします。琴吹叶恵先輩」
すっとんきょうな声をあげる先輩に、周囲の注目が引き寄せられる。その視線を無視し僕は、生徒会と風紀委員長のサインと、学長先生のサインが仲良く並ぶ受理された届出を取った写真をスマホから呼び出し、先輩によく見得るように画面を明るくし、拡大する。そこに並ぶ文字を追うごとに、先輩の目が険しくなっていく。なんで写真なんてとっておいたのか、その理由はただ何となくで、記念みたいなものだった。
「はぁ?」
剣呑な雰囲気を醸し出しながら、どういうことかと言外に促される。
「すみません。もう連絡がいったものだとおもっていたので。知らなかったことに驚いたというか、えっとですね」
これは、僕が選んだ道。僕が初めて自分の意思で選択した道。誰かが指し示してくれていた道にはガイドがいた。だけど、この道には誰もいない。そのガイドを見つけ、頼み込み、手を取るのも、これからだ。
「ふつつかものの後輩ですが、これからもよろしくお願いします。せんぱい」
心からの笑みとともに、名実ともに先輩となった琴吹叶恵その人に手を差しだした。その手はそっと温かい手と重なった。