6.水の音に呼び覚まされる悪夢
ピチョン、
水温がした。並々と注がれたコップに垂らされた最後の一滴。
―――愛しているの。
そんな自己中心的で一方的な身勝手な感情が、心の防壁を食い破り、そう遠くない過去の記憶を呼び覚ます。
それは、―――痛みの記憶。そして歪んだ愛の記憶。
いつからだろうか。気が付いた時には、そうなっていた。気が付いた時にはも遅くて、どうにもならなかった。
突然、前触れもなく、火が付いたよう、振るわれる暴言と暴力。僕を生み出したはずの人に、存在を否定され、疎まれ、そして消えてくれと願われる。消えてくれとまで願うのなら、産まなければよかったじゃないかと何度も思った。願われて、望まれて生まれてきた命じゃなかったのだろうか。生まれたくて生まれてきたわけでも、選んでこの家に生まれてきたわけでもない。
「ねぇ、どうして。どうしてあの人は帰ってこないの」
まるで、悪魔が乗りうつったかのようだ。おなかに入れられた蹴りに、息が一瞬止まる。かみしめた唇から朱色の液体がこぼれ、絨毯をはしたなく汚す。それを見て、汚いといいまた蹴り飛ばされる。空っぽの胃から酸っぱい粘液が込み上げる。とっくのとうに、胃の中は空っぽだ。肉を打つ。骨に響く。関節が軋む。脳内をせわしなく駆けずり回る働き者の信号は、健在でそのことを恨めしく思う。
こんな夜は、僕は、ただ嵐が過ぎるのを、身体を丸めて待ちわびる。肌に咲く薄紅色の花弁が青紫の花弁へと、色を移り終えるころには、悪魔は去るのだと今までの経験が言う。
「ご、めんなさい。ごめんなさい、千歳。かあさんは、なんてことを。ごめんなさい。ごめんなさい。でも、きらいにならないで。あいしているわ、千歳。千歳、わたしのかわいい千歳。あいしているわ」
疲れ果て、弱り切った僕をそう、うわごとのように繰り返して、やわらかな腕の中に閉じ込める。汗の中に交じる花と紅茶の香り。痛みを与えたその手で、やさしく髪を梳かれる。
「か、あさん」
呼びかけると、腕にこもる力が強くなる。それにこたえるように僕は、母さんの背中に手を回す。二人「愛している」と囁きあいながら抱き合う。
「あいしているわ。好きよ。大好き。あなたは、わたしのそばにずっといて。一人にしないで。ごめんなさい。千歳」
震えている小さな肩。僕と母だけの二人だけの大きな家。白い肌に浮かぶ一つ一つの傷が、かあさんからの愛の痕跡。窓ガラスに伝う雨粒。ごぉっと唸るような突風と、どしゃ降りの雨。世界には僕と母さんだけ。ここには、父さんはいない。もうずいぶんと顔を見ていない。
「千歳。千歳は、母さんの事を好きよね」
「うん、好きだよ。母さん」
母さんの望む言葉を口にする。背中に走る痛み。身体に刻み付けられた傷。二人をつなぐ、歪で頑丈な楔。暴力の後の母さんは、いつもの何十倍も優しい。いつもの何百倍も僕に甘くなる。母さんは、弱くてもろい。精神的にも肉体的にも。割れたガラスの破片で作った切り傷にたらされる鼻に付くにおいの消毒液。脳をきりりと締め上げるような痛みに顔をそむける。うろたえたように、手当てをいったん止める母さん。
僕の一挙一動を注視し反応する姿にどうしようもないほどの愉悦を感じる。傷を与えたものが場の主導権を握るのではない。痛みを受けた方が指導権を握る。リビングの片隅のラジオが、一人でに電源を入れる。
「愛しているよ。だから、ずっと僕だけのかあさんでいて」
恍惚とした笑みを隠し、涙を伝う頬にそっと手を添える。嵐の何倍もの時間優しさを僕に注いでくれる。全ての傷の手当てを終え、眠りにつくまで何度も何度も「愛している」と言われ「愛している」と僕は口にする。そうして僕は母さんの愛に溺れる。
ジジジ、ジジジ、ジジジジジ――――トセ……。
重く息苦しい愛を溜め込み、囀る。僕の骨も肉も川も歯も、髪の毛の一本から爪のひとかけらさえも、母さんから分け与えられたもの。だから、それを自由にする権利が母さんにはある。雨と雷と閃光、痛みの嵐。僕らは繰り返す痛みと愛を何度も何度も、閉じた家庭で繰り返す。止める者はいない。正す者もない。間違ったまま間違った方法で、間違った愛を交える。
ジッジジジ、ザーーーーーチ、チトセ。
砂嵐に交じって、名前を呼ばれた気がした。のろのろと顔をあげる。その拍子に、母さんと目が合う。その目にはいら立ちと哀しみと憎しみ……それから、後悔と懺悔。たたきつけられる手の平。まだ、悪魔は去っていない。
「なんで。なんで、私ばっかこんな目に。あぁ、お前さえいなければ。私は自由になれるのに。あぁ、嗚呼」
ぎりぎりと首を絞めあげる力が徐々に強まる。母さんの手に指をかける。引っ掻くように、その手に触れる。意識が遠のく。酸欠で視界がだんだん狭まって暗くなっていく。
「かぁさ」
リリリィイイイイン、リリリリィイイイイン。
二人の世界を打ち破るように、電話が鳴る。それでも、母さんは正気に戻ることはない。だれも、取らない電話。しつこくなるコールの音が、母さんの気に障ったのか、さらに体に響く痛みが重くなる。電話はひとりでに留守電サービスに切り替わる。
―――がい。無事でいて。ようやくジジわたしのザザッ。千歳、自分を強く持って、負けないで。ザザ、まやかしだから、ジジ。
留守電サービスのメッセージの後、女の人の声が流れる。母さんとは違う声。凛としていて真っ直ぐなアルトの……先輩の声だ。負けるなと、祈るような言葉にどくんとなにかが脈打った。忌々しそうに、電話を見て近くにあったリモコンを母さんが投げつける。受話器が外れる。コイルのように巻かれた電話線が、伸び縮みを繰り返し、壁や床にぶつかりながら揺れる。
ザサッ、千歳、さっさと、私の元に戻ってきなさい。あと、二日間君は私のパートナ―…….こんなところで倒れられないで。終わらないで。ゼザ、ザアアアたかまの……かむづまり……すめらがむつザァアアアアアアア、ピ―――――――――。
甲高い電子音が耳鳴りの様に鳴りつづける。頬に温かい涙が伝う。自分勝手で、横暴で俺様なとこがあって、毒を平気で人に向かってはいてくる凛としていてかっこいい人。自分の興味あることだと、すごく楽しそうで、聞いているこっちまで温かい気持ちがわけてもらえる。たった数日。だけど、人間はほとんど初対面の印象がすべてで。女の人を心の底からかっこいいと思ったのは生まれて初めてだ。そんな人が、パートナーだと僕のことを言ってくれた。人との距離が解らなくて、いつも適当に過ごしていた。その場限りの短く浅い関係。クラスが代われば、記憶に残らないそんな関係。クラスも性別も学年もなにもかもきっと違う。忘れさせないとでもいうような鮮烈なまでの存在感。あの日、僕の教室のドアを開けて、入部届を片手に乗り込んできたのが琴吹叶恵その人でなかったら、多分僕は仮入部さえも引き受けなかっただろう。そう思うと、なぜだか胸の奥に温かいものが生まれた。