1.
午後七時過ぎ
「ただいまー」
西村と別れた後、数十分をかけて俺は家へと帰ってきた。
特に不満はないのだが、ここ最近は、自宅を見るとなんとなく憂鬱な気分になるのは何故だろう。
「おかえりー。ちゃんとうがいと手洗いはしてね。それから洗濯物は、カゴに入れておくように」
リビングから、おそらくソファーに座ってテレビを見ているであろう母の声が聞こえた。
「はいはい。分かってますよ」
お決まりのセリフを適当に受け流すと、言われた通りに洗面所にてうがいと手洗いを済まし、着ていたワイシャツを洗濯物のカゴに放り込んでから、二階の自分の部屋へと入った。
変わり映えの無い、いつもの風景だ。部屋の端のテーブルには、父からのお下がりであるノートパソコンが置いてあり、その隣には二十一型の液晶テレビに、一台のゲーム機が置いてある。反対側にはクローゼットとベッドが置いてあるだけの、殺風景な部屋だ。特にフィギュアなどを集める趣味もなければ、ゲームもそこまでやりこむほどゲーマーではない。非常に何かが物足りないと感じてはいるのだが、特に変えようとする気はなかった。
適当に部屋の隅に鞄を放り投げると、制服から部屋着へと着替える。少しばかり眠気もあったが、ベッドにダイブしたい気持ちを抑えて、再び俺はリビングへと戻った。
「腹減った。なんかある?」
ソファーでコーヒーを飲みながら、呑気にテレビを見ている母に問うた。
「あー、ごめんね。買い出し行こうかと思ったんだけど、面倒くさくなって行かなかったの。冷蔵庫にナポリタンかなんかなかった?」
「ああ?まぁいいけどさ」
言われた通りに冷蔵庫の中身を確認すると、電子レンジで温めるだけで食べられる、ナポリタンの冷凍食品が入っていた。
淡々と中身を開け、お皿に乗せ電子レンジの中に投入し、指定された六百ワットで六分半と入力した。
「あ、そうそう。お昼に、久々に蓮から連絡があったよ」
「兄貴から?」
俺には、三歳年上の兄貴がいる。簡単に言うと超インテリ系で、英語バカだ。バカマジメで成績優秀。学年でトップ争いをするほどの学力の持ち主だった。今はアメリカに留学中で、彼が大学を卒業する二年後の春まで帰ってくる気は無いらしい。
「『あのバカ野郎は元気でやってるか?くれぐれも、テストで赤点だけは取るなよ?』だって」
「あいつ、アメリカでもその調子かよ」
「まぁ、元気でやってるみたいだよ。お父さん譲りの性格は、相変わらずみたいだけど」
母親である彼女でさえも、兄の性格には呆れているらしい。まぁ、親しい人に似るということもあるのだろう。
「ホント、困ったもんだよな。どうにかなんねぇのかよあの性格」
「帰ったぞ」
玄関から、ガチャッと扉が開いた音が聞こえた。どうやら、噂の彼が帰ってきたらしい。
「噂をすれば。おかえり」
「ああ。なんだ、裕人も帰ってたのか」
リビングの入り口で、スーツ姿の父がぶっきらぼうに言った。
「ん、うん」
同じく俺も、顔を見ずにぶっきらぼうに返した。
父は英語翻訳家の仕事をしている。家にいる時は大体部屋にこもっているが、月の半分くらいは、家にいないことが多い。こうして面と向かって話すこともあまりなく、英語に興味が無い俺は尚更、昔から離す機会は兄に比べて少なかった。
「ところでお前、四月から高三だろう?大学の目安はついてるのか?」
スーツを脱ぎ、ワイシャツ姿になりながら父が問うた。
「大学?うーん。特にまだ全然。何をやりたい訳でもないし」
「おいおい、ギリギリになってまだ決まってない、なんてのはやめろよ?みっともない」
「わぁってるよ」
この手の話は、基本的に嫌いだ。将来の夢だとか、進路だとか。どうしてそれを急かされねばならないのだろう?せめてゆっくり決めさせてくれてもいいじゃないか。世の中は理不尽だと思う。
「裕人が蓮みたいに、英語に興味を持ってくれればいいんだがな。俺も教えられるし、跡継ぎにもなれる。今からでもまだ遅くはないぞ?」
「うるさいな。昔から英語は嫌いだって言ってるだろ?聞いてても訳分かんねぇしさ。嫌になるんだよね、やってて」
「裕人。それはお前が勉強不足であってな…」
「分かったから!もう、やめてくれ」
リビングには、ただただテレビの笑い声だけが響いた。ここにいる誰もが、まるで凍り付いてしまったかのように黙ってしまった。
ピィ―っと、電子レンジの温めが終わった音が鳴った。それが合図であったように、父が深々とため息を吐いた。
「…俺は、お前のいい答えを待ってるぞ」
父はゆっくりとリビングを出ると、二階へと上がっていってしまった。
粘々とした嫌な感情が胸を締め付ける。それを我慢しながら、俺は電子レンジから、温め終わったナポリタンを取り出した。
「裕人。お父さんの気持ち、分かるでしょ?」
ふと、母がこちらを向きながら言った。
「…ああ。分かってる。でも、俺のやりたいことは、英語の通訳とか翻訳じゃないと思う。まだ分かんないけど、そんな気がするから」
棚からフォークを取り出すと、冷蔵庫から冷やしていた五百ミリリットルのお茶のペットボトルを取り出した。
「確かに、裕人が英語に関わってくれることが、お父さんの一番望んでいることだけど。お父さんもお母さんも、裕人が一番やりたいことを、ちゃんと見つけてほしいって思ってるからね」
「…分かってるよ」
父に比べて、母はあまり英語を強要しない。そんな母といると気が楽で、比較的母といることが多かった。よく言う、お母さんっ子である。昔から母には感謝しているし、これからの将来、必ず恩返しはしたいと思っている。
それに…母は彼女と似ているところも多いこともあるのかもしれない。
ナポリタンが乗ったお皿とお茶のペットボトルを手に持つと、俺は自分の部屋へと戻った。
『バカ。世の中には、それすらできない人だっているんだから』
昔、彼女に言われた一言を思い出した。
彼女の一言一言が、今になっては俺の大切な座右の銘だ。
「父さん、か」
席に着いて、テレビの電源を点ける。
重い気持ちを持ち上げながら、テレビのチャンネルを変えた。