4.巫女鈴と魑魅
いくら二度目だとはいえ夜の学校というのは薄気味悪い。日常生活を送る場所だというのに非日常的な何かを感じとってしまうのは、魑魅が出そうというだけではない気がする。新緑が芽吹いたばかりの青々とした葉は、日の光を浴びながら見上げれば朗らかな気持ちになるというのに、夜の月光の下で見ると得体の知れないものの話し声に聞こえてしまい気味が悪い。風に揺れる枝は、悪霊が、手をこまねいているようにも見え、皮膚が泡立つ。
先輩が、黒い靄に向けて鈴を一振りする。しゃんとした音が空気を震わせる。澄んだ鈴の音が届いたところから順に、黒い霧が払われていく。砂埃で汚れた窓ガラスをふき取ったように、クリアな視界になる。
「先輩、さっさと終わらせて早く帰りましょう。僕も今日はちゃんとお手伝いしますから」
「また、打って変わってずいぶんとやる気ね。これは入部してくれるいい傾向と一概に言えないのが歯がゆいわね。厄介なものに出くわす前に早く帰りたいと、ひしひしと君の心の内が伝わって来るよ。まぁ、さすがに部員でもない君には荷が重いしね。出くわさないことを私も祈るよ。じゃあ、君にも鈴を鳴らしてもらうよ」
取っ手となる棒の上部に三段に分かれて、小さな鈴が、三、五、七と、全部で十五の鈴がお行儀よく並んでいる。それを受け取り、シャンと音を出す。この音が、靄を消し去ると思うと感慨深いものがある。おもわずしげしげと受け取った鈴を眺める。
「それは、神楽舞を舞うときに巫女が手に持って鳴らす巫女鈴というのよ、千歳」
「へぇ、そうなんですか。だから、悪い気が払えるんですかね。たしか、賽銭箱の上にも鈴ありますね」
「千歳は、こういうのに興味があるのかしら。意欲的な新入部員は歓迎だわ」
「いえ、ただ何で、なのかなって、特に深い意味も意図もありません。あえて言うならと知識欲です。何度も言っていますが部員になりませんからね」
「残念だわ。まぁ、知識欲大いに結構。鈴の音色はね、神を喜ばせるものであり、神を呼ぶものでもあるの。鈴の音色自体に浄化の力があるから、場の穢れを払い正常なものとするのに向いているわ。この払いの力は悪霊すら退けられる。だから、私たちは今晩、鈴の音を鳴らし続けて、学校の清掃活動に従事しているわけ」
こういうオカルト関係の話をする時先輩の口は不思議なほどよく回る。いったいどこで仕入れてきたのかわからない知識を次から次へと引き出して、僕に聞かせ始めた。新手の勧誘方法だろうかと一瞬疑ってしまったが、先輩の横顔を見て違うと思った。ほおを紅潮させ、いつもより一オクターブほど高い声で、早口に紡ぐ言葉。歌や音楽は、長い呪文のような言葉と同じような役割を果たすことがあるとか、雑学的知識を披露したり、祓の祝詞とやらを諳んじてきかせてくれたりした。話の内容は、いささか偏りすぎていて普通の会話とは言えないものの、話している姿は教室内でテレビやアイドル、音楽などの趣味を話している女子生徒と何ら変わらない。聞く人を選びそうな知識の数々に適当な相槌を入れていたが、中には興味深いものもあって気づいたら自然に口角が上がっていた。
校内を巡回する足取りは次第にゆったりとしたものになり、早く帰りたいと焦る気持ちはどこかにいつのまにか消えていた……そのことを数時間後、後悔することになるのはこの時の僕は知らなかった。
話し声、ささやき声、息遣い、ペンを走らせ、教科書をめくる音、ボールペンをノックする音、蛍光ペンを引く音、机やいすがきしむ音……いつもは騒々しいほど音にあふれている教室も完全下校時刻をとうの昔に過ぎた現時刻、耳が痛いほどの静けさをまとっていた。時計の針が進む音がやけに大きく感じられる。自分と先輩の音だけが、そこには動いていた。
腕を垂れ下げながらとぼとぼとした足取りで、人っ子二人しかいない寂しい夜の学校を歩く。正直、眠いし、怠いし、疲れた。広い学校内を細目に回っているといつの間にか午前二時を回ってしまっていた。早く帰るんじゃなかったのかよと、自己突っ込みを心の中でする。
懐中電灯のか細い光を頼りに、足を進めると、掲示板に張り付けられた画鋲が人の顔を描き不気味に笑っている。
何気ない音すら、やけに大きく聞こえてくる。誰かの息遣い、ささやき声に聞こえてびくりと肩を震わせることもあった。気を使いすぎて、消耗が激しいのだろう。隣をスタスタとまるで何でもないように歩きながらうんちくを披露する先輩に疲労の色は少ない。なんだか僕が臆病者みたいでむっとした気持ちになった。
閑散としている食堂は、世界から切り離されてしまったかのように静かだ。分厚い硝子と壁で閉ざされた空間では、外の音が遠い。しゃんと、振りすぎて力が入りづらくなった腕を振ると、わずかにあった靄がすっと晴れていく。
黒い靄と一緒にこの眠気も晴れてくれると助かるのに、そんな便利機能はどうやらこの鈴には搭載されていないようだ。途中で一度休憩と評して、自販機でできるだけ苦そうなコーヒーを買い。あまりの苦さにぐえっとなりながらも、一気に飲み干した。ちなみに、この時先輩はカフェオレだった。大人ぶるなよと、笑われた。
「あとは、二階だな」
「講堂って、普段あまり使いませんよね」
「あぁ、そうだな。でも合唱部とかは部活で使っているわよ。あそこにはピアノもあるしね」
らせん状の階段を怠くなった太ももを動かしながら登りきった。音漏れしないように配慮された分厚い扉。銀色の取っ手を掴み、力を入れて手前にぐいっと引く。密室だった講堂から熱のこもった空気がムッと鼻に押し寄せる。ヘドロ、下水管のような強烈なにおいような匂いがした。あまりの悪臭に、鼻をつまむ。口から吸いこむ空気も、どこかねっとりとしている。生ごみを何週間も放置したかのような臭いに、喉がえづく。
カーテンで覆われた行動内には星の光は届かない。青白い懐中電灯の光を照らすと、埃がきらきらとする。ふいに、鼻先をくすぐられたような感じがして、大きなくしゃみをする。
―――ボーン
ピアノの鍵盤をでたらめに叩き引いたような耳障りな音が、響く。壁に反射して、講堂内を満たすようなその音に鼻に手を当てていた手を耳にあてる。
浮遊感。しゃん、しゃん、しゃん……手のひらから鈴が離れ、数回バウンドするようにして転がる。
ヴウゥ……バウッ、
獣の唸り声のような、蠅の羽ばたきの音のような気味のわるい音がすくそば突き抜けた。黒板に爪を立てた時のように全身に鳥肌が走る。上下左右に激しく揺れる青白い光が、今にもぐわりと口を開けそうな大きく真っ黒なグランドピアノを浮かび上がらせる。その背後から獣の唸り声のような赤子の鳴き声のような癇に障る音が耳をつんざく。
「千歳、離れていなさい。君は初めてでしょう。魑魅に逢うのは! 急いで、鈴を拾いなさい。鈴の音を止めるんじゃないわよ」
「はい」
耳元で煩いくらいになる心音。動き回っていたせいで背中や額に滲んでいた汗は、いつの間にか冷え、背中に雪を流し込まれたような悪寒が走る。壁に手を這わせて、スイッチを暗闇の中探り当てる。見つけ出したそれを、指先で押すとカチッという音が鳴る。光を待ち浴びるように上を向く。キチキチキチっと耳障りな音がどこからともなくする。もうだんだんそれが本当になっている音なのか、それとも幻聴なのか判断がつかなくなってきた。しかしいつまでたっても、人口の灯が講堂内を照らすことはない。
「先輩っ」
「千歳、無事ね。千歳、心を強く持ちなさい。じゃないと取り込まれるわよ。あれは、人の良くない心の塊みたいなものよ」
非常口の緑色の光と、先輩と僕の手にある懐中電灯の光だけが、暗闇を照らす。大人数を収容することが可能な行動は、その光だけでは闇が多すぎた。敵がどこにいるかわからない。目まぐるしく光を移動させ、鈴を見つける。転がるようにして拾い上げた鈴。背後から迫る獣。鈴を掲げるようにして縦に振る。澄んだ音が生じ、獣がふっと後ずさる。
「これ、どうするんですか。これって、あれですよね、年に数回しか出てこないはずのレアな」
「魑魅ね」
「そうそうそれです。それより、これ、どうすればいいんです。なんか喰われそうなんですけど」
シャンシャンと鈴を鳴らす腕は、だんだん早くなる。先輩は、表に墨で何書かれた符を宙へ放つ。一瞬、ぼほっと小さな炎が上がる。天上のスプリンクラーが作動しないところを見るとこれは、霊的な何かなのだろう。
「祝詞でも唱えなさい。あれは言葉自体に力があるわ。自分に向けてやるものだし、素人でもいいやつだから」
「え、いや、まって。普通はそんなん知ら」
ない、と続けようとしたとき、耳を劈くようなでたらめに押された鍵盤が叫ぶ。音源に向けた懐中電灯の光が、暗闇の中から一人の見覚えのある女子生徒の姿を浮かび上がらせる。首を左右に激しく振り、音なき悲鳴を上げている。頬に張り付くざんばらで乱れた髪。暗闇でもわかるほど青ざめた顔で、壁で体を支えるようにして座り込んでいた。
今後、最終話まで毎日0時更新の予定です。