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七不思議と祓いの旋律  作者: 天城 光凪
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7.祓いの旋律

 暴力を振るう手を止めて、怪訝そうに僕を見る記憶の中の母さん。今はもう僕はあの家の外にいる。あの家から離れた緑園高校にいる。ここには、母さんがいない。愛を訴え痛みを与える母さんはいない。母さんの傍に今いるのは僕じゃない。いま、母さんの傍にいるのは父さんだ。

「かあさん、貴女がずっと欲しがっているものは、僕にはあげられないんです。僕があなたに向ける、向けたいのも、貴女から欲しいものも愛だけども、違うんだよ」

 僕は、くしゃりと顔を歪める。母さんに向かって伸ばした手は、いつも虚空を掴むばかりだった。

「僕がほしいのは家族愛。母さんがほしいのは、父さんからの、好きな人から向けられる愛情だよね。

「かあさん、僕は、貴女が……ずっと嫌いでした」

 嫌いという言葉が母さんを傷つけると思って、ずっと口にしてこなかった。自分の心の言葉を封じて、目を逸らし続けていた。いつまでも続かないことに気が付いていた。現に、僕らの関係は終わりを迎えたのだから。

 今年の正月。父さんが帰って来て、突然緑園高校のパンフレットを持って来てそこに進学するように命令された。いきなり帰って来て、そこ以外認めないと、脅しをかけられた。

 強制的に引き離されて、数カ月たって、新しい人とかかわりあった今ならわかる。あれは、父さんなりの僕らへの愛情。修復不可能なまでに歪みきり、過ちを犯すそのまえに、二人を引き離した。鬼だといわれようとも悪魔だと、冷血漢だといくら罵られようとも答えなかったあの男が、僕を抱きしめ「すまなかった」と謝った意味が今ならわかる。あの男が家を顧みなかったがゆえに起きた悲劇。だから、それに終止符を打てたのも原因の男だけだ。

 死んでしまったものは生き返らないけれど、壊れてしまったものは直すことができる世界だから……僕らもいつかは、きっとちゃんとした家族になれるはず。

 数と息を吸う。電話の最後の先輩の言葉。たぶん、おそらく、きっと、こうだ。

「たかあまのはらに

 かむつまります

 かむろき

 かむろみの

 みこともちて

 すめみおやかむいさなきのおほかみ

 つくし ひむかの たちばなの

 をとの あはきはらに」

 決して大きな声ではない。しかし、頭の中にしっかりと入って来る。目をつぶり部誌の最初のページに書かれていた言葉を思い出す。一音一音不思議な響きをもって空気を震わせる。

「みそきはらひたまふときに

 あれませる

 はらへとのおほかみたち」

 初めは何の言葉なのかわからなかっただけど、だんだんそれが明確な言葉へと移り行く。これは祝詞。自分の内側に淀み切ったものを清めていく。力を持った言葉。

「諸々禍事罪穢を 祓へ 給ひ 

 清め 給ふと  申す 事の 由を

 天つ 神  地つ 神  八百万神等共に

 天の 斑駒の  耳振立て  聞食せと 

  畏み 畏みも 白す」

 その清めの力の広がりを感じる。目で物を見るように、耳で音を聞くように、舌で味を感じるように、自然にそれを感じる。自分と自分の周囲を取り巻く気が、少しずつ確かに変わっていくのを肌で感じる。最後の一音までしっかりと紡ぎ、ゆったりと目を開ける。

 視線を上にあげる。赤いザクロのような目が、僕を睨み付ける。その鋭い眼光を、真正面からしっかりと受け止める。いつの間にか握りしめていた携帯電話は、なぜだか通話中になっていた。僕に絡みついていた闇色の靄は、いつの間にか散り散りになっている。耳元に、携帯電話をあてる。

「琴吹先輩」

「……」

「先輩、無茶なことしてすみません」

 怒っているのだろうか。電話の向こうから通話口に当たる息のみが返される。先輩に、聞きたいことがあったのに、答えてもらえはしないのだろうか。

「次はないわ。無事?」

「まぁ、なんとか。先輩のおかげで助かりました。それで、まだ音楽室にいるんですけど、この蛇もとい、魑魅ってピアノの音でも清められますか」

「……わからないわ。私はやったことがないもの。でも、やるつもりなのね……」

 止めても無駄だとわかって、あきらめのにじんだ声と苦笑。

「はい」

「立花さんを安全なところに預けてきたわ。私も、今学校に戻っているところよ。応援が、向かっているわ。雑魚はほかの部員にまかせておきなさい。一つ約束して、千歳」

 威嚇するようにシャーと牙をむきだす蛇を、意図的に意識の外へと追い出す。全身で先輩の声を聞き取ろうと意識する。

「魑魅をとっととぶった押したら、一緒に、早く帰るわよ。そんで、明日は一緒に登校するの。わかったわね」

「はい」

 携帯の通話をスピーカーへ切り替えて、譜面台の上に置く。

 大きく息を吸う。吐く。魑魅は、心を貪り喰らうのを失敗したせいか、どこか恐れるようにして僕の行動をうかがっている。

 鍵盤を鳴らす。きちんと調律されたピアノは、高く澄んだ音を放ち、空気を揺らす。椅子の高さは、あつらえたかのように僕の身の丈に合っていた。

 一音一音確かめるように、つたなさが残る手つきでメロディを追う。音が、水面に移る波紋の様にピアノを中心に、円を描くように広がっていく。その音に触れ、凝り固まった瘴気がするりとほどけていく。鍵盤に触ったのはいつ以来だろうか。ずいぶんと久しぶりな気がした。毎日動かしていないせいで、思うように動かない指先がもどかしい。もっと、うまく引けたはずだったのに……そんな心の焦りすらも音は映し出す。心を赤裸々に見せる鏡のようだ。僕の胸にあふれるもどかしさに呼応するように、負のエネルギーをまとった靄が、じわじわとその魔の手を伸ばしてくるのを感じる。

 蛇にも似た魑魅が暴れ、何が破壊されるような爆音がした。すくんで指が止まりかける。もつれた指が、黒鍵を押し不協和音を鳴らす。譜面台の上の携帯が、振動で所在なさげに揺れるのを視界の端でとらえる。先輩に聞かれているんだ。みっともないものを聴かせられない。先輩の命令を無視して無茶をしたのに、成果なしで、失敗して成果なしだったら目も当てられない。近づく蛇の気配に思わず目をつぶる。悔しい、その感情が心を占める。壊された壁から、生暖かい風がゆるりと吹き込み髪を撫でる。

 刹那、まばゆい閃光が蛇を退ける。光は、清浄な気配を放ってよこしまな蛇を遠ざける。ズボンのポケットから、よこしまな物から守るように放出される光。その勢いは徐々に減退していく。ポケットの上からそっと中を探る。指先に当たる硬質な感触が―――櫛だった。なぜ、母さんの櫛が、魔を退ける効果を持っていたのかは知らない。ただ、僕が今やるべきことは考察ではなく、この学校を浄化しきる音色を奏でることだ。張りつめた糸をぴんと伸ばすように、鋭くしていく。目で物を見るように、耳で音を聞くように第六感とでもいうべき感覚が気をとらえていく。

 大きく息を吸う。細く長く息を吐き出す。自分の目の前にある鍵盤、指先から奏でられる旋律。ここには今、僕とピアノだけしかいない。集中する。

 楽譜はない。あるのはただ、誰かが耳元で囁くように唄うメロディ。祝詞を唱えたときのあの感覚を思い起こすように、再現するように鍵盤に指を滑らせる。

 たゆまなく流れていく時間の流れの様に、指を白黒の鍵盤に走らせる。春一面に咲く菜の花や桜の香るような命の息吹の彩を脳裏に思い描く。梅雨に屋根の上を踊る雨粒の様にテンポよく、そして夏の空に走る雷鳴のように激しく、秋に実りのように音に含みを持たせる。だんだん自分がどこにいるのかわからなくなっていく。自分の身体もなにもかもひどく希薄なものに感じる。冬の乾燥した夜に輝く星々の輝き、静けさの中の美しさを音に閉じ込めていく。ただ、心と祈りの音だけがそこにある未知の感覚。四季も時もめぐる。開けない夜はない。朝日が顔を出すのだから、この胸にくすぶる感情もいつかそうやって、蹴りがつくはずだから、今は明日を信じて前に進む。

 音が、広がる。澄んだ気が、広がる。

 祈り、願い……それは、どんな呪文よりも純粋で、真っ直ぐな想い。歌や音楽は、どんな呪術にも通じる。音が力の波動へと変わり、学校中に行き渡って、靄を晴らしていく。

 最後の一音が、学校全体へ届ききる。

 静寂。耳に痛いほどの静寂が、講堂に溢れる。

 深呼吸を一つして目線を上にあげる。そこには、どぐろをまく蛇はいない。部屋に充満していた悪臭も嘘のようにそこにはない。むしろ清涼な香りがした。靄のないクリアな視界「できた……」

 僕は、できたのだろうか。本当に、魑魅を消し去れたのだろうか。困惑が胸の中に淡く広がる。蛇の尾があたり壊れた壁からのぞく外には、満天の星空。知っている星座が実家にいるよりもくっきりとよく見える。星が、手に届くのではないかというほどに近く大きい。

 拍手が、響く。

 力強く鳴らされる拍手にふと我に返る。一人分の拍手。ゆるゆると視線を動かした先に、今一番顔が見たい人がいた。いつ講堂の扉が開閉されたのかわからなかった。まるで、はじめからずっとそこにいたかのように自然な様子でそこにいた。ただ見知らぬ白衣を着た男性に、肩を貸されるような形でだが……。どっどどっどど……早鐘を打ち出す心臓。ぱきっと、何かが折れる音が聞こえた気がした。ジワリとにじみ出す汗。緊張が、体中に蘇ってくる。

「千歳、よくやったわね。あんたのピアノなかなか良かったわよ。今度また聞かせなさいよね。ふぅ、この演奏に免じて、一人で無茶したことを今回は怒らないであげるわ。だけど、覚えておきなさい。二度目はないわよ。どんなに心配したと思っているのよ」

 名前を呼ばれて怒られて褒められた。たったそれだけの事なのに、妙に心が浮き上がる。頬がだらしなく緩む。こんな顔で謝っても許してもらえるわけがないというのに、止められない。

「すみません、先輩」

「反省は、言葉より態度で示して頂戴」

「はい」

がくがくと足がいって、まっすぐ歩けない。まるで生まれたばかりの小鹿の様に情けない。それでも先輩のもとへ、一歩ずつ踏みしめるようにして歩き出した。

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