5.助けを呼ぶ声
「タスケテ……」
そうつぶやくようにした立花さんの声は掠れ切っていた。おそらく、出ない声の代わりに、僕たちに自分の存在を知らせるために鍵盤を叩いたのだろう。見るからに憔悴している立花さんの目が、こっちを向く。目が合った。死んだように虚ろな目をしていた。こちらへ助けを乞うように伸ばされる、両手。
「ダシテ、お願い」
どうして、彼女がそこにいるのか初めは、わからなかった。だが、彼女の手足に絡むようにして結ばれたガムテープを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。彼女がいじめられていたことは知っていた。だけどここまで、実力行使をしてくるなんて想像もしていなかった。せいぜい悪口程度で、あっても物を隠されるくらいの被害だと思っていた。講堂内は、防音設備が整っている。室内でいくら彼女が騒いだところで、だれも駆けつけてこない。部活が終わる時間から、今の今までその状態であったのだろう。痛々しいほど、目を赤くし、頬を涙で濡らしている。
「立花さん」
僕には、防げたはずだ。彼女がいじめられているのを聞いていたのだから。なのに、何もせずにいたから彼女はこんな目に合った。一体彼女が何をしたというのか。フィクションのいじめみたいに、直接手を出してこないだろうと高をくくっていた僕は自分の甘い考えに反吐を吐きそうになる。手探りで探し当てたガムテープの継ぎ目に爪を立てる。何時間も巻かれたテープは、粘着質でなかなか外れない。
「なにやっているの。千歳早く」
「ガムテープが」
焦っているのか、やっぱりうまくいかない。殺風景な講堂内には、刃物が見当たらない。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝る立花さんは別に悪くないと思う。彼女は紛れもなく被害者だ。気持ちばかりが空回りする。
「つぅ」という痛みをこらえる悲鳴が上がり、崩れ落ちるような気配がした。くるりと先輩の手から離れた懐中電灯が一度大きく回転しそして完全に沈黙した。息をのむ音がした。先輩がけがをしたという事実に、見えない敵がいることが頭の中から吹っ飛ぶ。気が付いたら、踵が浮いて、身体が前のめりに進んでいた。
「来ちゃダメっ。それより、早くあの子を外へ。千歳も一緒に、逃げなさい。今の私じゃ、君たち二人をかばいきれない。私だけなら、大丈夫。軽くひねっただけよ。すぐに応援が来るはずだわ。さぁ」
「嫌です」
「千歳、聞き分けなさい」
「無理です」
上から押し付けるような物言いに頭に来た。カッとほとばしった熱。近くにあったカーテンを引き千切る勢いで強くつかむ。軋んだ音が鳴る。窓からろうそくの火のような色をしたまん丸い月の光が注がれる。
なぜか開かれたグランドピアノ。その足元に転がる青紫の絵の具の付いた片足の上履き。
それは、髑髏をまく蛇。ぎょろりとした琥珀の目とかちあう。何かを訴えるようなその瞳に、くぎ付けになる。琥珀の瞳に、僕自身の姿が鏡のように映し出される。
―――嗚呼、やっぱり私なんか……だれも……私の方が苦しいのに、痛いのに、辛いのに、どうして。誰の一番にもなれない……狡い。何でも持っているのに、どうして……私には……しかいないのに……。
ずる、ずるっと蛇が、近づく。赤いちろりとした二股に分かれた舌。その先から胸が締め付けられるような痛みを伴う感情が毒の様にその口から吐き出される。胸中にとめどなくあふれる他者への嫉妬と、絶望に巻かれる。
「つぅ」
頬に痛みが走る。その痛みが、僕を正気に戻す。はっとして、我に返った僕の視界に目を吊り上げているのに、どこかへにょりと目じりを下げた先輩。その手は、この暗さじゃ見えないけど、赤く染まっていることだろう。
「しっかりなさい、千歳。君は今そいつに喰われるとこだったのよ」
「すみません」
「だから、私は早く逃げなさいっていったの。まったう、先輩の命令を素直に従うような可愛げをもちなさいよね。だいたい、ちょっとひねったくらいで大げさなのよ。これくらい問題ないわ。それより、あれはまずいわ。いつもより妖気が濃いから、他の部員に応援を要請しといて正解ね。千歳、君は彼女を連れて逃げて」
先輩がくいっと目線を立花の方へ向ける。まさに蛇ににらまれた変える状態の立花さんには、荷が重いのだろう。暗闇に長時間放置されて、誰も助けが来なくて正直限界だったのだろう。
「っ、わかりました。わかりましたよ。その代わり先輩も一緒です」
立花がスカートでなくてよかったと思いながら足の間に腕を通し、抱き寄せ抱える。俗にいうお姫様抱っこの格好に腕の中で立花さんが動く。先輩だったら間違いなく暴れているだろう。
「行きますよ。先輩は鈴でも鳴らしててください」
大蜘蛛に背を向け非常口の緑色の光めがけて走りだす。途中で行動の設備をいくつか倒してしまったが、無視する。
「先輩」
銀色のドアノブを前にして、立ち止まる。先輩は、ぐるりとノブを回し外へ向かって押す。外へ先に出た先輩に続くように千歳も、外へ出ようとした。そのとき絹を切り裂くような鋭い叫び声が講堂に響く。
「千歳、後ろ」
大きく見開いた先輩の目。
その目に映し出されるのは、僕の後ろに立つ大蜘蛛の姿。ずぶりと、背中ら肘までが何かに埋まった気がした。泥水に沈むようなそんな感触。熱のないただ絡みつくように蝕むように、手足に伸ばされる闇色の糸。
「先輩っ」
このままでは立花さんまで飲み込まれる。先輩の方に向かって立花さんを突き飛ばす。そして外と内を遮るように分厚い扉の鍵を閉める。
「千歳っ」
扉が閉まりきる最後、信じられないものを見るような目で大きく得目を見開き動揺した先輩が見えた。どんどんと、背中に振動を感じる。
「手がいたくなるだけで無駄ですよ、先輩」
だから、早く立花さんを安全な場所に連れて行ってほしい。
黒々として魔が魔がしい気が、四肢に絡みつく。身動きが出来ぬ僕をいたぶり楽しむように、靄は嗤う。
―――どうして、あの子ばかり贔屓されるの。ずるいわ。どうして何もかもうまくいかないのよ。
―――私の方が可愛いのにっ。どうして、×××ばかり持てるの。
―――いやだいやだ。認めたくない。あんな寝てばかりのやつより、私の方が頭が悪いなんて。毎日、毎日、こんなにも勉強してるのに。
無数の人の希う毒々しい本音が心に入り込む。自分のものではないその強く荒々しい感情に、心が悲鳴を上げる。見開かされた目から、大粒の涙が頬にとめどなく伝う。黒い霧は、うねり形を変え、人の心の奥底に封じてある感情を映し出す。自分と他者との境界線が、どんどん踏みにじられ壊されていく。
「かはっ」
腹に感じた衝撃で、灰の中にある空気が吐き出される。失った酸素を取り戻そうと、喘ぐ口腔内に黒い煙は入り込む。喉から、奥に体内に張り巡らされた道を通って、中枢へと食い込む。
ムカつく、イラつく、消えちゃえ、死んじゃえ、いなければいいのに、ずるい、妬ましい。自分より、上の奴なんていらない。消えちゃえ。消えろ。消えろ。消えてしまえ!
ドロドロとしていて粘着質なそれに、むかむかとした吐き気を覚え、えづく。酸っぱい酸が、口の中に溜まる。行動のワックスの良く塗られた床を爪でひっかく。
許さない。裏切った。約束したのに。どうして、どうして。やさしくして。傷つけないで。私だけを、僕だけを、俺だけを―――見てくれ!
怨嗟の様に鳴り響く激しい自己主張の音。うるさい。うるさい。何も聞きたくない。くの字に折り曲げた身体。耳をふさぎ、目をふさぐ。現実から目を逸らし、耳をふさぐ。苦しめばいい。不幸になればいい。狂おしい。好き。私のものにしたい。他の人には渡さない。どこまでが僕の感情でどこからが他の誰かのものかもう判らない。すべてが混沌となり渦巻く。僕は、狂ってしまったのだろうか。それとも、周りが狂っているのだろうか。もうおかしくなって、何が本当なのかわからない。これ以上、僕の中に入ってこないでくれ。これ以上は、無理なんだ。受け入れられないんだ。耳と目をふさぐように心を閉ざしてしまおう。何も、感じないただ真っ黒な世界へ堕ちてゆこう。